8 密約
春の雨が降る窓の外を、セルヴィウスは考え事に沈みながらみつめていた。
宴の二日目は、天候が乱れたために休止とした。そもそも肝心のセシルも、体調が優れず眠りの淵についている。
セルヴィウスは表面上、朝から淡々と政務をこなした。彼は自ら剣を取って戦地に赴き、敵兵に囲まれながら単騎乗り出して領土交渉をした豪胆さを持ちながら、普段は極めて穏やかで、必要とあらば夜通し雑務をこなす、良き君主だった。
だがけむる春の雨を見ながら、ふとセシルを腕に包んで眠る穏やかなひとときを思い出した。たとえ抱くことができなくとも、ただ今夜もセシルの隣で眠りたいと願った。
セルヴィウスがいたずらに夜の訪れを待っていた、そんなとき。
女官の言葉がセルヴィウスの意識の弦を弾く。
「陛下、ル・シッド公国のアレン公子が参りました」
もしかしたらセシルが好意を抱いているかもしれない男だと思うと、嫉妬に胸が焦げそうだった。
セルヴィウスは不愉快を押し殺して命じる。
「……通せ」
その言葉に女官は下がっていって、まもなく目的の人物を連れてきた。
ル・シッド公国は近隣に比べてめざましい発展を遂げている国だが、アレンはそれほど華美を好まない。長身に馴染む深緑色のサーコートをまとい、金髪をすっきりと首の後ろで結っているだけで、貴公子然として宮中で映えていた。
アレンはうやうやしく一礼すると、朗らかにあいさつの口上を述べた。
「皇帝陛下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
少年の頃、セルヴィウスは奴隷の母から生まれたゆえに王子としても扱われていなかったところ、乳母の手配でル・シッド公国に留学して学を得た。そのときから既にル・シッド公国の第一公子として将来を約束されていたのがアレンだ。
今、セルヴィウスは圧倒的な権威を持つクレスティア帝国の皇帝だが、ル・シッド公国とアレンには少年の頃の借りもあり、権力だけですべてを左右することはできない相手だった。
アレンは決して無礼にはならない程度に言葉を投げかける。
「皇后陛下にもお会いしましたが、気苦労が絶えないようで」
セルヴィウスとアレンは、個人的に仲も悪い。正妃メティスはアレンの元婚約者だ。あの賢明で美しい正妃のことをこの公子が憎からず思っていたことは、セルヴィウスも知っていた。
セルヴィウスはうっすらと笑みを浮かべて嫌味を言う。
「独り身のそなたよりは悩みが多かろうな」
正直なところ、セルヴィウスは今回の宴にアレンを出席させたくはなかった。アレンは借りがある上に、扱いやすくない人物だった。領土を拡大しようという野心はないが、商才に長けており、クレスティアに従属するより、利用して国を盛り立てていこうと狙っていた。
ただ、もしセシルが目を留めるのならアレンだろうとも思っていた。メティスに通じる美貌、そしてもう一つ、セシル本人に通じる点があった。
窓の外の春の雨を見やって、アレンは何気なく告げる。
「珍しい雨ですね」
アレンはちらとセルヴィウスを下からうかがった。
「「雨がよく降る国には良き精霊がいる」……と、聞いたことがあります」
セルヴィウスは軽く手を上げ、女官たちを下がらせた。
セルヴィウスは向かい側の椅子を勧めると、アレンが腰を下ろすのを見計らって声をかける。
「何か言いたいことがあるようだ。聞こう」
セルヴィウスの言葉に、アレンは一度目を伏せた。
「宴の最中、姫宮をみつめていた……陛下によく似た影にはお気づきですか?」
セルヴィウスはうなずいて答える。
「精霊とはそういうものらしい。誰かの姿を借りると聞く」
「では、お気づきで」
ル・シッド公国では、「精霊」というものが身近な存在だった。クレスティア帝国にはそのような名前すらなく、「魔」と呼ばれるだけだ。
言葉を止めて気がかりそうに眉を寄せるアレンを見て、セルヴィウスは思う。
アレンはセシルと同じものが見える。それだけでも、セシルの心に近づく可能性を持っている気がした。
セルヴィウスは心を決めて口を開く。
「アレン公子」
セルヴィウスの呼びかけに、アレンは目を上げる。
「私はセシルの降嫁先を探している」
アレンはセルヴィウスの提案に、それほど驚くさまを見せなかった。
アレンはくすっと優雅に微笑んでおどけてみせる。
「ル・シッド公国はいかがですか? 暖かく、過ごしやすい土地ですよ」
「私もそう思う。……ただし条件がある」
セルヴィウスはひたとアレンを見据える。
「契約をしよう、公子。そなたにとっても利となる条件を用意してある」
アレンは笑みを消してセルヴィウスを見返す。
女官の気配も完全に消えたのを確認してから、セルヴィウスは口を開いた。
「一つ目。セシルをそなたの正妃とすること」
「クレスティア帝国の皇妹殿下を、それ以外の地位に迎えることは無礼でしょう」
うなずいたアレンに、セルヴィウスは続ける。
「二つ目。そなたに男児がさずからなければ、私と正妃の子を送り、ル・シッド公国の正当な世継ぎとして認めよう」
アレンは少しその言葉をはかりかねたようだった。一拍考えてセルヴィウスに問う。
「月の姫宮はまだ二十三。御子がさずかる可能性も大きいのでは?」
「三つ目。最後だ」
セルヴィウスはアレンの疑問を遮るように言葉を続けた。
「セシルに懐妊の兆しがあった場合は、速やかにクレスティアに里下がりをさせること」
アレンはセルヴィウスの言葉の調子に違和感を抱いたようで、探るように問いを返す。
「姫宮の御身には決して大事がないようはからうつもりですが……。クレスティアからの医師団を受け入れる、という条件では?」
「セシルの体で出産は無理だ」
ふいにアレンはぎくっとして息を呑む。
「……まさか」
セルヴィウスは彼が戦場でそうであったように、少しも動揺を見せずに冷酷な判断を口にした。
「知っているか? クレスティアには母体に害とならない堕胎方法がたくさんある」
「陛下!」
「セシルに害なすものは子であっても要らぬ。私はセシルには健やかに、永く生きてほしい」
アレンは彼らしくもなく、しばらく言葉を失ったようだった。
子をもうけるのは王侯貴族の務めと考えるのが常識だ。だがセルヴィウスはそれを覆してでも、妹姫の平穏を願っている。
セルヴィウスは淡々とアレンに告げる。
「無論ル・シッド公国とはこれまで以上の交易を行おう。協定の準備も整っている」
セルヴィウスは彼が重臣たちに恐れられている、凍るように冷静な目でアレンを見た。
「私はセシルの降嫁先を得る。そなたはクレスティアとの交易と世継ぎを得る。互いに利となる条件ではないか?」
アレンはその目をもう見ていることができず、苦い思いで目を伏せた。
アレンは首を横に振りながら、まだ動揺を抑えきれずに言う。
「なぜ陛下ご自身が月の姫宮を正妃にお迎えしなかったのか、我々は不思議に思っていましたが……」
セルヴィウスが少年の頃、ル・シッド公国に留学していたときから、アレンはセルヴィウスを恐れていた。
セルヴィウスは、やって来たときは文字も書けない野生児だったのに、たった数年で見違えるような貴公子に成長した。彼は奴隷の子と侮られることなど気にも留めなかった。ただ淡々と貪欲に教えを乞い、努力を重ね、甘やかされた貴族の子弟たちをあっさりと追い抜いていった。
けれどアレンは、そんな不気味なほど有能な少年と向き合ったとき、その目に冷ややかさと共に宿る光に気付いてしまった。
昨日の出来事のようにアレンが覚えていることがある。まだル・シッド公国にやって来て間もない頃、ひどい熱病に侵され、医師に匙を投げられた夜でも、セルヴィウスは今と同じ目をしていた。
俺は死なないから大丈夫だと、彼は言った。落ち着けよとアレンがなだめると、セルヴィウスは少し黙った。
それからセルヴィウスはぽつりと言ったのだ。お前も妹がいたな。妹は守りたいものだなと。
今あのときとは違う感慨を持って、アレンは言う。
「陛下はそれほどまでに、妹君を想われるのですね」
王侯貴族において母の違う姉妹など、むしろ憎しみの対象だ。幸いアレンは妹と仲がいいが、それでも妹の嫁いだその先にまで思いを馳せたりはしない。
セルヴィウスはそれに今までで一番たやすそうにうなずいた。
「……ああ。たった一つの宝だ」
一瞬だけ、セルヴィウスは少年の頃のように無邪気な光を目に宿して、微笑んだ。
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