第13節
一応尋ねてはみた。おぶって帰ってもいいですが、どうしますか?
ニーベルは自分で歩くと答えた。ぼくはほっとした。ほっとしたはずだ。つかえの落ちるような感覚は、胸をなでおろしたのであって、がっくりきたわけじゃない。断じて。
ただし、霧深いので手はつなぐことにした。抜き身の剣のほうを布で包んで背負っていく。倒したジフは霧に戻らないので、試験場の霧は薄まっていたけれど、山道に入ればすぐ元の濃さだ。異音塔があるので、
つないだ手は見かけ以上に小さくて頼りなくて、ぼくの手のほうが震えだしそうになった。指先は冷たかったけれど、こわごわ握り返すと、ふにりとしたやわらかさとほのかな体温が伝わってきて、それはなぜかぼくの胸の奥まで届く。届いて、もやもやとする。
子供の頃つないだ姉さんの手とも違う。感触は同じだと思う。でも、なんだろう?
もやもやはずっと消えなくて、手をつないでいる限り生まれつづけるみたいだった。すごく居心地が悪いのに、捨ててしまいたい気持ちにはならない。もやもやから気をそらすためにもやもやの正体について考えて、もやもやの正体を探るためにもやもやを噛みしめながら歩いていた。
ニーベルは黙ってついてくる。顔を隠すための布を頭にかけてはいるけれど、口までは覆っていない。止まらずに歩きつづけているけれど、まだ息もあがっていない。
姉さんは、子供の頃おしゃべりだった。ジフたちの反乱が起きる前は。
「……あの」
ニーベルは、これまでどうしていたのか。もやもやの正体と関係あるかなんてわからなかったけれど、ふと、聞いてみようと思った。
「ニーベル、えぇと、さん?」
「なに、ジーク?」
「いつから、その……旅を?」
「いつ?」
「えっと……反乱から、すぐ?」
「すぐではなかったわ」
間違いなく幼い声なのに、落ち着きとくっきりした声にいつも飲まれる。ジフの反乱は七年前。彼女がほとんど見かけどおりなら、当時は物心ついたばかりだったかもしれない。尋ねておいてからそう思いついて、少し後悔した。
「じゃあ、その……ぼくと出会うまでと、出会ってからでは、どっちが長く?」
「出会うまでよ」
「ぼくは、かなり新顔?」
「そう。一番新しい人」
「オベリクは?」
「一番古い人」
「一番? 最初から一緒に?」
「ええ。彼が始めた旅だもの」
あまり考えのある問いではなかったものの、首をかしげる結果になった。
オベリクも年齢不詳だけれど、ファゾさんや姉さんよりもずっとぼくに近い気がする。霧の座を始めたこと自体がごく最近なら腑に落ちるけれど、
「旅に出る前は、どこにいたんですか?」
「遠くよ。うんと」
「……どうして、旅に出たんですか?」
「どうして?」
立ち止まりそうな気配があって、ぼくも足を止めた。
振り向くと、ニーベルは心ここにあらずといった様子で、霧深い木立ちの奥をじっと見つめていた。もしかしてそこになにかあるのかと、ぼくも視線を同じ場所へ向けかけたとき、ようやく彼女の頬が動いた。
「歌いたい、って言ったの。もっと、たくさん」
「……ニーベル、さんが?」
小さな頭が揺れる。くせの違う青と白の髪がうなずく。
「そしたらオベリクが、一座をやるから、そこで歌えばいい、って。舞台を用意するから、って」
「歌には舞台を……ですか?」
「そう。そう教えてくれた人がいたから」
「オベリクじゃなくて?」
「オベリクじゃないわ」
やっぱり、もうひとりいた。そしてそれはジークじゃない。
どんな人なのだろう。たとえ〝ジーク〟からでも尋ねていいものかと、少し踏みとどまる。さっきからニーベルの従順さにつけこんで詰問しているような気分にもなっている。
それに、あまり関係ないのかもしれなかった。
最初に〝歌いたい〟と言ったのはニーベルだった。霧の座は彼女から始まった。彼女が歌っているのは、間違いなく彼女の意思だ。
そのことに今さら驚いているわけじゃない。歌うことを誰かに強いられている可能性を確かめたかったわけじゃない。葛藤も罪悪感も、彼女の歌声に感じたことはない。
なにが失われたかじゃない。壊れた彼女の中に残っているもの。それをぼくは探している――のだろうか?
「ジーク」
ニーベルが顔をあげる。ぼくは上の空だったわけじゃないのに、目が合うと正気に返ったみたいにドキリとしてしまう。
「わたしの歌は、どう?」
「え……?」
思いがけなくて、頭の中だけはまだ動いていた自分が全部固まってしまった。
どう、とはまずなんだろう?
どう聞こえるか、だったら、言葉にできる気がしない。歌は歌だ。それ以上に表現できる言葉を持っていない。
どう感じるか、だろうか? 彼女の歌を聞いたときに、ぼくがなにを感じるか、思うか。
ぼくが――ぼくが思う、でいいのか?
歌のことはわからない。彼女のことをなにも知らない。そのぼくなんかにどうして聞くのだろう。そもそも歌のことだろうか? 本当はもっと別のことを、彼女は聞きたいんじゃ――
「あ……」
無意識に身を引きかけた気がする。
ただその前に、つないだ手が目にとまった。
小さくて冷たくて、はかないくらいにやわらかい手。もしかしたら、握り返されたのかもしれない。その細い指にも、いくつか傷痕がある。
もう元には戻らない色のついたすじを目でなぞって、それがぼくの手の中にあることを改めて知ったとき、ぼくはこみあげてきたものが口からだけ出るよう押さえ込むみたいに目をつむった。
「……好き、です!」
言い終えても、息を吸わなかった。
呼吸を拒んだまま、おそるおそる目をあける。
金色の瞳が、揺れもかげりもせずそこにある。自分が発した言葉を理解したのもそのときようやく。
「やっ、あのっ……う、歌の、こと、で……」
勢いこんだはずの気持ちが、声といっしょにしぼんでいく。うつむいて、黙りこんでしまいそうになった。ただ、そのままなかったことにしてしまう勇気もなくて、吸いこまれるような目が見えなくなったのをいいことに、小さくなったものをひとつひとつひらいていく。
「す……ごい、って、思ったんです。すさまじい……とんでもない、って。どうやったら、あんなふうに歌えるんだろう。それが、忘れられなくて……」
歌――歌は歌だ。
もうずっと長いあいだ遠ざかっていた。それでも、世界が霧に包まれるまで、その日その日に誰かの声で聞いていた。特に母さんは、歌を歌うのが好きだったから。その娘の姉さんも。
だから、懐かしいものを聞くことになると思っていた。怖いだけじゃない。ほんの少しだけうれしくて、同じくらい悲しい気持ちで。
けれど彼女は、彼女の歌は、
「だから……好き……なんだろうなって、思います。あなたの歌。好き、だから、もっと聴きたい、知りたいって……あの、」
そうだ。
ぼくは懐かしいものを思い描いていた。だから不安だったんだ。世界のなにもかもを塗り替えてしまうような彼女の歌声を聴いたときから。
「本当に、あの場所でよかったんですか?」
ようやく顔をあげてニーベルを見る。
オベリクはどうあっても試験場の舞台が気に入らないだろう。彼は人のいる場所でニーベルを歌わせることにこだわりを持っている。同志を増やしたいのがその真意だろうか。自然に捉えればそうだろうけど、なにかしっくりこない。
ただ、ニーベルのほうは、『歌には舞台を』を純粋に守っているように思えた。ふさわしい舞台でだけ歌う。美しい場所、特別な場所。
ぼくの用意した舞台にあったのは観客だけだ。それも動物の観客。
温厚で愛嬌ある元家畜たちが彼女のお気には召したとして、それは舞台としてふさわしいことにはなったんだろうか。彼女が歌いたいと望んだ歌は、そんなに軽々しいものだろうか。
「あなたが決めたから」
「え……」
ぼくにあったのは、純粋な不安だけ。
彼女が二度も歌った事実さえ、ぼくの心を躍らせない。足りないものはなんだった? 埋め合わせるにはどうすれば? ――その焦燥を、彼女はひと息で塗り替える。
「あなたはいつも、わたしにいい歌ばかりを歌わせてくれた。あなたの用意する舞台なら、わたし、どこでも歌いたいの」
「っ!? それは……!」
雪融けでなく、吹き荒れる。
それはぼくのことじゃないなんて、一度きりの
「あなたは死んだって聞いていたから、生きていてくれてうれしかった。今日とこないだ歌ったのは、あなたのためよ、ジーク? あなたが歌えというなら、また歌うわ」
「……!?」
風が吹いたあとはふたつ。
立っているか、飛んでいるか。
それはぼくのことじゃない、なんて、いつだって言えたことだった。
ぼくはディオンで、ジークじゃない。けれど、彼女にとってぼくはジークで、そして、本当のジークはもうどこにもいない。
だったら、ジークでいればいいじゃないか。ぼくがジークでいつづける限り、彼女はぼくの思いどおりに――
ひとつきりの金色を目に焼きつけて振り返る。かすかな足音と人の気配。
霧の向こうに明かりがある。ぼくらが来たのと同じ道をたどり、明かりと大きな人影が近づいてくる。隆々とした体に丈夫な鎧を着こみ、逆光にもまぎれ切らないその人は、ランタンを高く掲げるなり驚いた声をあげた。
「ディオン!?」
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