月の後宮～ある皇帝と寵姫の夜想譚～

５ 丘の上で見た景色

　早朝、セシルはゆっくり寝かせておくようにと言伝て、セルヴィウスが寝所から去っていった。

　それからまもなくして女官がそっと入って来て、セシルの枕元に何かを並べていった。

　セシルが少し顔を横に向けたなら、そこに真新しいコートとブーツをみつけただろう。セルヴィウスがこれらをセシルに贈るときは、庭に出ていいという許しの意味を持つ。いつもならセシルははしゃいで、朝食も手につかないほどだった。

　けれど昼近くになっても、セシルは身を起こす気配がない。女官たちは不安になり、断りを入れて帳の中に踏み込む。

「姫宮……！」

　そこで血を吐いて意識をなくしているセシルをみつけて、女官たちは真っ青になった。

　すぐさま医師が呼ばれ、同時に後宮中に厳戒態勢が敷かれた。

　昨夜は女官も人払いされていて、皇帝以外何者も寝所に立ち入っていなかった。何度も自分を傷つけたセシルからは、神経質なほど危険な物を遠ざけられていた。

　セシルが毒を盛られた五年前のことが皆の頭をよぎった。誰もが、自らに皇帝の怒りが降りかからないことを祈った。

　知らせを受けて、セルヴィウスは半刻もしない内にやって来た。

「セシルは……！」

　そのときにはセシルの意識は戻っていた。目を開いているセシルを見て、セルヴィウスは一瞬だけ安堵の表情を見せる。

　けれど次の瞬間、彼も異変に気付いた。

　こん、とセシルは小さな咳をする。口の端に殴られたように赤黒い血がにじむ。

　それなのに、セシルは無表情だった。ひどく痛むはずなのに顔をしかめることもせず、目には感情の色もなく。

　セルヴィウスはセシルの頬に触れて顔をのぞきこむ。

「セシル……！　どうした、どこが痛い？　教えてくれ」

　セシルは何も答えず、代わりに医師が口を挟んだ。

「姫宮は咳のたびに血を吐いてしまわれるのです」

　異変は吐血より、それを表情の色なく繰り返すセシルだった。

　セルヴィウスのみつめる先で、セシルの目からはとめどなく涙が流れる。

　言葉をなくしているセルヴィウスに、医師が言いにくそうに告げる。

「お心も痛んでおられると……」

　セルヴィウスはかき抱くようにセシルを引き寄せて、その背をさすった。

　その日から、セシルは言葉を口にしなくなった。言葉の代わりに、血混じりの咳と涙がこぼれていく。

　セルヴィウスは一日の多くの時間をセシルのところで過ごして、繰り返し問いかけた。

「セシル、メティスは後宮に帰した。望むなら引き合わせる」

　セシルが壊れたように泣くので、セルヴィウスは皇妃も呼び寄せてみせた。

「それとも私の行為が怖かったか。許せ、そなたを傷つけるつもりはなかった」

　セルヴィウスは原因を探ろうとしたが、言葉を話さないセシルからは何の答えも引き出すことはできなかった。

「望みを口にしてくれ。叶えてみせる。私はそなたの兄で、皇帝だ」

　胃腸も弱っているからか、口元にセシルの好物をあてがって飲み込ませても、痩せていく一方だった。ひどい熱が出ては、今夜を越えられるかどうかという危うい日が続いた。

　少しだけ安定している日は、セルヴィウスが抱き上げてセシルに庭を見せた。

　セルヴィウスはセシルの顔をのぞきこんで問う。

「もう少し暖かくなったら、敷物と果物を用意して花見の宴を開こう。何の花が良い？」

　セシルは答えず、周囲にはセルヴィウスの独り言のように聞こえた。

　セシルは元々病弱さゆえに心も弱ることが多かったが、今度は医師たちも手の打ちようがないほど心を閉ざしてしまった。

　セルヴィウスだけはセシルの回復を疑わず、出来る限りの時間を取ってセシルに話しかけ続けた。

　セシルの言葉がなくとも、聞こえているのを信じて言葉をかけて労わる。

「暖かくしなければな。さあ、ゆっくりお休み」

　愛妾を後宮入りさせて陛下の心をお慰めしようと提案する臣下もいた。セルヴィウスはそんな臣下たちの言葉を一蹴して、反応のないセシルの体を夜ごとさすって共に眠った。

　ある吹雪の夜のことだった。

　高熱が下がらないセシルを、セルヴィウスはベッドの傍らで食い入るようにみつめていた。

　女官たちは畏れながらセルヴィウスをいさめようとした。

「お休みください、陛下。私どもが寝ずにお守りしております」

　けれど誰が声をかけても、セルヴィウスは夜が深くなる頃も椅子から立たずにいた。

　セルヴィウスには窓を叩く風の音がセシルの細い呼吸をかき消すように聞こえていて、動けなかった。

　セシルの額は火が付いたように熱いのに、手足は冷え切っていた。医師に血がうまく巡っていないと言われて、セルヴィウスは従者がするようにセシルの手足をもむ。

　今夜が峠だという言葉は何度も聞いていた。だがセルヴィウスは、今夜こそがそれのような気がしてならなかった。

　従者たちは恐れてほとんど寝所に近づけなかった。政務を執るときは人とは思えないほど冷静な皇帝が、セシルに関してだけは狂人のようになるのを知っていた。

　一つだけの灯りの中、閉ざされた暗闇の世界で、セルヴィウスは静かに告げる。

「セシル。離れることは許さぬ」

　セシルの手足をさすりながらセルヴィウスは低く言い放つ。

「……そちらに行くとしたら、私も連れてゆけ」

　誰も立ち入れないはずの寝所。ベッドの向こう側に、一人の青年が立っていた。

　黒髪で縁取られた輪郭はほとんど闇に溶けている。蒼い瞳はセシルにほほえみかけて、細工物のような口元は今にも言葉をこぼしそうだった。

　セルヴィウスは自分に生き写しの青年を、視線だけで人が殺せそうな目でにらんだ。

「それを殺して、私だけがまたそなたの兄となろう」

　静寂と殺意が入り混じる世界は、古い伝説で死者がたどり着く底の国のように見えた。

「私とて、貴様と同じ世界から生まれたのだ。セシルと共にいられるなら、またその住民になっても構わない」

　セルヴィウスが青年からの答えを待っていると、小さな声が彼の耳に届いた。

「セシル？」

　セルヴィウスははっとしてセシルを覗き込むと、もう一度とこいねがうようにして問う。

　セルヴィウスが待ち望んだ声を放ったのは確かにセシルだった。セシルは嵐にかき消されてしまいそうな声で告げる。

「あにうえ……」

　今にも途切れそうな呼吸を繰り返しながら、セシルが呼んでいる。

　兄上、兄上。何かを探すように、シーツの上で痩せた指が動く。

　自分を探しているのだ。セルヴィウスがそう思ったとき、彼の体内で小さな光がひらめいた。

　瞬間、セルヴィウスは今まで立ったことがない丘に立っているような、そんな心地がした。

　そこはすべてが見えるわけではない。だが、少しだけ地平が開けている。

　何度体に触れようとしてもつかめなかったセシルの心が、じわりとした実感となって迫ってきた。

　セルヴィウスは大きく息をついてつぶやく。

「……そうであった」

　セルヴィウスはセシルの額に自らの額を当てて、哀しい思いで彼女の頬にキスをする。

「私は、そなたの兄であったな……」

　窓を叩く風の音は、まだ少しも弱まる気配はない。

　その夜、セルヴィウスはセシルの手足をさすり、今まで考えることがなかったことに初めて思いを馳せた。