2 月の宮
クレスティア帝国の後宮の最奥、「月の宮」。そこにセシルの住まいがある。
後宮には妃と成人していない皇族が住むが、二十三歳の皇妹セシルは、とうに成人していながらここに住み続けていた。
セルヴィウスとセシルは本来、従兄妹に当たる。セルヴィウスの父王の妃は、父王の兄に当たる前王の子を産んでいた。その子がセシルだった。
セルヴィウスは幼いときから二歳年下のセシルを殊更可愛がり、片時も側から離そうとしなかった。
けれどセルヴィウスは、自らと婚姻することもできるセシルを決して妃に迎えることもなかった。
セシルは病弱で、とても後宮の外では生きられないと、セルヴィウスは言う。
セルヴィウスは正妃のところにいても、また政務を行っていたとしても、セシル付きの従者はすぐに目通りを許す。もしセシルに変わったことがあれば、たとえ誰が引き止めたとしてもその日のうちに月の宮に向かった。
そんなセシルの存在に、一番疑問を抱いていたのがセシル自身だった。
考えても答えは出ないとわかっていながら、セシルは自問する。
(兄上は私をどうなさりたいのかしら……)
セルヴィウスは姉妹姫の縁談から、完全にセシルを除外していた。そして彼はセシルに口づけることはあっても、最後の一線を越えることはなかった。
セシルを妹と呼び、愛をささやくセルヴィウスの心は、セシルには遠い。
妃でもなく、ほとんど臥せっている病人の身で、セルヴィウスに守られているのがただもどかしかった。
青白い顔をしてベッドに沈んでいたセシルは、女官の声にまどろみから目覚めた。
「姫宮、吹雪がやみましたよ」
セシルは目を輝かせて女官の袖を引く。
「外に出てもいい?」
「それはお許しが出ておりません。けれど庭は御覧になれますよ。窓辺までお出でになりますか?」
「行く!」
はしゃいだ声を上げて、セシルは勢いよく起き上がった。
力が入らずにベッドに倒れこみかけたセシルを、女官が支える。
女官が三人がかりで、上衣と手袋、靴下をセシルにまとわせる。その時間もセシルには惜しかった。
セシルは大柄な女官がセシルを抱いて運ぶ前に、ぱっと飛び出す。
「姫宮!」
呼び止める女官の声を後ろに、セシルは靴下のまま隣室に駆けていく。
セルヴィウスはめったに部屋から出られないセシルが庭を見ることができるよう、後宮の作りを変えてくれた。
セシルの部屋から、後宮で一番広い月の庭が見渡せる。そこに、セルヴィウスはセシルが好きな花を季節ごとに植えさせていた。
セシルが隣室に入ると、壁一面の額縁のような巨大な窓がある。季節のいいときは両開きにして、そのままそこで花見ができるようになっていた。
セシルはそこに広がっていた光景に歓声を上げる。
「わぁ……!」
雪化粧をされた灰色の木立と、スノードロップの小さな黄色の花が、久しぶりの晴れ間の下で息づいていた。
セシルは窓に駆け寄ると、ガラスの窓に頬を寄せるようにして見入る。
覚えのある、吸い込まれるような気持ちに包まれる。氷と同じ温度になっているのも構わず、少しでも外が見えるように窓に手をつく。
白い雪が光を反射してきらきらと輝く。まるで子どもが宝石を散らかしたような光景で、セシルは束の間心を占める悩みを忘れた。
月の庭は、正妃ですらセルヴィウスの許可なく立ち入ることのできない聖域。だから雪の地面には一つとして足跡もついていない。
……けれど、足跡はつかないのに、そこでは人が踊っている。
緑がかった金髪、はちみつ色の肌、琥珀色の瞳。セシルが実の父から譲り受けた特徴を持った者たちが、音楽に乗って。
ステップ、ステップ、回転。そのリズムはクレスティアのものではない。セシルの父と共に今は滅んだ、隣国のダンスだ。
そしてその音楽を奏でているのは、中央でリュートを弾いている長い黒髪の青年。秀麗な面立ちに蒼い瞳が似合う。
セシルはその光景をみつめながら思う。
(兄上にそっくり……)
窓の向こう、池の水面の下、柱の陰。
セシルは生まれてから今まで、歩いて回ることができる宮から出たことがない。けれどその小さな世界の隣には、いつもクレスティアが滅ぼした国の住民が見えた。
決まってその中心には、セルヴィウスに生き写しの青年がいる。
今もガラスの向こうで、青年はセシルをみつめている。彼がふっと微笑むと、セシルは胸が騒いで落ち着かなくなる。
無意識にセシルの手が首の包帯に触れる。首に爪を立てるその瞬間、声が聞こえた。
「……そちらには渡さぬ」
セシルの視界が黒く染まった。
後ろから抱きすくめられて、片手で目を覆われた。もう片方の手でセシルの手は簡単に首から外されて、顎をつかまれる。
セシルは目隠しをされたまま、深く口づけられた。見えない恐怖に上げた悲鳴は、呼吸と共に奪われた。
緊張を解くように背を撫でられる。そのなじみ深い手に、強張っていたセシルの体から力が抜ける。
目隠しを外されて唇を解放されたとき、そこにセルヴィウスがいた。
見上げたセシルに、セルヴィウスはささやく。
「怯えなくともよい。そなたに怒っておらぬ」
セルヴィウスはまだセシルを腕に抱いたまま、窓の外を見やる。
リュートを弾く黒髪の青年と、セルヴィウスの目が合う。青年は勝ち誇るように笑い、セルヴィウスは憎悪をこめて睨みつけた。
黒髪の青年はきびすを返して、亡霊と共に消える。後には、足跡もない雪のじゅうたんだけが残っていた。
セルヴィウスは息を吸って、背後に向けて氷のような叱責を放った。
「なぜこれほど冷えるまで放っておいたのか」
セルヴィウスは振り向きもしなかったが、後ろで控えていた女官たちが一気に緊張する。
「申し訳ございません!」
次々と平伏する女官たちを無視して、セルヴィウスはセシルを抱き上げたまま部屋を横切る。
セシルは慌てて謝罪の言葉を告げる。
「兄上、ごめんなさい。違います。私が勝手に端近に出たから……」
けれどセルヴィウスは首を横に振って、セシルに優しく返した。
「よい。あれはそなたの庭だ。好きなときに楽しめるよう、そなたに与えた」
セルヴィウスは寝室に入って、寝台にセシルを下ろした。
セシルの靴下を脱がしてやりながら、セルヴィウスは苦笑する。
「間に合わなかったか。もう少し早く来たならば、そなたの笑う顔を見ることができたのだが」
気づけばずいぶん時間が経っていたようだった。セルヴィウスが様子を見に来る時間ではないから、女官がセシルのはしゃいでいることを伝えたのだろう。
女官たちは、なぜセルヴィウスの不興を買ったかわからなかっただろう。亡霊たちも、あの青年が見えるのも、セシルとセルヴィウスだけだ。
長く凍り付いた窓に触れていて、セシルの体は確かに冷え切っていた。セルヴィウスはセシルの肩を抱いて、女官から受け取った温めたミルクを飲ませる。
セルヴィウスはあまり飲めないセシルを焦らせることなく見守っていたが、やがてぽつりとつぶやく。
「私は人々を殺めすぎた。あれは私の罪なのだ」
めったに弱音を吐かないセルヴィウスにしては、沈んだ響きの言葉だった。
「一番見せたくないそなたにだけ見えるというのは、皮肉なものよ」
セシルはセルヴィウスの手を取っていた。慰めるように彼の手にキスを落とす。
セルヴィウスは哀しくほほえんでうなずいた。
「……許してくれ。この生き方を取った私を」
セシルの手を取って、セルヴィウスも彼女の指先にキスを落とす。
少しの間、セルヴィウスはセシルの手を頬に当てて目を閉じていた。
窓の外の晴れ間は、まもなく冬の雲に覆われて消えた。
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