猫耳カタストロフィ

空見ゐか

1

 大広間の一角は、建築時の主人だった人物の趣向で簡易なバーカウンターとなっている。宵闇に染まった空間のその周囲だけが、カウンターに並ぶ燭台の灯によって密かに照らされていた。

 グラスに浮かぶまん丸の氷が、燭台の蝋燭を写して琥珀色に輝く。その様子に魅入られ、机に頬をのせてじっと見つめていると、

「メメってお酒弱いんだっけ?」

 バーカウンターの奥からラピスが上機嫌に話しかけてきた。

「あんたよりはね」

「はい、お水」

 ラピスは水とウィスキーの入ったグラスをそれぞれ机に置いて、カウンターをまわり込んで私の隣に座った。その軽やかな足取りからして彼女はまだ余裕そうで、それがなんとなく妬ましい。

「お酒弱いって羨ましい。すぐに気持ちよくなれるってことでしょ? いいなあ」

「ああー自分酒強いんですアピールうっざ」

「あはっ、そう思われちゃったか。本心なのに」

「こっちはもう眠いのよ」

 ぐっと背筋を伸ばすと、喉から「にゃあ」と掠れた声が漏れた。時刻は午前零時をちょうど過ぎたあたり。そろそろ目を開けるのも億劫になってくる。

「まだ眠らないで。冬の夜は長いのに、一人だと退屈しちゃう」

「えー、どうしよっかなあ。いい感じにあったかくなってきたし」

 アルコールのおかげか身体に火照りを感じて、肩に羽織っていた毛布を折りたたんで膝上に置いた。真冬の屋敷で夜をしのぐ方法は限られている。いつもなら暖炉のある部屋で温まるか、それが空いてなければ分厚い毛布にくるまるかしているのだが、今夜はラピスに誘われて、こうしてお酒を嗜んでいる。

 とっくに昔に味のしなくなったかぎたばこを吐き出して、グラスの先を唇で撫でる。

「……タバコ吸わせてくれない?」

「だーめ。屋敷の中はだめね。もうすぐお嬢様が帰ってこられるから」

 そう言って、ラピスは強く傾けたグラスに唇をつけた。彼女の艶やかな黒髪を左右に分けたそれぞれの根元には、大きなリボンが結んである。昔にお嬢様からプレゼントされた宝物らしい。

 ラピスはお嬢様のお世話役を務めるメイドで、お嬢様が幼かった頃からずっと付き添ってきた。それもあってかメイドたちの中でもお嬢様の一番のお気に入りで、今でこそ従者と主人という関係だが、昔は姉妹のようだと側から見て思っていた。ちなみにラピスには双子の弟のラズリがいるが、彼との仲はそれほど良くないらしい。

「じゃあ酒もだめなんじゃないの? 留守の間にお気に入りのメイドが夜な夜な酒盛りしてるって知ったら、お嬢様だって幻滅するわ」

「ああ! そういえば、お嬢様もお酒が飲める年頃になったんだっけ。今度誘ってみようかしら」

「話聞いてる? てか、誘うのはやめたほうがいいと思うなあ」

「どうしてよ」

「いろいろよ」

 ウィスキーを舌先でちびちび触るのをやめて、水の入ったグラスに手を伸ばす。ボブカットの赤毛の髪と同じくらい赤くなった自分の顔が映って、ああだいぶ酔ってるなって実感した。

「お嬢様が帰ってくるのって、確か一年ぶりだっけ? 留学するって聞いたときはびっくりした。あんたも騒いでたじゃん。お嬢様がいなくなるーって」

「そうだったけど、案外そうでもなくて。毎日ビデオ通話してたし、メッセージでお話もできるし……ほら、これ見てよ」

 ラピスがスマホと呼んでる機械を私に見せてきた。眠たい眼を擦って見てみると、異国の華やかなドレスを身に纏ったお嬢様と、その後ろで夜空に浮かぶ無数のランタンが機械の表面に映っていた。「綺麗じゃん」「でしょ」ラピスは自慢げに笑って、細い指先で器用に機械を操り写真をスライドさせる。いろいろな景色を背後にして、お嬢様は一人か、あるいは同性の友達らしき人物らと一緒に写っている。しかしある時期からは、同じ一人の青年と一緒に写っている写真が多くなった。

「ねえ」私は写真をめくるラピスの指を止めて、青年を指差した。「この子よく一緒にいるね」

「あっ、そうそう! お友達って言ってたけどね、これは絶対ボーイ・フレンドってやつよね。猫としての野生の勘がそう言ってる」

「あんた野良猫だったっけ? てか、この子……顔は悪くないけど、なんかちょっと暗くない?」

 お嬢様の横で恥ずかしげに控えめなピースサインを作る青年の顔は、笑っているはずなのに、どことなく悄然とした印象を受ける。目元を隠すように伸びた前髪か、あるいは黒く濁った隈のせいでそう見えるのかもしれない。

「向こうではそういうのがトレンドなのかも」

「日本ってこんなやつばっかりなの?」

「さあ。でも、日本の深夜アニメを徹夜で見てたら、私も朝にはちょうどこんな感じの顔になってたし」

「あにめ? 何それ。まあ、お嬢様がいいのなら別にいいけど。……あ、お嬢様髪伸ばしてる」

「お化粧も上手になられて、本当に綺麗になられたよねえ」

 ラピスの言う通り、写真の中のお嬢様は少し垢抜けたように見える。腰まで伸びた銀の長髪と燦々と煌めく青い瞳の乙女は、まるで絵本から飛び出してきた王女様のようだ。そんなお嬢様と比べると、ボーイ・フレンドの方はいささか地味に見えるが、比較対象がお嬢様なだけに比べられるのは酷といったところか。

「あのお嬢様にボーイ・フレンドかあ、なんか泣けてくるねえ。ついこの前までこんなに小さかったんだよお。それがいつのまにかこんなに大きくなられてえ」

「……酔ってんの?」

「あはっ、少しだけね。お嬢様を想えば素面でも泣けるわ」

 ラピスは悪戯っぽく笑って、それからスマホに視線を戻す。さっきまであれだけ楽しそうに話していたその表情は、ふと見るといつになく物哀しげになっていた。もしかしたらお嬢様が徐々に自分から離れていくのを、本当に悲しく思っているのかもしれない。急にお酒を誘ってきたのも、それがきっかけだったりして。

 しかし、そんな私の考えとは裏腹に、ラピスは「お嬢様と一緒に、この子も屋敷に来るんだって」と呟いた。

「えっ?」

 思わず聞き返す。

「夏休みにはお友達を連れてきなさいって奥様が伝えていたの。お嬢様はとても喜んでいらしたわ」

「でも、それって」

「ラズリやヨセフ先生によると、奥様はとても危険な状態らしくて……。予定よりも早くなったのかもしれない」

 奥様はここ数年ずっと体調が優れていない。特に最近は自分で部屋を出ることもできない程らしく、ヨセフ先生をお抱え医者として雇い、住み込みで奥様を検診してもらっている。

「……お嬢様ってまだ知らないんだよね」

「うん。私は何も言ってない。奥様から口止めされてて」

「そうなんだ」

 応えると、ラピスは肯いたまま黙ってしまった。

 耳が痛くなるような静寂に、カラカラとグラスの中で氷を転がす音だけがやけに大きく響き、それに呼応して蝋燭の影が踊るように揺らめく。今は寂れて薄く埃の積もったこの大広間だが、昔は多くの客人たちを招いて盛大な舞踏会が開かれていた。今もその記憶の中の亡霊たちが、変わらずに踊り続けているのかもしれない。

「さてと、次は何を飲もっかな」

 ラピスは急に立ち上がって、空になったグラスを片手にずらっと陳列する酒瓶を物色し始めた。

「あんたまだ飲むの?」

「アルコールがないと生きていけないの。メメもタバコ吸わないと生きていけないでしょ」

「お嬢様に酒臭いって言われても知らないよ」

「じゃあ今日だけはタバコ許してあげる。それで同罪ね」

 私はスカートのポケットからタバコを取り出して、箱を開け、一本咥えて火をつける。口の中に煙を溜め、それから深く息を吸って肺に巡らせる。

「香水を貸してあげる。お嬢様が好きって言ってくださった匂いの香水」

 ラピスは曖昧に笑った。

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