第1章 あなたの為 ( 4 )

 クラブ「トゥーンレディ」

 今日から私が働くキャバクラである。


 北千住の繁華街。人で賑わう飲み屋横丁に面した細い路地を入って、50メートルくらい進んだ位置にある。この辺りは細い路地が何本も通っていて複雑なので、我ながらよく道を間違えず辿り着いたと思う。

 店のある通りにさえ入ってしまえば、店舗の外観はかなり目立つものだったので、迷うことはなかった。飲み横の喧騒が少し遠のいてきたくらいのその場所に、暗く落ち着いた黒の壁が特徴的で、しかし照明の数が多く、やけに人目を引く建物がそれであった。


 一面光る銀色の自動ドアは、開店前なので稼働していない。代わりに半分開放されている状態で、外からチラッと店内の様子が伺えた。

 私は店の入り口の前で、肩掛けショルダーバッグの紐をギュッと握る。

 いざキャバクラを目の前にすると、正直怖気付いて逃げたくなる。

 私、本当に働けるのかな?

 接客の仕事は、学生時代のアルバイト以来。

 前職では営業部に所属していたが、仕事内容は営業事務だったので対面でお客さんと話す機会はほとんどなかった。経歴として心許ない。

 でも、春くんの為にここで働こうと自分で決めて、思い切って昼職も辞めてきた。

 これは自分でやると決めた道なのだ。

 頑張ろう、春くんの為なんだ!

 私は意を決して、キャバクラの店内に足を踏み入れた。



 中に入ると、舞台とはまた別の意味での非日常的な光景が目に飛び込んでくる。

 床は一面黒い大理石で、歩む足を乗せるとコツンと良い音がする。そして、天井に埋め込まれたダウンライトの光は、明る過ぎず暗過ぎずメインフロアに続く通路を照らしており、圧迫感がなくて居心地の良さを感じる。入ったこの手前だけでも、既に何だか高級そうな雰囲気を演出していた。

「こんばんは。えと、長瀬です」

「あー、はいどうも。体験入店の!」

 中に入ってすぐのカウンターで作業していた中年くらいの黒服男性が、私に気付くと気さくに頭を下げてくれた。

 キャバクラというと、従業員皆ギラギラして怖いイメージを抱いていたので、その丁寧な物腰を少し意外に感じる。

「そうしましたら、奥で面接しますのでこちらにどうぞ」

 ニコニコ優しい笑顔で、男性は私を店内に案内してくれる。この少しの間の彼の柔らかな対応で、私は少しだけリラックスすることができた。

 通路を通り、グレーのスモークガラスの壁で隠されたメインフロアへ足を踏み入れる。

 内装は黒で統一されていて、落ち着いた雰囲気を感じさせる。天井から吊り下がるシャンデリア、そして暗いゴールドの壁紙が、エレガントさを醸していた。

 案内された革張りのソファ席に座り落ち着かない私は、見慣れないこの光景にキョロキョロと店内を見渡していた。客として来る分には居心地良さそうだが、自分がこの場で働くとなると圧倒される雰囲気だ。緊張と不安は募るばかりである。

 少し待っていると、今度は黒いスーツを着た若めの男性がやってきた。年齢は30代前後と言ったところか。少し気弱そうだが、温厚な雰囲気で背が高くスタイルが良い。

「お待たせしました。初めまして、店長の松本と言います」

 松本さんは丁寧に頭を下げると、胸元から金色の名刺ケースを取り出して名刺を差し出してきた。その完璧なビジネスマナーに、私も慌てて立ち上がってそれを受け取る。

「じゃ、まず書類をちょっと書いていただきたくて」

「は、はい!」

 緊張で声がうわずった。席に座り直して、松本さんから個人情報の記入用紙とペンを受け取ると、不安に震える手で項目を書き潰していく。

「書けましたか?」

「はい、終わりました」

 書き終わって松本さんに用紙を返した。

「夜のお仕事、初めてなんですね」

「そうなんです。大丈夫ですかね?」

 用紙を見ながらそう言う松本さんに、私は焦る。経験者しか応募しちゃダメだっただろうか。先ほど言われた「面接」の言葉にビビって、落とされたらどうしようかと不安を抱いてると、松本さんが口を開いた。

「全然初めての方も多いので大丈夫ですよ。飲み物の作り方とか、最初に教えるので安心してください」

 良かった。大丈夫みたいだ。それに、そもそも面接を落とされるとかそういう事も無さそうでホッとする。

「衣装と小物は持ってますか?」

「えっと、ライターとハンカチくらいしか…」

「了解です。あと、うちのお店はフロア内は全て禁煙で、代わりに喫煙ブースがあるので、ライターは大丈夫ですよ」

 ほらあそこ。指された方向を見ると、本当に喫煙ブースが存在していた。脳内でお客さんのタバコに火を付けるイメージトレーニングをしていたが、不要だったらしい。最近のキャバクラの配慮された設備に私は驚いた。

「それじゃあ色々説明をしてから、着替えて貰います。衣装と小物はお店にあるものを使ってください」

 松本さんは最後に「そういえば」と、私を見る。

「源氏名ですが、漢字で書かれているので。一応読み方を聞いておいても良いですか?」

「あ、読み方は『ハル』でお願いします」



 時刻は20時。クラブ「トゥーンレディ」開店時間である。

 と言っても、開店と同時に来るお客さんなんてあまりいないし、大体の女の子たちはこの時間になってもずっと化粧をしたり準備している。新人の私も例外でなく、まだ色々と営業に出る準備をしていた。

 店に入ってからここまでで、私は自分の頭の中で想像していた『キャバクラ』の概念をだいぶ覆されていた。

 あの書類のやり取りの後。私は松本さんに店内をざっと案内してもらい、お酒の作り方を教えてもらった。

 そして次に着替えのため、更衣室兼待機室に入れてもらう。すると、在籍キャバ嬢の女の子たちが殺伐…という感じは全くなく。和気あいあいと雑談しながら携帯を弄ったり、本を読んだり各々自由に寛いでいる光景が目に飛び込んできた。

「ナオミさん、ちょっと着替えとかお願いしても良いですか?」

「あ、新人さーん?はーい」

 手前の椅子に掛けて化粧をしている女の子が、松本さんに声を掛けられて元気に返事をする。

 うわあっ、すごい可愛い!

 こちらを向いた彼女の姿に、はっと目を引かれる。愛らしいパッチリした大きな瞳に、ぷるんとした唇が特徴的だ。モデル事務所にいてもおかしくない。

「よろしくお願いします!私初めてで」

「そうなんだ。緊張しなくても今日平日でお客さん少ないし大丈夫だよー!」

「でもノルマとかランキングとかあったりするんじゃ?」

「あ、ウチのお店そういうの無いから平気!」

 ナオミさんは、緊張気味の私に気さくに話しかけてくれながら、着替えや小物など身なりの面倒を見てくれた。ドレスを選ぶ時、ナオミさんは更衣室の中から色んなドレスを引っ張り出してきては、楽しそうに私の身体にあてがう。

「私今就活してるんだけどアパレル志望でさー、人に服選ぶの好きなんだよね」

「就活中なんですか?」

「うん、大学生なの」

「ええっ学生さんなんですか?」

「そう!うち結構学生の子多いよ!」

 確かにちょっと幼い雰囲気はあると思ったが、大学生だとは。人生キラキラしてそうだ。

「あっ、ハルちゃん、スタイル良いからこれ似合いそう!」

「これですか?私に着れるかなあ」

「大丈夫、自信持って!」

 ナオミさんから赤くて綺麗な刺繍の施されたチャイナドレスを渡されて、私は人生初のチャイナ服デビューを果たした。

「あ、あとヘアメイクやってもらいな?無料だし、ハルちゃんならやり甲斐ありそう!」

 ついでにヘアメイクの予約方法も教えてくれる。とびきり美人な上に、私のような新人にも優しくて非の打ち所がない。

 思ってたよりもずっと、お店の人達がみんな優しくて私は安堵していた。

「今日体験入店で入るハルさんです。キャバクラ初めてなので、一緒の卓に付いたらフォローしてあげてください」

 開店前の朝礼で、松本さんが他の先輩キャバ嬢たちに私を紹介してくれる。事前に他の女の子たちにそう言ってもらえるのはとてもありがたかった。


 これは良い意味で想像と違いすぎるかも!


 待機室の化粧台の前で、お店の専属スタイリストさんに長い髪をくるくる巻いてもらいながら、私はこれまでの待遇を思い返して衝撃を受けていた。

 最初はどこかに穴があるはずだと、例えば時給をちょろまかされるのでは?なんて考えたが、

「体入ガーナさんに記載の通り、待機時間も含め体入時給5千円、キャンペーンでそこにプラス1万円になります。ドリンクバッグは1杯3百円、このメニュー表に乗ってるお酒だと10パーセント女の子にはいります。最後にその合計から所得税10パーセント引いた額が、今日のお給料です」

 とにかく細かい説明をされたので、そんな事はなさそうだった。こんなに女の子を大切にしてくれるなんて信じられない。私の中の夜職のイメージがだいぶ変わる。

「こんな感じでどう?」

「わ、すごい綺麗!」

「良い感じでしょ」

 最後にスタイリストさんから巻き下ろした髪型を作ってもらう。こうして、大人びた雰囲気で少しセクシーな要素もある、新人キャバ嬢の「ハル」は誕生した。



 先程ナオミさんに言われた通り、平日のキャバクラは本当に暇そうであった。

 私はもうかれこれ1時間近く待機室のソファで春くんの切り抜き動画を眺めている。他の女の子も、時々接客に出る子がいるくらいで大体同じ感じだ。

 そして、本当にこれでお給料を貰っても良いんだろうかと困惑すら募ってきた頃。

「ハルさーん、ハルさんお願いします」

 松本さんが呼びに来て、ようやく私は初めての接客に向かうのであった。

 待機室からメインフロアに出る。

 店内は開店前の雰囲気とは異なり、照明がもう少し暗めになっていて、店の高級感がより引き立っていた。いくつかの席にお客さんが座っているのが見て取れる。

「大丈夫ですか?」

「めちゃくちゃ緊張してます」

 松本さんが私の気を察して、テーブルに案内する前に優しく声を掛けてくれた。

 お客さん達の姿を見て、忘れかけていた緊張感や不安がまた蘇ってきていたので、正直ありがたい。

「もしお客さんに嫌な事されたら『お手洗い行ってきます』って言って戻って来れば大丈夫ですよ」

「良いんですか?」

「はい。女の子の方が大事なので」

 はっきりそう言ってくれる松本さんに、私はなんだかホッとして、少し心が落ち着いた。

 これだけ良くしてもらってるのに、おどおどしてばかりではダメだ。頑張ろう。私は気合を入れ直す。

「では、VIPルームの1名様、ナオミさんのヘルプで行きます」

 VIPルーム!?やっぱり大丈夫かな…。

 店の1番高い席では、一体どんなお客さんが待っているんだろう。私は不安もありつつ、好奇心も抱きながら、先を行く松本さんの後を着いて行くのだった。


 メインフロア内に仕切りなく並んでいる一般のテーブル席とは違い、VIPルームは別で設けられた完全個室の部屋だ。

 その部屋にしかないカラオケを楽しみたいお客さんや、個室でゆっくりお話ししたいお客さんが多く利用するらしい。当然料金は高い。

「失礼します」

 扉を開けて中に入る松本さんに私も続く。

 どんな人の相手をするんだろうかと身構えたが、中には大体50代半ばから60手前くらいで、スーツ姿の「どこにでもいるおじさん」という感じの男性が、だだ広いソファ席にひとりでポツンと座っていた。

「こんばんはー、お願いしまーす!」

 普段よりも声を無理やりワントーン上げ、出来るだけ明るく元気に。私は、自分がイメージするキャバ嬢を意識しながら、その男性の隣りに座る。

「あれ、初めて見る顔だ」

 物珍しげな目で私を見てくるお客さん。確かナオミさん指名と言っていたし、常連の方なのだろうか。

「今日体験入店で、初めてのキャバクラで、今初めてお客さんに付きました…!」

「えー!そうなんだ!」

 変に上級者ぶっても良くない気がする。そう思って素直に打ち明けると、お客さんはたいそう驚いたリアクションを取った。

 もしかしてこれ、言っちゃいけなかったやつかな?少し後悔する。

「名前は?」

「ハルっていいます」

「ハルちゃんね、お酒作れる?」

「頑張ってみます!」

 私がキャバクラど素人だと分かったお客さんは完全に保護者目線、というよりは心配そうに我が子を見守るような気遣いモードな感じになっていた。

 私は研修で教えてもらった通りに、焼酎の水割りを作る。お客さんはそれをジッと見守り、最後は出されたお酒のグラスを見て「よく出来ました!」と拍手してくれた。

「濃くないですか?」

「うん、大丈夫大丈夫」

「よかったあ」

 初めてのお酒作りは上手くいったみたいでホッとする。あとは所作まで綺麗にできれば良いのだが、それは今の自分には無理だ。

「年齢は何歳なの?」

「今20です!」本当は23歳。

「大学生?」

「専門学生なんです」過去を遡れば本当。

「へえ、何系の学校?」

「経理とか事務系の学校です」これは本当。

 色々と質問してくれるお客さんに、どこからどこまで本当と嘘を言えば良いんだろうと困りながらも答え続ける。というか、私から話題を振らないといけないのに、お客さんばかり話しを広げてくれていて、もどかしさを感じる。

「事務系の学校なんだ。俺は営業の仕事してるから、経理や事務にはいつも助けられてるよ」

「何の営業のお仕事されてるんですか?」

「不動産の営業だよ。ハルちゃんはどういう会社に勤めようと思ってるの?」

「えっと、食品メーカーで働きたくて」

「就活中?大変だよねえ学生さんも」

 だめだ、自分からどう話題を振って良いか分からない。その後もお客さんがずっと話しかけてくれて、結局自分から話題を振ることはできず。

「ハルさーん、ハルさんお願いします」

 松本さんが私をまた呼びに来た。

 その後ろにはナオミさんもいる。

「ハルさんありがとうー!」

 そして、お客さんが指名しているナオミさんが席に戻ってきたところで接客を交代し、私のキャバ嬢としての初接客は終わった。

「頑張ってね!」

「はい、ありがとうございました!」

 去り際、温かい言葉をくれたお客さんに、ぺこりと深くお辞儀をして私は再び待機室へ戻る。

 全然うまく話せなかった…。

 お客さんとお酒を飲んでただお話ればいいだけ。そういう簡単な仕事だと思っていたが、それがこんなに難しいとは。キャバクラの本質に触れた気がした。

 でも、普通に良いお客さんだったな。

 SNSでよくキャバ嬢の女の子が愚痴を吐いている、いわゆる「クソ客」というのは、ほんの一部だけで、実際はああいう普通のお客さんが大半なんだろう。

 自ら話題を振って広げなければならない難しさや気疲れはあるが、それは昼職の営業でも同じ。キャバクラって、実は普通の接客業とあまり変わらないかもしれない。

 春くんの為、崖から身を投げる覚悟でキャバクラに飛び込んだ訳だが、想像よりずっと働きやすかった。


 待機室のソファに戻ってSNSを開くと、春くんが少し前に投稿をしていた。

『奇神ステ、今日もありがとうございました!

 大好きな作品にお芝居という形で携われてることが幸せです!みんないつもありがと!らぶです』

 今日は光希くんと、ゼウス、ポセイドンの姿でツーショット写真を上げていた。

 わあ、今日の春くんも尊い!いつもよりキラキラして見えるかも…!

 勇気を出して、自分が今日一歩前進したからだろうか。彼の姿がより一層輝いて見えた。

『お疲れさまです!わたしもらぶ〜!輝いてる春くんを応援できて幸せだよー!ずっとそばにいさせてくださいっ!』

 返信を送りながら、私は昨日春くんから貰ったファンサやこれまでのこと。そして、これから先もっと春くんと会える機会が増えるであろう幸せで胸が満たされていた。


 私ここでいっぱい頑張るから。

 春くん、いつか私のこと認知して、好きになってね?


 その日の帰り、私はこのお店に本入店することを松本さんに伝えた。




 あとがき。

第1章を書き上げる事が出来ました。

主人公が初めてのキャバクラで受けた待遇や、感じた衝撃は、私の実体験に基づき執筆しています。主人公のお店の引きの良さが羨ましい…

完結までこれからもマイペースに投稿して行こうと思います

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

輝きを知らない太陽は エラ無し魚 @jnucknkes

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ