第21節


 帰り着くや否や、留守を頼んでいたせいたいいんから「おめでとうございます」と言われた。

 ポカンとしているうちにその隊員は行ってしまって、戸惑ったまま家に入ると、居間で姉さんが起きて座っていた。


 姉さんひとりだ。姉さんに咬みつかれてからファゾさんもニーベルの監視同行班に加わったけれど、今日は彼の当番じゃない。本隊で仕事があって来られなかったのかなと思いながら姉さんに近づくと、姉さんはぼくとニーベルが帰ってきたことに気づいてなかったみたいに目を丸くした。


「ディオン? 今帰ったの?」

「うん。ごめん、遅くなって」

「いいけど……あら? 怪我したの?」


 かばって立っているつもりだったけれど、姉さんには見破られる。仕立て屋として育てられた人の目に、階段から落ちてできた服のほつれや汚れ方はごまかせない。

 やっぱりニーベルに、異音塔通いを一回休ませてくださいとあとで頼もう。姉さんに苦笑を返しながらそう決心した。


「転んだだけ。打ち身だけだから、心配ないよ」

「ほんとに? 無理してない? なにかで冷やしたほうがいいんじゃ……」

「征禍隊の人もいっしょだったんだから、見てもらったってば。姉さんこそ、なにかあった?」

「あ……」


 妙に気弱なので率直に聞いてみると、姉さんは言葉に詰まった様子でうつむいてしまった。どうもこの家にいてなにかあったらしい。ただ、姉さんの顔色はどことなく、悪いことがあったというのではないようにも見えた。


「あの、あのね……大事な話が、あるんだけど……」


 らしくもなく遠慮がちにそう言うと、姉さんはチラチラとぼくのうしろを気にするしぐさを見せた。そちらにはニーベルがいる。軽く振り向いてそのことを確かめながら、「えと……ふたりきりがいい?」と尋ねると、姉さんは子どもみたいにぶるぶる首を振った。


「ううん。できれば、ニーベルにも聞いてほしい。もしかしたら、――ぅとになるかも、だし」

「?」


 急に声が小さくなって聞き取れなかった。声だけでなく、姉さん自身が小さくなったみたいだ。

 あるいは最初からずっと、こんなに小さくて弱々しかったのかもしれない。今の姉さんは、ただ体が弱っているだけじゃなくて、ずっと身にまとっていた固くて重いなにかを外しているみたいに見えた。


「ファッゾがね、ファッゾが……結婚しよう、って」

「へ……?」


 姉さんは今にもこぼれそうなくらいうるんだ目でぼくを見た。ぼくはにぶい驚き方をしてしまったけれど、同時に胸の奥にジワリとした暖かさが広がるのを確かに感じた。


「あのね、あのね? ファッゾ、今度昇進するんだって。だから、だからそれで、介助人を雇えるくらいになるだろうからって。お母様のほうは、ずいぶん立ち直られたそうだし、必要ないから、だからディオンも、ずっとわたしのことでたいへんだったけれど、もうなにも心配らないって。だから、だから……」

「わかるよ、姉さん。大丈夫。落ち着いて」

「あぁ、やだ、わたし。お金の話ばっかり……」


 別にファゾさんは、自分の稼ぎが足りないことで尻ごみしていたわけじゃない。むしろ自分をあてにすることで、利発な姉さんがうしろめたい気持ちを抱える羽目になるんじゃないかと、ぼくには話していた。だからつまり、その心配ごと抱えこむ決心がついた、ということなのだろう。


「じゃあ、姉さんは、『いいよ』って答えたんだね?」


 確認のつもりで尋ねると、姉さんは、ついに口を押さえてしゃくりあげ始めた。ぼくはその手を取って、温めるように握ってあげた。握り返してくる力は本当にはかなくて、それでもそれが今の姉さんの精いっぱいだと、ぼくは知っていた。


「こんな、こんなになったわたしで、いいの?って聞いたの。でも、でも、あの人……!」

「いいよ、言わなくて。ぼくもうれしい。おめでとう、姉さん」

「ごめんね。ごめんなさい。今までありがとう、ディオン……!」


 ずっとふたりで生きのびてきた。本当はぼくも不安だったんだ。

 泣きじゃくる姉さんを抱きかかえながら、長いことこの髪の甘い匂いを忘れていたと気がついた。


 大丈夫。姉さんはまだここにいる。ファゾさんは、なにがあってもこの人をつなぎとめてくれるだろう。ぼくの心からもなにかがころりとはずれた気がして、晴れやかな気持ちでいっしょに聞いていたもうひとりを振り返って――戸惑った。


 被り布を脱ぎ去って、ひとつしかない金色の虹彩と瞳が、ぼくと姉さんを見つめている。光も、なんの感情もない静かな瞳。

 単に呆然と眺めていただけかもしれない。なのに、そのくらい奥底の果てには、映るはずのないものが映りこんでいる。それがなにかもわからないまま、なぜだかそんな予感だけがして、ぼくは乾いた口の中でつばを飲んだ。

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