第22節


 オベリクの目撃情報があった。

 ファゾさんが姉さんと婚約をした五日後だ。


 姉さんの体調は浮き沈みはあるものの、おおむね良好を保っていた。それでももう少し暖かくなってからにしようと、結婚の段取りなんかはまだ特に進めないらしい。ファゾさんの提案だ。

 そのファゾさんは、ぼくらの警護にはいつも通り自分の隊をあてがいながら、今日は他の隊とオベリクの追跡に出ていった。だから今日は、ぼくと姉さんとニーベルの三人で家にいる。


 ニーベルに異音塔行きを一回休んでもらって、ぼくの調子もだいぶよくなった。家で聞く異音塔の音にいまだビクついてはしまうけれど、幻聴は昨日から聞こえていない。

 ぼくが休みを頼んだとき、ニーベルも快く聞き入れてくれた。あまりにあっさりしていたので思わず何度も聞き直してしまったのだけど、彼女は変な顔ひとつせず、「そろそろいい」と付け加えただけだった。

 そろそろ、とはなんだろうか。「ありがとう」とほがらかに続けた彼女を見て、しばらく意識が遠のいたぼくは、そのときそれ以上を聞けなかった。


「見て見て、ディオン?」


 明日はまた異音塔だ。その前にニーベルと話をしようかと思い出していたときに、姉さんから声がかかった。

 ぼくは居間にいた。姉さんとニーベルは、姉さんがなにかを手伝ってほしいと言って、ふたりで寝室にこもっていたはずだ。ぼくも手があいていたので手伝おうかと言うと、口をとがらせた姉さんに「まあ。スケベね」のひとことで追い払われてしまった。

 めずらしい、というか、数年ぶりに見るような浮かれた姉さんだ。戻ってきた声も今のぼくの年頃みたいにはしゃいでいて、だからぼくは少しギョッとして振り向いた。そして――まぶたが裏返りそうになった。


「どう? 素敵でしょう?」


 上気した笑顔でそう聞いてきた姉さんは、濃い緑の地に白いエプロンをつけた婦人服ドレス

 袖も裾も末広がりの上品なシルエット。スカートが裾にひだ飾りフリルのついたエプロンと合わせてきれいによく広がる。袖は二重袖で、内側のタイトなねずみ色の筒に、たっぷりとした深緑色の生地が重なっている。襟も身頃と色を変え、襟もとには濃い青のリボンも結ばれている。

 肩にはエプロンから出た二重のひだ飾り。その左右それぞれのすぐ上に、青くさらりとした髪の房と、くるくると巻いた白い房がある。

 結び目は少し低めだ。ニーベルの二色の髪を上手にまとめて、最後に薄緑色のリボンを結んでいた。


「あら。言葉もないみたいね?」


 姉さんがくすくす笑っている。


「わたしも少しびっくり。もっとなまってると思ってたから。それか、ニーベルはなにを着ても似合っちゃう子かしら?」


 姉さんの子供服だ。見覚えがある。

 でも、それを着ていたときから姉さんはもう、同い年の子たちの中でも背が高かった。だから元から少し上品な大人用の婦人服だったものを、少女らしく仕立て直したんだ。ぼくらの母さんが。

 それは母さんの、最後の仕事でもあった。


「着ない服は、死んじゃうから」


 姉さんがそう言った気がした。まだ着れたはずのその服を、ジフの反乱以来着ている姉さんを見たことがない。もしあの頃に戻れても、もうドレスは小さなニーベルの体にぴったりと合っている。

 本当に、最初からニーベルのために仕立てられたような服だと思えた。着心地もいいのだろう。ニーベルも、無理に着せ替え人形にされたようには思えない、おだやかな顔をしてたたずんでいた。その肩に手を置いて、わがことのように自慢げに頬を寄せる姉さんと見比べながら、ぼくはふたりが本物の姉妹か、あるいはもっと年の離れた、特別な関係にあるように錯覚した。


「……あ、でも」


 不意に我に返ったのは、姉さんの額に汗で張りついた髪を見たせいか。両親の仕事道具はめちゃめちゃにされて、ろくなものは残っていなかったはずだ。


「姉さん、大丈夫? ちょっと無理をしたんじゃ……」

「こら、ディオン?」途端に姉さんから非難が飛ぶ。「今そんな話を? 照れて感想が言えないのを病人のせいにされるのは、気分がよくないわね」

「う……そんなつもりじゃ――」

「聞いた、ニーベル? ああいう卑怯者を許してはダメよ? かわいいって言ってもらえるまで、絶対口をきぃ、ちゃ……っ……」

「姉さん!?」


 がくんと、姉さんの鼻先が下へ落ちる。その瞬間にぼくはもう、カウチを飛び越えていた。

 服にしわがつくのを気にしたみたいに、姉さんはニーベルから手を離していた。支えるものがないまま崩れ落ちていく体を、ぼくは床にぶつかる寸前で抱きとめた。


「あ……ら? おかしいな……ベッドの上で、手を動かしてただけなんだけど……」

「いいから。ゆっくり息をして。立つよ?」


 落ちつかせるよう静かに言って、ぼくの肩に腕を回させ、はずみをつけて立ちあがる。手慣れた動作。だけれど、以前よりもなめらかに動けると感じたとき、本当にぼくが慣れただけだろうかと不安になる。

 姉さんは肩で息をしていて、なのに体は少し冷たかった。吐息には絞り出すような音が混ざる。ただなぜか、うわごとのように話すのをやめない。


「ねぇ、ディオン? ニーベル、本当に似合ってたでしょう? 初めてあの子を見たとき、ピンと来たのよ。あの服、わたしには、似合ってなかったから……」

「そんなことない。姉さんにも似合ってた。緑は姉さんの目の色だ。だから母さんは――」

「お願い。かわいいって、言ってあげて? ニーベルはかわいいから、誰よりも似合うって。あの子に着てもらえて、服が喜んでる、って」

「言うよ、必ず。姉さんの前で言うから。だから今は休んで。お医者様を呼んでくるから」


 寝室に姉さんを運びこみ、そのまま寝台に寝かせる。意識が混濁し始めたのか、もう意味のある言葉は聞き取れなかった。ぼくは一度だけその手を握ってそばを離れ、廊下までついてきたニーベルに留守を頼んで、ろくに返事も聞かないまま家を出た。




    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






 ――……くるしい。


 ――くるしい。いやだ。


 ――くるしい、くるしい、くるしい。


 ――くるしい。たすけて。


 ――たすけて。ディオン……ファッゾ……!




「どうしたの?」




 ――あぁ、ニーベル……。


 ――ディオン……ディオンは、どこ?




「ディオン……」


「ディオンって、誰?」




 ――ディオン……。


 ――ディオンは、わたしの、弟。


 ――たったひとりの。あぁ……なのに!




「弟……」


「あなたの、大切な人?」




 ――そう。たったひとりの。


 ――あぁ、なのに、わたしは……!


 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!




「どうして、謝るの?」




 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!




「どうして、泣いているの?」




 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!




「どうして、迷っているの?」




 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!


 ――こんなはずじゃなかった……こんなはずじゃなかったのに!


 ――お父さんとお母さんのお店を元に戻せなくてもよかった……。


 ――弟とふたりで、生きていたいだけだったのに!


 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!




「つらいのね」




 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!




「悲しいのね」




 ――ごめんなさい……ごめんなさい……!


 ――これが罰なのはわかってる。ディオンだけじゃない。わたしはファッゾも裏切った。


 ――約束をしてくれたのに。果たされる資格も、果たしてくれたあとも、彼のそばにいる資格なんてわたしにはなかった。すべてをなかったことにしようとして、なにもかもを、消してしまった!


 ――わたしには、ほかになにもなかったのに。なのに、それなのに……!




「罰……」


「そう。だから、なのね」


「そんなにもあなたには、聴こえているのに」




 ――あぁ……あぁ!


 ――ゆるして……ゆるして!


 ――わたしにはもう、なにもなかった。残されていなかった。


 ――どうかもう、奪わないで。どうかもう、捨てさせないで。




「だから、なのね」


「自分の手で、消してしまった」


「でも、まだ届くわ」




 ――……とどく?




「届くわ」


「たとえ雨に吸われても」


「たとえそれが罰だとしても」


「届かないから、余計に届けたいと願うのなら」




 ――ねがえば、とどく……?




「届くわ」


「届かないことが罰だというなら」


「わたしが届けるから。雲のかなたに。見えない星に」


「だから、教えて?」


「だから、聴かせて?」


「あなたの【ねがい】を」


「あなたの【音】を」




 ――とどく……。


 ――わたしの……わたしの……。


 ――いつか、きかせてあげたかった……おしえてあげたかった……。


 ――わたしと……かれの……。


 ――いつか……この……。


 ――…………。


 ――…………。


 ――…………。


 ――…………。









 

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