第二幕 ニーベル
第24節
お空に浮かんだかあさまを覚えてる。
まるで夢の中の出来事みたいだった。いつもゆるやかなしぐさで、お庭を歩いたり、頭をなでてくれたり、そよ風のように歌う人だった。あんなふうに、水に落ちたちいさな虫みたいにバタバタと暴れながらねじくれていくところは見たことがなかったから、きっとあれは本物のかあさまじゃなかったのかもしれない。
お庭に駆けこんできた優しいとうさまも、本物じゃないみたいな顔をして、舌が飛び出してきそうな声で叫んでいた。
すぐさまとうさまは青く光って、一番なかよしにしている大きなジフを呼び出した。目に涙をいっぱい溜めて、かあさまをお空に持ちあげているジフを指差してまたなにか叫んで、それからお野菜みたいにばらばらになった。
飛んできたとうさまの本物かどうかわからない頭がわたしに言ったのを覚えている。
「にげろ」
気がつくと、いつもひとりで出てはいけないと言われていたお庭を飛び出していた。
どこまで逃げるのか、なにから逃げているのかもわからないままずうっと走った。周りでは何度も大きな声や壊れる音がして、ときどき火の粉がぱっぱっと散って、それから人や人のかけらみたいなものがどこへ行っても落ちていた。真っ赤な色が目にたくさん映って、なにがどんな形をしているのかまでは見ないようにして、走りつづけた。
走って、走って、とうさまがいいって言うまで走りつづけた。時々走っていられなくなって、じゃりじゃりする水を飲んだり、生臭いものを拾って食べたりした。暖炉のそばで誰かがぐにゃぐにゃになっているおうちで眠って、また走りつづけて、走れなくなっても歩きつづけて、いつかとうさまがいいって言うまで、本物の母様がえらかったね、痛かったねって頭をなでてくれるまで、最後の足の爪をはがしても歩いて歩いて、いつのまにかあたりが真っ白になっているのに気がついたとき、見えづらい足もとでなにかを踏み抜いて、顔からなにか固いものにぶつかって止まった。
すごく静かだった。
左目の上が妙に熱い。それ以外、いつもずっと鳴っているおなかの音もしなかった。耳が痛くなりそうなくらい、なんの音もしない。ずうっと叫んでいた人たちも、風に崩れ落ちる黒焦げのおうちも、みんなみんないなくなって、まるで世界がわたしだけのものになったみたいに。
こういうとき、なにをするんだっけ。かあさまは、どうしたらいいと言っていたっけ。
ああ、そう、思い出した。
おうたをうたうんだね。
かあさまの教えてくれたうた。やさしいこもりうた。
とうさまのジフが現れて、わたしをそっと持ちあげる。おうちにつれてかえってくれるんだね。かあさまと、とうさまのいる、あたたかなおうちに……。
「――どういうつもりだ、ふざけんなあッ!!」
急に大きな声がした。
少しざらりとした、でも、それがふしぎと心地のいい声。
途端、浮いていた体がひゅうっと落ちた。おしりから地面にぶつかって、痛みにびっくりして思わず顔を起こしたとき、すごい顔をした女の人が目に飛びこんできた。
赤い服を着た、とても痩せた女の人。髪まで痩せているみたいにしなびた
女の人は、その細い両腕で大きな石を抱えて、ジフの頭にたたきつけていた。何度も、何度も。そうしてジフが光の粉を吐きながら動かなくなると、女の人はすごい顔のまま今度はわたしに飛びかかって、腕をひっぱった。
「立って! 走るよ!?」
言い終えるより早く、彼女は走りだしていたと思う。わたしはおしりをついたままだったのに、無理やりひっぱりあげられて、腕がはずれるかと思った。熱い片目がうまくひらかなくて、何度も転びそうになって、けれど、転ばなかった。もう走れなくなったと思っていたのに、ぐんぐん走りつづけた。今にも折れそうな細い指が、わたしの腕をずうっとつかんでいたから。
どのくらい走ったんだろう。大きな穴のあいた小屋に飛びこんだところで、女の人がへたり込んだ。途端に火の出そうな息をし始めて、合間に「もう無理。死ぬ……」とかなんとかぼやいていたと思う。わたしもうずくまっているあいだ、おなかの中身が目から出ていきそうだった。
どうにかふたりとも落ち着いてきた頃に、女の人が外の様子をうかがって、「……来ないね」とつぶやいた。だからわたしも顔をあげようとしたのだけど、ちょうど上からなにかが落ちてきて、目の奥が白くまたたいた。
「なに考えてんだい、アンタ! あんなとこで、あんな歌――」
声が途切れたのは、白くまたたいた視界が、真っ黒になったから。
どこか遠いところで、あの女の人の慌てた声がする。白から黒へ変わるあいだの一瞬、ほどけていく握りこぶしを見た気もする。熱かったおでこを忘れるくらい、頭のてっぺんから割れていきそうなくらいに、痛い、痛いなあ、痛いってこうだったな、なんて思い出しながら、最後の糸がプッとちぎれたみたいにわたしはどこかへ落ちていった。
それが始まり。わたしとあの人――ニーベルとの出会い。
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