4 即位の夜

 セシルに戯れをしかける夜は、セルヴィウスが怒っているときだと知っていた。

 セルヴィウスは寝台に横たえたセシルに口移しで蜜酒を含ませて、セシルに問う。

「セシル……触れて、よいか」

 それは何度か問われた言葉だった。セルヴィウスはその熱に駆られたとしても、決して一方的にセシルの身を奪うことはしなかった。

 そしてセシルは酔いで意識がぐらつきながらも、セルヴィウスを拒む。

「いや……」

 セシルは自分がセルヴィウスの寵を受ける理由が理解できない。

 セルヴィウスは今や二十五歳の若く艶やかな皇帝で、求めなくとも娘たちが身を差し出す。子どもの頃のような小さな世界ならば年の近い妹が可愛かったに違いないが、もうそんな世界に彼はいない。

 セシルの拒絶に、セルヴィウスは切ないような声で言った。

「頼む、セシル。私には、そなただけなのだ……」

 息がつまるくらいに抱きしめられて、ふっとセシルの意識は濁っていた。

 セシルは夢を見ていた。十年前、セルヴィウスが即位し、正妃メティスをめとったときのことだ。

 夜、セシルは部屋を抜け出して、庭の泉をのぞき込んでいた。

 女官たちは即位と結婚の儀が盛大に行われたと言っていたが、後宮の最奥は静けさで満ちていて、まるでそんな気配はなかった。

 静まり返った暗闇、誰もいない夜なら、セシルは怖くなかった。

 この頃確かに、セシルはセルヴィウスが好きだった。

 自慢の兄上だった。強くて賢くて、病弱な自分をいつも守ってくれた。

 でもまもなく離れ離れになると思っていた。そろそろ嫁ぐ年齢で、皇家の血をひく子どもを産むのを求められる。

 自分の体はそれに耐えられない。じきに命を失うだろう。そういう確信があった。

 ゆらゆら揺れる水面の下に、なじみ深い世界が見えていた。

 踊る人々、陽気な音楽。中心に、セルヴィウスそっくりの黒髪の青年がいた。

 ……兄上がそちらにいるなら、もう、こちらにいなくてもいいかしら。

 セシルが水面に手を差し伸べて、青年の姿を抱きしめようとしたとき、後ろから目が覆われた。

 宵闇から伸びた手が、セシルの世界を暗転させた。

 婚儀の夜。セルヴィウスが閨にひきずりこんだのは、皇妃ではなくセシルだった。

 いつも温かくセシルの頬を包んでくれた手が、セシルを生まれたままの姿にしていくのが、セシルは信じられなかった。

 どうしてと、セシルは混乱のままに泣きじゃくって、セルヴィウスを戸惑わせた。

 セルヴィウスはどうにか一線を越える前に行為をやめてくれたが、そのときの恐怖は今も残っている。

「……セシル」

 揺り起こされて、セシルはまだ現実と夢の区別がつかなかった。

 普段のセシルなら考えられないほどの激しさで、セシルは悲鳴を上げる。

「嫌ぁ!」

 涙をあふれさせながら、セシルは抵抗する。

「セシル?」

「怖い……怖い!」

 自分に価値はない。その思いが幼いときからセシルの心を蝕んでいた。明日もわからない病弱さが、セシルを生者より死者の世界に近づけていた。

「いつからここが怖くなったの。助けて、兄上! そちらに連れてって……!」

「……セシル!」 

 半狂乱になって暴れるセシルを、セルヴィウスが顔色を変えて押さえつける。

「落ち着け! セシル、私を見よ。私はここだ!」

「違う! 兄上は死んだの! もういないの!」

 遠い昔、あの世界をのぞきこんだとき、兄上はあちらにいると思ったのだ。

 ああ、そうだったのと、セシルは戦慄する。

 ずっと違和感があった。この人は、私に触れようとする人は、兄上じゃなかった。 

 そう思った方が、セシルは安心できた。大好きな兄上が、セシルを連れて行ってくれるのを望んだ。

 急に静かになったセシルを、悪夢から目覚めたと思ったのだろう。セルヴィウスは優しくセシルの頬をなでて言う。

「怖い夢を見たのだな。兄上はここだ。そなたの目の前にいる。そうだろう?」

 セルヴィウスはセシルの頬を両手で包んで、額を合わせながら言う。

「すまない。驚かせてしまった。私はそなたの嫌がるようなことはしない」

 セルヴィウスはセシルのまぶたに触れるだけのキスをして、安心させるように笑ってみせた。

 セルヴィウスは自分の体を下にしてセシルを腕で包むと、セシルの頭を胸に抱く。

「お休み。次は良い夢が見られるだろう。目覚めるときにはそなたが喜ぶものを、用意しておこう」

 二人はしばらくそうして体を重ねて横たわっていた。夜の帳の中、静寂が場を支配していた。

 暖炉はまだ火が燃えていた。セルヴィウスは小さくつぶやく。

「セシル、愛している」

 けれどセルヴィウスは苦しげに眉を寄せて、自問のように告げた。

「それに嘘偽りはないのに、そなたには怖いのか? どう言えば伝わるのだろう? そなたを怖がらせずに、思いを伝えるには……」

 虚ろな目で脱力したセシルを抱きしめて、セルヴィウスは途方に暮れたようにセシルの背を撫で続けていた。

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