第23節


 祈りの言葉は紙に書くようになった。ジフの反乱以前は、参列する人々で声をそろえて唱えたらしい。

 らしいというのは、反乱以前には縁がなかったから。生まれて初めて並んだ葬儀は両親のもので、そのときにはもう、誰もが声を出すのを恐れていて、すすり泣く人さえいなかった。


 姉さんのひつぎに、ぼくは祈りを添えられなかった。

 ともに土に埋めるはずのその紙を握りしめて、墓地の外の木かげにずっと座っていた。霧の向こうにぼんやりと浮かぶ、長い長い塔を眺めながら。


「ここにいたか」


 ぼくはいつからこうしていただろう。声をかけられて気がつくと、木かげのすぐ外にファゾさんが立っていた。

 めずらしく平服を着て、葬礼用の杖を脇に挟んでいる。杖は墓場の土につけないのが習わしで、死者を足蹴にしないことを示す意味があるという。


 葬儀はすべて、ファゾさんが取り仕切ってくれた。

 参列せずにいるぼくをファゾさんは、無理に連れていこうとはしなかった。手順どおりに粛々と進め、型どおりの祈りを添えて姉さんを送った。岩のように表情を変えない彼はまるで人の姿に似ているだけのなにかみたいで、本物の彼がどこにもいない気がすることにぼくは、いくらか、安心してもいたんじゃないかと思う。

 今も目の前に現れただけで、それ以上なにも言わないファゾさんは、たちまち昔からそこにあった立ち木のように風景の中に溶けていった。固い表情はそれこそ古い木の幹の模様じみていて、目立つ明るい緑の目も、視線がそうでもぼくを映してはいないものと、勝手に信じこもうとした。


「子守歌だと思う」

「え……?」


 驚いたのは、言葉にだったか、震えていない声にだったか。

 顔をあげて、初めてファゾさんを見たような気がした。彼はまるで、ぼくがここに来るよりはるか以前からそこにいたような顔で、静かにぼくを見つめていた。


「聞かせてあげられたらいいのにが、あいつの口癖だった。母親の歌が好きだったからと」


 歌――歌だ。

 ファゾさんの口から、懐かしいもののようにその言葉が出たことにぼくは驚いていた。

 ただ、おかしいとは思わなかった。だってこれは姉さんの話だ。

 歌のことも、父さんや母さんのことも、ぼくたち姉弟のあいだでは触れないようにしてきた。ぼくにとっては誰に対してもそうだったけれど、姉さんにとってのファゾさんは特別な人だ。時にはぼく以上に。ぼくの知らない姉さんがいることを、ぼくはよく承知していた。


「おふくろを抱えてこの街に流れ着いたおれに、あいつは自分の母親の話をしてくれた。おかげでおれは、おやじや弟がいた頃のおふくろを思い出すことができたんだ。あいつだって、失ったもののはずなのにな」


 そして、ファゾさんの話でもあった。


 彼の口から出てくる言葉を、この木陰に座ってから何度も、何十度、何百度となく、かすんだ頭の中で聞いていた。聞き飽き切って言葉とも取れなくなったそれは、慰めと、責める言葉だ。本物が現れたら、同じ言葉を聞かされ、余計に一度分薄められることになるはずだった。そのことに、ぼくはわずかに湿り切っていない心のどこかでうんざりするはずだった。

 それなのに、ただ懐かしいもののように、姉さんとファゾさんのふたりの話を教わっている。まるで、なんの抗いもなく偲ぶみたいに。


「あいつにとって、母親はいつまでも憧れだった。いなくなっても、自分もあんな母親になるんだと言っていた。その母親が教えてくれたものを、いつか自分の子にも伝えたい。それがあいつの夢だった」


 うんざりするだけのはずだった。

 薄められて、父さんや母さん、最初のジフたちの蜂起で死んだ人たちみたいに、背景になっていくだけの。


「約束したんだ。おれが必ず、その夢を叶えてやるって。おれは歌が嫌いだが、おれとおまえの子に、歌を歌ってやれる世界にするって……」


 蘇る。

 ほんの昨日のこと。姉さんの容体が変わったことをかかりつけの医師に知らせ、先に戻ることにして同じ道を逆向きに駆けているとき、騒ぎを聞いた。

 霧深ければ、煙突の煙もわかりづらい。けれど、その黒い煙は空にはっきりと見えた。

 警戒を伝える鐘が鳴り始める。街の中にジフが現れたときに使われる鐘。


 必死で駆けこんだ噴水広場で、かつて仕立て屋だった民家が燃えているのを見た。

 胸の奥が知らないぐらい凍りつくのを感じながらもためらわず家の中に飛びこみ、ニーベルと姉さんに呼びかけた。そして姉さんの寝室の扉をあけて、寝台に横たわる姉さんを見つけた。


 絶叫する自分の声を覚えている。

 切れ切れの記憶。炎と、斬り殺したジフたちの青白い輝き。

 焼けた剣を握り締めた両手はひどい火傷を負ったのに、その痛みはまるで思い出せない。


 代わりに思い浮かぶのは、首と四肢を青白い影たちにつかまれ均等に引きちぎられていく姉さんの体。赤いわたの詰まったぬいぐるみでないなら悪い冗談みたいな脆さで元に戻らなくなっていく、ぼくがかつての美しさを知っているその人だったはずのもの。六つの断片をかつてと同じ並びで棺に納めてもねじれて伸びきったまま焼けてしまった肉のどこにも姉さんはもう姉さんはぼくが姉さんを――


「安心しろ、ディオン。約束は守る」


 かたわらに息吹を感じて、頬を焼く熱風がふつりと消えた。

 目線をあげる。いつの間にか、抱えた膝がしらのすぐ向こうにファゾさんの足が見えた。


「病んだおふくろを抱えて荒み切ったおれに、ヘルンが手を差しのべてくれた。ヘルンがいなければ、今のおれはいない。そのヘルンとの約束だ」


 足が向きを変える。ぼくにかかとを見せ、彼はもう歩きだしていく。背中が見られなかった。焼き焦がされた細い体が、伸びきった両腕と両脚でそこにしがみついている気がして。


「おれが必ず、ジフを根絶やしにする。それを待てず歌いだすケダモノどももな」


 彼は進む。背負うものを振りほどきもせず、振り返りもせず霧の奥へと去っていく。

 ぼくの肩にはなにもない。もうなにひとつ残っていない。

 燃えさかり崩れ落ちる家の中を駆けめぐり、なにもかもが灰になっていくのを捨て置いて探しても、ぼくの歌姫はもう、どこにも見つけられなかったのだから。






【第一幕 ディオン ――終】

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