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掃除なんて普段なら絶対しないのだけど、今日だけはどうしてもと頼まれて、朝から屋敷中の部屋という部屋を掃除して回っていた。お嬢様が留守の間ずっと放置されていたようで、そこら中に蜘蛛の巣が張っていたり、壁や天井は煤で真っ黒になっていたり、挙げ句の果てには床に鼠の死体が転がっていたり……とにかく酷い有様で、メイド長のラーラもカンカンに怒っていた。
なんとかお嬢様が帰ってこられるまでに掃除を終えた私は、疲れた身体を癒すために、屋敷の裏庭で煙草を嗜んでいた。ここは庭師のロゼリアがほとんど私だけのために設けてくれた喫煙スペースで、ちょうど二人で座れるくらいの小さなベンチと吸い殻入れが、鉄の支柱に沿って伸びた蔓性植物の幕の内側に隠れてるように置かれている。
昨晩から綿飴のような薄い雪が降りしきっているが、雲の切れ目から漏れる日差しは十分温かくて気持ちがいい。そのままベンチに横たわって一眠りしようかと考えていると、
「あ、やっぱりここにいた」
懐かしい声がした。見ると、蔦の幕からひょこっと顔が出ていた。
「……お嬢様?」
「久しぶり、メメ。相変わらずだね。出迎えに来てくれても良かったのに」
軽い調子で笑って、お嬢様は中に這入ってきた。
「はあ」
曖昧な返事をしながら、私はお嬢様をまじまじと見つめる。
ラピスから見せてもらった写真の通り、一年前よりも垢抜けて大人びた雰囲気を感じる。白い肌を彩る薄ピンクのチークが印象的だった。
「隣座ってもいい?」
「どうぞ」
なんだか妙な居心地の悪さを感じる。もちろんお嬢様とお話できることは嬉しいのだが、奥様のこともあるし、お嬢様との再会を心待ちにしていたラピスや他の猫たちもいる中で、わざわざ私に会いに来たことが不思議だった。
「眠そうだね。お昼寝の邪魔しちゃった?」
「いえ、少し休憩していただけです。朝からずっと掃除していたのですよ」
「メメがお掃除?」
「頼まれて、です。メイド長の頼みとなると流石の私も断れませんから」
「ふふ、メメもラーラさんには逆らえないか」お嬢様は可笑しそうに微笑む。「私もメメにお願いしたいことがあるって言ったら怒る?」
「お嬢様が私に? なんでしょう」
「ナギがここにいる間、彼を見守っていて欲しいのだけど。ああ、ナギっていうのは、留学先でできた友達で、夏休みの間はここに遊びに来てるんだ」
見守る? どういう意味なのだろうか。私は写真で見た陰気な雰囲気の青年を思い浮かべる。特別保護が必要な年齢や身体には見えなかったが。
「ご友人についてはラピスから聞いてます」
「そうなんだ。ナギはねえ、ちょっと危なっかしいところがあるのだよね」
「危なっかしい……不良ってことですか? ヤクザっていうんでしたっけ」
確か日本にはヤクザと呼ばれるジャパニーズマフィアが存在するってラピスが言っていた。不義理があると自らの小指を切るのだとか。
「え? ははは、ないない。組織のお金を盗んで海外に逃亡中とか、そんなんじゃないから」大袈裟に笑ってお嬢様は手を振った。「とにかく悪い人じゃないのよ。本当は私が一緒にいてあげればいいんだけど、ほら……お母様との約束もあるし、ずっと側にってわけにはいかないじゃん。だからメメに見ていて欲しいわけ」
「見るだけですか?」
「できれば話してあげても欲しいけど」
「そもそも、なんで私なのです? そういう話ならラピスとかの方が向いてると思いますが」
「私もそう思うんだけどね」お嬢様はわざとらしく困った顔をする。「ほら……他の子たちはみんな忙しそうだからさ、いつでも時間の空いてて暇そうなメイドを探していたの」
「はあ」
「……怒ってる?」
「いえ別に」
「ならよかった」お嬢様はベンチから飛び上がって、くるりと半回転した。「よろしくね。ナギは大切な友達だから」
そう言い残して、呼び止める隙もなく、お嬢様は屋敷の方角に颯爽と姿を消した。
私はどうしたものかと考える。そもそも見守るって、何をすればいいのだろう。お嬢様は妙にはぐらかしているような印象だったが、何か訳ありなのだろうか。正直気は進まなけど、お嬢様の頼みを無下にするわけにはいかないし……とりあえず様子見も兼ねて挨拶にでも行こうか。そう思って、私は煙草を吸い殻入れの底に押し付けた。
裏庭から屋敷の表に回って、重い両開きの扉を押し開ける。エントランスホールは無人だった。ステンドグラスを透かして色付いた複数波長の光が、宙に浮かぶ埃を星屑のように煌めかせている。毛先の長い真っ赤な絨毯を踏んで、正面に迎える大階段を上る。幅の広い階段は途中から左右に分岐し、それぞれ東棟、西棟に続いている。ゲストルームは東棟の二階だ。眩しいのが嫌で俯いて階段を上っていると、ちょうど東棟へ向け湾曲し始める階段の中程で、本の山を胸の前に抱えた少年が目前に現れた。「わっ」悲鳴が上がって、少年は後ろに尻餅をつく。落ちた勢いで本はバラバラと段差を転がっていった。
「いたたた……」
「いたあ……、あ、ラズリ。ごめん。大丈夫?」
「ああ、すいません、メメさん」
ぶつかったのはラズリだった。ラピスの弟で、奥様のお世話をしている。この本の山は、おそらく奥様の寝室から図書室に返すために運んでいたのだろう。どれも魔導書の類いだった。
床に散らばった本を集めてラズリに渡す。
「ありがとうございます」
「いえ、いいんだけど、こりゃまたえらい量ね。手伝う?」
「あ、いえ、お構いなく」
ラズリはまた本を積み上げて胸の前に持ち上げた。小さな顔が本の山で隠れてしまって、正面から見ると積み上がった本のてっぺんから耳が生えているみたいだ。
「メメさんは奥様に御用ですか? 今はお休みになられているのですが……」
「ううん、御用があるのはお客様の方」
「お嬢様のご友人ですね。真ん中の客室をあてがっています。あそこが一番綺麗でしたので」
「了解」
「ああでも」ラズリは思い出したように言葉を継ぐ。「そう言えばさっき廊下で見かけましたね。厚着をされていたので、どこかに出かけられたのかもしれません」
「ふうん。この周りってどっか見るとこあるっけ。牧場見学とか」
「晴れているので、お庭はいい散歩コースですよ。日差しが暖かくてお昼寝にも良さそうです」
ぎくっとして、私は「そうだね」とだけ肯いた。
ラズリと別れて、東棟の廊下に這入る。ここの二階には奥様やお嬢様、客人たちの寝室があって、ラズリなどの一部の猫を除き、私たち使用人が出入りすることは少ない。
ラズリに言われた客室をノックする。返事はない。留守なのだろうか。しばらく待っても、やはり返事はなかったので、仕方なく廊下を引き返す。その途中でなんとなく窓の外に目をやっていると、真っ白な雪に覆われた庭の中で一人、青年が、屋敷から離れて門扉の方へ歩いているのが目に入った。たぶんナギだ。
一人で外に出るのかしら。不思議に思いつつ、少し嫌な予感がして、私は駆け足で廊下を渡って階段を下る。町に出るにしろ、徒歩では荒れた雪道を一時間ほど歩かなくていけない。もしその間に雪が強くなったら遭難なんてこともあり得る。
「あっ、メメ。どうしたの、そんなに急いで」
玄関扉の前で、今屋敷に帰ってきたらしいラピスが立っていた。
「これ借りる」
ラピスが脱ぎかけていたコートをひったくって、メイド服の上に羽織る。
「ねえ、ちょっと! 何よもう。あとでちゃんと料金請求するからね」
何やら怒っているラピスを放ったらかして、私は外に出た。玄関ポーチから門扉の方へ続く石畳の道の奥に目をやるが、青年の姿はもう見えない。
心なしか雪が強くなっているように感じる。雲の切れ目は閉ざされ、銀色に輝いていた雪は濁った灰色に染められる。駆け出すと、冷たい風が頬を刺した。
鉄格子の門扉を開けて外に出る。
青年が残したであろう足跡が、西へと続いていた。町へと続く整備された雪道は東に伸びていて、屋敷の西側は枯れた針葉樹林になっている。その先には大きな湖はあるが、こちら側からは崖になっていて下ることはできない。彼はどこにいくつもりなのだろう。
一旦戻ってお嬢様やラピスに伝えようかと迷ったが、ただの散歩だったときのことを思うとそれも億劫に感じる。まだそれほど遠くには行っていないはずだし、このまま追いかけてしまった方が早い。
そう考えて、足跡を頼りに、林へと続く雪の中を進む。
一歩踏み出すたびに、足首が雪の中に埋もれる。それを引きずり出して、一歩、また一歩と進んでいく。そうやってなんとか歩き続け、ふと顔をあげると、枯れて葉を失い地面から生える無数の骨のようになった針葉樹が、私の周りを取り囲んでいた。
「まったく、どこまで行ったのよ」
ぜえぜえと白い息を吐きながら一人愚痴を溢す。すぐに追いつけるという思惑は甘かったようで、もう三十分以上は歩き続けているように感じる。このままでは私が遭難しかねない。
しかし今更引き返すわけにもいかず、肩で息をしながら暗澹とした林の中を進んでいった。時折、雪の重さに耐えきれなくなった幹が、鈍い音を立てて地面に落ちてくる。下敷きになったら死んじゃうかな、なんて考えて怖くなった。
淡い光を感じてふと顔をあげると、急に視界が開けた。この少し先は地面がなくなって、代わりに山々の稜線が遥か遠くに見える。眼下には、スプーンでアイスクリームをくり抜いたみたいに、円形に連なって切り立つ岩壁に囲われた広大な湖が広がってた。
周囲を見渡して人の影を探す。
すると、崖が湖の方に向かって細く伸びているその先に向かって、ゆっくりと歩いている後ろ姿が見えた。何しているの? 慌てて呼びかけようとするが、声が出ない。風が強く吹いていて、口を開ければ肺が凍えてしまいそうだった。
急いで彼の方へ向かう。
後ろ姿は徐々に崖の先端へと近づいていく。走ろうとすると、凸凹した岩の表面に足を取られて転けそうになった。岩に手をついてなんとか堪える。じんとした痛みが掌を伝う。距離はあと三十メートルくらい。止まって、と何度も声を出しているけど、聞こえていないのか、そもそも声が出ていないのか、彼は振り返る気配もない。
彼は崖の先端に立つ。空を見上げて、俯いて、まるでその先に透明な道があるかのように、一歩踏み出そうとする。
必死に走って、追いついて、息絶え絶えに、私はその腕を後ろから掴んで「何してるの?」と問いかけた。彼は驚いたように振り返る。前髪の奥で大きく見開いた瞳が私をとらえる。それから何秒か硬直し、やがてその場でうずくまって嗚咽を漏らし始めた。詰め込んでいた何かがはち切れたように、喉から漏れる声が大きくなって、いつの間にか大声で泣きじゃくっている。
「何してたの?」
しゃがんで聞くと、彼は「散歩です」と涙ながらに応えた。
「馬鹿ね」腕を引っ張って青年を崖から引きずり戻して、私は彼の立っていた場所に進んだ。「靴脱いだら歩けないじゃないの」
崖の先端には靴が綺麗に並べて置かれていた。彼の国では、天国は土足厳禁らしい。
猫耳カタストロフィ 空見ゐか @ikayaki_ikaga
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