3 待ち人
セシルの月の宮には、皇帝以外がたやすく訪れることはできない。
かつては皇帝の寵愛を受けるセシルに近づこうと、様々な者が訪れていた。けれどそれを決定的に覆したある事件があった。
五年前、セシルが十八歳のとき、野心を持った貴族の姫君が後宮の宴に入りこみ、セシルの食事に毒を盛った。
皇帝は激怒し、正妃以上に高位の貴族だったというのに、彼女もその後ろ盾であった父侯爵も、手足となった従者に至るまで、セルヴィウスが目の前で首をはねさせた。
そのときから、セシルの口に入るのは専属の医師と料理人が知恵を絞ったものだけだ。セシルが身につけるのは糸の一本まで皇帝が手配したものだ。
寵はそのときを機に、越えてはならない線を越えてしまったようだった。
今のセシルは昼の間、セシル付きの女官と医師しか顔を合わせることはなかった。
夜、暖炉の前でうたたねをしていたセシルに、しきりに女官がベッドに入るよう勧める。
「姫宮、お休みください」
セシルは子どもがぐずるように首を横に振る。
「もう少しだけ……」
そんなセシルの様子に、女官たちはほほえましそうに顔を見合わせた。皇帝の訪れを待っていると思ったらしかった。
セシルは眠気の狭間で待ち人に思いを馳せる。
(今日は、いらっしゃるのかしら)
目をこすりながら待ち続けたセシルには、それは夜が明けるほどの長い時間に思えた。
願いは叶うときもあればそうでないときも多い。だが幸い、今日の願いはその人に届いたようだった。
女官はセシルに近づいて、セシルが待ち望んだ言葉を告げる。
「姫宮、お待ちかねの方がいらっしゃいましたよ」
「あ……」
目を輝かせたセシルに、女官は悪戯っぽく言葉を続ける。
「姫宮はすでにお休みですと申し上げて、お帰りいただきましょうか」
「そんな!」
後宮の住民が皇帝を追い返すことなどできない。女官の言葉はもちろん冗談だったが、半分以上眠りの中にあったセシルはうろたえた。
「はちみつ酒をお出しして、お待ちいただいてください。すぐに向かいます」
お酒が苦手なセシルが唯一飲むことのできる甘い蜜酒は、セシルの精一杯のもてなしの心だった。
セシルは慌ただしく支度を整えて、居室を二つ渡った先にある客室、「歌月の間」に向かう。
セシルが待ちわびた来訪者はそこにいた。
正妃メティスはセシルが入って来たのをみとめると、すぐに席を立って礼を取った。
メティスはセルヴィウスの乳母の子であり、下級貴族の出だ。彼女は生まれながらの皇族であるセシルとは立場が違うと、皇后となった後もセシルに臣下の礼を取っていた。
豪奢な金の巻き毛と青い瞳の、宝石細工のような華々しい容姿だが、賢明でがまん強い娘だと、皇帝は初めてセシルに彼女を引き合わせたときに告げた。
後宮で唯一、セシルと他愛ない話ができる相手。セシルは本当の姉よりこの皇后と親しかった。
けれどセシルが言葉に迷ったのは、傍らにセルヴィウスの姿もあったことだった。
「陛下?」
セシルがそっと問いかけると、セルヴィウスは事も無げに告げる。
「メティスは、そなたに大切な話があるそうだ」
その波の無い口調には、嫌な予感がしていた。いつものように、メティスと気の置けない話をする雰囲気ではない。
セシルはまだ礼を取ったままのメティスに声をかける。
「義姉上。私に礼を取る必要はありません。どうぞ、おかけください」
椅子を勧めると、メティスはようやく顔を上げる。
いいえとメティスはセシルの勧めに言葉を返す。首を傾げたセシルに、メティスはその場で膝をついたまま言った。
「……今日は姫宮に、お別れを申し上げにきたのです」
瞬間、セシルは何を耳にしたかわからなかった。とっさに言葉もなく、ただメティスを見返してしまう。
メティスは青い目で懐かしむようにセシルを見上げながら、もう終わったことを告げるように続けた。
「私は後宮を退き、生家に戻ります。もう姫宮にお会いすることはなくなると……」
「お、お待ちを。何を仰います、義姉上」
過ぎ去った事実のような別れの言葉が空恐ろしくなって、セシルは慌てて言葉を挟む。
「義姉上は皇后陛下でいらっしゃいます。皇太子殿下の母君でもあらせられます。後宮の主の」
「後宮の主は、月の姫宮でございます」
後宮の住民は、セシルのことをそう呼んで頭を垂れる。メティスもためらいなくその名でセシルを呼んだ。
セシルは首を横に振ってメティスを留めようとした。
「お言葉をはかりかねます。お考え直しください、義姉上。陛下ももちろんそのようなこと、お許しには……」
セシルはセルヴィウスを振り向く。
セルヴィウスは慌てる様もなく、蜜酒の入ったグラスを片手に、ゆるりと坐したままだった。
形の良い唇が、蜜酒を一口含む。ちらりとセシルを見やった目は、夜の帳の中で向けられたときのように濡れていた。
セルヴィウスはセシルのまなざしに、睦言のような一言で答えた。
「私はセシルが側にいればそれでよい」
皇后を去らせるのは彼の意思なのだ。それに気づいて、セシルはいっぺんに血の気が引く。
セシルは膝の上で震える手を握りしめて言う。
「私は後宮の主などではありません。臥せっているときの方が多い私などが……一体何をしてきたというのです」
首を横に振って、セシルは声を振り絞る。
「陛下の傍らで政務が執れますか。陛下の御子をお育てできますか。何一つできないでしょう?」
セシルの目がじわりとにじむ。セルヴィウスは眉を寄せて、グラスをテーブルに置いた。
セルヴィウスはセシルの哀しみをなだめるように制する。
「セシル、よせ」
「お留まりください。陛下にもクレスティアにも、義姉上が必要です。月など、陛下には必要……」
言いかけたセシルの隣で、セルヴィウスが動いた。
セルヴィウスは手を伸ばしてセシルの口を覆うと、顎をつかんで自分の方を向かせる。
セルヴィウスは光のない目でセシルを見据えて言う。
「月のない夜などただの暗闇だ」
静かな口調の下に激しい意思を秘めて、セルヴィウスはセシルに告げる。
「まったくの闇なのだ。そなたはそれを理解した方がよい」
セシルはセルヴィウスの瞳に食らわれるような錯覚を抱いた。一瞬、セルヴィウスを恐れるような感情を抱く。
けれどセシルはどうにか体を引いてセルヴィウスの手から逃れると、椅子から降りる。
驚くメティスの前で手を床につけて、セシルはセルヴィウスに頭を下げる。
「お願いです、陛下。義姉上にどんな落ち度があるというのですか。どうか」
「姫宮、おやめください!」
額を床につけたセシルを、メティスが悲鳴のような声と共に助け起こそうとする。
セルヴィウスがそれに口を閉ざしたのは一瞬で、次の瞬間には彼は椅子を立っていた。
セルヴィウスはセシルに腕を回して、低い声音で告げる。
「……だからこそ、もう近づけぬことに決めたのだ」
セルヴィウスはセシルを腕に抱いて立ち上がる。
冷えた目でメティスを見下ろしながら、セルヴィウスは波のない声音で告げた。
「そなたは賢い娘だ。自らの落ち度もわかっておるだろう」
「はい」
メティスは何もかもを理解したように、一言受け答えただけだった。
セシルを抱いたまま、セルヴィウスはメティスに背を向ける。
「十年間、よくやった。それに免じて罪は問うまい。明朝、去れ」
何も言わずに頭を下げるメティスを置いて、セルヴィウスは寝室の方に足を向ける。女官たちが扉を開いて、セルヴィウスとセシルを寝室に招く。
セシルは大粒の涙を浮かべて、悲鳴のような声を上げる。
「義姉上……義姉上!」
セシルが伸ばした手は空を切って、メティスの姿は扉の向こうに消えた。
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