地殻の傘
久々原仁介
地殻の傘
地下で僕が体験した話を、聞いてくれ。
僕はね、怖がりで、本当は同級生に「おはよう」も言えない人間なんだ。
大学の……すぐ国道沿いにある、短い地下道があるだろ? 君も、毎日通る。短い通路。
僕はあそこを歩くのが苦手だった。それはなんだか、曖昧で、言ってしまえば本能的な拒否反応だった。
もっと具体的に話したいと思う。あの通路、短いくせに交差点にあるから5つも出口が、あるだろ。そのうち4つが地下の続くスロープだけど、一ヵ所だけ階段がある。なかでも僕はあの階段が怖かったんだ。
階段を下りる。そのとき、陽光がカッターナイフで切られたみたいに突然に暗くなる。
瞬間、僕は自分が脆弱な人間であることをふと思い出すんだ。毎日のように。僕は、あの地下通路を歩くたびに、棺桶に入れられる。
水滴が、瞼を下ろす音。
ごめん。変な言葉がでる。ごめん、ごめん。
あの地下道、いつも水の音がするだろ。するだろ。晴れてるのに、なぜかいつもコンクリートが濡れている。
だから、足早に地下を通る。誰の目にも映らない日は耳を塞ぎながら走る。
君は人間だよと口にしてくれる人が現れるまで、地下で僕は石ころのように感じる。
だからさ、今日、君が見つけてくれて、よかった。
今日は、地下がなかなか僕の手を放してくれなかった。
感覚。感覚だ。感覚だよ。
ずっと話が嚙み合わないって思ってたんだ。
いま、こうして話してることって、ほら、僕の感覚の話なんだから。魔に受けないでくれよ。
感覚の続きだけど。
僕はあの地下道って人間っぽい性格をしてると思ってる。人格があると、僕は思ってるんだ。
人が歩くためだけの簡易な地下道。それでもあの地下道はいけない。陽光は届かず、学生たちもあの地下道では誰も喋らない。
どうしてだ。どうしてだろう。そんなことを毎日考えていた。
階段が指先で、点字ブロックが指先で、壁面が皮膚で、脇の水路が血液で、スロープが肢。どこも濡れている。粘膜みたいに。
知ってるかな。日が暮れ始めると、近隣にある高校の吹奏楽部の生徒が放つラッパの音が地下道に迷い込む。右往左往しながら響き渡る。それが、まるで歯ぎしりのように聞こえるんだ。
僕は、地下道が怖くて仕方がないのに、毎日二回、必ず地下道を通る。まるで吸い寄せられるように、あるいは憑りつかれたように、あの地下道を通って帰ってる。
でもそれは、正しくなくて、あるいは正しいのかもしれないけれど、そこは大きな問題ではなくて。
あの地下道には僕の足りないものがあるような気がした。僕は、気の小さい人間だろ。話を聞いてくれる人間なんて、君くらいだろ。僕なんて、いてもいなくても変わらない人間だろ。
でもあの地下は違う。
あの短くて、薄暗くて汚らしい通路なのに、そこにはまるで一つの意志が宿っているかのように振る舞う。その下を誰かが歩き続ける。
だから通らずにはいられない。この人間らしく佇む地下道に僕は苛ついていたから。
今日は特に、風で地べたをすれる枯れ葉が、嫌に目についた。
なんだか今日は、歯ぎしりが聴こえない。(葡萄の皮に取り残された黄昏)違う。なんだこれ。口が勝手に動く。
その日は地下道が薄く微笑みかけていたんだ。
蛍光灯がちかちかと光る。
不気味な笑みだった。
これは何かがおかしい。前兆は確かに、この目に映っていた。地下道に続く階段。(うかつに君は通ってしまった)。違う。僕は慎重だった。それで降りたんだ。
傘を差した男がいた。
地下で、黒い日傘だ。
僕は、起きてはいけないことが起きていると悟って、呼吸を抑えた(もう遅いよ)。ちかちか、うるさいんだ。僕は、僕だ。おかしくない。あの時、今が、朝なのか、夜なのかも分からなくなったんだ。
地上で気にしたこともない足運び。トテ、トタタタ、テトン、ヒタタン、タパ。あるいはあれは、あの男の足音だったかもしれない。地下で鳴り響く僕の足音(あれは僕の足音)。日傘の男が僕を見ている。黒い日傘。背丈は僕と同じくらい。怖いほど、同じくらい。
男は傘で目深に傾けて、口元だけで笑っていた。
「地下で日傘を差す、惨めさを知っているか」
そう、確かに、男は僕にそう言った。
あれは本当に陽を避けるための日傘ではないんじゃないか。彼は何を避けてるんだ(君にはもう、分かるはずだ)わからない。わかりたくない。あれは、日傘ではなかった。日傘が広がる。違う。僕が日傘に向かって歩いている。嫌だ。思い出したくない。怖い。違う。歩いたらダメだ。ダメだ。行くな。(もうダメだよ逃がさない)
渇きを通り越した苦しみに我慢ならず、潤いを欲した。惨めな乞食の如く地下道に問う。
「ここは、さよならのトンネル」
胸を、内側から圧迫する心臓に急かされた。足が意志を置き去りにする。後になって自分が逃げ出そうとしていることに気が付いた。時計の針が歯の裏側で鳴っている。カチカチ、と震える。空っぽの体で地面の下を駆けずり回る。
「君に一つだけさよならをあげよう」
僕は走った。逃げているのに
階段を二段飛ばしで上がると、鋭い西陽が照り付けた。空が希薄で白々しい。排気ガスと、人の脂っこい空気の塊に包まれる。家に帰る気さえも失せていた(まだ逃げなくていいの?)。もう逃げたんだ。でも違った。後ろを振り返ると、僕はまだ地下だった。走っても、走っても地下だった。黒ずんだエメラルドの眼が僕を見ていた。笑っていた。あの男の手が僕を掴んでいた。
そこから先の記憶がない。
正確に言うと、僕は気付くと地下で君に起こされていた。そこには傘をもった男はいなかった。
アア、そうだった。
落ち着いてきたんだ。
君とファストフード店に入っているこの状態にも慣れてきた。
この注文したバニラシェイクというのはとても美味しいね。どこもかしこも明るいね。明るいだけで、羨ましかったんだよね。彼は、僕のことを人間のようだと言っていたけれど、正しくはそうではなくて、彼が人間と思ってくれたから、僕は人間のようになれたわけで、それまではただの地下だったのに。かわいそうな男だった、いや、もう地下道か。
ふふふ。
ふふふ。
ふふふ。
たまには、顔を出してあげてね。彼には友達らしい友達なんていなかったらしいから。顔も、声も、きっとあの地下道では意味なんてないけれど、きっと夕方ごろにいけば「歯ぎしり」くらいは聴こえるんじゃないかな。
「……さっきから、なにしてるの」
ああ、これかい。
左手に持ったシャープペンシルの先端を消しゴムに突き刺したまま、カチカチと芯を出し続けて、貫通したなと思ったら芯の根元を折ってる。そういう作業。ただそれだけの行為。これ自体に、意味はないよ。
強いて言うなら、僕が意味を付けるところ。
「インスタント地下道」
僕もまた彼と似ている。
「さよなら」を言えない、にんげん。
地殻の傘 久々原仁介 @nekutai
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