第2節


 ギクリとして、意識が真うしろに集中した。

 視線を外した時間は三呼吸にも満たなかったはずだ。振り返りもしていない。それでも、男の顔色を気にして視線を前に戻したとき、居間には軽く揺れている揺り椅子があるだけだった。カウチの上の小さな体も消えていた。


 ぜんとして固まっていると、もう一度背後で扉をたたかれた。拍子リズムと取られることを警戒するような、間隔をあけたノック。案の定「おれだ、ディオン」と、聞き慣れた精悍せいかんな声がする。


 ため息をつきたい気分になるけれど、緊張して呼吸は詰まっていた。薬の入った紙袋を抱えこみながら、振り向いてそっとノブを握りかける。結局先に外から引きあけられて、ノブは逃げていったのだけど。


「お? すまん、ディオン。そこにいたか」


 さすがにあけ切るようなことはせず、こぶしひとつほどすかしたすき間からやわらかそうな金髪と対照的な雄々しい顔が覗く。あらかじめ誰か予想していなければ、ぼくが最初に見たのは征禍隊一の大男の二の腕だっただろう。


「その、大丈夫か?」


 こちらが用を問えずにいるうちに、人を心配するときの顔をしたファゾさんが先に言った。


「薬屋でおまえがなにを頼んだのか聞いた。化膿止めって言うから、想像よりひどいんじゃないかと思って」

「あ……」


 しまったと、ぼくは彼の懸念とはまったく別のところで後悔した。居眠りの余韻のせいで慌てていたんだ。紙袋の中身が気になるなら、知っている人間に尋ねるぐらいの手間は惜しまない。ファゾさんはそういう人だ。


「やっぱりなにかあったか? ヘルンのほうじゃないだろ。おまえは自分のことだと、すぐ無理をして――」

「ちが……違うん、です。あの……」


 反射的に否定だけして、すぐには言い訳が浮かばない。ファゾさんから視線をはずすと、彼が腰に差しているものが目にとまった。


「……け、剣の手入れをしていて。久しぶりに……」

「剣の?」


 ファゾさんの声色が変わる。単に虚を突かれた感じではない。ほんのわずかにだけれど、温度があがったような気配。こらえきれなかったというふうに。


「はい。そ、それで、本当に少し、なんですけど、腕を切ってしまって……それで、化膿止めを切らしてるのに気がついて、念のため、予備も、と……」


 速く話すのは苦手だ。声を抑える癖がついていると呼吸も浅くなる。それでも口をはさまれる前に言い切れたことで、効き目が強すぎたんじゃないかと逆に心配になった。


「そうか。剣を……」


 あいづちを打つファゾさんの顔が見られない。単にほっとした以上にやわらいでいくのが目に浮かぶようだ。


「そそっかしいからな、おまえは。傷を見せてみろ」

「だ、大丈夫です! 本当に切ったのは少しで、血も止まってますし、縫うほどでもないくらい、ですから……」


 やや声を抑えそこねて、やってしまったと思った。それでも今のファゾさんには、照れ隠しに聞こえたのだろう。「わかった。すまん」とのどかな声で返ってきた。


「ちゃんと意外だよ。そそっかしいのは本当でも、おまえが剣でしくじるのはな。あんなところで居眠りもしていたし、疲れてるのか?」

「いえ、その……そうかも、です……」

「仕事探しで?」

「…………」

「ディオン。ヘルンのためだったのはわかってるが、本当にあてがなければ帰ってこい。おれの下はいつもあけてあるよ」


 なんと答えていいかわからなくて、ずっと目ばかり泳いでしまう。けれどファゾさんに気を害した気配はない。扉が少しすき間を広げるのを見て顔をあげれば、彼はぼくの頭ごしに居間を覗きこもうとしていた。


「ヘルンには会えるか?」

「あ、いえ、今日は……」

「いいよ。やつれてるとこを覗くと、あとで叱られるんだ。来られるときにまた来る」


 思わず押し返したい衝動に駆られて、でも結局できずにいるうちにファゾさんのほうから外に引っこんだ。身をひるがえし、防霧用のあて布を顔に巻く。


「〝歌う者〟の噂を聞いてる」

「えっ?」


 出し抜けに言われて、また思わず声が出た。扉が盾になるほどまだ閉まっていないことにもヒヤリとする。さっきから何度目かわからない取り越し苦労だと知ってはいても。


「近くの街が、大きな被害を受けたらしくてな。だが、肝心の〝魔女〟の死体が見つかっていない。このアルホルに流れてきている可能性もある。戸締まりをしっかりしろ」

「……はい」

「浮かない顔はしなくていい。なにか起きる前に、おれたちが必ず止める。剣の手入れを続けろとは言わないさ。それよりおまえは、あっちの返事をそろそろ聞かせてくれよ? 今日話すようなことじゃないから、いいけどな」


 布ごしのくぐもった声は早口で、元上司は外の霧に気を取られていたとわかる。それでも催促の中に気づかいと弾んだ声を残し、彼は間を惜しむように去っていった。その大きな背中をひと呼吸だけ見送って、ぼくは扉を閉めた。


「うざいね、彼」


 閉め切ったところで、うしろから声。

 振り返って、目を見張った。


 遮光眼鏡をかけた黒髪の男。ファゾさんや姉さんよりも若い顔立ちにしては、不自然に年季の入った紳士服。

 長い脚を組んで軽薄な笑みを浮かべた一番新しい記憶の姿のまま、彼は揺り椅子に深く腰かけていた。背後のカウチには、ぼろ布に包まれた小さな体も横たわっている。


「現役の征禍隊員。キミの元先輩か上役うわやくかな? 忙しい身なのに、隊を去ったキミのことをやけにかまうのは、キミの姉さんへの下心から……と見るのが自然なようだけれど、寝たきりでやせ細った女に魅力があるかな? 実のとこ、狙いはキミだったりして?」


 呼吸は浅いままだったけれど、無意識に奥歯をかんでいだ。

 ファゾさんへの何重もの侮辱を聞かされたせいだけじゃない。そのファゾさんからの話も聞いたことで、彼らから最初に交わされたが、決してハッタリでなかったことを知ってしまったから。 


「怖い顔もできるじゃないか。冗談だと言って取り消すつもりもないがね。だって、よく知ってるんだ。彼らは本当に忙しいってこと。なにせ、ボクらを探しているからね?」


 知っていることをか、原因が自分たちであることをか。どちらにせよ誇らしいことのように、魔法使いは揺り椅子を揺らして慇懃いんぎんに笑った。

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