無能の乙女は麒麟の花嫁に望まれる

十帖

第1話

 麒麟が現れたなら、四神はかの者を中央に据えねばならない。何を差し置いても、太平の世を連れてくる麒麟を優先し、決して軽んじてはならない。


 それは、千年以上も前から続くこの国の教え。


 科学の進歩が目覚ましい現代、多くの国民が妖魔の存在など忘れて久しくとも政府は秘密裏に人ならざるものから人々を守る役目を、四神を司る四家――――青龍の木蓮もくれん家、朱雀の火乃守ひのもり家、白虎の金宮きんぐう家、玄武の水無瀬みなせ家に任せ、さらには先の教えを遵守させていた。


 だから……。


「僕のお嫁さんになってくれるよね? 結月ゆづき


 その答えに対する拒否権など、一介の小娘に過ぎぬ結月は、一切持ち合わせていないのだ。


 そう、麒麟の求婚を断る術など、どこにも。





 極東の国、日ノ本ひのもと。四神を司る四家の歴史は古く、魑魅魍魎が跋扈していた時代から続いている。


 その昔、南の地方を治めていた火乃守家は四神の一体である朱雀に愛され、賜った火の力を駆使して魔を薙ぎ払っていた。他の神々に愛された三家も同様だ。


 そしてそれは現代まで続き、この国を陰から支え続けてきた火乃守家には、国の中枢から莫大な富と権力が与えられたが――――隆盛を極めた一族でも、枝葉のように広がった分家となれば、血筋によって受け継がれる破魔の能力も弱く、恩恵も少ない。


 そのため火乃守家の分家筋として生まれた結月も妖魔を払う能力は低く、いやそれどころか、火の神である朱雀の炎を操る力すら宿っていなかった。さらに悪いことには……。


「開けて……っ、お父様、お母様……! 助けてくださいっ」


 七つになったばかりの結月は、漆黒の髪を振り乱して閉めきられた扉の向こうに助けを乞う。真っ暗な蔵の中、冷たく閉ざされた扉をこじ開けようとした爪は剝がれ、血が滲んでいた。


「食べられちゃう、助けてぇ……っ」


 埃っぽく身体の芯から冷える蔵の中には、親に閉じ込められた結月以外にも気配が一つ。しかしそれは明らかに人間のものではない。扉に縋る結月の背後からは、卵が腐ったようなひどい悪臭とズルズルと巨体が地べたを這う足音がする。怯えながらも目を凝らせば、いくつもの目玉がついた毛むくじゃらの妖魔が間近に迫っていた。


 恐怖で結月の鼻先が冷える。頭が真っ白になったところで、今しがたまでビクともしなかった扉が外側から開き、厳格な表情の父親が蔵に足を踏み入れた。


「こんな低級の妖魔も払えないとは、情けない」


 結月が心の臓が凍るような声を浴びせられた直後、手をかざした父親によって、妖魔は上から木槌で叩かれたかのごとく潰れる。グシャリとひしゃげた醜い姿が、外から差しこむ光によって結月にもよく見えた。気味の悪い青紫の血が、頬に点々と飛ぶ。


「危険に晒されれば加護が発動するかと思ったが、やはり何の力も宿っていなかったか」


 加護とは、朱雀より賜った火の力とは別に、四家の者に生まれ持って与えられる破魔の能力のことだ。例えば父親は物体に重力を付与することができ、今のように妖魔を押し潰して払うことが可能だ。


 けれど結月は火乃守家の出にもかかわらず、今日まで朱雀の火の力が使えない上、加護が何かも不明だった。何せこれまで一度も、加護を発動したことがないのだ。


 そのせいだろう。いつまでも加護を発現しない娘に焦れた両親は、生け捕りした妖魔と結月を蔵に押しこめ、無理やり才能を開花させようとした。


 けれど――……。


「加護も持たない無能だったなんて、一族の面汚しもいいところだわ」


 扉の外で待機していた母親は、虫けらを見るような目を結月に向けて言った。幼い実の娘が泣き腫らした目で蔵から出てきても、爪の剝がれた指先から血が滴り落ちていても、心配や謝罪の一言すらない。その目にはただただ、失望の色が浮かんでいた。


「お母様……」


「貴女が私の娘だなんて、冗談じゃないわ。貴女が無能だと私の肩身が狭いじゃない。せっかく名家である火乃守家に嫁いだというのに……」


 肩を震わせる母親に、結月は幼いながらに大罪を犯したような気分になる。身の置き所がないような孤独と指先の痛みに涙を止められずにいると、母親の後ろから明るい声がかかった。


「母様、気を落とさないで。私がいるじゃない」


 赤みがかった髪を揺らしてこちらに歩いてくるのは、二歳年上の姉である美夜みやだった。子供でありながら華やかな目鼻立ちをしており、栄養の行き届いた長髪は豊かに波打っている。


 カナリアのような声を耳にした母親は、パッと表情を輝かせた。


「美夜! ああ、愛しい私の子!」

「一族の中でも末端の末端である我が家にとって、加護の強いお前は希望だ」


 蔵から出てきた父親も、満足げに長女を見下ろして口角を上げる。


「お前は将来、きっと火乃守家を盛り立てる存在になる。結月とは違ってな」

「そうね。結月は、美夜の出涸らしみたいだわ」


 母親は吐き捨てるような口調で言う。


 七歳の結月に『出涸らし』という意味は分からなかったが、悪意の籠った言葉だというのは、蔑むような口調から十分伝わった。


「ええ。妹が不出来な分、私が活躍してご当主様にも気に入られてみせますわ」


 美夜は胸を反らして宣言する。その意気だと喜ぶ両親と、得意げな姉。


「ごめんなさい……」


 結月の謝罪すら、家族の誰も耳に入れてくれない。指先からは相変わらず血が滴り足元に血だまりを作っていたが、この場で傷を心配してくれる者は一人もいなかった。




 朱雀の力も加護も持たないことが明らかになってから、火乃守家での結月の居場所は完全になくなってしまった。


 元より、火乃守家の代名詞とも言える火を扱う能力を有していないことで小馬鹿にされてきた結月だったが、加護も持たないと分かっては、もはや家族にとって恥でしかないのだろう。


「火乃守家だと名乗ることすらおこがましい。身の程を弁えて過ごすのよ」とは、母親の言葉だ。


 両親からは、四家や妖魔の存在を知る使用人と同じように家事をするよう強要された。しかし扱いはそれ以下だ。


 食事は基本、調理を手伝ったにもかかわらず残り物のみ。お風呂は冷えきったお湯を、皆が寝静まった頃にひっそりと。服は最低限のものを何度も自分で繕いながら着用し、寝床は天井の低い納戸に擦りきれたせんべい布団。


 火乃守家としての能力に欠けるならば、いっそ一族の者には見えぬようにしてしまえばよいというのが、両親の考えらしい。そしてその思考を助長させているのが、姉の美夜だった。


「残飯を食べていて恥ずかしくならないの? 平気ならほら、私が踏んだやつだって食べられるわよね?」


 炊事場の隅でひっそりと鍋に残った料理をよそって食べていた結月から皿を取りあげ、美夜は中身をひっくり返す。床にビシャリと落ちたそれを踏みつけた姉は、高い位置からニヤニヤと結月を見下ろして言った。


「ほら、食べなさいよ。ああ、私の汚れてしまった靴下はちゃんと捨てておきなさい」


 汁物で濡れた靴下を脱ぐなり、美夜は結月の足元に叩きつける。その汚れた靴下だって、自分が着ているボロの服より高いことを結月は知っている。


 両親は加護の優れた美夜にばかり良いものを買い与え、妹である結月は、そのお古すら与えられないのだ。能力の高さだけが人間として扱われる基準となるこの家で、まともな扱いなど望めなかった。


 でも、幼い結月はまだ理解できない。


(……片付けなきゃ。今日はご飯抜きだなぁ)


 黒真珠のような瞳に浮かぶ涙を手の甲で拭い、唇を噛みしめる。まだ十にも満たない子供であったが、自尊心をへし折られるには十分な年齢だ。


 それでも家事を完璧にこなせば、誰にも口答えせず良い子でいれば、慎ましく生きていれば、いつかは家族の誰かが認めてくれるかもしれない。厄介なことに、そんな希望を捨てきれない年齢でもあった。




 虐げられる生活にも慣れてきた十一の年、最初の転機が訪れる。


「正月に、四家の集まりがある。そこに今年から我らも出席することになった。これも美夜の加護――『妖魔を傀儡にする術』が優れているからこそ、本家から参加を許されたのだ」


 ある日の夕食の席、家族と共にテーブルに着くことすら許されない結月は、他の使用人たちと同じく食堂の壁際に控えながら、食事を取る父親の話に耳を傾ける。射干玉のような長い黒髪を揺らし、結月は目を輝かせた。


(すごい。四神を司る四家のお正月の集まりに、我が家が参加を許されるなんて……)


 噂では、竜宮城の宴会よりも華やかだと聞く。四家に名を連ねる者ならば、一度は参加してみたいと夢見る宴だ。


 色白な頬を紅潮させてソワソワしだす結月。しかしそんな娘を見咎めた父親は、冷えきった声で言い放った。


「ただし……結月、お前は小間使いとしてだ」

「え……」


 動揺から揺れる視界の端で、美夜がほくそ笑んでいるのが見える。母親は鼻にしわを寄せ、


「加護も持たない無能なのだから、役に立てるだけ光栄と思いなさい」


 と叩きつけるように言った。


「……はい」


 結月は俯いて拳を握りしめる。


(仕方ないよね。私は無能だもの)


 加護を持つ人々は、日夜妖魔を払うべく危険に身を晒して奮闘している。自分にはその力がない分、別の分野で力を振るわなければ。


(自分にできることをひたすら頑張ろう。そうすれば、いつか誰か一人くらい……)


 皆に認められなくてもいい。でも、父でも母でも、美夜でも――誰でもいいから、この世の誰か一人くらい、努力を認めてほしい。


 学校に通わせてもらえない結月にとってはまだ、この家の人々が自分の世界を構成するすべてだった。




 ささやかな願いを抱えながら迎えた正月。結月はこの世のものとは思えないほど透明感のある、美しい少年と出会うこととなった。


 四家が集まる離宮は、まるで巨大迷路のように広い。しかし国防を担う者たちが一堂に会する場所であるためか、その場所は地図には表記されず、結界により電波も通さない。


 買い与えられた最新の携帯が使えないと嘆く美夜や彼女を宥める両親と別れ、結月は小間使い用の麻のお仕着せに腕を通し、宴会の支度をした。


 季節の花々や枯山水が美しい庭園を挟んだ宴会場からは明かりが煌々と漏れている。食事を終えた四家の重鎮たちの膳を下げた結月は、丸々と太った鯉の泳ぐ池にかかった橋を渡り、炊事場へと戻る。そこで小間使いのために用意された握り飯を二つ貰うと、人気のない廊下に出た。


(まだ温かいご飯、久しぶりで嬉しいな。お父様とお母様、美夜姉さんは宴会場にいる。何か嫌なこと言われる前に、人のいないとこでご飯食べちゃいたい……)


 今頃両親は、器量のいい美夜を名家の子息の嫁にどうかと売り込んでいることだろう。


 まだ子供とはいえ、美夜は華やかな顔立ちをしている。結月と違って立派な加護も持っているし、早々と縁談の話も舞いこんでいると聞く。最近はその手の話題でも、結月は美夜と比較され、両親に叱責されることが多かった。


(暗いことばかり考えるのはやめよう。今はご飯にありつけただけでよしとしなきゃ)


 人のいない場所を探した結月は、廊下の先にある部屋の、立派な流水の描かれた襖がわずかに開いていることに気付く。


(何だろう。誰かいるのかな……)


 つい好奇心に駆られ、光源に引き寄せられる虫のごとく、隙間から顔を覗かせる。そして見えた光景に、大きな目を見開いた。


 明かりのついていない部屋には、人がいた。この世の者とは思えぬ美しさを持つ男の子が。


「誰だ」


 声変わりはすでに終えているのだろう。耳に心地よい、低く澄んだ声の持ち主だ。


 雲間から覗く月明かりによって照らされた髪は、寒空にちらつきはじめた新雪よりも白く、繊細に目元にかかっている。魅惑的な桃花眼はイエローサファイアと同じ色をしており、鋭くこちらを睨み据えていた。


(……雪の、精霊……?)


 筋が通った鼻も薄い唇も、整いすぎて人形めいている。上等そうな白地の着物を着ているせいか、余計に浮世離れした神々しさを感じた。


(こんな綺麗な子、生まれて初めて見た……)


「あ、の……私、火乃守の……結月と申します。えっと貴方は」


 自分よりも二つか三つ年上に見える彼にも名前を伺おうとしたところで、結月はピタリと言葉を切った。彼が部屋にかかっていた掛け軸を乱暴に掴み、今にも打ち捨てようとしていたからだ。


「それ……麒麟の……?」


 美しい男の子が持っていた掛け軸には、猛々しい麒麟の絵が描かれていた。龍に似た顔と身体を覆う鱗の一枚一枚が緻密に描写された、いかにも高価そうなものだ。


 最初は薄暗くて分からなかったが、目が慣れてくると、部屋の中には四神や麒麟にまつわる祭具や調度品が多く保管されているようだった。


 そんな貴重な品である一つを、今まさに眼前の端整な男の子は乱暴に扱っている。その事実に、結月は小さな歯の隙間から悲鳴を漏らした。


「だ、ダメですよ……! それ、きっと貴重なものです。しかも麒麟……麒麟は四家にとっても大切な存在なんです! 乱暴に扱っちゃダメ!」


 結月は握り飯の載った皿を床に置くと、男の子に手を伸ばす。掛け軸を取り返そうと背伸びをする結月に、彼は嘲りの籠った口調で言った。


「いいんだよ。こんなもの。ねえ、どうして四神が麒麟を中央に据えるか知ってるか? いや、言い方が悪いな。どうして四神を司る四家が、麒麟を冠する者を中心とし、かの者の言うことを聞かないといけないか、知ってる?」


「それは……えっと、そういうものだからじゃ……? 麒麟は四神を司る四家と違って、大勢の血族を持たない、たった一人の希少な存在だからだと、父が言っていたことがあります」


 突然の問いかけに、結月は目を白黒させて一般論を語る。男の子は栄養不足で背の低い結月が届かない高さまで掛け軸を遠ざけると、皮肉っぽく笑って言った。


「ハズレ。正解は、この国の権力者たちが麒麟を司る者の力を借りたいから。麒麟は太平の世に現れる。この国のリーダーが、自分の統治力が優れているからだと示すにはもってこいの象徴だ。だから四家にも、麒麟を特別扱いし、何を置いても優先して中央に据えるよう言いつけてある。馬鹿馬鹿しいことこの上ないだろ」


 自分で言いながら、どこか寂しそうな顔をした男の子に結月は気付かない。言われた言葉を反芻した結月は、オロオロと視線を泳がせると、ゆっくりと考えを纏めながら口を開いた。


「それだけ、でしょうか」

「は?」

「利用したいから、麒麟を特別扱いするんでしょうか。私は、私なら」


 結月は掛け軸に描かれた、猛々しくも凛々しい麒麟を一瞥する。


「自分にはないものを持っている人に、敬意を示したいから大切にします」

「……!」


 宝石のように美しい男の子が、桃花眼を見開く。結月は両手の指を組み合わせ、祈るように囁いた。


「麒麟は四家のように代々続く一族ではなく、その時々の御代にたった一人だけ現れると教わったことがあります。それこそ、高貴な血筋の方もいれば、百姓や、貧しい家から誕生することもあると。最後に麒麟の力を司る方が現れたのは、四百年も昔だって、習いました」


 習ったと言っても、結月は四家の者が通う有名な私立校には通わせてもらえなかったので、四家の秘密を知る家庭教師に教わったのだが。


「麒麟は、この国を覆う闇を晴らすことができる希望です。私には妖魔を払う力はありません。だからこそ、強い破魔の力を持ち、太平の世に導いてくれる麒麟という存在を尊敬しています」


 確かに、国の上層部には、麒麟を上手く利用したいという打算もあるだろう。そのため四家の者にも、もし麒麟と思しき者を見つけたら後見人になるよう命じている。


 でも、結月は違う。純粋に尊敬しているのだ。麒麟という存在を。


(……使用人のように働く中で、一族の人たちが妖魔を払うのに失敗して大きな怪我をして帰ってくる姿を何度も見てきた。美夜やお父様たちが私に辛く当たるのも、そういう行き場のない怒りの矛先をこちらに向けて鬱憤を晴らしてるのかもしれないって、思ってる。戦えない私は、安全な場所で待つしかできないから)


 だから理不尽な扱いを受けても、ぐっと奥歯を噛んで耐えているのだ。加護の力を持つ者たちには、持っている者だからこその苦悩があるのだろうと。


(麒麟は、破魔の力がずば抜けているって聞いたことがある。だから、四家にとって、妖魔を倒す力が強い麒麟は希望だわ)


「歴代の麒麟を冠する者は、身を危険に晒しながらも人々のために妖魔を払ってくれたんですって。そんな優しくて気高い存在を、私も大事にしたいから、大切にするんです」


「だから乱暴に扱わないで」と結月が懇願すると、天女のように美しい白髪の男の子は、掛け軸を元の場所にそっと戻した。


 気のせいだろうか。月明かりを浴びた彼の滑らかな頬は、わずかに色づいている。


「……結月って言ったっけ」


「はい。あ、えっと、貴方のお名前は……?」


 見るからに上等な着物を着ている彼は、どこかの本家の人間かもしれない。四家に名を連ねているとはいえ、小間使いのような扱いを受けている自分が、気軽に話しかけていい存在ではなかったのかもしれない。ようやくそこまで思い至ると、結月は青ざめて問うた。


(どうしよう……木蓮家か、金宮家の方……? いえ、水瀬家の御嫡男かも……)


 だとしたら、分家筋の、しかも無能な小娘が生意気な口を利くなと叱られてもおかしくはない。しかし男の子は、四神を司る四家の姓を口にせず、涼やかな声で名前だけ発した。


「……はるか

「はるか様?」

「呼び捨てでいい。俺も結月って呼ぶから。敬語もいらない」

「でも……」


 結月が渋っていると、不意にグーと間延びした音が鳴った。自分のお腹から鳴った音だと気付くなり、結月は服の上から音の出所を押さえる。


「あ、の……っ。えっと」

「ご飯、まだ食べてないのか?」

「さっきまで、大広間の宴会場で給仕をしていましたので……悠さ……悠は?」


 敬称を付けようとするとイエローサファイアの瞳に睨まれたので、結月は慌てて呼び捨てる。悠は空腹を感じていないのか、


「俺も食べてない」


 と淡々と答えた。


 結月は床に置いていた、握り飯の載った皿を持ちあげて見せる。時間がたったせいで、白米に海苔がしっとりと貼りついていた。


「じゃあ、一緒に食べる?」

「いや、君が食べなよ。失礼だけどその身なり……お手伝いとして呼ばれたんだろう?」


 結月が着ているお仕着せに視線をやり、悠が問う。同年代の子に立場の違いを指摘された気がして、結月は羞恥によりカッと頬を染めて頷いた。


 しかし悠から次に発せられた言葉は、身分に対する蔑みではなかった。


「じゃあ、そのご飯は君が頑張った対価として貰ったんだ。だから、今日を懸命に過ごした君のものだよ」

「……っ」


 思わず、息を呑む。曇天のように重たく暗い視界が、一気に晴れたような感覚がした。


(今、悠は……)


「頑張った、私の……?」

「ああ。偉いんだな、結月は」


 聞き間違いじゃない。高揚感から、小鳥のように結月の鼓動が速くなる。


 実家では、小間使いのように働くのは当然の義務で。無能な自分に課せられた恥でもあって。だから褒められたことなんて一度もなかったのに。


「……ありがとう……」


 生まれて初めて、誰かに褒めてもらえた。頑張りを認めてもらえた。それが、涙が止まらないくらい嬉しくて。結月は肩を震わせた。


 いきなり泣き出してしまった結月に、悠は狼狽える。


「どうした? どこか痛いのか?」


 白魚のような手が結月の背を優しく撫でてくれる。壊れ物を扱うみたいにそっと触れられるのも初めてのことで、結月は黒真珠の瞳に涙をより溢れさせた。


 結月が落ちつくまで待ってくれた悠に、おずおずと握り飯の載った皿を差しだす。


「……? だから、いいって」

「一緒に食べたい。ダメ?」


 この握り飯が頑張った証なら、それを認めてくれた悠と食べたい。


 洗われた御影石のような瞳で結月が問うと、悠は白皙の頬をほんのり染めて握り飯に手を伸ばした。もう一方を結月も手に取り、同じタイミングでかぶりつく。


 涙の味がして、少ししょっぱい。けれどこれまで食べてきた食事の中で、一番美味しく感じられた。


「俺、ここには無理やり連れてこられたからさ。宴会場とは別の部屋で豪勢な料理を用意されてたんだけど、食べる気すらしなくて、この部屋に逃げこんで」


 悠は整った唇で、とつとつと言葉を紡ぐ。


「でも、結月と食べるご飯は美味しい。ありがとう」

「私も……っ、悠と食べるご飯、美味しいよ」


 握り飯一つじゃ、空腹が満たされるはずもないのに。幸せで胸がいっぱいで、結月は赤くなった目元を綻ばせて笑う。その笑顔に見惚れた様子の悠はおもむろに呟いた。


「……結月、また会える?」

「え……?」

「結月にまた会いたい」

「あ、わ、私も……! 悠に会いたい……!」


 宝石よりも、天女よりも美しい男の子。雪のように儚くて、でも一振りの刀のようなしなやかさも持つ悠と出会い、結月は初めて恋を知った。




 四神を司る四家の集まりは、夏と冬に年二回催される。姉である美夜の加護が期待されているお陰か、悠と初めての邂逅を果たしてからというもの、結月は毎年、小間使いとして参加を許された。


 しかし自分を認めてくれる悠に出会ってから以前より明るくなった結月が気に入らないのだろう。美夜の嫌がらせは日に日にエスカレートしていく。


「やめて、やだ、美夜姉さん!」

「こんな弱い妖魔も祓えないくせに、ヘラヘラしていないでよ」


 妖魔を傀儡のごとく操る加護を持つ美夜は、ドロドロしたスライムのような妖魔を結月にけしかける。


「根暗で役立たずのアンタは俯いて、ずっと泣いていればいいの」


 結月は月の化身のように美しい悠と出会ったことを、誰にも話さなかった。けれど、自分を認めてくれる存在に出会ったことで以前より笑顔が増えたことを美夜は見逃がさず、ひたすら詰ってきた。


「出来損ないのアンタなんか、皆の鬱憤の捌け口にしかなれないんだから」


 妖魔にのしかかられて泣く結月の頬を、美夜は足蹴にする。たちまち頬骨に鈍痛が走ったが、胸の方が切り裂かれたような痛みを感じ、結月はより一層すすり泣いた。


 年を重ねるごとに、美夜の暴言も嫌がらせも激しさを増していく。それを見ない振りする父親と、同じように言葉で斬りつけてくる母親。


 それでも確かに、結月には希望があった。半年に一度、夏と冬の時期になれば、悠に会えるからだ。彼と過ごせる時期を思えば、どんなに辛いことも耐えられた。




「綺麗……! 私、蛍って初めて見た……!」


 夏のひと時、宴会場の給仕を終えた結月は、夜更けに悠と落ち合うのが習慣になっていた。


 今日は離宮の裏手に流れる小川で蛍が鑑賞できると悠に聞き、一緒に手を繋いでやってきたのだ。墨を塗ったような暗がりの中に浮かぶ蛍は幻想的で、まるで星屑が踊っているみたいだと結月は思った。


「楽しい?」

「うん、とっても!」

「はしゃぎすぎると川に落ちるよ」


 蛍の淡い輝きに夢中になり足元が疎かになった結月を、悠が繋いだ手に力を込めて引き寄せる。けれど結月が痛みに顔をしかめたので、悠は怪訝そうに尋ねた。


「結月……肩、怪我してるの?」

「あ……ちょっと」


 結月の身体は、服に隠れて見えない場所に痣がいくつもある。どれも躾と称して母親に扇子で叩かれたり、父に蔵に閉じ込められる際に掴まれたり、美夜につねられた痕だ。


 けれどそれを素直に言ってしまうと、悠に心配をかけてしまう。現に彼は美しい顔を歪め、イエローサファイアの瞳に激しく燃えあがる炎のような怒りを宿した。


「火乃守の誰かにやられたの? 誰がやったか言って。僕がそいつを懲らしめるよ」

「やめて……! いい、大丈夫だから」


 悠はいつも上等な着物を羽織っていたが、彼を宴会場で目にしたことはない。


 彼が木蓮家なのか、金宮家なのか、はたまた水瀬家の人間なのかは未だに教えてもらえていないが、宴会場にいないということは少なくとも本家の人間ではないのだろう。つまり彼の発言権は強くない。


 四家は基本、他の一族の問題については不可侵だ。だから悠が他家である結月のことに口を挟めば、火乃守家からいい顔をされないに違いない。悠が自分の家の者から叱責を受ける可能性だってある。


(私のせいで、悠が怒られるのは嫌……!)


「もしお父様の怒りを買って、夏と冬の集まりに連れてきてもらえなくなったら、やだよ。悠に会えなくなる」

「僕も、結月に会えなくなるのは嫌だけど……君がひどい扱いを受けるのも嫌だよ」


 年を重ねるにつれて、一人称が『俺』から『僕』に代わり、口調も柔らかく変化した悠は、結月の手を握る力を強める。その手にもう一方の手を重ね、結月は健気に微笑んでみせた。


「大丈夫。大したことないから、ね?」

「結月……」

「ねえ、明日はどんなことしよっか? 悠が教えてくれることはどれも素敵。楽しい」

「僕も、結月といる時間が楽しくて好きだよ」


 悠の声には、たっぷりとした熱が込められている。その甘い熱情に気付かない結月は、再び蛍に見入った。


 四家の宴はいつも一週間催される。その期間は人の目があるので、両親も美夜も結月を嬲ったりしない。この泡沫のように短い時間に悠と沢山の思い出を作るのが、結月にとって何よりも楽しみだった。彼はいつも初めての経験をくれるから。


 悠がどこからか用意してくれたスイカを川で冷やして食べたり、花火を見たり。冬は積もった雪に足跡をつけたり、南天の実をもいで雪うさぎを作ったり。


 その頃にはもう、結月は悠に向ける自分の想いがどんどん膨らんでいるのを自覚していた。


 だって彼は、一等優しいのだ。あかぎれだらけの手で雪に触れる結月に、悠は自分の手袋をはめてくれる。


 日々洗い物で冷水に晒している手はすでにボロボロなのだから、今さら大丈夫だと言っても、


「頑張り屋さんの結月の手は好きだけど、傷つくところは見たくないから」


 と囁かれ、挙句塗り薬まで用意されては、結月は悠の優しさに惹かれていく一方だ。


(好き。大好き)


「結月」

「なあに、悠……っわ?」


 結月の柔らかな黒髪に、悠によって華やかな赤い椿の花が差し込まれる。


「思った通り、結月の綺麗な髪には、赤い椿がよく映える」


 神様が特別贔屓したように美しい悠の瞳が、結月を捉えて柔らかな色を浮かべる。まるで大切だと口にされているようで気恥ずかしく想いながら、結月ははにかんだ。


 毎年、思い出を一つずつ重ねていくのが何よりも尊く嬉しい。その宝物のような記憶があれば、辛い日々だって我慢できたのだ。




 けれど、転機は突然訪れる。


 十六になった夏、結月はようやく初潮を迎えた。ろくな食事を与えられず栄養状態の悪い結月は、年齢の割に小柄で痩せているため生理が遅かった。


 そんな結月が初めてその時を迎えたのは、四家の集まりのタイミングで。


 いつも通り膳を下げた結月は、下腹部の違和感に耐えかね、炊事場を切り盛りしている年配の使用人の女性に勇気を出して告げる。事情を知った彼女に生理用品を手配してもらい、仕事を終えた結月はいつも通り悠と中庭の池で落ち合おうとした。


  しかしそこには、悠の他にも先客がいた。雲間から漏れる月明かりを頼りに結月が目を凝らすと、悠は木蓮家の当主と何やら揉めているようだった。


「夜な夜な出歩いて、何をなさっておいでですか。貴方には自覚が足りないようです」

「放っておけ」

「貴方はもうすぐ十八になるのですよ。お披露目の時も近いというのに……!」


 最近はすっかりと鳴りを潜めていた悠の乱暴な口調に、結月は瞠目する。


 木蓮家の当主が言うように十八の誕生日が近い悠は、道行く人がすべて振り返るような美青年へと成長していた。中性的で非の打ち所がない美貌はそのままに、着物の袖や襟から覗く肢体にはしっかりとした筋肉が見てとれる。


(……悠って、青龍を司る木蓮家の人だったのかな)


 そんなことを考えていると、意識が散漫になっていたせいか足元の小枝を踏んでしまう。その音に反応して悠と木蓮家の当主がバッとこちらに視線を寄越してきたので、結月はたじろいだ。


「あ、ご……ごめんなさい。お話の邪魔をするつもりはなかったんですけど……」

「君は……」


 木蓮家の当主は、淡い藤色の瞳を眇める。その瞬間に彼の目が光り、周囲の空気がざわついた気がして、結月は胸の前で手を組んだ。


(この空気……木蓮家の当主が、加護をお使いになられた……? 何故?)


 木蓮家の当主が持つ加護は何だったか。結月が記憶の糸を辿っていると、大股で近付いた中年の彼に肩を掴まれた。それを横目で見ていた悠が眉間にしわを寄せる。


「おい、時雨」


 木蓮家の当主の下の名を呼び捨てた悠に構わず、かの当主――時雨は怯える結月をしげしげと眺めて呟いた。


「君は素晴らしい加護を持っているな」

「え……? 私?」


 結月は動揺から目を見開く。


「他に誰がいる。今私が見ているのは君だ」

「わた、私、加護なんて持っていません。無能です。朱雀の火の力も使えないし――――」

「千里眼の加護を持つ私を欺けるとでも? 君には『受胎』の加護が宿っている。これは交わった相手の加護を、生まれてくる子にそっくりそのまま引き継がせることができるという稀有な能力だ」


「受胎……って……子供……?」


 結月は空恐ろしい気持ちで、自身の薄い腹を両手で押さえる。自分には加護がないのだと思ってきた。


 けれどそれが、これまで発現してなかっただけだとしたら?


(もしかして、私の能力が受胎だから、子供を産める身体になるまで、加護が何か分からなかった……?)


「……どうやら本当に知らなかったようだな」


 結月の反応を見てか、もしくは千里眼を使って察したのか、時雨は目を細めて囁いた。


「とにかく一大事だ。君の加護はこの国の未来を大きく左右する。すぐに帝や政府、四家の当主にも報告をしなくては」

「え、あの」

「時雨!」


 結月の肩を抱き、広間へと向かおうとする時雨に悠が声を荒らげる。しかしさすが木蓮家の当主というべきか、彼は落ちつき払った声で言った。


「貴方と彼女の関係性については後でお聞きします」

「誰に向かって口を利いている」

「悠様。貴方はまだ『あの座』についていない。……君、来なさい」


 時雨の言う『あの座』は何のことなのか。木蓮家の当主に食ってかかっても許される悠は何者なのか。


 疑問は山ほどあったが、今の結月は自分の置かれた状況に適応しようといっぱいいっぱいで、それどころではなかった。




 天地がひっくり返るとは、まさにこのことだ。


 結月が受胎の加護を持つと判明してからというもの、周囲からの扱いは百八十度変わった。


「よくやったぞ、結月」

「これで我が家も安泰ね」


 今まで虫けらを見るような目でこちらを睨んでいた父親も母親も、諸手を挙げて喜び、結月を深窓の姫君のように扱いだした。国の上層部からは結月の養育費として莫大な金額が与えられ、秋からは学校も四家の者が通う有名な私立校への転校が決まった。


 家には毎日、玄関が塞がるほどの貢ぎ物と釣書が届くようになった。どれも、結月との婚姻を望む四家の者からだ。


 より強い加護を持つ者との子を成し、一族を安定させたいというのが、四家の者の狙いなのだろう。


 唯一態度を変えなかったのは、美夜だった。


「そこで突っ立ってないでよ。邪魔!」


 美夜は廊下を歩く結月の背を突き飛ばし、転ばせようとする。けれどそれを目撃した母親が、初めて愛娘に対し怒声を浴びせた。


「貴重な胎に何をするの! 美夜、私たちが贅沢な暮らしができるのはこの子がお金になる加護を持っていたからなのよ!」

「美夜も結月を見習いなさい。今や結月には、お前宛てよりもずっと多くの釣書が届いているんだぞ」


 声が聞こえていたのか、曲がり角から現れた父親も、美夜を叱る。これまで一度も両親から怒られたことのない美夜は雷に撃たれたような顔をしていた。


 これまでと、立場が逆転する。けれど……。


(お母様、私のことを胎って呼んだ……)


 結月はこれまでと何も変わらない、薄い腹を見下ろす。自分に、利用価値ができた。でも、どうしてこんなにも。


(寂しいままなんだろう……)


 寂しい時はいつも、悠と過ごした思い出を振り返っていた。けれど、あの夏の日に加護が判明してからすぐに家に連れ帰られた結月は、あれ以来悠に会えていない。


(お正月には、会えるかな。もう使用人の扱いじゃなくなるかもしれないけど、宴会に呼んでもらえるのかな……。悠、会いたいよ)


 最後に見た彼は、木蓮家の当主に対して怒っているように見えた。きっと心配してくれている。雪のように儚く冷たい美貌なのに、春風のように優しく笑う悠のことを、結月は恋しく思った。




 けれど、事態はさらに大きく動いて。


「火乃守家の次期当主、緋路仁ひろひと様と、私の婚約が決まった……?」


「ええ、そうよ。緋路仁様の加護を受け継ぐ子を是非産んでほしいというのが、本家の願いであり決定なの。ああ、分家筋でも末端のうちの娘が、本家の嫡男に嫁ぐよう所望されるなんて……!」


 夢見る少女のような瞳で呟く母親の口の動きを、結月はぼんやりと眺める。展開の速さに頭も心もついていけない。まるで濁流に吞まれた流木のように、ただ存在しているだけ。


(緋路仁様は確か今年で二十四……私より八つ上の方だっけ)


「何ボケッとしているの、結月。本家の嫡男に嫁ぐことができるなんて、初めて人の役に立てるなんて、貴女も嬉しいでしょう?」


「……、はい。お母様」


(これは、喜ぶべきことなんだよね……?)


 無能と呼ばれ続けてきた自分が、人々の役に立てるのだから。


 ずっと、誰かの役に立ちたいと思って生きてきた。でも自分は加護を持っていないから、妖魔と戦う一族の人々の役に立てるよう、小間使いとしてでもいいから努力しようって。


(だけど役目が与えられたのだから、しっかり果たさなくちゃ)


 たとえ、そう、たとえ――――悠のことを想って、心が千切れそうでも。


(好きでもない方の子を成すことが、私の使命だというなら、それを果たさなきゃ。だって初めて人の役に立てるんだから。そう、初めて……)


 ふと、荒れている庭が目に入る。


 ここの管理は結月が任されていて、暑い日も寒い日も泥だらけになりながら雑草を抜き、石畳を磨き、手のマメが潰れても終わらない枝の剪定を行っていた。いつも家族が快適に過ごせるようにと。でも結月の加護が判明し扱いが変わった今は、その仕事は不要だと両親に止められた。


 そして現状誰も、池の水が汚れようが、落ち葉で道が埋もれようが、見向きもしていない。自分が懸命に行っていたことなど、両親にとってはどうでもよかったのだろう。


 子を成すという利用価値を知って初めて、自分自身に存在意味が与えられた。それまでの努力してきた自分は、無価値だったのだと改めて突きつけられた気分だ。


(悠だけ。悠だけが、私の努力を認めてくれた……)


「会いたいよ……悠」


 何も持たなかった頃の自分を、唯一認めてくれた彼の優しい手に触れたい。恋しいと、結月はひっそり涙を零した。




 けれど悠に会えることはなく、婚約が決まって一週間もせぬ間に、結月は花嫁修業のために本家で暮らすこととなった。そこに結月の意思は存在しない。


 これまで道端に転がる小石のような扱いを受けていた結月にとって、次期当主の婚約者という肩書きも、深窓の令嬢のような扱いも居心地が悪かった。


「次期当主の奥方となるお方が、炊事場に顔を出すなどいけません。まして作業するなんて……」


 手持ち無沙汰になり、ついこれまでの習慣から食事の準備を手伝おうとすれば、使用人たちから注意が飛ぶ。今までの常識が覆った。


(これまでは両親や美夜姉さんの食事の準備をしなければ、ひどい罵声が飛んだけれど……ここでは借りてきた猫のように振る舞っているのが正解なのね)


 自由がないのは、実家も本家も一緒だ。実家では居場所がなかったが、ここでも身の置き所がない。


(一度、悠にせがまれてこっそり夜食を用意したことがあったっけ。私が料理する隣で嬉しそうにお皿の準備をしてくれたり、美味しそうに頬張りながらお礼を言ってくれたの、嬉しかったな)


 現実逃避と言わんばかりに、気付けばまた悠のことを考えている。緋路仁と結婚してしまえば、もう二度とそんなことも叶わないのに。


(寂しくても、耐えていかなきゃ。だって、初めて人の役に立てるんだから)


 自分にできることを精一杯するしかない。子を産むのが役目というなら、成さねば。


 ちなみに本家で生活するようになってからも、婚約者の緋路仁と話す機会は得られなかった。快活で柔和そうな見た目であることは夏と冬の集まりで給仕をする際に伺えたけれど、言葉を交わしたことはない。


(忙しい方なのかも)


 ならば会えないのは仕方ない。それよりも、自分は目の前のことに懸命に取り組まなければ。


 本家の人間に花嫁修業が必要と言われた結月は、指示されるがまま宛がわれた家庭教師から礼儀作法を必死に学んだ。


 しかし授業を終えて自室に戻る道中、中庭の方から婚約者の緋路仁と姉の声が聞こえてきた。


(美夜姉さんの声……? 本家に来ているの?)


 長年姉にいびられてきた経験から、結月は反射的に渡り廊下の柱の陰に隠れる。自室へ向かうには、どうしても中庭の前を通らなければならない。結月が立ち往生していると、嫌でも二人の会話が耳に滑りこんできた。


「ねえ、どうしてですか? 私の方が妹より見目が優れていると、緋路仁様もお思いでしょう? 貴方の隣には、私の方が相応しいわ。ねえ、私を選んでください。次期当主の妻は私に……!」


(……美夜姉さんが、緋路仁様に懸想している?)


 姉の口から語られる内容に、結月は目をむく。朱雀を司る一族に相応しい見事な深紅の長髪を後ろで束ねた緋路仁は、強張った表情で美夜に答えた。


「確かに、君は妹の結月より美人だ。だが」


 パッと輝いた美夜の顔が、緋路仁の次の言葉で陰る。


「君の妹との婚姻は、当主である父が決定したことだ。いくら私が君を気に入っていたって、婚約が解消されることはない」

「そうでしょうか」


 美夜は芝居がかった声で、誘惑するように緋路仁の首へ腕を回した。


「千里眼の加護を持つ木蓮家の予言者によると、受胎の加護は一度きりしか使えないそうです。能力を受け継ぐ子を産ませた後は、愚昧を妻の座から引きずり下ろせばよいかと存じますわ」


 まるで子を産む道具と言わんばかりだ。実の姉に物扱いされた結月は言葉を失う。夏にもかかわらず、床板から冷えが伝わり全身が凍りつくかのようだった。


 美夜の発言に、緋路仁は迷うような素振りで言う。


「いや、そんな……」

「アレの姉である私がよいと申しているのですから、緋路仁様が気に病む必要はございませんわ。妹だって、自分の立場は弁えているはずです」

「そう、なのか」

「だからあの子を捨てた暁には、どうか私を次期当主の妻に据えてください」


 美夜は緋路仁にそっと強請る。火乃守家の次期当主は、姉の毒のような魅力にすっかり堕ちた様子で囁いた。


「……分かった。私が当主となった暁には、美しい君を妻に娶ろう。結月殿には、私の子を産んだ後ですぐ離縁してもらう。ただし私の加護を受け継ぐ子供は貰う。それでよいか」


「もちろんです、緋路仁様。たったひと時でも、緋路仁様と夫婦になれるだけで、妹は幸せなことでしょう」


 美夜は恭しく言葉を紡いだ後、毒々しい紅のたっぷり塗られた唇を緋路仁の唇に寄せる。


 緋路仁と結婚し子を成したら、結月は用済みとして捨てられる。受胎の加護は一度きりしか使えない。再び役立たずとなった時、自分は実家に戻れるのだろうか。


 足元がふらつき、いつかの時のように足音を立ててしまう。すると気配に気付いた二人は糊付けされたように絡み合っていた身体を離した。


 結月の姿を認めた瞬間、緋路仁は焦りの色を浮かべ、目を逸らして去っていく。


「あ……」


 その後ろ姿に何と声をかければよいのか分からず、結月は見送る。美夜は尊大に腕を組んで言い放った。


「自分の立場が分かったでしょ。アンタは蔑まれるために生まれてきたの。幸せになるなんて許されてないんだから」

「……私、美夜姉さんが緋路仁様を好きだなんて知らなくて」

「はあ? 別に好きじゃないわ。ただ、アンタが好条件の男と結婚するのが許せないから奪いたいだけよ」

「そんな、何で……」

「何で? アンタは私が優越感を得るためだけの存在だからよ。忌み嫌われているだけの存在でいればよかったのに、この身の程知らず」


 力任せに肩を押されてたたらを踏み、縁側から庭先に落ちる。玉砂利に尻もちを突きながら、去っていく美夜の凍てつくような視線に震えあがった。


「あ、はは……」


(泣くな、泣いちゃダメ)


 母からは胎扱いされ、父からは家を繁栄させるための道具と見なされ、婚約者は後継者を産ませたら自分を捨てるつもりでいる。そして血を分けた姉には憎まれて。


 消費されるためだけに生きているみたいだ。


 心が折れる音が、耳元で聞こえた気がした。




 そしてあっという間に、婚約発表の日を迎えることとなる。


 婚約発表は、夏と冬の集まりと同じく離宮で執り行われることになった。


 大輪の牡丹の刺繍に金箔の散った着物を着せられ、髪も結いあげられた結月は、控え室で縮こまる。生まれて初めて着る高価な着物は、糸の密度が高いせいかずっしりとして重い。まるで自分の心と比例しているようだ。


 緊張のあまり固く握った拳は、爪が真っ白になっていた。


 今日は結月と緋路仁の婚約発表のため、四家と政府の高官がこの離宮に集まっている。宴会場として使われていた大広間は一の間だけで五十畳を越えていたことを思い出し、その空間を埋めつくすほどの人々を前に婚約を宣言するのだと考えれば、結月の胃がキリキリと痛んだ。


「準備はできたかい? ……へえ」


 控え室に顔を出した緋路仁は、めかしこんだ結月を一瞥し、感嘆の息を吐く。


「……様になるものだね」


 不躾な視線を送られ、結月は縮こまる。姉に惹かれているはずの相手にジロジロと品定めされるのは気分がいいものではない。


 それでも結月は大人しく緋路仁に手を取られ、初老の使用人に誘導される形で大広間の前まで辿りつく。今まで給仕で幾度となく開けてきた襖が、まるで地獄へ続く扉のように重たく感じられた。


「火乃守家次期当主、緋路仁様。ならびに次期当主の妻となられる結月様がご入場いたします」


 初老の使用人の声が襖の向こうにかけられ、廊下の端に膝を突いて控えていた女中が、両側から開ける。ああ、覚悟を決める時がきたのだ。何もかも諦める覚悟を。


 けれど襖の向こうに広がった景色に、結月は目を瞠った。


「……え……?」


 大方想像していた通り、大広間にはズラリと四十近くの人間が整列していた。しかし驚いたのは、彼らが正座した状態で、こちらではなく上座に向かって深々と頭を垂れていたからだ。


 そう、まるで――――神仏に祈るかのごとく。


「待ってたよ、結月」


 白檀の柔らかい香りを伴って発せられたのは、低く澄んだ声。この持ち主を、結月はよく知っている。けれど、同時に知らないのだ。


 右側の上手に座るのは、テレビや新聞で何度も目にしたことがある政府高官だ。顔を見なくても格好だけで分かるくらいの有名人である。


 左にずらりと並んでいるのは、木蓮家の当主である時雨をはじめとする四家の当主。下手には両親や、美夜の姿もある。


 彼らがい草の香る畳に額をすり合わせて顔を上げられないような殺気を、上座で放っている人物。その人を結月は知らない。今まで知らなかった、雪のように儚げで美しく優しい、悠の姿しか、知らなかったのに。


 以前会った時より、前髪が少しだけ伸びただろうか。イエローサファイアの瞳にサラサラとかかっている。双眼の色に合った芒色の羽織は秋の訪れを感じさせ、時間の経過を結月に伝えた。


 ずっと不思議だった。火乃守、木蓮、金宮、水無瀬、どの本家の者でもない悠が、上等な着物を着ていること。木蓮家の当主に格上のような態度を取っていることも。


 でも、誰もが息を潜めてひれ伏している目の前の状況を見ていれば察する。彼は何か――――もっと神に等しい存在なのだと。


「はる……か……? どうして、ここに……」

「結月! 麒麟を司るお方に何と無礼な物言いを……!」


 下手に座っていた父親が思わず顔を上げ、結月に怒鳴る。しかしすぐに首筋に刃を当たられたような殺気が、悠から父に向かって浴びせられた。


「ひ……っ」

「無礼なのはお前だ。誰が発言を許した?」

「も、申し訳ございません……!」


 結月は父親が、泡を吹いて倒れるのではないかと思った。駆け寄ろうと一歩を踏みだしたタイミングで、今度は隣に立っていた緋路仁が、喘ぐように言った。


「……麒麟……? まさか、貴方様は……」


 麒麟。


 耳慣れた、けれど気高い存在に結月は零れ落ちそうなほど大きな瞳を揺らす。


(麒麟って……そんな、まさか……悠が、麒麟……!?)


 四百年もの間、現れなかった稀有な存在。けれどもし悠がそうだとすれば、大広間にいる全員がいまだに頭を垂れた状態なのも、木蓮家の当主が彼に敬語を使っていたことも説明がつく。


「黙っていてごめんね、結月」


 抜き身の刀のように鋭かった悠の雰囲気が、結月に話しかけたことで和らぐ。蜂蜜を垂らしたように甘い声色だった。


「成人である十八を迎えるまで、正式に麒麟であると発表するのは控えるよう時雨に言われていたんだ。だから今日まで僕の存在は秘匿され、後見である木蓮家のごく一部の人間しか知らなかった」


 時雨が顔を上げ、


「申し訳ありません」


 と声を紡ぐ。


「五年前に街中で偶然悠様をお見かけして以来、私の千里眼には麒麟であると見えておりましたが、成人して加護やお立場が安定するまでは、秘匿しておいた方がよいかと思いましたので」

「十八の誕生日である今日が待ち遠しかったよ」


 一日千秋の思いだったと呟く悠に、状況を整理することで必死な結月は祝いの言葉の一つも述べられない。ただただ驚愕と、これまでの疑問に対する納得の狭間で波にさらわれたように揉まれていた。


「ここへはずっと、後見である時雨に連れられて来ていたんだ。夏と冬の集まりでは四家の者が一堂に会する。麒麟である僕の加護を強化させるためにはこれ以上ない場所だからね」

「悠の持っている加護って……?」


 結月が口を開くと、悠は端整な顔に笑みを浮かべて嬉しそうに説明してくれた。


「僕の能力は、他人の持つ加護のコピーだ。相手が加護を使用するところを見れば、それを写しとって使用することができる。どんな術でもね。つまり、この大広間にいる者の加護は、一度目視さえすればすべて使えるってこと」

「それって、無敵なんじゃ……」

「結月にそう思ってもらえるのは嬉しいな。それで」


 砂糖菓子のように甘い声が、一段下がる。それに伴って、大広間の空気も氷点下まで冷えこんだ。


「いつまでお前は、結月の手を掴んでいるの」


 悠の凍てつくような視線が、緋路仁へと向けられる。正確には、結月の手を握った緋路仁の手にだ。

 あまりにも苛烈な怒りに当てられて、結月の婚約者である彼は口の中が渇いて仕方ないようだった。舌をもつれさせながらも、何故自分が麒麟の怒りを買っているのかと理由を考えているように見える。


「あ、や、その……」

「悠、あのね、今日は私と緋路仁様の、婚約発表の日で……」


 いくらか待っても、悠に気圧された緋路仁がまごついたままなので、結月は助け舟を出すことにした。


(ああ、でももしかしたら、私と緋路仁様が大広間に顔を出す前に、麒麟のお披露目の儀に目的が代わってしまったのかもしれない……)


 何せ四百年ぶりの麒麟の誕生なのだ。いくら四家の次期当主の婚約発表といえど、麒麟のお披露目に比べれば霞んでしまう。


 悠はにっこりと微笑んで口を開く。緋路仁と結月に対する彼の温度差に、そろそろ風邪を引きそうだ。しかしそんなことは口が裂けても言えないので、結月は悠の唇の動きを見守る。


「その婚約なら、なくなったよ」


「あ、やっぱり婚約発表は延期になったんだ」

「ううん。そこの男との婚約がなくなったんだ。結月」

「え……?」

「だから、もうそんな奴と手を繋がなくてもいいよ」


 有無を言わさぬ力で緋路仁と引き離され、悠に肩を抱かれる。距離が近くなったことで、グッと白檀の香りが強くなった。結月は慌てて彼の胸に手を突き、自分よりずっと背の高い悠を仰ぎ見る。


「待って、婚約がなくなったってどういう……解消したってこと……?」

「そうだよ。ねえ、そうだよね? 皆」


 大広間に悠の声が落ちると、それまでずっと恭しく頭を垂れていた者たちが顔を上げる。遠くで火乃守家の当主が面を上げて同意した。


「麒麟である悠様が、それを望むのならば」


 近くに立つ緋路仁が絶句する気配がする。火乃守家の当主が認めたということは、自分と緋路仁との婚約は本当に白紙になったのだろう。結月が困惑を露にすると、宥めるように悠が旋毛へ唇を落としてきた。


 しかし――……。


「お待ちください……! ご当主様! 折角次期当主となる緋路仁様との縁談が決まって我が家も安泰だと喜んでおりましたのに、こんなのあんまりですわ……! 娘には胎としての価値がありますのに! 何故……!」


 それまで息を潜めていたように沈黙していた母親が、悲愴な面持ちで叫んだ。父親は母親の後頭部を押さえて頭を下げさせる。


「おい、今口を出すな!」

「ですが、貴方……!」


 結月はなす術もなく、一連のやり取りを傍観する。出来事に対して思考が追いつかない。当事者なのにただ翻弄されるばかりで、まるで蚊帳の外だった。視線が自然と下がっていく。


「……『胎』か。なるほど、報告で聞いた通りだな」


 悠がぽつりと落とすように呟く。その声といったら、地を這うように低い。


「何故と言ったかな。何故結月とそこの男の婚約を解消させたか――――それは、結月には僕の花嫁になってもらいたいからだ」


 結月は弾かれたように顔を上げ、悠を見つめた。大広間がにわかにざわつく。室内の人々の反応を見るに、四家の当主や政府高官は事前に悠の考えを知っていたようだが、大半の人間は初耳のようだった。


 もちろん、結月も緋路仁も――――両親や美夜も、寝耳に水だ。


(待って、花嫁って……私が、悠の……麒麟の花嫁になるってこと……!?)


「結月が麒麟であるお方の花嫁に……っ!?」


 まさかの展開に、結月の母親は喜色を浮かべる。父親は唖然とした面持ちで悠と結月を見比べた。


「どう? 僕のお嫁さんになってくれるよね? 結月」


 悠に顔を覗きこまれた結月は、信じられない気持ちで彼を見つめ返す。霜の花のような睫毛に囲まれた目を和らげて微笑む悠は麒麟で、自分は今彼に求婚されて、それで……?


 事態が呑みこめない。溺れたような心地でいると、それまで静観していた美夜が耐えかねたように声を荒らげた。


「お待ちください、悠様……! 妹は受胎の加護を持っているとはいえ、火を操る朱雀の力を持たぬ出来損ないです。そんな子、麒麟たるお方の隣に立つなんて相応しくないわ。どうか私をお選びください」


 緋路仁の非難するような視線を無視して立ちあがった美夜は、甘えるように悠へしなだれかかる。その横顔は完全に女で、一目で悠の美貌の虜になったと分かる。


 しかしその手を、彼は容赦なく振り払った。パンッと甲高い拒絶の音が、大広間に響き渡る。


 これまでの人生で邪険にされた経験が乏しい美夜は、青天の霹靂と言わんばかりに表情を歪めた。


「お前やお前の両親が、家族でありながら結月に辛く当たってきたことは報告を受けて知っている。僕はそれを決して許しはしない。――――言っておくが」


 美夜の怒りに満ちた顔が結月に向けられたタイミングで、悠は声を張った。


「結月からは何も聞いていない。直接泣きついてくれればすぐにでもお前たちを消し炭にしたけれど、この子は優しいから。お前たちから冷遇されてもひたすら口を噤んで健気に耐えてきたんだ」


 回されていた悠の手が、労わるように結月の肩を撫でる。まるでよく我慢してきたね、と励まされているような気分になり、結月は唇を震わせた。


「火乃守家の当主にも力を貸してもらった。次期当主が結月を、子を産む機械のように使い捨てて――お前に乗り換えるつもりであることも、報告を受けている」


 緋路仁と美夜は計画が露見したことに揃って青ざめた。


「悠様、愚息に次期当主を任せるという考えは浅慮だったようです」


 火乃守家の当主は、息子である緋路仁と目を合わせずに言った。


「悠様の婚約者となる結月殿の両親と姉には本家も期待して多大な援助をしておりましたが、彼女へのこれまでのひどい仕打ちを考えると……火乃守家から除籍した方がよさそうですな」


 ワッと、母親が身も世もなく泣きだす。父は息が詰まったように蒼白になり、緋路仁は膝から崩れ落ちた。


 けれど美夜だけは、激しい憎悪を込めてこちらへと手を伸ばしてくる。


「……っアンタのせいよ、結月! アンタなんかが……!」


 不意に美夜の足元に真っ暗な影ができ、そこから妖魔が噴き出す。それが美夜の妖魔を操る術だと察した時にはもう、蜘蛛のように毛むくじゃらの化け物が結月に向かい襲いかかってきていた。


「きゃ……っ」

「大丈夫だよ、結月」


 耳元に優しい声が落ち、抱き寄せられて悠の胸に顔を埋める形で視界を覆われる。耳に届くのは悲鳴と何かが暴れる音。


 しばらくしてそれが止むと、抱擁も解けたので結月は恐る恐る周囲を見渡す。すると、美夜が操っていたよりも大きい龍のような獣が、彼女の胴を絞めあげていた。


「僕の加護は、他者の加護のコピーだと言ったはずだ」


 つまり悠は、美夜の加護をコピーし、同じように妖魔を操って彼女を制圧したのだろう。麒麟である彼の方が純粋に優れているため、出現させた妖魔も格上だったようだ。


「連れていけ」


 龍のような妖魔を足元の影に仕舞うと、悠は冷たく命じる。


 襖の付近に控えていた使用人は、昏倒した美夜ともう蒼白になって震えあがるばかりの両親、それからいまだに立てずにいる緋路仁を大広間から引っ張っていく。


「美夜姉さんは大丈夫なの……?」


 ひどいパニックに襲われながらも、結月が発した言葉は姉を案じるものだった。頭上から苦笑が落ちる。


「気絶させただけだよ。結月を傷つけた報いとしては、全然足りないけど。それより、ねぇ」


 雪のように美しい白髪を揺らし、悠は首を傾げて問う。


「僕のお嫁さんになってくれる? 結月」


 それはお伺いでありながら、決定事項だ。だって、火乃守家の分家の中でも末端である結月には、麒麟の願いを断る選択肢など与えられていないのだから。


 精巧な人形のようにズラリと正座して並んでいるギャラリーが、目線で訴えている。素直に頷けと。


「わ、私……」


(悠に会いたかった。ずっと恋しかった。私の好きな人は悠だから、この求婚は喜ぶべきことなんだけど……)


「待って。混乱してて……私……」


 頭痛がしてきた。額を押さえた結月は、不安げに瞳を揺らして尋ねる。


「悠と結婚するってことは……私の受胎の加護を、悠のために使うってこと……?」


 高い位置で、悠が目を丸くする気配がする。結月は暗い顔で続けた。


「私が麒麟との子を産んだら、悠の持つすごい加護を、そのまま受け継がせることができるから、だから緋路仁様じゃなく悠と結婚しろってこと、だよね……?」


 困惑を極めた頭が導き出した答えに、結月は消沈する。加護で誰かの役に立てるのは素晴らしいことだ。けれど同時に、想い人である悠にだけは、道具のように扱われたくなかった。


(でも、それは我儘だよね。私は、私にできることをしなくちゃ……)


 諦観に襲われながら、結月は覚悟を決めようとする。そこに、穏やかな声がかかった。


「違うよ。顔を上げて、結月」


 悠の大きな手が両頬に添えられて、上を向かされる。目が合った彼は、宝物を見るように優しい表情をしていた。


「君の受胎の加護は素晴らしいけど、そんな能力がなくたって別にいいんだ。結月と結婚できるなら」

「加護がなくてもいいなんて……じゃあ悠は、どうして私と結婚したいの……?」


 これまで誰からも、無能だからと蔑まれてきた。力がないから愛されなかった。でも、受胎の加護があると判明してからは利用価値があるから急に大切にされはじめた。相手に利得があるから。


 なのに悠は、加護がなくてもいいと言う。そんなの……。


「そんなの決まってる。結月のことが、好きだからだよ」


 一陣の風が吹き抜けて、灰色の世界が鮮やかに色づいた気がした。これまでずっと、呼吸を忘れたかのように息がしづらかったのに、肺に隅々まで酸素が行き渡る。


「……好き?」


「好きだよ。大好き。出会った時からずっと好きだった。麒麟として見出され、家族から引き離されて木蓮家に入り孤独だった僕に、麒麟としての誇りを与えてくれた君が。たとえ虐げられても、懸命に日々を過ごす強い君が、大好きだ」


「悠」

「この先も一緒に蛍を見たり、隣に並んで料理を作ったり、笑いあったりして過ごしたいんだ。君を笑顔にしたい。僕は結月がもう何も諦めなくていいように、結婚を決めたんだよ」

「……っ」


 眼前の美しい青年が、涙で歪む。きっと陽だまりのように優しい顔でこちらを見つめてくれているに違いないのに、ぼやけた視界のせいで分からないのが悔しい。


 結月が堪えていた涙を頬に伝わせると、鮮明になった瞳に映る彼の表情はやはり穏やかで。


「ねえ、だから僕の花嫁になって。幸せにするよ」


 額をコツンと合わせて微笑む悠に、結月は泣きながら微笑み返す。もう十分幸せな気持ちだ。


 麒麟のことは尊敬している。だけど……。


「私もね、たとえ麒麟でなくても悠が好きだよ」


 泣いているせいでたどたどしい口調になってしまったけれど、結月は思いの丈を懸命に紡ぐ。その言葉を聞いた悠は泣きそうな顔をして、そっと甘い口付けをくれる。


 それはまるで、結婚式での誓いのキスのように神聖で幸せなものだった。

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無能の乙女は麒麟の花嫁に望まれる 十帖 @mytamm10

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