第12節


 反応が遅れたオベリクの前に出るように彼を引き倒す。

 大型の二刃系デュオソードは研ぎ澄まされた触角を束ねるようにして、すでに真横に振り始めていた。

 回避はほぼ間に合わないと見切りをつけ、ぼくは鞘に収まったままの剣を盾にする。


 衝撃が来て、できる限りいなそうとする本能が目の奥で爆ぜるよりも早く、体が浮いた。

 すごい速度で景色が流れだした次の瞬間には、肩と側頭部からなにかにぶつかって地面に投げだされる。記憶に新しい感触と派手で騒がしい異音がした。激しい痛みとめまいの中で、またニーベルの演奏人形マリオニタのどれかに激突したと理解する。

 三日前は、そこで意識を手離しても目を覚ませる未来があった。けれど、今度もそうとは限らない。


「ぐっ……オ、ベリク……!」


 気力だけでまぶたを持ちあげ顔を起こす。案の定、二枚刃のジフは体の正面をぼくに向けていた。オベリクはすでにいない。

 立ちあがらないと――ジフをにらんだままそう体に言い聞かせたところで、ふと、ジフと自分のへだたりの途中に落ちているものに気がついた。


 粉々に砕け散った、固そうななにか。破片に刻まれた意匠に、どことなく見覚えが……。


 すぐに戦慄し、自分の手を見る。

 大型の攻撃をまともに受けても、手を離した覚えはなかった。衝撃でしびれていて感覚はなかったけれど、見れば握りしめたつかがそのままそこにあるとわかる。

 その、音を立てずに飛ぶ梟類オウルのクチバシを模したガードより向こう。

 抜き身の白刃が、霧ごしの日差しを受けて鈍く光る――


 起きたことを認めた瞬間、が来た。

 手だけじゃない。体じゅうにだ。

 ぬめりを帯びるような錯覚が、今は皮膚の下にある。筋肉をどれだけ動かしても、皮がぶよぶよとしてもたつく予感。もがくより先に無力感で頭の中が満たされる。


 これはぼくのせいじゃない。砕けるとわかっていて鞘で受けたわけじゃない。

 そうでも関係ないのを知っていた。振れば斬ることのできる姿でぼくの手の中に剣がある。それだけでどうしようもなくなるとわかっていたから手入れのひとつもしなかった。見たところびてはいないけれど、落ちていない切れ味を思うとむしろ余計に、ぼくの体はぼくの意思とは関係なしに


 粘度のある感覚が増して、体が溶けだしているような気がしてくる。

 手に握るものとの境目がなくなって、ひとつながりの同じものになったみたいだ。

 おまけに今日は音楽がある。ニーベルが歌っている。


 音のない空隙ブレイクのあとの、うねるような旋律の持ちあがり。茫漠ぼうばくとした意識で耳を傾けるぼくの目の前で、見あげるほど巨大なジフが二本の鋭利な触角を振り降ろしていた。


 うねる。


 体がどうなっているかわからない。ただ、旋律を追うように上へ向かった記憶だけがある。

 ぼくはジフの真横にいて、ジフは斬り落とされた自分の触覚を、たぶん見おろしていた。目玉の模様が本当の目かはわからないけれど、たぶんそう。触角はしばらくすれば再生する部位だけれど、それでもジフはすぐには動かなかった。それは再生を待つ余裕があったから、ではないと思う。


 振り向きざまにジフはぼくを押しつぶそうとしたらしい。そのときぼくはもうジフの背後にいる。

 剣を鞘に収めようとして、そういえば砕けてしまったんだと思い出した。


 抜き身の剣を、どう持って帰ろうかと少し悩む。ひとまず街に戻るまではいい。あとは上着を脱いで巻けばなんとかなるだろうか。不安を残しながらそこまで思いついて、ふと、うしろで動かずにいるジフのほうを振り向いてみたところで、青白い巨体が四片の輪切りになって霧の中に散り消えた。


「あ……」


 ふと、我に返って声がもれる。柄を握っている感触が戻ってくる。

 と同時に、利き腕から虫の這うような感覚がざあっと全身に広がってきた。


 鳥肌の立った体を抱いて思わず身震いする。力を入れて耐えるけれど、柄を握っている手の甲がいつまでもぞわぞわとして叫びそうになる。


 やってしまった。


 変わってない。一年近く抜かなかった程度じゃ、なにも変わっていなかった。


「なぁんだ。食わず嫌いじゃなかったのか」


 ぬるい声がすぐそばでして、ぼくは震えながら遮光眼鏡と黒髪を乗せた白い顔を見た。

 いつものように軽薄な笑顔だけれど、どことなく勢いがない。服が土で汚れているだけで、怪我はなさそうだけれど。


 オベリクのことに気を取られたせいか、悪寒が弱まってニーベルの歌が終わっているのにも気がつく。あわてて上空を見渡せば、青白い影も見つからなかった。


「まだ獲物が欲しい?」

「え……?」


 力を抜きかけた肩が、またこわばる。ぼくが振り向くまでに、オベリクは調子を取り戻したようだった。さっき足りなかったのは、彼の手ぶりを加えて話す癖。


「おあいこって言いたかったんだけどさァ、キミのはお手柄だ。しかも天才剣士サマの腕前披露。対してボクの恥ずかしい姿は見られ損。まったく、嫌になるね」


 芝居がかった肩をすくめ方を見て思い出す。彼は、確かにぼくが呼んだのに反応が遅れた。あのときの彼の怪訝な表情。むしろあれは、ぼくが呼んだせいで止まってしまったみたいで――


「恥ずかしがることはないって言ったのさ。ジフを斬るのが好きでしょうがないくらいで」

「……ッ!?」


 意識を引き戻される。唐突に悪寒と手の感覚が戻ってくる。

 なにを言われたのか、すぐにはわからない。でも、考える前にわかった。

 見抜かれている。彼は知っている。


「面白い感触だよね? 砂というか、砂糖を押し固めたなにかみたいだ。クセになるのもわからなくも……いや、ボクにはそこまでじゃないけど」


 砂糖を……そう、布や藁束わらたばを斬るよりずっと抵抗がない。すっと刃が通って、抜けていく感覚。ただ終わりにはプツンと糸を切るような手ごたえが残る。たった今味わった記憶をまざまざと思い出して、ぞわぞわとした感覚がより強く全身を巡る。


「自分で気づいてなかったクチ? 噓だよね。かわいい顔してえげつない剣術。剣に振られてるんじゃなきゃ、えげつないのは剣術だけじゃないことくらい自覚もできる。キミは抜けなかったんじゃない。抜きたくなかった。なぜなら、自覚してる自分がバレるから? それもあるけど、それじゃない。二度三度と重ねて味わうほどに、欲求は強くなるもんだ。与えられる分で足りなくなれば……フフ。キミは思いついたんだね。自分がなにをしなくちゃいけないのか」


 オベリクの声がとても近くで聞こえる。

 与えられる分なんて、最初からほとんどなかった。街の人たちは、足音が旋律になることを信じこんで生きている。誰もなんかしやしない。するわけがない。だからぼくは、ぼくは――


「安心したまえ。これからは姫が歌ってくれる」

「!?」


 いつの間にかうなだれていて、顔をあげたそこにオベリクはいなかった。代わりに、針金で編まれたような演奏人形マリオニタたちの隊列が見える。


「あれはキミの剣が守ったものだ。今日はほとんど無傷。すばらしいね」


 たった今、人形たちは青い光の粉となって消え始めているところだった。夢の終わりを彩るようなきらめきの中、ただひとり本物の人形みたいに立つ小さな人影を見る。


「あれはキミにとって価値がある。キミはキミの快楽を、恥ずべき虚無としなくて済むようになる。キミはもう、自分が歌わなくてはいけない恐怖にそそのかされない」


 ニーベルがぼくを見ていた。

 ただ見ているだけで、映しているのかよくわからない。話すことも知らないようなぎ切った顔。それがぼくには、とてもおだやかでやさしい姿に見える。ささくれた指を包んでくれる、森で見つけた陽だまりのような。


「元々ジフを斬るために磨いた剣の腕だろう? いいじゃないか、少しくらい楽しんでも」


 ぼくに肩を寄せた霧の騎士は、耳もとで囁くように言い添えた。


「ボクらの姫は、すてきな〝地獄〟を作るよ」

「ッ!」


 底ゆれする低音バリトンが彼の慇懃いんぎんさをいつも強める。ぬるりと耳朶じだに沁みこむ心地悪さにぼくはたまらなくなり、払いのけるように身をひるがえして彼をにらんだ。


「ここ、だけです……!」


 そして言い渡す。どうあっても明け渡せない一点を。


「人のいる、ところ、では……歌わせないッ!」

「……姫次第だよ」

「オベリク」


 ささやかに澄んだ声がして、頭の中の熱が引いた。いつの間にか間近に立っていたニーベルを見つけて、喉が引きつる。今最後に言った言葉を彼女に聞かれて、気まずさと焦りを覚えてしまっている自分がいた。当の歌姫は涼しい顔で、背の高いほうの騎士を見あげていたけれど。


「今日は、狩ってはダメよ?」

「えぇ~? ダメなんですか?」

「お客さんだもの」

「食べてたじゃないですか、おいしそうに……」


 オベリクは露骨に不満顔をしたけど、ニーベルは真顔のまま別のほうを向いた。しげみの深い木立ちの向こうに目をこらすと、暗がりにいくつもの光る目がある。前回は、完全に逃げ去ってしまっていたのに。


 横目にニーベルを盗み見る。傷痕のある側で、固まったまぶたと目もとはなにも教えてくれなかったけれど、湿った口もとはそっと、親しげにほころんでいるみたいだった。


「えっち」

「ッッッ!?」


 耳もとでまた低音。今度は明らかにただの挑発だ。けれど、顔が茹でたぐらい熱くなるのを感じながら涙目でにらんでしまう。すると今度はオベリクのほうから逃げるように身を引いた。


「さてさて。打ち上げも禁止令が出たことだし、ボクは野暮用ついでにひとりで羽を伸ばしてくるとしよう。エスコートは頼んだからね、ジーク?」

「へ?」


 また熱を消される。たださっきと違う感じだ。

 誰のエスコート? と問う前にオベリクはこちらに背を向けてさっさと歩きだす。少なくとも、彼の、ではないはず。


「心配しなくても、姫は片道くらいもう歩けるよ。キミが担いで密着して耳たぶで息づかいを感じながら帰りたいって願うなら、それはそれでお好きに」

「…………」


 言い返す気力も湧かず、なぜか来た道でなく森の中へ入っていくオベリクを見送る。彼の言ったような願望はない――はずだ――けれど、ぼくがニーベルを森に捨てていく心配がないことは、完全に見抜かれているらしかった。

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