第9節


 かすかに甘いような、心地いい香りがする。


 ゆっくりとまぶたをあげたとき、視界には青い髪と、小さな耳があった。鼻先が触れそうな距離に耳たぶがあって、香りはそのあたりからする。深く息を吸うとその香りが目の奥いっぱいに広がって、ぼやけた頭であのやわらかそうな耳朶じだを口に含めばどんな味がするんだろうと考えだしたところで、見えるものが耳ではなく大きな金色の片目が変わった。


「にー……ベル?」


 香りが薄れ、頭の奥にじわっとした火みたいなものが燃えはじめる。それがずっと燃えつづけていた痛みだと気づいたとき、最初に大きな痛みを覚えたその直前に起きたことを思い出した。


「ニーベル!?」


 ぶつかりそうな勢いで体を起こす。ニーベルは身を引かなかったけど、ぼくは捕まえるように彼女の二の腕を両手でつかんだ。


「無事ですか!? 怪我は!?」


 怪我、と自分で言っておいて、つかんだところにふさがりかけのそれがあったことを思い出していた。「あっ」と叫んで手を離す。


「ご、ごめんなさい……痛く、なかったですか?」

「痛かったですよねえ? 責任取ってもらわなくちゃ」


 わざとらしい恨み節は真横から。

 地べたに腰をついたまま振り向くと、丸太の上に立ってにやついているオベリクがいた。大ぶりのナイフを両手同士で投げ渡すようにもてあそびながら、遮光眼鏡ごしにぼくを眺めている。


 図らずも彼ごしに空を見あげたことで、そこに白く濃い霧しかないことを知った。

 オベリクも警戒していない。なによりニーベルが演奏人形マリオニタの中にいない。


 ぼくの肩から力が抜けたのに、オベリクも見ていて気づいただろう。彼ではなくその背後を見ていたことにも。オベリクはまだにやついたままながら、少し思案するように逆手に持ったナイフの柄をあごに当てた。


「運がいいよねえ。頭打って死んでてもおかしくなかったのに、ジフにぶっとばされたあと、地面でも木でもなく太鼓人形ドラムスニータにぶつかったんだ。演奏人形マリオニータは意外と軽いからね。ジフも動かなくなったものには興味ないし」


 言われて、頭のうしろのにぶい痛みを意識する。奥歯をかまずにいられないほどの痛みだけども、打ちどころを思えばその程度で済んでいるのがふしぎだった。ほどけた髪に血はついていない。吐き気もない。痛みは全身にあるけれど、骨も心配はなさそうだ。


「ま、運は運だ。それ以上のことはない。ボクが興味あるのは、キミが自分で選んだことのほう。まさか、あそこまで行ってまだだなんてね」


 ギュ、と体がかすかにこわばる。視線を落とすと、鞘に収まった長刀がすぐそばに寝かされていた。鞘にヒビひとつ入っていないことに先にホッとしてしまう。顔は青ざめていただろうけど。


「かん違いしないでくれよ? はわかってるんだろう? 重要なのは、それでもキミが引き返したことだ。ほうっておいたほうがより早く終わっていたはずなのに」

「…………」


 オベリクの言ったことを正しいと思う。

 どこも訂正しようという気にならない。ファゾさんだって彼と同じことを言うだろう。


 今のぼくは、剣を抜けない。


 原因はわからない。ジフが怖いわけじゃない。

 現に、オベリクに対しても抜剣できなかった。だから姉さんを人質に取られた。

 それなのに、さっきは鞘で殴ってでもジフを止めようとした。無謀だと知っていた。それなのに、歌いつづけるニーベルをほうっておかなかった。


 そう、自分のことだけじゃない。

 ニーベルは歌ったんだ。


 本当に、彼女はなんの迷いもなく歌い始めてしまった。一度歌い始めたら、ジフはおろか、観客と認めた動物たちが逃げてしまっても気にならないみたいだった。

 歌うためだけに生きる歌姫。壊れた歌姫。

 今のこの世界には危険すぎると、それも実感させられたはずだった。あの舞台が、ぼく以外の誰も巻きこまずに彼女を自滅させる好機だとも。


「……ぼくを試すために、わざとジフを?」

「まさか! 姫の命を賭けてまでそんなことしないよ? 舞台が派手になるほどジフが増えて大変なんだよ、本当に。姫の歌は即興だし、楽隊の規模もそのときそのときの気まぐれでね。さっきは正直やばかったよ。キミが飛びこんで一瞬でも時間を稼いでくれなきゃ、間に合わなかったかも」


 キミのおかげだ。オベリクはナイフを見せびらかしつつも、そう強調して言った。

 彼のことなので、どこまで真実かはわかりづらい。けれど、本当はどうでもいい。


 ぼくの体が動いたことが事実。

 思い出せる限り、あのときは不思議な感覚もしていた。ぼくにも迷いがなく、体は自然に動いていた。まるで――そう、まるで音楽に合わせて踊るみたいに。


 ひとつだけ訂正したい。オベリクは、ぼくにはぼくのことがわかっているはずだと聞いた。けれど、ぼくにはわからないことだらけ。今もやけに冷静でいて、後悔がなかった。


「……? わっ!?」


 不意にニーベルが立とうとしたように見えた。と思いきや、突然頭からぼくの胸にもたれかかってきた。


「に、ニーベル!?」


 受けとめてすぐに起こそうとするも、また傷のことを思い出してどこなら触れていいのかとわたふたしてしまう。その間にやけに濃い髪の匂いが鼻をくすぐって、華奢な体と密着する胸とお腹の上がポカポカしてきた。ニーベルが全身汗びっしょりなのが直感でわかる。わかった瞬間つま先までしびれるような感覚に襲われる。息まで止まりそうになったけれど、どうにか平静を保ってニーベルの顔を確かめた。


「ちょ、え……寝てる?」

「やや? 歌い切ってお疲れだね。ひとまず街に戻ろう。今日はお祝いだ」

「お祝い?」


 丸太の上でしゃがんでいるオベリクを見あげる。遮光眼鏡ごしながら、彼が横目にどこか示したように見えてその先を追った。別の丸太に、細い縄がかかっているのを見つける。


「な……」


 縄の先には、大小問わず毛むくじゃらのかたまりがぶらさがっていた。だいたいが足を縛られ、丸太の根もとには赤黒い水たまりができている。ニーベルの頭がずっと鼻先にあったせいでわかりづらかったけれど、あたりはだいぶ生臭かった。


「キミが寝てるあいだにパパッとね。いやぁー、久々の家畜の肉だ! 野生のは固くクサてどうもね」


 吊るされている獲物たちの中には、丸い小動物もいた。まさか、ニーベルが歌いながら抱いていたのまで取りあげたのか? と思ってニーベルを見ると、彼女の腕の中にはあの毛むくじゃらがいた。さすがにありえなかったことにほっとしつつ、ニーベルの手は離れていそうなのにやけにおとなしいことをいぶかしんで、リスの頭を軽く指でつついてみた途端、胸の奥で胃が縮むような心地がした。


 し、死んでる……。




     ***




 オベリクのアイディアはよかったと言わざるをえない。

 ぼくもまともな肉料理を食べたのはいつ以来か思い出せないぐらいだ。せいたいがあの試験場を使うとき、彼のようについでの狩りをしてくることはある。けれども場所が場所だけに、征禍隊内に行きわたるほどは獲ってこられない。十人でも食べ尽くせないような数を短時間で獲れるのはオベリクが魔法使いだからだ。それをすべてぼくが運ばされたのだけは不可解だけれど。


「合格」

「へ?」


 料理もぼくがやった。ヘトヘトでお腹がすき切っていて、今日起きたこともすべて忘れたように夢中で食べて、ようやく人心地ついたところでオベリクに言われた。彼もテーブルに向かいに座ってまだ悠々と口を動かしている。その隣りではニーベルがウトウトしながらもスープに口をつけていた。彼女は舞台の激しさに耐えられなかったリスの死骸をいまだに片手で抱いている。それを思い出してしまうと、詰めこんだ胃が少しつらい。


「……スープの、感想ですか?」

「んあー、いい兆候だね。軽口をたたくくらい心をひらいてくれてうれしいよ、ジーク」


 彼にその名で呼ばれるぼくはまるでうれしくない、とまではまだ言えず、適当なイモのかけらを乗せたスプーンを口に入れてごまかす。上機嫌のオベリクには見透かされている気もしつつ。


「ジフがやばいくらい出てくる規模の舞台になっただろう? それだけキミの提案した舞台を姫が気に入ったってことだ。おめでとう。霧の騎士としてキミは合格。姫はこの地じゃほかの場所では歌わないよ」

「……!?」


 騎士としてどうこうはさておき、彼がそのあとに続けた言葉に呼吸が跳ねた。

 今日は急場しのぎのつもりだった。正直に言ってうまくいくと思っていなかったし、さらに次をどうすればいいかなんて考えたくもなかった。


 あの舞台で満足して、彼らは出ていく。

 たとえファゾさんに告げられてもにわかには信じられなかっただろう。そのくらい悪いほうにしか考えていなかった自分にも気がつく。まだ気が早いと知りながらもほっとして、けれど、それだけでないなにか、浮き立つような気持ちがあるのにも。


「まあ、でも、次は抜かないと死ぬよ?」

「次?」


 聞き返しておいてすぐ、スプーンを落としかけた。

 今、ぼくは決めつけていた。彼らはすぐに出ていくと。まだ、ニーベルの傷が癒え切っていないのに。


「いい舞台が見つかったんだ。明日にでもまた歌いたいだろうさ、姫は。歌える場所があるのに歌えないなら、もっと歌いたくなるだろうしね」


 それならふたりで行ってください、とは言えそうになかった。

 姫はぼくを騎士の名で呼んで、オベリクは合格と言った。そうでなくたって、ぼくが目を離しても彼らが街の外の谷の奥まで律儀に行ってくれる保証はない。していない約束を〝破った〟となじるような人たちだ。あるいはふたりが出かけているあいだにファゾさんに告げ口をする算段を疑われて、姉さんに危険が及ぶかもしれない。


 明日も同行を引き受けるしかない――そう観念して視線を落とす。ただ、思ったほどどんよりとした気分ではなかった。オベリクの言ったとおり、剣を抜けなくて死ぬかもしれない。抜けそうな予感も全然しない。そのはずなのに――


「ディオン?」


 奇妙に落ちついていたから、その声にまた胃が跳ねた。

 自分の名前を呼ばれるのはいつ以来だろう。思わず椅子から軽く腰を浮かせて、居間から廊下への出口を振り返る。


 乱れていても糖蜜のように黒々とした赤毛。やつれ切ってはいても、深い苔色の両目が今日はひらいている。

 そこの柱に寄りかかりつつも、縮んだようには見えない背の高いぼくの姉さん、ヘルンが目を覚まして立っていた。

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