第25節


 次に見えたのは、布でできた天井。

 簡単な木の骨組みに固い布を張っただけの、円形の天幕テント。そんなに広くはない。わたしはその真ん中で、地べたに敷いただけの粗布に寝かされていて、頭にも布が巻かれていた。片目があきづらくて、見える部分が少し減っている。ただ、そばにひとつ結びにした干し草色の髪と広い背中があるのにはすぐ気がついた。ひとつ結びが揺れたのは、ちょうどその人が振り返ろうとしていたから。


 あめ色の小さな目がわたしを見おろす。少しおひげの映えた丸顔が、途端にぱっと明るくなった。


「お? 気がついたか」


 男の人は手に持っていた木の器を近くに置くと、そのままわたしから離れていった。幕の切れ目のそばまで行って、「おい、起きたぞ」と外に向かって呼びかける。返事が欲しいらしくて、何度も同じように呼びかけていると、不意に幕の切れ目から突然痩せた手と赤い袖がにゅっと出てきて、男の人のおでこを突いた。


「いでっ!? てめっ、ニーベル!」

「騒ぐんじゃないよ。旋律になるだろ?」


 声と入れ替わりに手が引っこむ。かと思えば、同じ切れ目を割って、あのしなびたような髪を肩でぶつ切りにした頭が出てきた。赤茶色のシャツの襟もとまでボタンをとめて、似たような濃い色のスカートをはいているのまで、初めて会ったときのままだ。

 その人は、男の人に『ニーベル』と呼ばれた。男の人が「気をつけてるよ。殴るこたないだろ?」とおでこを押さえて文句を言っているのを押しのけてわたしのそばに来る。わたしと同じ金色の目と目が合うや、女の人は舌打ちをした。


「アンタ、自分がなにしたか覚えてる?」


 喉の奥がびりびりしていそうな低い声。吊りあがった眉の下は触るとトゲの出ないところなんかひとつもないような顔をしている。とうさまやかあさまじゃ見たこともない。


 とにかく早く答えてほしそうなのもわかったけれど、困ってしまった。

 どうしようかなと悩んで、けれど、すぐにいいことを思いついた。まずは、長くゆっくりと息を吸う。

 途端、おなかに重いものがめりこんで、息と中身がいっしょに出かけた。


「だっ!? 馬鹿! なにしてんだ!?」

「コイツ今歌おうとした」


 慌て声が駆け寄ってきたけれど、女の人の声でぴたっと止まる。わたしは背中をまるめて必死に息をしようとはしていたけれど、目がぐるぐる回って痛いのかどうかもよくわからない。どうにかこうにか、落ちてきたのは女の人の握りこぶしだとだけ気がついた。


「……だ、だからって、なんでもかんでもすぐ殴るな。相手は子どもだぞ?」

「ぜぇったい歌う用の息継ぎブレスだった今のは」

「人の話を聞けッ。口をふさぐだけで済むだろうが……」


 どうにか深く息を吸って、軽くむせそうになりながら薄目をあけてみた。困った様子の男の人の横顔が見えたかと思えば、さっき舌打ちをしたときのままの女の人の顔で目の前がいっぱいになった。


「アンタね、こっちは命がけで助けてやったのよ。それをまたどういうつもり?」

「……?」


 どういうつもりと聞かれても、また困り果てる。この人は誰に怒っているんだろう。


「まだ寝ボケてんの? うわごとかなんか知らないけど、裏通りでぶっ倒れたまま歌ってたんだよ、アンタ。行き倒れのほそっこい声でも二、三体出たりするんだから。アンタをまっぷたつにしようとしてたクソッタレをブッつぶして、ふたりで逃げたでしょうが」

「…………?」


 くそったれ――

 くそったれとは、なんだろう? だれだろう? 誰がわたしを、まっぷたつ?

 わからない。困ってしまう。わたしはただ、歌いたい気分だっただけなのに。


「なんなの、いったい? なにがわかんないわけ?」

「ほんとになにも覚えてないとか?」


 男の人がさりげなく顔を覗かせる。こっそりお菓子を渡してくれるような、固いながらもやさしい目もとと声。

 だけど、覚えてないわけじゃない。確かに歌ったような気がするし、それからとうさまの一番なかよしに似たジフが現れて、女の人が現れて、女の人といっしょにたくさん走った。

 だから首を振った。わかっていたけれど、男の人は途方に暮れた顔をして、女の人はますますとげのあるしかめっ面をした。


「覚えてはいるのか」

「じゃあなによ? 殴ったのは謝んないからね?」

「いやそれは謝れ」

「コイツが歌ってたのがあんな歌じゃなかったら殴ってなかったわよ」

「あんな歌って、なんだよ?」

鎮魂歌レクイエム


 答えるとき、急に女の人の声が冷えた。

 でも、ゾクリとしたのはだからじゃない。こっちを見おろす金色の目。明るい色のはずのそれが、なにもかもを飲みこむ暗い穴に見えたから。


「アンタあれ、自分のために歌ってたろ? ふざけんじゃないよ。鎮魂歌ってのは、生きてる人間が死んじまった人間のために歌うもんだよ。いくら死にそうだったからって、アンタまだ生きてんでしょうが」


 またおなかの上に手が当たる。でも今度は指先が乗っただけ。骨ばった一本指が、おなかと胸のあいだのところをトントン叩く。


「いいかい? 歌には、歌うべき時と場所ってのがあるんだ」

「始まったよ……」


 男の人のため息が聞こえる。ただどうしてか、顔は見えなかったけれど、少し嬉しそうに聞こえた。


「アンタがあのときあの場所で歌ったおかげで、アンタはこうして生き延びてる。歌に気づいたあたしが、石を拾って駆けつけた。あのときあの場所は間違いなくアンタが生きるための〝舞台〟だったんだ。なのに、選んだ歌は自分のための鎮魂歌? 歌をバカにしてるにもほどがあるよ」

「子供にわかるか、そんなこと。聞いたことのある歌だったってだけだろ?」

「じゃなきゃ、今首をかしげてたのは、生かされた意味がわからないってことのほうじゃないのかい?」


 男の人の、また息を飲む気配。わたしは要領を得ないまま耳を傾けている。

 女の人の言うとおりなのかな? よくわからないけれど、怒っている顔から目を離せない。


 そのうち、女の人のほうがそっぽを向いた。そのまま、さっき来た道を引き返してく。


「甘ったれんじゃないよ。どこでなに歌ったって、死ぬための歌なんかあるもんか」


 最後にそう言い残して、殴るみたいに幕を押して外に出ていった。幕の揺れが収まるのを待って、男の人が肩をすくめた。


「悪いな。あいつ、歌のことになると無茶苦茶でさ」そう言ってこっちを振り向いてから、ちょっと慌てた様子で、「あぁ、だが、ここで歌うのはほんとに勘弁してくれ。わかるよな?」


 歌うのは、ダメ。

 どうしてかわからなかったけれど、困り顔で笑いかけてくる男の人を見ていると、なんだか申しわけなくなってきたので、頷くことにした。男の人はやっと本気で安心したらしい声で「よかった」と言った。


「いやな、あいつあれでも元歌手なんだ。歌劇で歌っててな。その自分が歌えないから、きみをやっかんだってだけさ」


 急に明るくなった声でそう教えられる。どうしてそんな話をするのかと思ってじっと見ていると、「またよくわかんないって顔だな」と言って彼は苦笑した。


「要するに、あの歌バカはきみの歌声に惚れたってことさ。でなきゃ自然に体が動いて、見ず知らずのきみを救うためにジフに立ち向かったりなんかするはずない。そこ、秘密にしないとゲンコツだって言われたんだけどな」


 男の人は片目をパチッと閉じてみせた。ゲンコツ。降ってくる握りこぶしのこと。ほかのことはわたしのこととも女の人とも全然結びつかなかったけれど、男の人はひとりで満足そうな顔をしていた。


「とにかく、あいつはきみのこと嫌ってるわけじゃないから、きみも怖がらないでやってくれ」


 こわい? どうだろう?

 ゲンコツは怖い。痛いし怖い。もう嫌だ。

 でも、あの女の人は怖くない気がする。どうしてだろう。あんなに細く痩せていても、この男の人よりずっと強そうなのに。


「おっと。人の話ばかりしてたな。おれはオベリク。あっちのおっかないゲンコツ女がニーベル。一応あっちが姉貴の姉弟きょうだいだ。で、そろそろきみの名前も教えてくれるかな?」


 たくさん怖い目に遭った。たくさん、たくさん。

 もう嫌だって思うのさえ忘れるくらい。痛いって感じることさえ薄れて見えなくなるくらい。

 ゲンコツは痛い。痛くて、怖くて、くっきりしていた。


「あ、あれ? おーい」


 首をかしげた彼がわたしを覗きこんでくる。その目は金より赤みの強いあめ色だった。映りこむものすべては跳ね返らせず、よどませて、おだやかに受け止める色。

 じっとその目を覗き返していると、やさしいオベリクはまた、困り顔で笑った。

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