第15節


 翌日は雨だった。冷えこむと姉さんの容態が悪くなる。

 朝から毛布を出したりしまったりしてバタバタしていた。雨音のおかげで動きやすいのだけがありがたい。ニーベルも窓辺の椅子に腰かけて、静かに外を眺めてくれている。霧が出ないので、晴れている日よりも景色がくっきり見えると思う。

 オベリクは、昨日から帰ってきていない。


「窓ぎわは、冷えませんか?」


 どうにか姉さんが落ち着くのを見計らい、ぼくが居間へ戻れたのは昼前だった。ニーベルは変わらずにじっと雨を見つづけていた。「大丈夫よ」と、ちゃんと答えは来たけれど、彼女はそのままでいる。


「……やみそうにないですね」


 オベリクのことを口にしかけた。してもよかったはずなのに、なぜかしたくなくて舌の根で押しつぶす。それがバレるはずもなかったのに、ニーベルの反応を待ってしまう。


「雨は好きよ。世界が歌っているみたいで」

「……」


 言える言葉はなかった。ひたすらニーベルの横顔きずあとを見つめる。


 ファゾさんが聞いたら、どんなにか険しい顔をしただろう。ファゾさん以外の誰にとっても血の気の引く、二度と聞きたくない冗談みたいだ。ぼくらの音を包んで隠してくれる雨が〝世界の歌〟だなんて、言いも思いもするのはニーベル、きみだけだ。ぼくもまた胸の凍えを覚えながらも、そんな彼女から目を離せないでいた。


「ボクも好きですよぉ? こう濡らされると考えちゃうけど」


 雨が音を隠す、にしても、まるで気配がなかった。


 玄関の扉すらいつあけて閉めたのか。泥落としのマットの上で、黒髪から水をしたたらせた長身の男が、外した遮光眼鏡をコートの下のシャツの裾で拭いていた。


「オベリク……今までどこに?」

「どこ? 街の中だよ? 言ったじゃない、羽根を伸ばしてくるって。まさか、朝日も出ないうちにのこのこ帰ってくるとでも?」


 せせら笑って眼鏡をかけ直した彼の襟もとの乱れが目につく。いつも粋に見える程度に着崩してはいるけれど、今日の崩れ方はあけすけでだらしないだけな気がする。空気の冷えこみを思えば、暑がるようなボタンのあけ方も不自然だ。


「しかも雨だよ。盛りあがるんだよね。普段抑えこんでるもののフタが外れたときって」

「……」

「うらやましそうな顔をしないでおくれ。遊んでたわけじゃない。情報集めが趣旨でね。ついでに路銀稼ぎも」

「路銀?」

「おっと、キミも金に困ってるんだった。よければ教えようか? その細さでその顔なら、結構すごい客がつくと思うけど」

「…………」


 わいせつな気配のする提案は聞かなかったことにしておく。

 路銀というのはつまり、あらかじめ使い道が決まっているお金のことだ。使い道とはつまり、訪れた先で物乞いになるのを避けること。そこまで想像が及ぶのに、オベリクがそれを用意してくる意味がわからなかった。


「あの……路銀、って?」

「んん? 察しが悪いなぁ。そろそろおいとまするってことだけど」

「……!?」

「だって、言ったじゃないか。姫の傷が心配なくなるまでだって」


 わからなかったんじゃなかった。わかりたくなかった、思い出したくなかったんだ。

 彼らはひとところに留まらない。どころか、できることなら長く留まるべきですらない。彼らは街にとって危険な存在であって、だから彼らを探している街の人たちが彼らにとって危険でもある。だいいち十日近くもこの家にファゾさんが訪ねてこないことからして奇跡みたいなものだったのに、ぼくはいつの間にか来客を待ちかまえなくなっていた。


「それに、この地では歌ったしね、二回も。それも同じ舞台で。姫はたいてい、ひとつの舞台で一度きりしか歌わない。ひとつの地でふたつ以上舞台が見つかることも稀だ。だから昨日は歌わないだろうって本当は踏んでたんだよ? ま、その異例の舞台も、昨日街の人間に目をつけられてもう使えそうにない、と」


 オベリクは気のせいでなく嬉々としていた。軽薄な口もとには清々したと書いてある。声を失っているぼくを見つければ、その口もとはますます吊りあがって慇懃いんぎんにものを言う。


「喜びたまえよ。キミがもたらした快挙に免じて、この街で別の舞台を探すのはよそうとも言ってるんだ。もちろん、キミが喜んで差し出すなら、あの壊れた噴水の上で歌うけど」

「……っ!」


 挑発だ、人を冷やかすためのたちの悪い冗談だ、と、数日前なら単に辟易へきえきしていただろう。

 でも今は違う。言った者自身がどう思っていても、ぼくにとっては息も凍るようなおぞましい提案だった。そんなことが起きていいはずがないのに、ほんのかすかでも胸の奥に波紋を起こすには。


「雨がやんだら今夜中に出ていくよ。で、キミは?」

「え……?」

「えじゃないでしょ。ああ、姉貴が邪魔なのか」


 オベリクは見透かしていた。彼にはぼくのことが手に取るようにわかるのだろう。

 霧の姫にもとに集った騎士。は姫の歌う歌から、もう、離れては生きられない。


「迷いを断つ方法を知ってるよ。キミも本当は興味あるんじゃないかい? 姫が作り出す本物の〝地獄〟に」

「おれも興味あるな」


 窓の鍵があいていた。


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