第20節


 ニーベルは異音塔に通い始めた。もちろん、ぼくとふたりで。


 することは同じだ。昼頃に足場の一番上まで行って、異音塔が鳴り始めるとニーベルが声を出す。聞こえないけれど、いつも一音を吐きつづけるだけで、歌っていると言えるような気配はない。

 だいいち、立っているのもやっとの轟音の中ではそれがとても長い時間に感じるけれど、実際には百も数え切らないほどの短い時間だ。ニーベルの歌はその尺に収まりきらないだろう。彼女も声出しができればそれで満足らしかった。


 ファゾさんへの言い訳には、さすがにだいぶ苦労した。

 出かけるだけでもいい顔はされないときだ。加えて護衛兼監視役でついてくるせいたいいんたちが、持ち回りとはいえ毎度、誰も近寄りたがらない異音塔のふもとに、よりにもよって鳴る時間に連れていかれることにたちまちぐったりしていた。

 ぼくにしても、ニーベルのお供をしている自負がなければ寝こんでいなかった自信はない――だけに、非難も予想できていたので、「いろいろあったニーベルは大きな音には慣れているし、霧が晴れていくのを見るのが人一倍好き」という話をあらかじめ用意はしておいた。けれどもファゾさんを説得するには足りなかったらしい。


 意外な助け舟を出してくれたのは姉さんだった。


「ファッゾ? あなたがついていけばいいでしょう?」

「いや、だから、おれはおまえを……」

「おまえをじゃないわ。わたしのことこそ隊の人に任せればいいじゃない。あなたもあの塔好きでしょう?」

「そういう問題じゃなくてだな、毎日出かけること自体が危険で……」

「だったら余計によ。相手は手ごわい変態魔法使いなんでしょう? あなたとディオンのふたりがかりでなんとかできないなら、家にいたって同じじゃない」


 一度言い出すと止まらないのが姉さんだ。それに姉さん自身が人質に取られていたことは、姉さんの体に響くことを考えて話していなかった。姉さんは姉さんで、病に囚われて満足に身動きできない自分を、ニーベルに重ねていたのかもしれない。


 結局ファゾさんが折れ、ニーベルが異音塔に行くのは三日に一度とすることで話がついた。ニーベルもぼくから話すと、すんなり聞き入れてくれた。

 問題は、ぼくだ。


 ファゾさんには厳しく詰め寄った姉さんだけれど、見るからにやつれているらしいぼくのことは気にしてもいた。

 実際問題、異音塔の音は距離のある自宅で聞いていても気分が悪くなる。それを間近で聞いたときの消耗は想像以上だった。ニーベルが本当にけろりとしているので自分も存外平気だと思いかけもしたけれど、彼女に付き合った日の夜は目がさえ切っていつまでも眠れないし、翌日は時々意識がなくて鍋を焦がしたりもした。五度目を終える頃には、異音塔が鳴っていなくても不意にあの騒音が蘇ってくるようになっていて、六度目は朝食を戻しそうになりながら、這うように異音塔へ登った。


 今日で七度目。

 足場の頂上に着いてすぐ音が鳴り始めると今度こそ気絶してしまいそうだったので、朝が弱いニーベルに無理を言って早めに異音塔をのぼった。策としては間違っていなかったけれど、今や視界に入れるだけで体がこわばって変な汗が出てくる異音塔のたもとだ。そこで長時間待つというのがどういうことかまで考えていなかった。


 ニーベルは塔の白い壁に背中を預け、静かに待っている。

 ぼくは彼女を眺めるふりをしながら、腕が震えて寒気がするのをひた隠しにしていた。顔色で丸わかりでも、ぼくにだって意地がある。ただ、ほかに誰もいない場所で、なにをする当てもなく突っ立っていると、本物の異音塔より先にまた幻聴が聞こえてきそうでもあった。そうなったら限界だとぼくは意を決し、ニーベルに話しかけることにした。


「ニーベル。ニーベルは、えと……なぜ、歌を?」

「?」


 目を合わせてくれたニーベルは、けれど首をかしげていた。ぼくは勢いで口をひらいた自分に気がついて、聞き方が曖昧だっただろうと慌てて何度も首を振る。


「や、その……なぜ、というのは、歌を歌うことの、その、全部というか……ぼくや、誰の舞台だから、とかは関係なく、えぇと……」


 まるでうまい聞き方が見つからない。そもそもうまい聞き方なんてあるんだろうか。

 あれこれ考えだすと途端に自信がなくなってくる。いつもの悪い癖だという自覚はたやすくても、取りつくろうのは難しい。むしろやってしまったという後悔で頭がいっぱいになると余計になにも浮かばなくなって、ついには顔を覆って座りこみたくなった。そのときだ。


「きこえるから……」


 めずらしく、かすんだ声だったと思う。

 目をあけてニーベルを見ると、彼女はぼくの頭ごしに空を見あげていた。朝に異音塔が鳴って遠のいた霧は、もうほとんどが戻ってきている。白くよどんだ青の先にも、彼女にだけは確かなものが見えるのだろうか。そんなことを思いながら、小さな口が動き始めるのを見ていた。


「きこえているの、ずっと。どこにいても、なにをしていても。どこかから、流れてくる。どこか、あるいは、奥の底から……」

「……歌が、ですか?」

「歌のようで、違うのかもしれない。わたしは、声に変えているだけ。せき止めれば、濁って、あふれてしまうだけだから」


 少し、どきりとした。

 すると、不意にニーベルと目が合って、どきりどころか全身の血管が爆ぜそうになった。見たことがないくらい甘く華やかに、彼女が笑ったから。


「今は大丈夫。たくさん歌わせてもらえたから、あなたに」


 どうにかなりそうだった、いや、もうなっていた。風が吹けばたやすく舞いあげられて、今にも足場の外へ落ちていけそうなくらいに。


「あの……それは、いつから?」


 この時間が終わってしまうのが怖かった。けれど、聞きたかったことを聞けそうな予感があって、口先が自然に言葉を発した。

 案の定、ニーベルは目を伏せてしまったけれど、「覚えていないの」と、今度はいつまでも聞いていたくなる、いつものくっきりとした声で答えた。


「あの人が手を離したときからの気がする、でも、もっとずっとむかしの、始まりからだったかも」


 あの人――

 言葉として初めて聞いた気がする。オベリクじゃない。それだけはなぜかはっきりとわかる。


『歌には舞台を』――彼女にそう教えた人がいた。

 その人だろうか。手を離されたとは、どんな状況か、どういうことか。

 聞けば、答えてくれたかもしれない。けれど、ぼくはここに来て迷った。前にもその人のことで踏みとどまった覚えがあるけれど、あのとき考えていたこととは少し違う。彼女にとって大事な人でないはずはなくて、大事な思い出でないはずもなくて、だから踏みこむことを遠慮している、というだけではない感じがした。


 だけではないなら、なんだろうか。

 疲れた頭で浮き足立っていたせいだろうか。すぐには見えてこなかった。そうしてひとりで揺れているうちに、異音塔の鳴る時間が来た。

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