第5節


 その日から、ぼくは〝ジーク〟になった。

 姉さんは言葉を交わせるほど元気がないし、ファゾさんは本当に忙しいらしく顔を見せない。仕事を探しに行けるはずもなく、ぼくに話しかけるのは押し入って居直ったおしゃべりな強盗と、時おり目を覚ましては人違いをし続ける彼の姫君だけになっていた。


「彼女、右目も……?」


 四日目、昼刻の異音塔が鳴り終えたあとで強盗――霧の姫がオベリクと呼ぶ彼女の騎士に、意を決して聞いた。姫は目が覚めると必ずぼくを見るのに、ぼくが声を発するまで、誰を見ているのかわからないようだった。


「いや、えてるよ」


 居間のカウチに我が物顔で寝そべったまま、霧の騎士オベリクはこともなげに答えた。

 全盲でなければ弱視だろうか、とぼくが考えていると、さらにこう続いた。


「姫は顔がわからないのさ」

「かお……?」


 かおって、顔のことだろうかと聞き返してしまう。そのくせ、ぼくを見つめる姫の視線が、いつも鼻先に貼りついて動かないことを思い出す。


「人の顔を見ても、それが誰だか区別がつかない。みんな同じ顔に見えるみたいなもんだろうね。なぜかまでは知らないけど」

「病気、ですか?」

「ボクが医者に見えるかい? 確実なのは、顔がわからない代わりに、声で区別をつけてるってことだけさ」

「声……」


 その実感はすでにあった。だから視えないのだろうかと思っていたのだけれど、視えていてなお、声を聴かなければ他人がわからないのか。それもまた、誰も必要以上に声を使いたがらないこの世界では難儀に思える。


「やっぱりキミ、変わってるよ。先に聞くのは『ジークって誰?』じゃないの?」

「え? あ、いえ……」


 オベリクはふしぎがるというより、もはや薄気味悪いものを見るときの顔をしていた。今日は遮光眼鏡をしていないので、切れ長の目が余計にきつい感情を伝えてくる。


 そういうものだろうかと思いつつ、ぼくも言いわけを探してしまう。実際気にしていないわけではなかった。仲間割れをして壊滅した霧の騎士団。オベリクだけ生き残ったということは、ジークもまた死んだ騎士のひとりだ。想像できていたのはそのことと、ぼくと声が似ているということだけ。


「その……聞いてしまうと、本当になり代わる、みたいで……」

「おや? これ幸いになり代わりたいんだと思ってた。否定しないからさ、キミ」

「それは……」


 四日あった。

 姫の包帯は結局ぼくが替えている。口数の多い姫ではないけれど、目が覚めていればありがとうを必ず口にする。目に光はなくても常にほがらかで、嫌味もなくさっぱりとした女の子。会話の通じない相手と思ったことはなかった。


「死んだ座員……騎士のひとり、ですよね? 生きていたのねって、彼女、うれしそうだったので、つい……」

「…………」


 オベリクはなにも言わず、ぼくの顔を眺めていた。

 眉をひそめも、いつものように軽薄ににやけもせず。それがやがて、なにも感じるところはなかったみたいによそを向く。


 完全に彼の意識の外に追いやられたのがぼくにもわかった。なぜだろう。わからなくても、それで終わりでもなにも困らないはずだったけれど、焦りに似たものが胸に湧いた。


「……あの」

「なに」

「……彼女は、なんていうんですか?」

「なにが?」

「えと……名前、です。姫の……」

「はぁ?」


 オベリクは不機嫌らしかった。常に余裕ぶるのが信条らしき彼が今ほど眉間にしわを寄せているのは見たことがなかったかもしれない。彼はいったん口をぱっくりあけてぼくを見たあと、焦がした鍋の中身を覗いたみたいに大きな溜め息をついた。


「んー……キミ、ボクが思ってた以上だよ。最初は面白そうだったけど、手に余る気がしてきた」

「……なんですか、それ?」

「さて、なんにしようかね。とりあえず、キミのその耳のかゆくなりそうな質問は、本人に直接ぶつけてみればいいんじゃないかな。ねぇ、姫?」

「!?」


 目を剥いて廊下のほうを振り向いた。

 はたしてそこに、ひとつきりの金色を見つける。空のような青と雪のような白の不ぞろいに溶けあうまだらの髪。ぼくが寝間着に貸したシャツの上から毛布を羽織り、真新しい包帯を巻いた細い腕を出して、小さな体が戸口の柱につかまり立ちをしていた。


「オベリク……」金色の視線はぼくではなく、カウチのほうを見ている。


「本人って、だれ?」

「あなたですよ、ニーベル姫」

「!?」


 ぼくはもう一度目を剥いて、姫と同じカウチのほうを見た。彼女の騎士は腕枕をして、どこも見ずに澄ましている。ついさっきぼくに姫自身に聞けと言った姫の名前を今言わなかったか? 確か、〝ニーベル〟と聞こえたけれど、聞き違いじゃなかったか。押すと見せかけて引くような虚を突かれたのと咄嗟とっさの記憶をさらうのの両方に夢中で、オベリクの次の言葉を聞き逃しかけた。


「ジークがお話があるそうです。推薦したい舞台があるんだとか」

「ジークから?」

「へぃッ?」


 少し声が裏返ってしまった。今のでも、ここにぼくがいることを姫は――ニーベルにはわかるのだろうか。今考えなくていいはずのことが気になってしまって、口をはさむのがさらに遅れた。


「や。え、あの……舞、たい? って……」

「やだな。自分で言ったんじゃないか。姫も歩けるくらいにはなったし、ここらで気晴らしと肩慣らしをかねて一曲いかが、って」

「は……ええッ!?」


 ここ数年で一番声を出したかもしれない。

 そのことに焦る余裕すらなかった。ぼくはカウチの背もたれに飛びついて、そこで口をとがらせている男の顔を覗きこんだ。


「な、なんで!? ここでは歌わない、って……!」

「ここではだよ。忘れたかい、?」


 ずいぶんと久しぶりにオベリクは、慇懃に見える軽薄な笑みを浮かべてみせた。


「〝歌には舞台を〟――それがボクら『霧の座』の、たったひとつのモットーだろ? 姫が歌を歌うのは、姫の歌にふさわしい舞台で、でなくてはいけない。どこでもは歌わないんだ。だから舞台の候補地を見つけ出し、あてがうことが、霧の騎士のもうひとつの使命」


 腕枕として敷かれていたはずの彼の腕が、不意にぼくの服の襟をつかんだ。無理やり引き寄せられ、紅紫べにむらさきの虹彩のシワも数えられる距離から逆に覗き返される。


「あるんだろ、ジーク?」

「……!?」

「安心したまえ。キミが自信満々で持ってくる舞台を姫がお気に召さなかったときは、ボクがしっかり埋め合わせてあげよう。この家の前の広場なんか悪くなさそうだ。ひらけていて、歌声がよく響くだろう。ジフたちがおとなしかった頃のように」

「ッ……!」


 突き飛ばすように手を離され、よろめきながら後退する。

 男はさっと立ちあがると、揺り椅子に投げだしていた上着を拾って肩にかけた。


「開演は明日」


 上着の中から遮光眼鏡を取り出し、目もとを隠す。薄笑みを浮かべた口もとは、むしろすき間から見せつけるようだったけれど。


「〝いい場所〟を頼むよ、ジーク?」


 ぼくはどんな顔をしているだろう。まだ混乱のさなかにあると思う。けれど、背後に立つ女の子の気配を意識して、彼女の――ニーベルの歌う姿を思い浮かべようと必死でいた。

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