第4節


 二の腕の傷は、出ている血の量ほど深くはなかった。圧迫だけでも動かさなければふさがったかもしれない。それでも、焼いた針とよく煮た糸で閉じておくに越したことはなかったけれど。


「上出来、上出来」


 尊大さを隠そうともしない口ぶりで、男が処置の結果を称えてくる。出しておいた真新しいさらし布を裂いて、依然眠っている少女の――『霧の姫』の二の腕に巻き始める。

 ぼくのほうは、ボウルの水で手を洗ったのを最後に、部屋の隅でへたりこんでいた。姫の肌に針を刺すたび、痛みに飛び起きて泣き叫ぶだろうと身構えたのだけれど、当の姫君はまるで薬で眠っているかのようにピクリともしない。その異様さに、安心するどころか疲れ切ってしまった。


「やぁ、もうけたね。縫う道具があれば十分だと思って押し入ったけど、ヒトの縫い方を知ってるやつがそこにいたなんて」

「あの……」


 男はわざわざ人を怒らせたいのかなんなのか。わからないけれど、今のぼくは気を取られる余裕もなく、頭にあるのは処置中もずっと考えていたことだけだった。口を閉じる気力もなくなったみたいに、それが今になってこぼれ出た。


「やっぱり、ちゃんと医者に縫ってもらうほうが……小さくても、痕、残りますし……」

「…………」


 男は黙っていた。気になって顔をあげると、丸い遮光レンズが二枚ともこちらを向いていた。薄い唇が軽薄にゆるむ気配がしたけれど、男はつんと澄ました顔のまま口を動かしただけだった。


「面白いね、キミ」

「え……?」


 男は包帯の続きを巻くためにすぐ目をそむけた。しゃがんでいるぼくから手もとは見えないけれど、ずいぶん手ぎわよく器用な手つきに思える。


「だって、姫のカラダは見ただろう? あれで今さらと言わず、女の子の痕が増えるのを憂うキミは、きっと誰もが手本にしたがる紳士だ。けど、ボクらの素性を信じていないわけでもない、だろ?」

「それは……」


 ぼくのほうも目を伏せた。

 半信半疑、とも少し違う。彼らの言動で腑に落ちている自分はいる。けれど、にわかには信じがたい、という気持ちも嘘ではなかった。現実味が追いついてこない。


 今の問いかけはつまり、突っこんだことを尋ねてみていいということだろうか。そんなことを彼は一切言わなかった気もするが、なぜかうながされたと感じる。なにを問うか、思うように言葉が選べないことも自覚しながら、すき間から落ちるみたいに尋ねた。


「本当に……歌うん、ですか?」

「歌うね」


 彼の答えは率直だ。その言いぐさだけで十分に異常で、目的は済んだと言ってよかった。


「ふたり、だけで?」

「歌うのは姫だけさ。ボクら騎士は姫を守る役。ただ姫の歌を聴きつづけたいがために」

「聴き、たい……?」

「興味ある?」

「え?」


 十分だと思ったのに、なぜ重ねて尋ねたのだろう。やはり疲れで緊張の糸が切れてしまったのか、不安を見失って混乱しているのか。男からそのどちらでもない答えを送りつけられて、声が泳いだ。彼が丸めていた背中をおもむろに起こす。


「動機はそれだけだ。この歌えない世界でよどまず歌えるたったひとりを生かし続けて、その見返りをむさぼりたい。霧の姫、れずの魔女、マガウタ。彼女が歌う場所にいたい。どんな有象無象であっても、その想いで来る者は拒まれないよ。それが『霧の騎士団』。『霧の座』を名乗る、『霧の姫』以外の者たち」


 ひと息に語りながら短いナイフを取り出し、彼は巻き終えた包帯の端を切り取った。つる草の豆でも採るような手つき。けれど白い包帯の結び目は、傷だらけの細腕を上品に彩る装飾みたいだ。


「要は座員というより、熱狂的な観客で、追っかけなのさ、ボクたち『霧の騎士』は」


 彼のその言い方で、また少し腑に落ちた。

 気持ちが理解できたわけじゃない。ただ、ジフの脅威は大半の人間がなすすべもないものだ。それを顧みず歌うということは、歌えないなら本気で死んだほうがマシか、生き死ににこだわらないくらいタガがはずれているかだろう。そんな人たちばかりがひと所に集うというのは、脈絡がない気がしていた。壊れた姫君に群がる人たちが、壊れていないとも思わないけれど。


「ほかの人……騎士は、あなた以外、どこに?」

「いないよ。今はボクひとり」

「ひとり?」


 ぼくが首をかしげると、男が振り向いた。彼にしてはそのほうが自然な軽薄な笑みを浮かべ、いかにも気さくげな肩のすくめ方をする。


「前の〝舞台〟で全滅しちゃってさ。仲間割れがあったんだよね。まぁ仲間じゃないんだけど。それで滅茶苦茶。ボクだけ運よく生き残れちゃったんで、今は泣く泣く座長やってますってこと」


 腑に落ちたものを引きあげられた感覚。

 利害の一致で寄り合っていた人たちが、結局仲たがいで総崩れになった。――なぜ?

 想像なんか至るはずもなかったけれど、ぼくの視線は話しつづける男から、寝台の上へと自然に動いた。


「ただ、ひとりでジフをさばき切るのってさすがに厳しくってさ。しかもボク、魔法使いだろう? ジフの相手はそもそもが不利でね。至らないせいで姫がお怪我を、ね?」


 霧の姫――騎士たちにとって、彼女が唯一無二の歌姫なのは、きっと彼女が歌いたくて歌うからだ。

 歌いたいときに歌う、かつての世界で当たり前だったことを、当たり前におこなう者。ただ歌うことが好きなだけの、半分壊れた女の子。きっと守る者がいてもいなくても歌いつづけて、ジフに引き裂かれるその瞬間まで歌いつづける。歌うことのほかにはなにもないから、誰もが理由や目的を自由に上書きできた――のではないかと、まだ声を交わしたことすらない女の子のことを、ぼくも勝手に想像した。


「というわけなんで、キミもやらない、霧の騎士?」

「……は?」


 耳の中に落ちた言葉を、拾うまで少しかかった。

 拾ってもよくわからない。キミモヤラナイ?

 声の主を探すように視線をふらふらさまよわせて、心当たりを尋ねるみたいにようやく男の顔を見る。男は呆れていた。


「今言ったじゃないか。人手不足。姫の歌に興味さえあれば誰でも歓迎なんだ。もちろん戦えたほうがいいけど、実は姫を守れなんて決まりもないんだ。ただし、姫の歌を聴ける場所に居合わせるってことは、もれなくジフに目をつけられるってことだから。死んだら自業自得。歌に聴きれて死ねるなんて、今の世界じゃ貴重な体験だとも思うけど」


 男の話はぼくの聞きたいことからずれにずれていたけれど、今のぼくの頭の中よりは整然としていた。なるほど。頭数に不安があるので、押し入った民家で人質に取った女性の弟が剣の手ほどきも受けたことのある元兵士なら勧誘したい、ということのようだ。間違っていてほしいけれども。


「あと、本当は姫の〝歌〟に興味がなくてもいい。姫が歌う邪魔さえしなければ、目的はなんでも。たとえ、姫そのものであっても……」


 その一瞬、男の口の端があざけるようなあがり方をしたみたいに見えた。毎度そうといえばそうかもしれない。次の瞬間には軽薄で尊大な口調で「誰も問いただしたりしないさ。自分が聴ければいいんだからね」と、彼らしく付け足していた。


「答えはすぐじゃなくていい。さっきから病人よりしゃべれなさそうな顔してるしね。どうせ姫の傷がふさがるまではここにいるんだ。ま、ゆっくり考えてみなよ」

「え、ちょ……」


 どこか他人事みたいにぼんやり聞いていたのが、一番聞き逃せないことを言われて急に冴えた。のろのろとながら腰をあげて、姫の寝顔をながめている男に手を伸ばす。


「あの……処置が終わるまで、じゃ……?」

「んん? 言ってないよ?」男はまた遠慮のない呆れ顔で、「上手に縫ったし薬もあるからって、いつ傷がひらいてもおかしくない容体の女の子をほうり出すのかい、紳士クン?」


 もっともらしいことを言われて、ぼくは二の句を継ぎそびれてしまう。

 言ってないかもしれないけれど聞いてもいない。傷がひらく心配がなくなるまでだなんて、具体的にいつまでかわからないし、そのあいだ姉さんが人質のままだ。ファゾさんだって訪ねてくるかもしれないと、心配事が渋滞を起こしている。

 なにより、歌姫は健康で元気だ。それはつまり――


「安心したまえ」


 一番の懸念だけは、男にも伝わったらしい。それでも気遣いというよりはからかうみたいに、「おとなしくしてるさ。それでいくら退屈したとしても、キミの家で鼻歌を口ずさんだりもしないよ。姫は〝舞台〟ありきなんだから」

「舞台?」

「ジーク?」


 また凛とくっきりした声がして、ぼくは舌を飲んだみたいに口をつぐんだ。男といっしょに寝台に目を向ければ、光がないままよくひらいた金の片目と目が合った。


「やや? 小まめにお目覚めですね、姫? 処置は終わりましたよ?」

「ジークの声がしたわ……オベリク、どこ?」

「ここですよ。ここにボクと、もうひとり」

「へ?」


 含みのある言いぐさをされた気がして、ぼくは思わず声を出した。男を見て、また姫を見たとき、胸が震えた。


「ジーク……」


 姫はぼくに目を向けていて、ひとつしかないその金色を細め、白かった頬をほのかに色づかせていた。


「生きていたのね」

「……え? え? ぼく?」


 姫が自分を見ていることをようやく実感して、そのあとになって『ジーク』というのが人の名前だと思い至って、ぼくはめまいがしそうになった。なにが起きているかを的確に表す言葉が鞄の奥にあるみたいに取り出せない。間に合わない不安に駆りたてられて、勢いまかせに口をひらく。


「あ、あのっ、ぼくは、ディお――」

「いやぁ、奇遇だったよねぇー、こんなところでまた会えるなんて」

「は? へ?」


 男が視界をふさぐように出てきた。実際ぼくは口をふさがれたも同然になる。

 男はすばやく寄ってきてぼくの隣りに並んで、腕をぼくの肩に置いた。じゃれ合っているらしき男子ふたりを見て、姫の小さな口がまたほころぶ。


「生きていてくれてうれしいわ」


 幼さにそぐわない張りのある声と言葉づかいで、姫は無事を喜んだ。


「また、よろしくね、ジーク」

「ええ、ええ。ふたりで力を合わせてお守りしますよ。なぁ、ジーク?」

「え? ……え? え?」


 調子よくまくしたてる男にも気圧けおされ、ぼくは途方に暮れすぎてしまう。

 人違いという言葉をようやく頭の奥から取り出せても、なにがどうなっているのかわからない。修正を試みもできずにいるうちに、夕刻の異音塔が鳴りはじめた。

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