幕間1
1-Ex1. 憂いを帯びた司教もとい師匠
リッドがクレアを正式に
気分の良かった彼女はその誘いに乗って、ウィノーと軽やかな足取りで教会の外へ出て行く。
その直後である。
「さて、リッド……」
「っ」
リッドはただならぬ気配を司教から感じ、思わず右足を半歩下げて身構え始める。
その彼の様子に司教は少しばかり安心したような表情を見せた。
「ふむ……さすがに敵意や殺気の類には、鋭敏に反応できるようですね。よろしい」
「殺気を出さないでください。嫌な汗が止められません……」
リッドは身構えたまま、司教の姿を、司教の動きを、片時も見逃さんばかりに目を見開く。彼が言う通り、彼の額、頬、喉元に汗が幾筋も流れて、歪んだ顔はこの世で一番苦いものを噛んでしまったかのようだった。
「ただし、気を取られ過ぎていますね。ほら」
司教がいつの間にかリッドの背後に立っていた。
司教の人差し指がトンとリッドの背中を叩く。
リッドはより一層全身から汗をだらだらと垂らし始めた。
死の気配。
一切気付くことがなく、それ故にいまさら振り向くこともできず、ただ観念したかのようにゆっくりと唾を飲み込んでいる。
「…………」
そうして、リッドは次に言われる言葉を待つように身構えたまま佇む。
司教の人差し指が再びリッドの背中をトンと叩く。
しかし、今回は2回、トントンと叩かれた。
リッドはビクッと身体が全身で震えた。
「
大教会の厳かな空気は変わらない。
リッド以外には、だ。
裏を返せば、彼だけは普段感じるはずもない空気の重さをずしりと感じる。気を抜けば膝から崩れ落ちそうなほどに、身構えている姿の彼はがくがくと震えていた。
「そ、それは……」
司教の人差し指が再び背中をトンと叩く。
しかし、今回は3回、トントン……ドスッと最後に一突きする。
「うっ」
「質問に答えなさい」
「はい。使いました」
司教は穏やかだ。凪状態で水鏡ができる湖のようにひどく静かだ。
しかし、湖の中まで穏やかとは限らない。
リッドは質問に即座に応える。
「よろしい。クレアから聞きましたよ? おそらくA級の魔物だろう相手に使ったと」
「はい。俺の見立てでA級と思われる魔物に使いました」
司教の人差し指が再びリッドの背中をトンと叩く。
しかし、今回は2回、トントンと叩かれた。
リッドの強張った身体が少しだけ緩む。
「どうして、A級の魔物ごときに使ったのですか?」
「きゅ、窮地に陥ってしまって……」
司教は穏やかな表情のまま、ピクリとその言葉に反応して後に人差し指の動きを止めて、やがて、手を下ろした。
リッドはその気配に心臓が落ち着きを取り戻し始める。
だが、完全に緩めてはいない。緩めてはいけないと彼は知っている。
「ほう? では、あなたはA級の魔物ごときに単身で乗り込むこともなく、さらには、窮地に陥ってしまった、と?」
「はい。そうです」
司教がくるりと翻って、リッドと背中合わせの状態で数歩ばかり歩き始める。
隙だらけのような動きの司教だったが、リッドは身じろぎ一つせずに固まっていた。
「……なるほど。もちろん、ウィノーが危険だったから身を挺した行動を取ったことも聞いていますし、それが結果として窮地に繋がったことも分かっています」
「はい」
「仲間を守ったことは良いことです」
「ありがとうございます」
淀みのなかった司教とリッドの掛け合いが司教の話し始めるであろうときに止まる。
だが、リッドはまだ動かない。
彼は理解して立ち止まっているのだ。
司教がまだ結論に至っていないことを。
やがて、司教が再び翻って、リッドの方に全身を向ける。
「……ということで」
「ということで?」
「地獄の猛特訓を課すことはやめておきましょう」
「あ、ありがとうございます!」
リッドは緊張から安堵への急上昇で心臓が異常な動きをしていると感じていた。
彼の身構えていた身体はすっと司教の方へ向いて、ビシッと直立の状態から言葉とともに思わず、司教に何か習った後に行っていたお辞儀という行為を行ってしまう。
司教は嬉しそうにうんうんと肯きながらリッドの方を優しく見つめる。
「ですが、明日から私が認めるまで、特訓と組手を行いましょうね」
「……えっ?」
リッドの笑顔が絶望の色に塗り替えられた。
気持ちが急上昇からの急転直下で、どのような状態でいたらいいのか分からないようだ。
それでも精一杯出した声は、確認混じりの素っ頓狂なものだった。
「唯一の愛弟子がA級の魔物相手に苦戦を強いられると聞いてしまって、もっと言えば、あなたらしい感じに改名までした秘奥義の
「い、いえ、そんな恐れ多い……」
リッドは後ずさる。
だが、次の瞬間に司教は既に後ろに回り込んで、ガシッとリッドの両肩に手を掛けていた。
「いえいえ、私も老体に鞭を打って、特訓と組手を一緒に付き合いますよ。あぁ、しばらく顔を出せないかもしれないとクレアに言っておかないと。しかし、私もここ最近、訓練らしい訓練をできていませんから、息が上がるようなことになると少々恥ずかしいですね」
リッドは声が震えないように一生懸命に息を整えた後、ゆっくりと口を開く。
「し、しきょーさま」
リッドの声が震え、その言葉はひどくたどたどしい様子だった。
「今は師匠として伝えていますよ」
「し、師匠。……ふぅ……まず聞いてください。A級の魔物は普通一人で倒すものではありません」
「……はっはっは」
「あはは……」
リッドのようやく落ち着かせた言葉に司教が静かに笑い始め、それにつられるかのようにリッドも笑う。
もちろん、2人とも目が笑っていなかった。
「ええ、普通は、そうでしょう。しかし、私の愛弟子を普通で終わらせてしまっては、やはり師匠である私の責任が重大でしょう」
ダメだった。
リッドはそう悟り、覚悟を決めた。
「ウィノーとピュリフィ、あと、クレアに遺書を残す時間をくださいますか?」
死ぬ覚悟を決めた。
「はっはっは。相変わらず面白い冗談ですね。その冗談を言う元気があれば大丈夫ですよ」
「い、嫌だ! 嫌だっ! 嫌だあああああっ! お願いですからあああああっ!」
司教はリッドの両肩を掴んだまま、強引にリッドを引き摺っていた。
リッドも全力で抵抗していた。普段の落ち着きのある大人のような雰囲気を微塵も感じさせない。そのような態度をしてまで抵抗していたのだが、その抵抗虚しく引き摺られている。
「おやおや、少しは大人になったと思いましたが、まだまだ子どもみたいな駄々をこねるようですね。はっはっは……今まで死んでいないのだから大丈夫ですよ、きっと」
「嫌だあああああああああああああああああああああああああっ! やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 離せええええええええええええええええええええっ! 離してくれええええええええええええええええええええっ!」
「はっはっは」
その後、司教とリッドは同じメニューの訓練と組み手を行うことになった。
その訓練と組み手を司教は顔色一つ変えずに済ませていたが、リッドはすべてを終えて毎日ベッドに入る頃になると泥が染み込むように布団に埋もれ、無言で死んだように眠るのだった。
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