第一幕 ディオン
第1節
ありえない。だって、歌が聴こえる。
雨は川を投げあげたようで、雲さえかすむくらい降っているのに。濡れそぼつ森はしんとしたまま、おだやかな歌声だけが響いている。
あれはむかし聴いた姉さんの子守歌で、けれど、姉さんも子供だったから、あんなに鮮やかではなかっただろう。苔むした倒木に腰かけ、胸をふくらませているのは、あの頃の姉さんくらいに小さな背丈。糖蜜のような濃い色の赤毛でなく、
天幕の中で、ぼくはそのうしろ姿を眺めていた。
いつかこの視線に気づいて、彼女が振り向くときが来るかもしれない。
どんな目をしているのだろうと思いながら、ぼくは知りたくないとも願った。
目が合ってしまったらきっと、雨音が聴こえてしまうから。
だから、目を閉じることにしたんだ。燃えゆく天幕の中でじっと動かずに、耳をすましていることに決めた。なのに、
「――ォン? おい、起きろ」
男の人の声――といっしょに肩をゆすられて、目をあけてしまった。
にじんだ視界の真ん中を、髪と同じ金の太眉といかつい緑色の両目が覗きこんでいる。その目もとに散っているそばかすを見て、ぼんやりした頭の隅で名前を思い出す。
「ファゾ……さん?」
自分の声もずいぶんぼんやりしていた。あごがだるいみたいに口が動かしづらい。
視界の元上司は、見かけより若い事実を主張するそばかす顔をがっかりしたようにしかめて、ずっとつかんでいたぼくの肩から手を離した。
「どうした? 店主が困ってたぞ?」
「え……?」
てんしゅ、という言葉の意味を理解する前に、元上司が体をわきによけて、吊られた干し草の並ぶ棚の列が目に入った。その棚と棚のあいだから、元上司と同じようなしかめつらをした薬師のおばあさんがこっちを見ている。そのときになってようやく、ふたりの顔色の意味と、ここが知っている屋根の下だということに気がついた。
「小声じゃ起きそうにないから、途方に暮れてたらしい」と元上司。「今にも寝言で歌いださないか、ひやひやしたとさ。おれが薬の補充に来なかったら、辛味の粉を目の下に塗るところだったとか」
「あ……すいま、せん……」
「おい、冗談だって。寝言はなかったしな」
反射的に謝ってしまって、元上司の肩をすくめる姿を見る羽目になる。
ここが通いつけの薬屋なのも思い出して、元上司の彼、ファッゾ――縮めてファゾとよく呼ばれる――ファゾさんが、また共用の傷薬を仕入れに来ているのだと理解した。
「ほら。今日の分」
と、元上司の手がまた視界に入って、ひとかかえほどの紙袋を差し出してきた。「お代はもう出してるんだろ? おれが払ってもいいんだが」 軽口まじりの――いや、この人は本気だ――その問いには答えられず、袋を受け取って膝に置いて、それからどうにかやっと「ありが、とう、ございます……」と最後まで言い切れた。顔はあげないままだけれど。
「おれに言ってどうする? まあ、辛味粉の刑からは救ってやったが」
苦笑、で済んだように見えたのだけど、すぐ「それはそうと、ヘルンのだよな? いつもより多くないか?」と訊かれて息を飲みかけた。顔をあげていなくてよかったと思う。
「おととい見に行ったときは、調子がよさそうだったが……体を冷やしたとか?」
「や。あの……ぼくの分、で」
「ディオンの? 怪我したのか?」
「いえ……ただの補充、です」
「あ、ああ。ならいいが、なんの薬を――」
「あの……ファゾさん。雨は?」
「雨?」
話題を変えたくて口走ったことで、ひどく後悔した。
雨音は目が覚めても聞こえない。自分が家を出て薬屋まで歩いてくるときは、風さえ吹いていなかった。
「今日は降りそうにないけどな。雨より忌々しい霧が濃い。
ファゾさんは征禍隊らしい警戒を口にしながら、しきりにぼくの様子を気にしている。気が動転しているのを悟られたくなくて、おもむろに立ちあがって「なら、大丈夫です。帰ります」と言い置き、薬屋を出ていこうとした。
「待て、ディオン」
扉にもたどり着けず、呼び止められた。彼の声には、人を止める力がある。
「髪がほどけてる」
さっと背中に近づく気配があって、伸ばしすぎた髪を持ちあげられる感触がした。居眠りをしていたあいだだろう。ほどけていることに自分でも気づかなかった。まとめるために太い指が丁寧に髪を
「急ぎすぎるな。足音が旋律になるぞ?」
「……はい」
紙袋を強く抱きしめ、それだけ答える。
肩を押すように軽く叩かれ、
通りには言われたとおり霧が立ちこめていた。家を出たときよりも濃くなったようだ。
音が出づらいよう砂を敷かれた路地を歩く。ファゾさんには諭されたが、やはり早足気味になってしまう。次に鳴るのはいつだったかと思いながら、普段は苦手な異音塔を今日ばかりは度々見あげる。
この街のどこからでも見える巨大な塔、異音塔。傾斜のない白い壁が空に向かってそそり立つ、円柱状の建造物。飾り気はなく、這いのぼる手がかりさえないくらい
足音は旋律にならない――という声もある。
けれど、もし万一彼らを
あの異音塔を建てられただけ、この街は幸いなほうだ。かつては霧深く三歩先さえ見通せない日もあった。あの頃は誰でも奥歯のかみ合う音にさえ凍りついた。今は晴れている日には、真昼の月の形も確かめることができるのだから。霧の限界高度をも越える塔の天辺を拝むたび、そう自分に言い聞かせて家路をたどった。
剣を提げてきていれば、少しは心強かっただろうか。……もしくは、なお悪いか。
止まった噴水広場に面した仕立て屋がぼくの家。かつて昼間は必ず誰かがいたような広場も、人が水音さえ恐れるようになってからは風と霧だけのたまり場だ。民家は窓を閉じ、迷い人すら拒むようにうちの看板もおろされている。継ぐはずだった姉さんが手仕事を覚える前に、父と母は帰らない人になった。
今日は玄関に鍵をかけて出ていない。姉さんはいつも寝室だ。
居間に残っているだろう〝来客〟を思って生つばを飲みこみ、つかんだドアノブの冷たさにギクリとした。
「やぁ。ご苦労」
ほんの少し扉をすかしたばかりで、もう声がした。音もたてないようゆっくりと押しあけたにもかかわらず。聞こえたのは、記憶にも新しい、低く尊大な声。
はたしてその〝客人〟は、玄関扉の真ん前にいた。姉さんとぼくのお気に入りの揺り椅子をわざわざ動かして、深く腰かけて足を組み、扉だけを見張るように体の向きを固定していた。
丸い遮光レンズの眼鏡ごしに、扉がひらき切るやどうしようもなく視線がぶつかる。黒い髪を揺らして小首をかしげ、男はさも親しげに笑んでみせた。
「思ったより早かったね。もう帰ってこないと思っていたよ」
「……」
およそありえないことを陽気に言われ、うしろ手に扉を閉めながら、眉根に力がこもるのを感じる。
男は
「失礼。身内だろうが右腕だろうが置いて逃げるような
案に家じゅうを物色したと告白され、ますます居心地の悪さがひどくなる。触られたくないものたちがざぁっと脳裏を流れて、最後に寝台で眠る姉さんの青ざめた顔に戻ってきた。
「ご心配なく。信用できなくても、キミの姉にまだ手は出していない。彼女はなにも気づかずによく眠っているよ。それより……」
見透かしたように姉さんの話を出したかと思えば、男は椅子から身を乗り出してきた。遮光レンズと眉骨のすき間から、人を値踏みするような
「元兵士で元仕立て屋さん。針と糸はあるよね? 傷も縫えるかな?」
「……!?」
息を飲んで、思わず視線を走らせた。
男の背後にあるカウチソファ。そこにぼろ切れにくるまった小さな体が横たわっている。
十六で小柄と言われるぼくよりも、もっとずっと小さい。顔も見えないようすっぽりと布にくるまれていて、はみ出して覗いているのは青と白の入り交じるふしぎな髪だけ。呼吸はしているようだが、たぶん肩先にあたる部分の布が、うっすらと赤黒く変色している。
確かに訓練で傷の縫合は習った。薬もある。
それでも医者を呼ぶべきだと思う。けれど、男が許すはずがない。
どのみち自分に選択肢はないと諦めて、乾いた喉で「わかりました」と言いかけたそのとき、すぐうしろで扉がたたかれた。
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