第3節


 七年前のある日、精霊ジフたちが反転した。

 なんの予兆も、予告も、合図もなかった。静かに、突然に、一斉に、長い長い時をともに歩んできた彼らは、人間と敵対した。彼らと最も心を通わせるとされてきた魔法使いたちを真っ先にひねりつぶしたあと、〝霧〟となって世界を覆い尽くした。


 いまの彼らが実体を得て暴れくるうのは、旋律を聞いたとき。

 旋律――つまり歌、音楽だ。


 ぼくらが歌ったり奏でたりしない限り、彼らはなにもしない。〝霧〟の中で息をしても無害だと言われている。

 ただ、音の並びを旋律として聞き取るかは彼らジフ次第だ。彼らの怒りに触れればどんな言いわけも通じないし、誰が音を立てたかも関係なく牙をかれる。禁忌に線引きのしようがなかったぼくたち人間は歌を捨てただけでなく、歩みを忍ばせ、息をひそめて生きるようになった。――ある人たちを除いて。


「あの、本当に……」


 尋ねかけたなり、言いよどんだ。

 男はぼくの部屋に小さな負傷者を運びこんで、ぼくの寝台ベッドに許可なく転がしたところだ。肩ごしに振り向いた彼の細い目が、遮光レンズの下で余計に細まるのを見る。


「んー? 『本当にぼくがやるんですか』って? まぁ、そうだね。だって、断らないでしょ?」


 断らない……断れないの間違いだと胸の中だけで指摘する。肉親を人質に取っておいてどういう図々しさだろう。


「安心しなよ。へたくそでも傷が閉じればなんでもいい。ボクは細かい仕事が苦手でね」


 へたでいいなら、苦手でも自分でやれるはずだ。ひと息で矛盾する言いぐさにはことさら気が滅入る。

 ただ、本当に気になったのはその部分ではなかった。直視するのもためらうようなことだっただけで。


 男が場所をあけたので、寝台の上の包みに近づく。

 赤ん坊のおくるみのような状態と言えればよかったけれど、人が子供を産みづらくなって久しい。そうでなくても、汚れた布を巻かれて顔まで覆われているのでは、遺体という言葉のほうが先に浮かんだ。呼吸のたびに胸のあたりが上下しているのを目で確かめても、安置所にいたときの気持ちを拭えないまま布をめくる。


 青白まだらの髪がはみ出している頭の側からめくって、白い額が見えたとき、手が止まった。


 向かって右、青い眉毛のすぐ上を、大きな傷痕きずあとが走っている。

 鋭く割れた石でえぐられたかのような、赤黒く変色した痕だ。手を離すと髪がずれて、こめかみのあたりから下へ向かって、似たような別の傷痕が伸びているのも見える。伸びているのは、どこまでか……。


 めくらなければしようがないことを思い出し、意を決してぼろ布をつかみ直した。

 縦の傷痕は白くやわらかそうな頬を通り抜け、小さなあごの近くまで続いていた。耳のうしろからもあごに向けて一本。鼻の頭から頬にかけて斜めにも一本。そして、向かって右のまぶたを永遠に縫いとめる、大きな一本。


 傷痕は、向かって右側にだけ集中していた。左側は豊かにまつ毛の生えそろったまぶたも、本来の愛らしい顔もそのままだ。だから、それがなんだというのだろう?

 全裸に布だけ巻かれていたらしく、顔だけめくったつもりで覗いた首もとや鎖骨のあたりにも傷痕の端が見えていた。一度でついたと思えない傷痕は、顔やその付近だけだろうか? 新しい傷は二の腕だ。こんなに華奢な体で大きな傷を受け続けていたら、腕などいつか千切れてしまう。


 女の子だ……。


 壮絶な負傷の歴史よりも、ぼくにはそのことが一番の衝撃で、知ったときから指一本動かせなくなってしまった。息苦しくて、呼吸ができているのかも自分でわからない。視界が少しずつにじんでいく。男の子だって傷が残るのは嫌だろう。けれどぼくは、力なく眉をひそめて寝台に横たわる彼女に、姉さんを重ねてしまったから。


「やや? キミはキミでそういう趣味か」

「ッ!?」


 耳もとで声がして飛びあがりそうになった。

 実際ほとんど床を蹴る動きで、せまい部屋で取れるだけの距離を取った。男もぼくより背が高い。彼はぼくのすぐうしろに立って、頭ごしに寝台を覗きこめる位置にいた。


「別にいいよ。これから見るどころじゃないことをするんだ。傷を悪くしなければ、どこに触れようと、なにをしたってかまわない。新しい傷を増やしたっていいよ。ちゃんと面倒を見れるならね」


 なにを言われているのか理解できない。理解からも逃げたくなるくらいおぞましいことを言われているのはわかる。ぼくに向かって言われているのだけれど、気にしていられる余裕もなかった。彼女のこれまでの傷は誰が……なにがつけたのか、問いただすまでもなかったせいで。


 男は無言で、身振りだけでぼくをうながした。

 見ただけで息も止まるほどのおそれを覚えたはずなのに、そうされるとぼくの目はまた寝台の上を向く。


 包帯から解き放たれて、肩丈くらいの髪が広がっていた。青と白のまだら色は、顔の傷のあるほうへ行くほど白が多くなる。さらりと瑞々しく伸びる青髪に比べて、白い毛は干からびたように縮れてもいた。まるで恐ろしいものに触れた部分から、命が抜け落ちてしまったみたいだ。

 それでも、傷の下の頬にもまだ血の色がある。傷痕が避けた毛穴から、痛みの汗が吹いている。


 今日何度目かわからない生唾を飲みこんで、ぼくはまた、ぎかけだったぼろ布の端に手を伸ばした。布は腕の外に巻かれているから、患部だけを露出させるようなことができない。彼女の見られたくないものを見ることになるかもしれない。

 だからせめてものざんのように、男の暴言は忘れて、布をつかんだところでいったん彼女の顔を見ようとして――水面みなもの月のような金の片目を見た。

「……ッ!?  ――ッッッ!?」


 今度こそ飛びあがったと思う。

 ぼろ布を手離して思いきりあとずさって、あとずさって、さらにあとずさって、尻もちをついた先は廊下だ。


 ベッドの上の小さな頭が横を向いて、金のひとつ目がまたぼくをとらえる。目がひらいているほかはそこにどんな表情も見つからなかったのに、ぼくのどうはただただ強まる一方だった。


「あら。お目覚めですか、姫?」


 部屋の隅に避けていた男は平然と少女に近寄って顔を覗きこむ。少女ははだけたぼろ布を気にするような身じろぎひとつせず、パチッとひらいた片目だけを動かして彼を見た。


「オベリク?」


 名前らしきものを呼ぶ。おそらく男の。


「ここは?」

「仕立て屋さんですよ。傷を縫ってもらいましょうね」

「そう」少女は、特に残念がるでもなく淡々と「まだ済んでいないのね」


 傷病人らしからぬ、澄んでいて張りのある声だった。確かにあどけなさはあるのに、不釣り合いに凛としていて耳が混乱する。男もだいぶちぐはぐなことを言ったはずなのに、ぼくは彼女のことをかみ砕くので精いっぱいだった。


「ええ、これからです。もうひと眠りしてはいかがでしょう?」

「そうするわ」と言って、少女はすんなりと目を閉じた。「あとをよろしくね」


 ぼくのことはもう一顧だにしないまま、また規則的に胸を上下させはじめる。


 男が振り向いたのでぼくも視線をあげた。彼がまた意味深に笑んでいるの見る。その顔でさも「邪魔したね」と言わんばかりに慇懃いんぎんにうながしてみせるので、ぼくは耐えきれず目を覆いたくなった。


 筋の通ることなんかあるはずがない。


 彼らは『霧の座』。ジフの報復を恐れず歌いつづける壊れた歌姫と、それを守る騎士だ。

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