第10節


 ヘルン姉さんは、この頃は起きてくるのも稀だ。

 当然いいことじゃない。ほとんど四六時中、誰かが見ていたほうがいいような状態だ。ぼくが剣を抜けなくなって、ごまかしきれなくなったのと同じ頃に悪化したのではあったけれど。

 数日ぶりに戸口に立った姉さんは、食卓を囲むぼくら三人を不安げな顔で見ていた。熱のせいじゃないのは考えるまでもない。


「姉さん」ぼくは引きかけの椅子から思い切って立ちあがった。「起きられた? 大丈夫?」と、これもまた聞くまでもないようなことを尋ねてしまう。


「よくはないけど、声が聞こえて……」


 ぼくに返事をしながら、姉さんの視線はそわそわと居間を漂った。食卓と、その席に着くふたりとを順にめぐって。


「誰、なの? その食事は、いったい……」


 いざ尋ねられると、返事に窮する。

 姉さんが目を覚まさないのをいいことにしていたのは。オベリクだけではなかった。逆にいつ起きてくるとも知れないのに、ぼくはやり過ごせることを願うだけだったし、舞台の用意を強いられてからはそのことで頭がいっぱいだった。


 言いわけはまごつけばまごつくほど苦しくなる。いっそ正直に話してしまおうか。姉さんの心労を増やすのも危ないけれど、知らないせいで彼らの不興を買うよりは……。


「姉さん、彼らは……」

「やぁー、ご機嫌うるわしゅう、お姉さん。そうでもないですかね?」


 その声をすぐ隣りに聞いてギョッとした。音も気配もなくいつの間にかオベリクがぼくと並んで立っていた。かつて酒場で働いていた姉さんでさえ、彼の久しく聞かないひょうきんさにはおびえたように身構える。


「失敬。お邪魔させていただいております。しがない旅の者です」

「たび……?」

「ええ。ジフの鎮めを祈念して巡礼のね」


 聞いたことのない話だ。姉さんも余計に眉をひそめる。ぼくは出まかせだと知っているけれど、ありそうな宗教の信徒をかたっても彼のうさんくささはぬぐえない。


「お恥ずかしい話ですが、森でそのジフに襲われましてね。危ないところを、狩りに来ていた弟さんに助けられたのですよ。街にも入れてくださって、妹の怪我の手当てから、お食事まで」

「まあ……」


 けれど彼は流暢りゅうちょうだ。息を乱さずつじつまを合わせていく手ぎわに呆れつつ恐ろしさをも覚える。姉さんの不安の矛先をぼくに向けさせる駄目押しにも。


「ディオン? あなた、街の外に?」

「う……」


 ぼくはぼくでとっさの言いわけをまるで思いつかないぼく自身に失望する。「ごめん、姉さん。気晴らしがしたくて……」と勢いで口走ってから、これはずるいと後悔した。


 姉さんには、ぼくが剣を抜けなくなったことを話していない。


 姉さんどころか、ファゾさんにも、誰にもだ。それも人づてに姉さんに知られるかもしれないと思ったからだった。知ればきっと姉さんは、あとのことを心配し始める。姉さんがよくなればぼくもせいたいに戻ると約束して、ふたりで治療に専念することを納得してもらった。そのぼくの口から気晴らしがほしかったと聞けば、姉さんは自分を責める材料を増やしてしまう。


 しくじったぼくと気に病む姉さん。気まずい沈黙が流れかけたのを、また隣りの男がさえぎった。


「いやぁ、弟さんすごい剣さばきでした。ジフ相手に危うさのひとつもなかった」


 さっきだしぬけに声を聞かされたとき以上にギョッとした。ぼくのなにがなんだって?


「不謹慎だと思われるでしょうが、ワタシ、感動しましてね。お近づきになりたくて無理に押しかけたようなものですよ」

「まあ、そんな」姉さんは謙遜けんそんしつつもぼくの剣の腕を誇りに思ってくれている。弟の武功を聞かされれば疑いもしない。「妹さん、お怪我をされたのでしょう? 大丈夫なのですか?」

「ええ、かすり傷でしたので、このとおり。少々疲れてはいますがね」

「……えっ!?」


 姉さんが口に手を当てて息を飲む。オベリクは機を計りながらうまく隠していたらしい。

 震える姉さんの瞳は、間違いなくニーベルを見ていた。テーブルについたまま船をこいでいる女の子の、幼い顔を塗りつぶすように覆う傷痕を。


「かすり傷……」無意識のようにつぶやく姉さんは、今にも泣きだしそうに見えた。「そう……大変、でしたね」やがて胸に手を当てて、どうにか深く息をつく。


「申しわけない。食事中でなければ、見苦しいものは隠しているのですが」

「いいえ。そんなことお気になさらないで。大変な人は、多いですから……」

「そう言っていただけると安らぎます。弟さんはあと数日いてもいいと言ってくださってるんですが、お姉さんのほうのご負担では?」

「弟がいいと言うのでしたら、わたしはなにも。むしろお客様におかまいもできず……」

「なんの。我々などいないものと思って、ごゆっくりなさっていてくださいませ」


 客人よりもうつむきがちでかしこまる姉さんを見て、ぼくも申しわけない気持ちになる。けれど、姉さんの首に巻かれた青いり紐に目が行くと、場が収まったことになにより安堵してしまう。


 最初にオベリクから聞かされたとおり、姉さんはあの紐の存在に気づかない。

 あの紐がはずれるまで、なにも気づかないままいてほしいとぼくも願う。


 ただ、顔をあげた姉さんは、不意にまたなにかに戸惑うような浮かない顔をし始めた。その視線をたどってみて、ぼくも少しまばたきをする。

 スープ皿の前でうつらうつらと船をこいでいたはずのニーベルが、金色の片目をしかとひらいてこちらを見ていた。姉さんを。なにを思ってかはなにも読み取れないけれど、彼女が自分から目を背ける気配はなかった。




     ***




 三日後にしよう。


 姉さんがまた眠りについたあと、オベリクがそう提案した。立てつづけに家をあけては怪しまれると思い直したのだろう。ニーベルは毎日でも歌わせなければ突然歌いだすかのように脅していたのは、ぼくをからかっていたらしい。らしいというのは、彼がはっきりそう言ったという意味だ。


「不機嫌だねえ」


 三日後。姉さんが眠り続けているのを確認して、ぼくと霧の座のふたりはまた谷に入った。獣道の草を割って歩きながら、霧の濃さを意に介さない騎士が無駄に話しかけてくる。彼の姫君はあいかわらず彼の腕に抱かれているが、今日はずっと目を覚ましているみたいだった。


「三日前からずーっとその調子だ。嘘つきのキミに合わせてあげたのがそんなに気に入らなかったかな?」

「…………」


 無駄口のわりには的確に図星を突いてくる。それでぼくのほうは、ぼくが剣を抜けないことを隠していると見抜いて調子を合わせた彼の意図がつかめないまま、正直助かったと思わされている。ばつが悪いことこの上なかった。


「そんなにいじけなくても、嘘は本当にしちゃえばいいだけさ。今日こそは〝すごい剣さばき〟で助けてくれよ、ジーク?」

「……っ」


 歯噛みさせられているうちに、谷の奥につく。

 ちょうど山の向こうから、異音塔が鳴り始めが聞こえてきた。

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