第1話 いとこが探偵として優秀すぎました

 小岩井湊というのは、四つ年上の父方の従兄だった。

 父は兄弟で仲が良く、二人は頻繁に会っていた。だからかお互いの父親に連れられていたわたしと湊くんは幼い頃から仲がよく、わたしにとって一番の話し相手は彼だった。陽気でいたずらっぽい彼の性格は終始変わらず、大人しいわたしを妹のように可愛がってくれた。

 しかしわたしが十歳になった年、母が病であっけなく命を奪われてしまった頃からだんだんと父は堕落していった。それは悲しみのせいが大きかったのだろうが、きっとそれだけではなかったんだと思う。母方の家族たちが母の死により父やその家族を猛烈に非難し始めたのだ。詳しいことは知らないけれど、聞いたことがある限りでは、正当でない侮辱のような言葉もあったと思う。しまいに父は一昨年、わたしが中学二年生になった年の春に交通事故で命を落とした。

 わたしは母の弟夫婦、紫省吾さんと加奈子さんに預けられた。二人は調布に住む三十代前半の新婚で、まだ子どもはいなかった。しかしわたしの叔父にあたるこの人こそ最も父たちを毛嫌いしていた人物で、わたしが湊くんに会うことは許されなかった。それ以来、まだ一度も彼と顔を合わせることすらできていないのだ。連絡先の交換についてなんとか許可が下りたときは、わたしは心底から喜んだ。たとえば誕生日とか高校入学とかを彼はメールで祝ってくれたし、わたしはこっそりと彼が送ってくれたメールを眺めて思わず微笑んでいた。

 加奈子さんは優しかったが一方省吾さんの、父さんに対する暴言は酷かった──常軌を逸していたと言っていいくらいに。自分の姉の夫に向かって「あいつのせいで姉さんが死んだ」「人間のクズ」「死んで清々した」そして時に、口にこそ出さなかったけれど、わたしにその矛先を向けていた。普段は普通に接しているのに不意にその視線が冷たくなることがあった。「あいつの娘か」と言わんばかりに鋭く睨みつけてくることすらあったのだ。

 だから、高校進学と同時にわたしは家を出た。一人暮らしでアパート住まい。学校も家も湯島にあり、徒歩通学である。そのことを湊くんに伝えると、「おいおい、ぼくの家と近いじゃないか。それじゃあ遊びに行きたいな。落ち着いたら教えてくれ。そしたら紫のじいさんに頭下げてくるからさ。住所もそん時教えてな」と返事が来た。

 そう、彼はお茶の水に住んでいるのだ。ちょうど湯島の隣町だ。メールで聞いた限りでは、彼は今探偵というものをやっていて、色々と困ったり悩んだりしている人を助けているらしい。その活動拠点がまさにお茶の水で、最近はだいぶお茶の水での評価も広まってきたと言っていた。だからむしろわたしとしては、彼の家になる突然訪問して驚かせたい気持ちもあったが、それは省吾さんの関係で安易にできなかった。叔父は、わたしと湊くんが互いの住所を教え合うのを禁止していたのだ。


 ──高校に入って三ヶ月。ようやく一人の生活に慣れてきたと思っていたのに。わたしが打ったメールは、わたしが打ちたかったものじゃない。会いたいはずだけど、この日には絶対に会いたくない。彼が約束をすっぽかしてくれればいいのにとさえ思った。

 当然だ。もしも彼がのこのことわたしに会いに来て、帰りにわたしを送ると言い出したなら、わたしは全力で止める。たとえ監視の目にさらされ、わたしがどんな目に遭っても、目の前で彼が殺されてしまうのを見たくなかった。しかし臆病なわたしにとって、そんなものは甘い願い事であって、現実に叶うはずもなかったけれど。


 来たる日曜日の六時半、わたしはスカイニュービルの中で涼んでいた。

 東京の夏は酷い猛暑で、例年通り外は熱射病患者がそこかしこで倒れていそうな灼熱だ。昼下がりから、暑さと緊張とで、家にいたら二度と外出する気が起こらなくなるだろうと思ってお茶の水の街をぶらりと歩き、時間を潰した。浪費癖などないのに、やたらと喫茶店に入った。何か食べたわけではなく、コーヒーやココアばかり飲んだ。財布にはあと一回分の食事代しか残っていない。六時を過ぎたくらいからやっと日が落ち着き出したけれど、それでも五分もビル前で立っていればたらりと汗がこめかみを伝った。今は再会の場である喫茶店の前で大人しく待っている。

 ……帰る時のことはあまり考えないようにしていた。

 わたしは前日の一日を、ただ絶望に打ち沈んで過ごしたわけではなかった。色々と考えた。食事後ビルを出た後、例のルートを無視して人通りの多い駅に駆け込み、そこで事情を湊くんに話す。そうすれば、なんとかしてくれるかもしれない。あるいは、監視の目に見つからないようにこっそり紙に書いて渡すとか。しかしわたしには、監視の目を器用にかすめて彼に伝える自信がなかった。

 無駄な一日だった。残念ながらそう思った。結局なにも決心がつかなかったから。

 腕時計が七時を指す一分前になって彼は現れた。といってすぐに認識できたわけではない。ビルの中はけっこう混んでいて、通り過ぎる人たちに紛れて彼が傍に来るまで気が付かなかった。「暑いですね、まったく」突然かけられた陽気な声に驚いて振り返ると、一人の男がニコニコとしてわたしの隣に立っていた。

「あっもしかして──」

「いやはや、お天道様も頑張るね。」

 話を聞かない。

「有給くらい知ってもらいたいもんだ」

 唐突な無機物質詰り。


「久しぶり、冬菜」


 にっこり笑う彼は紛れもなく、三年ぶりに再会した従兄その人だった。

 その時の喜びようをここに全部書き記すことなんてできはしない。まだ問題は何も解決していないにも拘らず、わたしはつい目が潤むほど安心し、久しい彼の肩を掴んだ。

「湊くんだよね?間違いない?」

「うん、間違いない間違いない」

 久しぶり、と言うわたしの声はまだ興奮冷めやらぬ口調だったが、彼のおだやかな雰囲気を見て次第に収まってきた。

 彼は今、探偵業をやっていると聞いていた。探偵といえばもっと鋭い眼光とか、鍛えられた筋肉とかそういった「強くて頭の切れそうな人間」を想像するもの。けれど彼は違う。ひどく温和な表情で微笑みながら、幾分も鋭さのない緩やかな瞳をわたしに向けている。季節外れの長袖灰色ジャケットをまとった身体は細く、捲った袖下にのぞく腕はどちらかというと頼りなく見えてしまう。背はわたしより頭一つ高いくらい。男性の中では小柄なのだろうと思う。顔貌は整っているが、なんとなく童顔でいかにも人畜無害そう。

 そんな容姿が最後に会った時と何の変化もなくて、微笑んでしまった。

「ま、とりあえず入ろうか。ちゃんと腰を据えて話そうや、積もる話なんかをさ」

 彼の言葉に頷き、わたしたちは喫茶店に入っていった。


 喫茶店の中は満席とまでいかないまでも、なかなか混んでいた。初めてくる場所で一応どんなところかだけ調べていたから、けっこう評判の良い店だとは知っていたが。

 わたしと湊くんは窓際の二人席に着いた。流れるように湊くんはコーヒー、わたしはレモンティーを注文する。

「さ、注文も済んだところで」湊くんは胸ポケットからカードを一枚取り出しわたしに差し出した。受け取って見ると、


 小岩井探偵事務所所長 小岩井湊


 と印字されてある。シンプルな文字だけの名刺だ。

「近況報告から始めようか。まずぼくから終わらせて、君のをじっくり聞こう。なに、大した報告なんかできやしない。だいたいそこに書いてある『事務所』なんてありゃしない。詐欺だぜ。従業員もゼロのワンオペ状態で他所の家に居候してる半分ニートみたいなものだ」と最初から最後まで陽気な声で言い切った。

「ニート?」さすがに驚いた。「居候ってまさか……儲かってないの?」

「まあね」と悪びれる風もなく笑った。「高校卒業してから二年間。収入は、あー、気にするな。まあそこそここのお茶の水では評判も出てきてはいるから、心配はいらないさ」

 湊くんは昔からこんな性格だった。あまり悲観的にならないというか、根っからの楽観主義というか。いつでも笑顔でユーモアたっぷりに状況を語る。そして最後にいつも、「心配することはない」と言ってくれるのだ。深い考えなどないのかもしれない。だけどそのおかげで、わたしは何度も心を救われた。

 変わってないな、と思った。湊くんはやっぱり湊くんだった。わたしが大好きだと言って慕っていた湊くんだった。

 気づかれぬよう唇をそっと噛んだ。

「そうそう一応この間」湊くんはいったんコーヒーを口に含んでから、「紫のじいさんの家に行ってきたよ」

「……叔父さんの家に行ってきたの?」

「ああ。君も聞いていると思うが、どうやら離婚することが決まったらしい」

「あっ湊くんも知ってたの?でも離婚を決めたのは一週間くらい前だったけど」

 その頃あの夫婦の仲が悪化してきたのを感じていた。元から良かったという程ではなかったが、特に伯父さんの性格の悪さが原因だったみたいだ。この二人は近いうちに離婚するかもしれないと思ったのも、あの家を離れた理由の一部だった。そしてまさに一週間ほど前、加奈子さんから離婚を切り出したと知らされた。

 「けど、なんで知ってるの?叔父さんとは小岩井家のことをあまり……」

「よくは思ってないよね。ただぼくがあの家に行ったのは、奥さんの方から別の相談があったからなんだ。ほらぼくって一応探偵じゃん?」

(一応って自分で言うのね……)

「加奈子さんからなんの相談?」

「まあ依頼ではないし、ただの顔見知りとして相談を受けただけだ。冬菜に話してもいいか。冬菜も気にならなかったか?あの省吾さんの異常なまでの小岩井家に対する憎しみ。ありゃもはや呪いだよ」

 たしかに、それは疑問に思ったことが何度もあった。姉が嫁いだ先で病死したとして、なんでああまで小岩井家を憎むのか。

「最愛の姉だったからなんだろうとは思う。多分、あれは精神がやられてるからだっていうのが結論だ。だいたい二週間くらい前だったかな。相談を受けた日、あまりこそこそ会いに行ってもなんだからと直接あの家を訪れたんだが、そこで省吾さんに会ってまずそう気がついたよ。精神科医に相談するのは無論だが、あんな目のぎらつかせ方を見れば見当がつく。

 それでつい五日くらい前に、加奈子さんから連絡が来たんだ。『省吾さんはなかなか精神科に行こうとしてくれませんが、わたしはもう離婚すると決めました。相談に乗ってくださりありがとうございました』って感じでね。

 まあ二人ともまだ若いし、大丈夫だろうと気にしてないけど」

 湊くんは「だめだこんな話してもしょうがない!」と頭を振った。そして目を好機に輝かせて、わたしに向けた。

「さっ今度は冬菜の番だぜ。高校はどうなんだ?たしか湯島の女子校だっけか。友達できたか?先生はどうだ?っていうかそもそも女子校って──」

「待って落ち着いて!」慌てて溢れ出てくる質問を止めに入る。「ちゃんと話すから。わたしも話したいことはいっぱいあるもの」

「もちろん聞くさ」湊くんが椅子を寄せた。

「じゃあ──」

 思っていたより話は弾んだ。どうしても例の手紙が脳裏にちらついていたそれまでの時間より遥かに楽しい時間を過ごせたのは、その束の間、緊張が解きほぐされたからだと思う。彼がこの後殺されてしまう。そんな不安と恐怖よりむしろ、楽しげにわたしの話を聞いてくれる彼の様子から感じた嬉しさの方が上回っていた。

「そっか。冬菜もここのところ楽しくやっていたようでよかった」

「ありがとう」

 それからも会話は続いた。

 ──この記録を書いている今振り返ってみても、思う。きっとこの瞬間わたしは、まだ怖かった。何者かわからないが、彼を恨んでいる人物が近くでわたしたちを監視しているという事実。そして、その人物がこの後彼に手を掛けるだろうという予測。でもたしかに、湊くんと久しぶりに会話しているこの時間、わたしは幸福だと感じていた。

 話が一段落ついてちょっとの時間、互いに沈黙が生まれた。もちろん気まずいものではなく、居心地の良いものには違いなかったが。

 この沈黙を破ったのは湊くんだった。ただここで一つ、彼のための弁明として、湊くんは決して狂人の類ではないことを特筆しておこう。なぜならここでの彼の行動は、端から見れば皆目なんのためか見当のつかない、極めて奇妙なものだったからだ。

 まず彼は飲んでいたコーヒーをテーブルに戻し、片手をついた。そしてぐっと身を乗り出してわたしの耳元に口を寄せ、囁くようにしてこう言った。──間違いなく、こう言った。「コーヒーは得意ではないんだ。やっぱし一番は麦茶だよな」

 えっ。思わず小さく声を上げ、席に戻っていく湊くんを唖然として見守ったが、至極当然の反応だろうと思う。そして、何を言っているんだこの人は、と呆れた表情になっていたことだろう。

 ただ、彼の奇行はまだ終わらなかった。今度はさらに派手な演出だった。席に戻ってふぅと息をついたかと思えば、唐突にフォークやナイフの入った容器をひっくり返し、中身をテーブルのぶち撒けたのだ。

 これには周りも反応した。けっこう盛大な音が鳴ったのだ。びっくりした周りの人たちが振り返ってこのテーブルを凝視する。ざっと集まった視線に怯むことなく彼はあははと笑顔を向けていたが、しばらくしてふっと俯いて笑いを引っ込めた。一時的に固まった空気は徐々に解かれ、やがて人々の注意はまた自分のテーブルへと戻っていった。 

 なに、今の……。

 まさか本当に、気が触れてしまったのか否やと彼をぽかんと見つめていると、彼はまるで何事もなかったかのように会計札を手に取りひらひら動かした。

「悪いな冬菜。もう八時を過ぎてる。今日はこの辺で切り上げよう。まだ高一だろ?そんな女の子を夜遅くに一人帰すわけにはいかない。危険だから」

 さ、送るよと彼は立ち上がった。しかし我に返ったわたしは立ち上がらなかった。「危険だから」という一言を聞いて唐突に思い出してしまったのだ、例の帰り道のことを。彼と話せた楽しさと、最後に彼の行った奇行の衝撃で一時忘れかけていた、あの恐怖そのものを、だ。賑やかな喫茶店の雰囲気から隔離されたような感覚がする。黙って俯くわたしの前にそっと手が差し伸べられた。その腕に縋り付くようにして席を立った。

 これからあの道を通ると思うとどうしても、気が昂って泣き出しそうになった。行かないでと叫びたい。まだここにいたいと喚きたい。けれど湊くんはあたかも非情であるかのように淡々とわたしの分まで会計を済ませ、礼なんていらないからなと笑い、店を出ていく。無言でわたしもついていく。

 ビルを出ると、六時に入った時はまだ眩しかった太陽の残光は完全に消え去り、今はとっぷりとした夜闇に電灯が明るく光っている。湊くんが家どっちかな?と尋ねてきた。とっさにわたしは地図を思い出し、あのルートへ進んだ。しばらくそのまま、二人して静かだった。

 なんで彼の手を掴んで駅まで走ろうとしなかったのだろう?なんで彼にこっそり話そうとしなかったのだろう?歩いていると後から後から後悔の念が湧いてくる。わたしは何もしなかった。誰かがこの後湊くんを殺そうとする。何も知らない湊くんはなされるがまま──。

 先に立って歩くわたしは彼に背を向けていたから、きっと彼は気づかない。わたしはすごく、弱い人間だ。誰かに監視されていると思って、走り出せなかった。

 だからわたしは考えた。せめて、彼のことだけでも守りたい。できることは、身代わりになることだけ。わたしのせいでなんて、そんなこと──。

 人気が薄くなってきたのを感じて、ポロリと目から涙がこぼれた。やっぱりわたしは脆弱だ。怖くて仕方がない。できることなら、殺人鬼が現れた瞬間に二人で逃げたい。後ろの彼に見えないよう、正面を向いて俯く。ごめんなさい──逃げて──

「ところで」

 声量が急に大きくなった。人通りのない夜道に響き渡った気がして、びくっと肩を震わせた。

 小岩井さんは構わず、至極陽気な声でこう言った。


「ぼくを呼び出すあのメール。誰が書けって言ったのかな?」


 わたしは立ち止まった。彼も立ち止まる。

 涙も気にせずわたしは振り向いた。「……え?」ひどく間抜けな声が出たと思った。数歩の距離の先で佇む彼の表情は、街灯の逆光になってよく見えなかった。

 微笑んだ、気がする。「あれは君が自発的に書いたものじゃないだろ?誰に脅されて書いたのかなと思ってね。まあどうせ」彼が首を傾げて初めて、怒っているのだとわかった。「ぼくらのことを喫茶店でジロジロ監視していやがった下種野郎に聞けばわかることだろうけど」

 ……なんで?

 なんでわかっているの?

 彼はどすの効いた笑みを口元にたたえながら語りだした。「ぼくがなんで喫茶店を出る前にあんな訳の分からない芝居を打ったかわかるかい?監視人を洗い出すためさ。突然君に向かってこそこそ話し出すターゲットがいれば、監視役は自然と集中する。そこでそのターゲットが突然目立つ行為を始めたら、周りの視線も集まるけれど同時に監視役も注目する。だがこの時、監視役特有の心理がはたらくんだ。マズイ、反応するのが速すぎなかったか?みたいなね。それで一種の挙動不審、この場合、慌てて一度目を逸らしかけてしまうという行為を起こしてしまう。そんな輩があの喫茶店のちょっと離れた席で固くなっていた。

 ぼくは最初から、監視があの場にいるものだと思っていればいたんだよ」

「どっどうして?わたしはただメールを送っただけなのに」

「単純な推理だよ、冬菜。」わたしには穏やかな笑みをくれた。「君がぼくに会いたいと言ってきてくれること自体はおかしくない。いつ顔を合わせたくなるかについて、今頃になってということもなんらおかしなことはない。しかしね。君にあのメールを送らせて、ぼくをあの喫茶店に呼び出した人物は随分滑稽な間違いをしたんだ。それも三つも。

 一つは日程の指定。今日は七月の十三日で、もうすぐ君たちは夏休みに入る。にも拘らず、三年ぶりに会う幼馴染と会おうってのに、明日も学校があるような日曜日を選ぶものか?夏休みが忙しい云々の話ではない。何か特別急な理由がない限り、こんな日を選びはしない。

 二つ目は時間指定だ。夜の七時。女子高生が──しかも中学から上がったばかりの女の子が好んで選ぶ時間ではない。積もる話もあって長引くかも知れないのに絶対選ばないさ、こんな夜遅くに。もし何か用事があってこの時間にせざるを得なかったのなら、なおさらこの日を選んだのがおかしくなる。詳しく知りたいと思ったのなら、別の日を用意するはずだ。

 そもそも、二日前というギリギリになってこの予定を示してくるのも不自然だ。急な依頼ならともかくこういった再会であれば、こんな風に二日後なんて指定をする時にはたいてい何か、君やぼくに関わる事件が起きて急を要するのだと考えるものだ。

 さらに、普通ならこの一文も入れるはずだ。その日でないとだめなんだと。だがなかった。これは、探偵はどうせ暇だから大丈夫だろうという勝手な想像による安心のせいによる乱暴か?メールの文はちゃんとしているし丁寧な印象を受けたから、そうではないとぼくは考えた。君としては──ここが重要だ。『君としては』、この日でなくていいと考えたからだ。なのにしっかりと日時を指定してくるのはなぜかといえば、もう簡単だろう。

 誰かに強要されているから。君自身は望んでいなくとも、ね。

 この日時指定には君の本心が表れていたんだ。

 後は仕上げの推理だけだ。

 そんなふうにして君を使い、ぼくを夜遅くこのビルに呼び出す意味を考えると、ね。まずあの喫茶店に指定したのは、監視するのにちょうどよい混み具合だからだろう。閑散としているのも満席なのも困るからね。あれくらいだと、少し離れた席で待ち伏せていれば監視は容易だ。

 そして、もう一つの要因としては……ぼくはこれでもお茶の水の道のことは熟知しているつもりなんだ。晩飯時に人通りが少なくなる道も当然知っている。だから日頃そんな道を通ることはないんだけど……それっていうのがちょうど」靴をカッカッと鳴らした。「この通りなんだよな」

「大方君を誘導係として、人通りのない時間帯のこの道でぼくを始末でもしようとしたんだろう。違うかな?」

 わたしは呆然として彼の顔を見詰めていた。涙が頰を伝い流れていくのを温かく感じながら。

「じゃあ最初から──」

「安心しろ。ここに連れてこられたのもわざとだ。ぼくをこんな風に呼び出す奴──冬菜をこんなにしてまで──非道な輩には、説教が必要だから」

 彼が歩み寄る。わたしは徐ろに手を伸ばした。

 涙が止まらない。震えが止まらない。

 けれど、それは心の空間が一気に広がったからであって、もう恐怖や緊張などのせいではない。そうだとはっきり思えた。

 しかし突如気がついたことがあってはたと手を止めた。

「あれ……でも今、三つ間違いがあったって言ってたよね。まだ日程設定と時間設定の二つだけしか教えてくれてないけど……」

 あらーと彼も思い出したように立ち止まって額に手を遣った。「そうだ、一番大きな間違いなのに言ってなかったな。これこそ愚の骨頂って間違いなんだけど」

 そんな間違いが。一体どんな──?

 尋ねようと口を開きかけたその刹那、彼がさっとわたしの隣に移動した。電柱の影から現れた細い人影。探偵の鋭い手の動き。僅かなうめき声が聞こえ、硬い金属音が夜のしじまに放たれた。

 腹に手を当て仰向けに倒れた人の顔が、街灯の光に照らされて浮かび上がった。それを見たわたしは思わず「あっ」と声を上げた。

「省吾叔父さん……」

 湊くんは道に転がったナイフに足を置き、ふぅと息をついた。「やっぱり紫のじいさんだったか。ぼくと冬菜を知っていて、場所をお茶の水と設定してくる。そしてぼくを殺す動機がある。精神がおかされていた彼にとって、加奈子さんに相談を受けていたぼくは格好のターゲットになり得たんだ」

 それから涼しい顔で告げた声は、凛と胸によく響いた。

「彼の犯した間違いは、君を使ってこのぼくを殺そうとしたこと──そして君を泣かせたんだ。姉の死、妻との別れで心が追い詰められたとしても、してはいけないことはある。たとえどれほど小岩井家を恨んでいても、な」

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