第26節
少し食べ物をもらってから、またぐっすりと眠った。ほんのひと晩のような気でいたけれど、三日も寝ていたそうだ。
それからさらにしばらくオベリクとニーベルのところにいた。ふたりの天幕のおうちは街はずれの森のそばにあって、訪れる人はちょこちょこといたけれど、たいていはいつもひっそりとしていた。ニーベルが怒っているとき以外は。
「変だねえ。歌声は出そうだったのに」
ニーベルがまたわたしを見おろしてしかめ面をしている。彼女の骨ばった手が頭のそばにあると、ついギクリとしてしまう。けれど、包帯を替える手つきがその手の持ち主にしては丁寧なのも知っていた。
「歌うなとは言ったけど、しゃべるなとは言ってないじゃないか」
今日のニーベルのしかめ面は、
包帯が巻かれ終わるのを待ちながら大人しくその顔を見返していると、彼女と同じ色の髪を乗せた、無精ひげの丸顔がわきから覗いた。
「殴りすぎたんじゃないか?」
「じゃもっかい殴るか」
「やめろ。悪かった」
たちまちふっくらした丸顔が今にもしぼんでいきそうな弱り顔になる。たぶん、殴る殴らないの相手はわたしのことなのだけど、オベリクは自分のことみたいにしょげている。
そんなこと気にも留めないような気やすさでゲンコツの話をしたニーベルはといえば、包帯の端を結び終えてもまだ、唇を上向きに曲げていた。
「読み書きもまだ覚えられる歳じゃない、か。まあ呼び名は適当にすりゃいいけど、口がきけてもらわなきゃ、身寄り探しがはかどらないんだけどねえ……」
「純血の魔法使いだろうけどな、その髪の色は。着てた服もボロボロだが、元は上等な品みたいだった。間違いなく街の名士の家筋のどれかだろう」
「元名士ね。めぼしい魔法使いの家はどこも壊滅らしいし。まぁ、そっから丸一年も、箱入り娘の命があったどころか、顔の傷ひとつで済んでるってのには驚きだけど」
「その顔の傷もどっかの誰かさんに拾われるまでなかったしな。いでっ!?」
また覗きこもうとしていたオベリクの鼻にニーベルのゲンコツがめりこむ。鼻はまだされたことない。鼻はいやだ。すごく痛そう。でも今のはオベリクが悪いとも思った。
「しかし、どうするかだな」涙目になって鼻を押さえながらも、オベリクはお話を続けた。彼はとても頑丈。
「傷が目にかぶらなかったのは幸いだが、そうは言ってもうちに子供を預かる余裕はないし。ほんとに縁者なしだと……」
「
「言い方があるだろ。それにあそこは、鼻歌事故を防ぐって言い分で子供に
「取り込み中かな?」
おっとりとした声が天幕の外でした。幕の切れ目から日の光が差し込んで、オベリクよりも太い指が覗く。
そのまま幕を割って入ってきたその誰かを見たときには、さすがに口が閉じなくなった。
まず、オベリクよりもずっとおっきな体。ずんぐり横にも、縦にも大きい。
三角帽子を乗せた丸々しているけれど
「座長?」とオベリクが魔法使いさんを呼んだ。驚いているけれど、夜道で家の明かりを見たような落ち着きと少しはずんだ声。立ちあがって駆け寄ろうとした彼を、魔法使いの座長さんは「ああ、いいよオベリク、座ったままで」とおだやかに止めた。「それにもう座長じゃない」
「どうかしたんですか?」
「なに、様子を見に来ただけさ。やぁ、ニーベル。青い髪の迷子のお嬢さんも。ごきげんよう」
もう座長じゃない座長さんは、わたしたちを見て帽子を軽く持ちあげてみせた。わたしは思わずニーベルを見た。ニーベルは、彼女のほうが助けられた迷子みたいなつっけんどんな顔をしていて、めずらしくモゴモゴした発音で「どうも」と口にしただけだった。それを見た座長さんは、嬉しそうに頷いていた。
「
「順調によくなってます」答えたのはオベリク。「まぶたが少しあきにくいようですが、目は見えてますし」
「傷が残る?」
「それは、まあ……」
「フム。命があっただけでも幸いか。実はね、こっちでもそれらしい尋ね人の話を探してみたんだ」
「座長が? それはお手数をおかけして……」
「いやいや。最近は人に会う機会が多くてね。ついでに尋ねるくらいわけないさ。たまにはこう、わかりやすい人助けもしておきたいものだし。なんてえらそうなことを言いつつ、まだこれといった成果もないのだがね、残念ながら」
「そうですか……」
「いいかな、オベリク?」
座長さんはオベリクをうながしたみたいだった。座らずにいたオベリクはすぐに頷いて、座長さんより先に外へ出ていく。
ふたつの足音が天幕から遠ざかって、森の入り口あたりで止まった。声をひそめているのは、霧の中だからというだけじゃなさそうだった。
「ニーベルのほうはどうだね? 様子は?」
「落ちついてます。昔のままというか」
「
「それもなくなったみたいです。念のため、気をつけてはいますが……」
「フム。運がよかったと言うべきだろうね。今、街はとてもよくない」
「ファーフナが?」
「それもある。裏で
「座長自身は、大丈夫なんですか」
「私のことは心配ない。それより、きみの預かっているあの子や、きみ自身の心配を――」
聞き耳を立てていると、不意に両頬を
そのままグイッと首から上を力ずくで動かされる。力を抜いていなかったら首がはずれていたかもしれない。そのことにびっくりする暇もないうちに、ニーベルの金色の両目に覗きこまれていた。
「しゃべれない歌姫ねぇ……カリヨンみたい」
「?」
首をかしげる。かしげられないけれど、頬をはさむ手には伝わる。
「〝口無しのカリヨンは、道化師におだてられるまま歌いました。しかし、道化師は盗人でした〟……知らない?」
首を振る。振れないけれど。
その前に、外でしているのは彼女の話だ。なのに、わたしのことだけを見て「そっか」なんて、なにげない相づちを打っている。遠すぎて聞こえないのだろうか。かあさまはわたしのこと、「あなたはとてもいい耳をしているのね」とほめてくれた。
「まー、ここいらじゃみんなそうか。ずっと東の島国のあたりで伝わってるおとぎ話だよ。あたしら旅一座で歌劇やってたからさ、ネタになりそうなものはかき集めてたんだ」
「ニーベル」
外から声がした。顔をはさまれたまま目だけ動かすと、天幕の切れ目からまたあの緑のもじゃもじゃが覗いていた。さらに幕が大きくひらいて、小さくても明るくて目立つ真っ青な目がわたしたちを映す。いっしょに出ていったもうひとりもうしろにいる。
「その子の行き先だがね、まだいくつか心当たりがある。任せてくれてかまわないが、時間がかかりそうでね。はっきりとした返事ができるまでは、ここから動かさないでおいてほしいんだ。差しつかえなければだが……」
「はぁ? 差しつかえるわよ。あたし子ども嫌いなんだけど?」
「!?」
頬をはさむ両手にぐっと力が加わる。下まぶたを押しあげられたせいで、オベリクと座長さんの顔が見えなくなる。ただ、ふたりいっしょに喉をひきつらせたのは音でわかった。
「なによ、ふたりとも。その〝絶対ありえない!〟みたいな顔は?」
「や、まぁ、そういうわけじゃ……」これはオベリク。彼の気まずそうな顔が目に浮かぶ。
「でも、おれたち以外にあてもないだろ? 姉貴は今仕事ないしさ」
「仕事は探すわよ」
「いや、だから、うちにいてくれたほうがいいんだって。遠くて不便ではあるが、街のゴタゴタには巻きこまれにくいし。それにその子も、姉貴に懐いてるみたいだしさ」
「どこがよ? 口がきけないのはあたしが殴るせいだって、アンタが言ったんじゃ――」
ふたりの言い争いはいつものことだけれど、今は顔をはさんでいるニーベルの両手の力がじわじわ強くなっている。このままだと唇が横にひらくようになるかもしれない。そうなった自分を想像しかけて、しきらないうちにとても嫌な気持ちになったので、ニーベルの服の端っこを探して引っぱると、「は? なに?」と不機嫌なだけの声を聞かされながらほっぺを解放してもらえた。不自然に固められた顔のお肉がゆるんでいくのを待ちながら、たっぷりと息をつく。
「ほ、ほらな!」と高い声をあげるオベリク。見れば、彼はわたしのほうを指差していた。わたしの手が、ニーベルのシャツのすそをつかんだままだった。
「その子も姉貴といっしょにいるほうが安心なんだよ。そう思いますよね、座長?」
「お、おお、そうだそうだっ。親子に見えないこともないし――おっぷ!?」
何度もうなずいていた座長さんが突然目を丸くして自分の口を手でふさいだ。同じように目を大きくして青ざめたオベリクが座長さんをにらむ。どうやら座長さん自身でもまずいとわかっていることをうっかり言ってしまったらしかった。
不意に、手の甲に冷たいものが触れる。見れば、服のすそをつかんでいる手に、ニーベルの細い指が重なっていた。
「アンタねぇ、ここにいないほうがいいわよ? 飯はまずいし、スケベなやつしかいないんだから」
ごはんはまずい。それは確かにそう。ニーベルが作ると、なにかわからないものを拾って食べていたときと、あまり変わった気がしない。オベリクはそうでもないけれど、かあさまが作ってくれるごはんとはやっぱり違う。
だから、ここにいないほうがいい? わからない。かあさまのごはんが食べたい。
けれど、今はまだいい気がする。それより、さっきのお話の続きが気になった。教えてほしかったので、服のすそは離さずにいた。
「……わかった、わかったわよ。あたしが預かりゃいいんでしょ? わかったから離してよ。服伸びるってば」
ニーベルの骨ばった指が、わたしの指のあいだに入ってこようとする。でも違う。カリヨンのお話の続きが聞きたい。シャツをぎゅっと握り直す。
「ちょっと?」ニーベルの指により力がこもる。こじあけられないように、わたしは指と指をぴったりくっつけて力いっぱい握り締める。カリヨンのお話の続きを「だから、わかったから離してって……こンのッ!」
それからしばらく指同士の押し合いを続けて、顔を真っ赤にしたニーベルがわたしの頭にゲンコツを落とすまで続いた。苦笑気味に眺めていた座長さんは口をあんぐりあけて真っ青になり、隣りでオベリクは顔を覆って大きなため息をついていた。
◆◆◆◆◆
ねえ、オベリク。
カリヨンの歌を知ってる?
そう。あの人が好きだった。
そう。あなたも知らないの。
いいのよ。謝らなくて。
いいの。もう、届かないから。
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