第17節
もう一度はっとしたのは、足音を聞いてから。
抑えきれない怒気のせいだろうか。力まかせに廊下を踏み鳴らす音が近づいてくる。
ぼくは急いでニーベルの頭に手近な布をかけ、ずっとそちらを気にしていたかのように居間の出口のほうを向いた。服の上からもわかる隆々とした肩とやわらかそうな金髪が現れ、明るい緑の両目でぼくを射る。ぼくがなにか言葉を見つける前に、ファゾさんはまっすぐ近づいてきてぼくの肩をつかんだ。
「ディオン、どういうことだ?」
「ファゾさん……」
「あれはおれたちが探していた魔法使いだ。霧の騎士の疑いがある。それがどうしておまえのうちにいる? いったいいつから――」
ファゾさん自身は、努めて冷静に問いただしているつもりだったかもしれない。けれど、いくら小柄でもその人がぼくの背後にいることには、今ようやく気づいたらしかった。
「まさか、その娘……!」喉を吐くような声で、「やはり、霧の!?」
「ファゾさん!」
ぼくの出した声に、ファゾさんは心なしかひるんだように見えた。隙を見つけた体がニーベルを背に立ちはだかるようひとりでに動く。一拍遅れて、ファゾさんの眉間にあった鋭い影が深さを増した。
「なんだ、ディオン? なにを考えている? おまえはヘルンを人質に取られていただけだろう? あの男も本気で誘っていたわけじゃないはずだ。あれが歌いだしたら、冗談で済まないことぐらいわかって――」
「だから、同じなんです! 彼女も脅されて!」
「なに?」
ファゾさんの眉が揺れて、ぼくは急にほっとした。よかった、まだ言葉が届く。そう確信するが早いか、自分でも不思議なくらい落ちついて呼吸を整えていた。
「……彼女、逃げてきたんです、あの男から。それをぼくが見つけて。だからここに」
「見つけた? まさか、昨日のあれか?」
噓がすらすらと出てくる。ファゾさんの問いに飛びつかず、首を振る余裕まであった。
「あのときは、彼女が谷で歌わされた帰りです。ぼくが見つけたのはもっと前で、ここで
「場所探し? それで谷に……」
「あの男、谷の試験場が気に入ったようで。それで変なかん違いを始めて。ぼくも、その、興味がある、という……」
オベリクがぼくの舞台を気に入った。ぼくは歌に興味なんかない。
噓と嘘がひと続きになって延々途切れない。助走をつけて飛び出すみたいに、ぼくは満を持してニーベルに目を向ける。
「彼女が霧の姫なのは、本当です。でも、彼女は無理やり歌わされていて。歌わないと、顔の傷を増やすとも言われていたそうで」
「傷?」
あえて体をどかしてファゾさんをうながし、その手をニーベルの顔にかかった布に伸ばさせる。ためらいがちに布をつかむ手つきが思ったよりも紳士的だったことには、ぼくの中でなにか
「なんてことだ……」
さすがに言葉まで失わないファゾさんでも、そうつぶやくのがやっとのようだった。ただ、おののいて終わるような人でもない。その脳裏では自分のはらわたを煮立たせる物語が順調に組みあがっている。どうしてこんなにも手に取るように理解できるのか、いよいよもってぼくはぼくでなくなったような心地がした。それも冷静なままで。
「昨日おれに言わなかったのは、あの男が見張っていたからだな?」
「……」
再び眉根を寄せ終えたファゾさんに、ぼくはあえて答えない。もう嘘をつかなくても、彼は答えを得るためにぼくを肯定する。
「だが、なぜ見つかる前には知らせなかった? おれもなかなか来られなかったが、難しくはなかったはずだ」
「……すみません。浅はかだったと思います。見つかるわけがないって、信じこんでいて。それに彼女、ひどくおびえていたんです。そのまま
「それは――」
唯一の真実のようなものだ。ファゾさんが返そうとした言葉は最初からどこにもない。どこにもない言葉は嘘になる。ぼくの言葉をすべて真実にしたくなっている彼は、嘘をつこうとした自分を恥じて顔をそむける。
「……確かに、ヘルンまで危険にさらしたのは浅はかだ」
「すみません」
「過ぎたことはいい。おれも昨日、おまえたちがあんな場所にいたことについて深く考えなかった。すまん」
実直な人だ。確かにぼくは、最初から彼を頼るべきだったのかもしれない。こんなにも簡単に引きこめるのだったら。
「今重要なのは、逃がしてしまったあの男のことだ。窓を割って怪我をしたようだが、それで
ファゾさんはもう一度ニーベルを見て、険しい目つきで唇を引きむすんだ。まるで自分の妹を憐れむみたいに。
いや、彼にはもう〝妹〟なのだろう。この期に及んで降りしきる窓の外から目を離さない壊れた姿さえ、兵士の義憤にくべるものでしかなくなっていた。
――その子がディオンを怖がらないなら、まだここにいるほうがいいだろう。
――できれば移動させたいところだが、おまえごととなるとヘルンも動かさなくてはならない。
――上におれが話して、家の周りを征禍隊で固める。おれもできるだけここにいられるようにしてみるつもりだ。
――ディオンは、面倒を見る相手がふたりになる。いつまでかわからないが、それでもいいか?
「ジーク」
ニーベルに呼ばれた。ファゾさんを送り出し、壊れてしまった扉の代わりにテーブルを立てかけて玄関をふさぎ終えた、ちょうどそのときに。
「オベリクは?」
一瞬、息を飲みかける。
振り向いてもやっぱり窓の外を見ていた彼女は、家の中で起きていたことにはなにも興味がないのだと決めつけていた。彼女にとってオベリクがどれほどの存在か、知りもしなかったくせに。
「いなく、いなりました……」
やっとそう答えた。ぼくの服のポケットには、ファゾさんが裏庭で回収した『連理の鐘』の片割れが入っている。姉さんの首にかけられていたほうは、姉さんに気づかれないまま外して、ファゾさんが兵舎へ持ち帰った。
答えようは、ほかになかった。ファゾさんに与えたような器用な嘘も、からきし浮かんで来なかった。
「オベリクはもういないの?」
「……そうですね。もう、いません」
「そう」
ニーベルは、嘘だとさえ言わなかった。「じゃあ、これからはふたりね」
ぼくの中で、なにかがはじけた。
(ふたり……ふたりだけ……ぼくと、ニーベル……ニーベルには、ぼくだけ?)
チカチカとまたたくようななにか。身じろぎもしないニーベルの傷痕のそばを通って、星も見えないはずの雨雲の空に吸いこまれていく。厚い雲のその先にくらい、難なく届くような心地がして。
(ぼくの……ぼくだけの歌姫……)
このときぼくは、彼女だけの
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