7 アレン公子
クレスティア帝国の後宮は、小国であった先王の時代よりかなり小さくなっていた。セルヴィウスは浪費を重ねた先王の後宮を見直し、調度や食事は落ち着いたものになった。
けれどセシルの月の宮は常にセルヴィウスの贈り物で華やいでいた。ほとんどの後宮の住民が、皇帝が正妃の元を訪れた後でもセシルの寝所に通っていることを知っていたが、それに異を唱えられる者は一人としていなかった。
だから後宮に大勢の客を招いて宴が開かれるのは、先王の時代以来だった。そしてそこに皇帝の掌中の珠であるセシルが出席するというのは、重臣すら驚かせた。
セルヴィウスは支度の整ったセシルと対面してほほえんだ。
「セシル、よく似合う」
噂の渦中にあるセシルは、朝から医師の診察を受け、夕方にようやくドレスや装飾品を身につけさせられた。
セルヴィウスは一度セシルの手のひらに唇を寄せて目を閉じると、セシルを抱いて立ち上がる。
「参ろうか」
空には夜との境界が見えていた。まぶしいばかりの太陽が退場して、東の空に月が姿を現そうとしていた。
客たちはすでに半刻前から席につき、皇帝とセシルの姿が見えるときを今か今かと待ち構えていた。
そしてその時はやって来た。天幕から歩み出た皇帝は、彼が好んで身に着ける銀糸で縫い取りのされた黒の長衣姿だった。
そして彼らの前に初めて姿を見せた月の姫宮は、皇帝と対照的に、金糸で刺繍のちりばめられた真っ白なドレスをまとっていた。
月灯りのような琥珀色の瞳とほんのりと色づいた唇。ゆるやかに波打って背に流れる金髪は、それ自体が金の粒を産むように光をはらむ。
口さがない噂を楽しんでいた者さえ、しばし言葉を失った。セシルとセルヴィウスは兄妹ではない。だが彼女は月にたとえられるように、夜のような皇帝の対にふさわしいいでたちだった。
セルヴィウスは来客に視線をめぐらせると、来客より一段高い、花びらの敷き詰められた長椅子にそっとセシルを下ろす。そして自らはその隣、セシルよりわずかに高い黒曜石の装飾のされた皇帝の席に腰を下ろした。
セルヴィウスは決して張り上げてはいないのに、夜の中から響いて来るような声で告げた。
「よく来てくれた」
彼がセシルのことに触れた言葉は短かったが、客人たちを制するような力があった。
「紹介しよう。わが妹のセシルだ。こういった場は不慣れゆえ、不作法は許せ」
それだけ告げると、セルヴィウスは酒杯を掲げる。
「……月の国クレスティアに、幸多からんことを」
宵闇に人々の寿ぎの言葉が続いて、宴が始まった。
楽師が音楽を奏で、舞姫が踊る。女官たちが客人たちに酌をして、食事を勧めた。
今宵の宴には正妃メティスも装って出席している。またそれに劣らない美しさの女官たちが薄い裾をひらりと動かしながら行きかう。皇宮で開かれる宴とは違う、なまめかしい色があった。
けれど訪れた人々の目を引き付けてやまなかったのは、ひとえに皇帝とその隣の妹姫だった。
普段めったに表情を変えることがないセルヴィウスが、セシルの耳元で何事かささやいて、たびたび喉を鳴らすように笑う。
またセルヴィウスは赤く小さな果実を二つつまみ、必ず自ら一つ口にしてから、もう一つをセシルの口に運ぶ。セシルの唇にわずかに赤い果汁がにじむと、くすぐるように指でそれをぬぐう。
客人たちは、まるで秘め事を覗き見ているような気分にさせられた。実際、普段なら決して見ることができない光景があった。
一方でセシルは少しやつれた風で無言だった。皇帝を拒んでいるようにも見えるのが、人々の想像をかきたてた。
あらかじめ固く命じられていたとおり、セシルに直接声をかける者はいなかった。セシルに気に入られるというのは、皇帝の歓心を得られるより怒りを買う可能性が高い。諸侯は子弟に、決して姫宮に無礼を申し上げてはならないと言い聞かせていた。
けれど子弟たちはまだ若かった。儚げでありながら危うい空気をまとうセシルの姿を、つい熱を帯びたまなざしでみつめてしまう。
セルヴィウスはそういったぶしつけな視線に気づいていたが、あえてそのままにしていた。代わりに諸侯の半歩後ろで皇帝に謝辞を述べる子弟を、一人一人検分するように眺めていた。
セルヴィウスはセシルの様子にも意識を向けていた。セシルは相変わらず無言で、年頃の子弟たちに興味を示す素振りもない。
宴の開始から一刻が経ち、セシルが小さく咳をした。
セルヴィウスはセシルの頬に手を当てて、その顔をのぞきこむ。セシルは春になってから血混じりの咳をすることはなくなったものの、未だに外気に触れることはめったにない。
セルヴィウスは労わるように優しく言う。
「冷えただろう。そろそろ湯で手足を温めねばな」
セルヴィウスが頬に添えた手に、セシルは微かに身を寄せた。甘えるようなその仕草に、セルヴィウスは庇護欲とかすかな熱を同時に抱いた。
セシルは疲れている。早く休ませてやらなければと思いながらセルヴィウスが苦笑した、そのとき。
ずっと伏せられていたセシルの目が、ふっと動いた。ここのところセルヴィウスを追う以外動かなかった目が、何かをみつけたようだった。
セルヴィウスがその視線の先を追うと、一人の青年がいた。
彼は諸侯の子弟としては少し年かさで、二十代の後半だった。それもそのはずで、彼はセルヴィウスと同じ十五歳のときから父親に代わって一国を治めてきた君主だった。今日も父親に連れられてではなく、自らが従者を引き連れてやってきた。
首の後ろで結った長い金髪、どちらかといえば中性的な面立ち。けれどセルヴィウスと目が合っても、多くの青年子弟がするように恐れをはらんだ表情を浮かべることなく、優雅で見事な微笑を返してみせる。
セルヴィウスはセシルにそっと問いかける。
「あの若者が気になるか?」
セシルの目はその青年をじっとみつめていた。セルヴィウスの問いに、セシルは首を横に振る。
否定さえしなかったセシルが反応を返した。セルヴィウスは哀しい喜びを感じながら、よい、と言葉を続ける。
「あれはル・シッド公国のアレン公子。メティスに似ているだろう。従兄にあたるのだ」
「義姉上の」
ぽつりとつぶやいたセシルに、セルヴィウスはうなずく。
「そうだ。この中でもっとも遠い国の、もっとも私の意のままにならぬ公子だ……」
セシルはようやく、亡霊以外の生きた男を瞳に映した。
セルヴィウスは喜びと苦しみの狭間で、その事実をかみしめた。
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