エピローグ
三十に差しかかるあたりで結婚した。
そろそろ適齢期なのとそれなりに蓄えができたなという判断に基づいて、適当に相手を見繕った。各所への挨拶や報告、式の準備の苦労や、飛んでいく金の大きさに、いっそやらない方がいいんじゃないか、という気持ちになりかけたものの、あっという間に期日が訪れ、式を挙げ、淡々とこなした。新婚旅行の熱海も、可もなく不可もなく、凪のような時間を過ごし、日常に戻る。
就職と同時に入った狭い部屋には、少し前から居つくようになった妻という名の衣を纏った女。俺も女も多弁でもなんでもなかったのもあり、空気を相手に暮らしている感じがして、手応えがない日々ではあったけど、それが悪いというわけではなく、逆にたいして気にかけなくていいのが楽なまであった。共働きだったのもあり、炊事洗濯掃除は、その時々で時間がある方がやるというかたちに落ち着き、休日が合ったらなにをするでもなくともに過ごした。そうやって、夫婦としての営みを、なんとはなしにこなしているうちに、妻が身籠る。俺や妻よりも、俺側の両親が歓び、向こうの親も連絡こそ素っ気なかったものの気の早いベビーグッズのお下がりをドバっと渡してきた。とんとん拍子に進んでいく毎日に、行き先のわからないベルトコンベアに乗せられたような気分にさせられたものの、できるかぎりの準備を進めつつ、産休に入った妻を気にかける。こころなしか、ここ何年かで一番楽しそうな顔をした彼女に、色々と思うところはあったもののまずは体が大事だと、できるかぎり気を配った。そして、わからないなりにできることを積み重ねた末に、娘が産み落とされて、
☆
「パパ」
無邪気な
「食べたくない」
皿の端には、綺麗に長ネギだけが残されていた。そばの付け合わせだから、無理して食べなくてもいいかもしれないなと感じる一方、安易な好き嫌い自体が将来のためにはならない気もする。ここは心を鬼にすべきか、と口を開き
「食べなくていいよ」
かけたところで、妻の
「ママも嫌いだし」
真顔でそんなことを口にする妻。
「じゃあ、なんで切ったんだ」
今日の料理は妻の担当だった。だったら、作る必要なんてなかったはずだ、と思う俺の顔を、ビシッと指さす音芽子。
「だって、パパは好きでしょ、ねぎ」
どこか誇らしげに口にされた言葉を頭の中で反芻する。
「別に。普通なんだけど」
「そうだっけ」
まだまだわかんないことが多いなぁ。ほんの少し気まずげに頭を掻いた妻は、ねぎを乗せている小皿ごと机の上で滑らせる。
「パパお願い、食べて」
拝んでくる妻。
「あげる」
便乗して無表情のまま皿を滑らせる娘。
どこまでも親子だな、と苦笑いしそうになりながら、小さくため息を吐く。
「今日だけだぞ」
娘が寝静まったあと、
「お疲れ」
寝かしつけてくれた妻に、ホットミルクを渡す。
「ありがと」
受けとったマグカップに何度も息を吹きかけた妻は、口をつけてすぐさま、あつっ、と顔を遠ざけた。電灯の下、ゆっくりと女の顔の上で動く喜怒哀楽。思えば、大分様変わりしたな、とおかしくなる。
「なにを笑ってるの」
「音芽子の表情筋も大分、ゆるくなったんだなって」
ほとんど表情を変えないままだった少女時代を知っているだけに、違いに大分、戸惑ってしまう。元々、就職した辺りで会社内での人間関係の円滑化のためか、大分表情が変わるようになっていたし、口数も増えていた。けど、本格的に感情が表に出るようになったのは、結婚してから。
音芽子は、引き続きホットミルクに息を吹きかけながら、自嘲するみたいに、
「さすがにピクリとも笑わないのは、心寧の教育に悪いと思って」
これまた周囲に合わせた末の選択だと漏らす。
たしかにと思う一方、
「でも、あの娘もあんまり笑わないよね」
今、目の前にある結果を口にすれば、
「やめて。ちょっと気にしてるんだから」
頭が痛そうに額を抑える妻。家の中ではあまり、昔みたいな無表情を浮かべなくなった妻とは対照的に、娘の表情筋は物心がつく前後辺りから大分固くなっていた。とはいえ、別段、感情がないわけではないらしいのは、近所の公園でガキ大将よろしく男の子たちを振り回していたり、保育園で女の子たちとはしゃぎ回っているという保育士さんの報告からもはっきりしている。ただ単に、表情筋を母親から受け継いだだけらしい。
「しばらく様子を見ない。今のところ、心寧は楽しくやってるみたいだし」
「あなたは最初からくるくる表情が動く人間だから、気楽に言えるんだよ」
この物言いからするに、音芽子自身も自らの変わらない無表情に悩んだ時代があったらしい。良くも悪くも弱みが見えにくい振舞いをしている妻の、真意はいまだにはかりがたい。
「もちろん、様子が変だったら聞いてみたらいいし、気を配っておくのは重要だと思う。でも、まだその段階ではないんじゃないかな」
「そうだね」
妻は一応、納得したのか、ゆっくりゆっくりとホットミルクを口にする。俺もまた、別に用意していたコーヒーを飲む。
「ねえ」
「なにかな」
尋ねられて応じたあと、音芽子はおずおずといった調子で顔をあげた。
「なんで、結婚してくれたの」
結婚してから、何度か聞かれたことだ。寝室の襖が閉まっているのを確認してから、
「手近にいたからかな」
とてもとてもひどい答えを口にする。今更、取り繕っても仕方がないので、はっきりと言う。
「でも
より取り見取りとまで言わないまでもモテてたし。音芽子の言った通り、大学時代も就職してから結婚するまでの間、浮いた話の一つや二つがなかったかといえば嘘になる。加えて言えば、結婚秒読みくらいまでいったのも、一度だけあった。けど、
「音芽子以外は、なんか上手くいかなくなっちゃってね」
かつて、眼鏡の女の子に振られて以降は、大抵は向こうから別れを切り出された。こっちとしても引き止めるほどの気力がわかず、だいたいは抵抗なしに手放す。
「そりゃあね」
「なんか、心当たりがありそうだね」
「別段、好かれてないのに付き合い続けるのは、それはそれは辛いもんなんだよ」
たぶんね。あらためて言語化された事柄は、頭では理解できたものの、実感としてはいまだに染みてきていないものだった。
「その理屈だと、音芽子は大分、辛い結婚をしたんじゃないの」
全てが終わってしまいかねないかもしれない。そう思いつつも、尋ねた。途端に音芽子はかつての無表情を作り、煌々とした目で俺を見上げた。けど、それも一瞬、
「私は別。自分の意志で源司と一緒にいようって決めたから」
だから。そこで一度、言葉を止めてから、ふわっと笑う。
「きっと、いい人生だよ」
マグカップを深く傾けた音芽子に、そんなもんか、と応じたあと、同じようにコーヒーをグイっとあおる。
頭の中にはかつての少女だった時の音芽子の姿。初対面から段々と月並みになっていく彼女から、かつての俺は離れることを決めた。そして、その予想に違わず、音芽子は犯罪すれすれの行動力こそあるものの、理解内の行動しかしなくなり、最終的には一般的な生活を送れるくらいの社会性まで身につけた。そんなどんどんと普通になっていった彼女の中で、残っていた芯が、俺と付き合う、という一点だった。正直、いまだにこの一点についてはよくわからない。俺自身には、音芽子が執着するほどのなにかがあるとは思えないから。けど、結果として彼女は長い間、一緒にいたし、こっちはこっちでそれを受けいれた。付き合うことはない、なんて調子よく言っていたのに、諦め折れたのだ。
とはいえ、折れたあとの世界には悔しさは微塵もなく、あったのは凪のような穏やかな時間。おまけに、まだまだ小さい娘もいる。人生、わからないものだ。
ふと、音芽子が視線をあげた。蛍光灯を見ているのかとも思ったけど、そこにはなにもない。虚空を見据える二つの目は、さながら月面みたいで、相も変わらずなにを考えているのかわからない。まだまだ、理解不能なところが音芽子にあることに、と少しだけ楽しさを見出す。できれば、このほんの少しの楽しさが数珠つなぎみたいに続いてくれればな、とぼんやり思う。きっと、そう上手くはいかないんだろうけど、続けばいいなって思うんだ。
猫の目 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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