第6節


 剣を腰に差すのはいつぶりだろう。隊を辞めてそんなにたってないはずなのに、鞘ごしに触った記憶さえも怪しかった。いつも部屋の隅に立てかけてはいたけれど、つかには細かい埃がまぶされていた。


「ずいぶん歩くねぇ。そろそろ飽きて引き返しそうだよ?」

「も、もう少し、ですっ……!」


 刀身の長い細身の曲剣。その独特の重みでズレる重心に馴染みを覚えながら、出したくない声量を出して背後を説得する。だんだんと距離がひらいているのは、剣を帯びているぼくを警戒しているから、ではきっとない。


 道に迫りかけているやぶをかき分けて先を行く。葉擦れの音に少しギクリとなる。

 さっきからずっと下り坂だ。霧が濃くて木立ちのすき間を見通せないけれど、道はひとつしかないのを知っていた。


「街から山ひとつはさむ谷の中……」オベリクは黒い山影が見えているみたいに、遠くを見つめてつぶやく。「確かにここから街までなら、歌声は届きづらいだろうね。ジフが街に流れる可能性も低い、か」


 彼の右腕にはニーベルが、毛布のおくるみ状態で抱かれて眠っている。

 小柄とはいえ十はさすがに越えていそうな女の子を片腕で抱き続けるのは、二重の意味で骨が折れそうに思う。けれど彼は魔法使いだ。汗もかかず背を伸ばして歩いているあたり、ニーベルの体重のほとんどを魔法で浮かせていたりするのだろう。水に浮いているようなものだとしたら、抱かれているほうも直接そうされるより負担が少ないだろうか。


「……あの」

「なに?」

「……姫は、ニーベルは、いくつなんですか?」

「子供を産める歳かって?」

「ヴッ!?」


 間を持たせる程度のつもりで尋ねたつもりだったが、相手が悪かった。土台、霧の濃い街の外で考えなしに口をひらいたぼくもだいぶかつだ。


「違います。その……」からかいの種を見つけると矢継ぎ早にはやしてくる。それはもう思い知っていたので、ぼくも押し黙りかける自分をこらえた。


「本当に歌うんですか? 彼女……」

「なにそれ? しつこくない? ていうか、抜け道使ってから言ってどうすんの?」


 街の門は見張りが大幅に強化されていた。ファゾさんも言ったとおり、霧の座を意識しての厳戒態勢なのだろう。その霧の座を、ぼくは予備兵時代に知った抜け穴に案内して街を出た。ファゾさんが知ったときのことは想像したくない。


「だって、傷もふさがったばかりで、歩くのもまだ、ふらつくのに……」

「ああ。そういうこと」話題を変えたって小馬鹿にしてくるのがオベリクだ。「安心したまえ。姫は歌える機会に目がない。体がだるいくらいで舞台を蹴ったりしないよ」

「そういうことじゃ――」

「そういうことは、肝心の舞台を見せてから気にすることだよ、ジーク?」

「ッ……」


 黙れ、と暗に言われたのがわかった。姫が決めることだと言いながら、オベリクはぼくがこれから見せる〝提案〟をすでに歓迎していない。


 霧の姫には多く異名がある。マガウタもそのひとつ。

 今の世界において、歌は災禍そのものだ。精霊ジフたちこそであるはずなのだけれど、元からしておそれるべき者たちであり、会話も通らず、敵対した理由さえわからない彼らを憎むことは、半分ほどの人が諦めてしまった。


 歌を歌いさえしなければ、ジフの怒りに触れることはない。

 その原則を顧みず〝歌う者〟は罪人とがびとである。


 その最たるものとして数年前からうわさが流れていたのが『霧の姫』と、彼女の率いる『霧の座』だ。歌劇一座を名乗る彼女たちは、自分たちの舞台に人を巻きこむことをいとわないの、進んで都市や集落の真ん中で歌いだすと言われている。その歌声には人を惑わす力もあり、取りこまれた者はジフから逃げることも忘れ、聴き入って恍惚こうこつとしたまま引き裂かれるとも。


 彼らは舞台に観客を求める。

 自分が聴ければいいと言いながら、自分たちでは足りないのだろう。おのれのすばらしい歌姫に共に酔いしれる者を探している。彼らはひょっとすると親切に分け与えているつもりで、それが善だと信じているのかも。


 征禍隊がいると訴えても、命より歌を選ぶような人たちだ。そして、ひとたび歌いだせば、ジフは一斉に現れる。歌いだしてから止めるのでは遅い。けれど、今のぼくには止められない。


 なら、この道しかなかった。


「……ここです」

「んー……」


 谷あいなので霧深いけれど、一応今日は快晴だ。

 森の中よりははるかに明るさを感じる場所に出て立ち止まった。


 谷の終点じみた、勾配のない平地だ。枝を落とし尽くされた丸太同然の木々が、根は抜かれずに無数に放置されている。幹に目印のような布や紐を巻かれているものも多い。

 オベリクの反応は落胆した風でもなかったけれど、特に心が動きもしていないと言っているようだった。


「征禍隊の……修行場の跡、かな?」

「現役の演習場、です。ただ、この時期は使わないので……」

「ジフっぽい爪跡もあるね。ハハァ、実戦訓練ってわけだ」彼はこらえた気配もなく失笑する。「ウケるねえ。ジフの殺し方を覚えるために、キミらが恐ろしい歌をみずから歌ってる姿を思うと――」


 正確には歌わない。適当な石や小枝を拾って規則的な音を出す。

 つまり拍子リズムを刻むだけで、ジフたちは即座に現れる。ささやかな旋律なら出てくるのも小型が三体ほど。小型でも丸腰の人間ではひとたまりもない生物に、対抗できるすべを持たない者をぶつけるわけにはいかない。ここは征禍隊本入隊最終試験場だ。


「愉快な場所だけど、舞台としては落第かな。さほどひらけてもいない。絶景でもない。観客はボクらふたりだけ。姫がこの場所を捨てがたいと思う理由がなにもないんじゃ――」

「あの……」


 訂正や口論をする気はなかった。まず、たちの悪い相手でなくても、なるべく口は閉じていたい。


「よく歩きましたし、お昼、にしませんか?」

「あ?」


 音を立てすぎないよう慎重にポケットの中を探る。ふたつの包みを取り出し、片方を口を歪めているオベリクにさし出す。


「これは、ぼくら用です。こっちは――」そしてもうひとつの包みは、ヒトのいないほうへ。「彼らに」


 包みがほどけているのを確認して、〝彼ら用〟を投げた。

 しげみの近くに落ちて、詰めてあった茹で豆が地面に散らばる。


 しばらく動かずに待つと、しげみが揺れて、先のとがった小さな〝鼻〟が出てきた。

 黒い鼻がいったんヒクヒクとうごめくと、すぐに小さな黒目がふたつ覗く。続いて、ひとかかえほどの毛むくじゃらな稲穂色の胴体。落ち葉まみれの長い尾。

 その卵型の小動物はのそのそと豆にたどり着くと、改めてにおいをかぎ分けるのもそこそこに、どこについているのかわかりづらい小さな口でかぶりつき始めた。


 と同時に、しげみから同じ鼻がふたつ覗く。さらに別のしげみや木立ちの中から、別の形の鼻や耳も。大きいものほどおそるおそるだったが、最初の小動物に続くように次々と、見覚えのある獣たちが姿を現し始める。


「こりゃあ……」


 さしものオベリクも息を吸い損ねたような声を出す。そして彼にもわかるらしかった。


「元家畜か」

「はい」


 ジフの反乱直後、鳴き声にジフたちが反応するのを恐れ、ほとんどすべての人が家畜を手離した。多くは殺したけれど、忍びないと思って街から離れた谷間に捨てた人たちもいた。あいだにある山は険しく、温厚な家畜たちには越えられない。たとえ――


「たとえ本当にジフどもが人間以外の生き物に関心があったとしても、ここなら死ぬのは当の獣と、ザコのくせに剣を取った身のほど知らずだけで済むってわけだ。起こる確率が千に一でも万に一でも恐れるに越したことはない。だからキミらはいまだに食いたい肉が食べられないし、街じゅうを砂でまぶしてお上品に歩いてる。ご苦労だねえ」


 ひとしきりニヤケ顔で嫌味を並べたあと、オベリクは唇を結んで鼻を鳴らした。


「で、その迷信深い連中と暮らすキミが出した妥協案が、動物となかよくお歌のパーティーか。まぁ、なにひとつ期待していなかった身としては、小噺こばなしのタネとして正直に称えよう。いつか誰かを口説くのに使いたまえよ。すべったときだけ報告を聞こうじゃ――」

「オベリク」


 凛とつらぬく声。

 オベリクの腕の中で、全身を毛布にくるまれながら、無残な傷痕は外にさらしていた小さな顔が、ひとつきりの金色を食欲にほだされて群がるものたちに注いでいた。


「わたし――」

「っ……!?」


 眠りのない澄んだ声。

 その瞬間、ぼくは悪寒とともに剣の鞘を逆手で握りこんでいた。


 始まる。情け容赦なく、求めに応じるでもなく。

 彼女の中から始まるものは、彼女自身にしか止められない。決して取り消されない傷痕と、光の失われてなお鮮やかな金色を見てそれを思い知って、ぼくの全身が心に断りもなく覚悟を決めた。


「触りたいわ」

「……」

「……」


 ニーベルの金色の隻眼は、動物たちを見ている。

 頑として動かず、どこへも行かず。彼女を動かせるのは、彼女だけ。


 そこで彼女の従者の顔を見てしまって、ぼくは全身と心の両方で後悔した。

 同じようにこちらを向いて顔を見合わせた彼は、温厚な小動物を見つけた山生まれ山育ちのなにかのように、獰猛どうもうに笑んでみせたから。


「頼んだよ、ジーク?」

「……ほぇ!?」

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