第18節
姉さんとニーベルがなかよくなった。
姉さんが少しなら起きてこられるようになるとすぐだった。オベリクがいなくなったのと入れ替わりだったから、彼がなにかしていたんじゃないかと疑うくらい姉さんの体調もよくなっていた。どうやら雨を乗り切ったあとにあたたかい風が吹くようになったおかげというのが本当のところで、そういうことはよくあることだったのだけど。
歌える機会がなければ無気力でなにもしない女の子に見えていたニーベルは、姉さんのお願いを聞くと家の手伝いをよくしてくれた。これはぼくのほうが、彼女に座っていてほしがっていただけらしい。それを先に姉さんに見透かされて、ニーベル自身のためにならないと、まったく病人らしくない口調でたしなめられもした。
元々姉さんは、妹が欲しかった節もある。ニーベルは小さくてかわいいし、目だつ傷痕にも慣れてしまえば、いつもほんのりニコニコしていて、中身もさっぱりした女の子だ。ふたりは相性もいいらしい。だからって、急に雛を守る親鳥みたいな態度を見せ始めた姉さんには、さすがに現金がすぎると呆れてしまったけれど。その代わり、ニーベルがぼくを「ジーク」と呼ぶことについては、なにも聞かずに済ませてくれた。
舞台には行っていない。
周りの空き家を征禍隊員が交代で固めている。出かけるにも行き先を知らせた上で見張りがつくあり様で、最低限の買い出しぐらいなら彼らの予備人員が引き受けてくれた。ぼくの話がおおやけに疑われている気配はないけれど、ニーベルはあくまで〝おそるべき霧の姫だった少女〟だ。逃げた
けれど、ぼくは悪く考えてもいない。大事なのはニーベルが無事でいること。彼女が元気な姿でいてくれさえすれば、どうとでもなる。機会もやがて来る。
オベリクが捕まって、霧の座のことをみんなが忘れた頃、試験場よりも遠い場所を探して、そこへニーベルを連れていこう。誰にも見つからない場所で、ぼくだけのために歌ってくれればそれでいい。姉さんにはニーベルが人の顔がわからないこと以外くわしく伝えていなかったけれど、察しのいい姉さんがニーベルとほがらかに接してくれるのを見るたびに、状況はよくなっていくようにしか考えられなかった。
「連れていって」
それは昼になる前だった。朝から起きていた姉さんは、少し疲れたと言って寝室に戻っている。理由を得て時々泊まりこむくらいになったファゾさんも、今日はまだ顔を見せていない。
ぼくは取り替えた姉さんのシーツを干しに裏庭へ出ようとしていたところで、そもそもニーベルは自分から話しかけてくることが少なかったし、要望を言うことなんて滅多になかったしで、ぼくは聞き違いでないかを何度も自問してしまって、居間の出口でシーツを抱えてしばらくウロウロしていた。
「あ、の……歌は、まだ、その……」
「歌わないわ」
「え……そうなん、ですか?」
「歌わないわ」
ニーベルの声はいつもながらくっきりとしている。対してぼくの気持ちは曖昧だ。
干し終えたシーツの代わりにモヤモヤを抱えたまま出かける支度をした。うしろ髪を束ねて、念のため腰には剣を差しておく。
鞘は新調した。といっても、征禍隊の倉庫に転がっていたお古を譲ってもらったのだけれど。ファゾさんにそれを頼んだときは、鞘が余るのは剣のほうが折れやすいからなんだが、と奇妙がられた。
そのファゾさんと出くわしたのは、ちょうど玄関扉をあけたところだ。
「ディオン? おいおい、どこへ行く?」
これもファゾさんが新しくした扉を、彼のほうが外から先にあけた。ノブをつかみ損ねたぼくと目が合うや、一瞬見ひらいた目をすぐに細めていさめ始めた。ぼくのほうはそんなに早く頭が回らず、思い切り目が泳いだし、決まりの悪い顔をしたかもしれない。
「なにが足りない? 買い出しくらいおれが行く」
「や、その……」別の意味で遠慮したい気持ちも加わるとさらに混乱した。ファゾさんにおつかいを頼むと、代金を受け取ってくれない。
「買い出しじゃないのか? だったら、なるべく家をあけるのは……」
「に、ニーベルが、その……」
「ニー……あ、ああ」
思わず彼女の名前を出してしまって、たちまち目を覆いたくなった。あまりに情けない。
けれどファゾさんには効果てきめんだ。ぼくの背後に視線を向けて、霧よけに見せかけた布を顔に巻いている彼女も目にとまったらしい。ここ数日ここで顔を合わすうちに『元・霧の姫』を警戒する気持ちは薄れているようだったけれど、そもそもファゾさんは、歳下の女性隊員と話すときも微妙にぎこちなくて距離のあるような人だ。姉さんも歳下だけど例外というか、姉さんが元気だった頃は歳が逆に見えていた。
「彼女が、その……街を、見てみたい、と」
「街? いや、しかし……」
心配性のファゾさんだ。いつもどおりなら危険が大きいからとすぐ反対しただろう。けれどぼくとニーベルを見比べ始めると、不自然に歯切れが悪くなる。ファゾさんがニーベルにものを言っている場面からして、ぼくも見たことがなかった。
「……さすがに不用意、じゃないか? 確かにディオンが剣を提げていくなら、万一なにかあってもどうにかなるだろうし、ヘルンはおれが見てればいいが……」
「隊の人も、何人かついてきます、よね? 本当に、行って帰ってくるだけですし、日が傾くまでには戻れると……」
「……それで、どこへ行くんだ?」
しぶしぶとした譲歩がファゾさんの顔いっぱいに浮かんでいる。しかし、ぼくの答えを聞くと余計に戸惑った様子で、まだ顔のしかめようがあったことを教えてくれた。
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