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 2014年3月24日。月曜日。吉祥寺の街に奇怪な噂が溢れて一週間あまり経った。


 三連休を終え、多くの人々にとって再び迎える憂鬱な月曜日ではあったが、その日も何かと世間で話題は多く、その頃はといえば先進7カ国首脳会議に出席した各国首脳の話題やら、月末に東京・羽田空港で最後のフライトを終えて引退する全日空のジャンボ機ボーイング747の話題やら、過激化するタイの反政府デモの話題やらと、四月を迎える年度末ということもあって、相変わらず世間は色々と慌ただしい時期だった。


 その日も数多くのニュースや話題が、テレビや新聞やネットを通し、世間一般に次々に流されていく中で、私にとってはやはりというべきか、東京は吉祥寺で女子高生を殺害し、死体を遺棄した容疑で外国人を含む男女が逮捕された事件と、同じく吉祥寺の街を荒らし回っていた空き巣の犯人が、ついに逮捕された事件の報道が特に印象深かった。


 ちまたを爆走する怪異ターボ婆さんに口裂け女のような怪しげな都市伝説のような噂やら、人が転落したマンションに、とある女子高生が見つけた悪夢とも妄想ともつかぬ奇怪な手記まで現れ、最後には女子高生の殺人事件にまで発展していた訳であるが、個々の事件は当然のように個別に報道された。アルビノのアフリカ人女性や奇怪な呪物である髑髏の存在など何も知らない世間の人々にとっては、その背景は知る由もなく、例によって背景など言わぬが花で、改めて全体を俯瞰してみると、実に複雑怪奇としか言いようのない事件だった。


 西園寺に誤って送られてきた正体不明の謎の手記は、悪意に彩られた悪口も多分に含んだ手記だった。読む人が些か気分を害する内容の記述が目立ったことも確かだ。しかし、私はこの詳細を世間の人々に、ありのままに全てを公開しようと考えている。犯人を許すのでも断罪するのでも、己の正義感の為でもない。読む人々に改めて考えてほしかったからである。


 人は本来的に強くない。時に他人の弱さすら平気で叩く。弱さイコール悪ではないが、弱さが善であるとは限らない。その弱さが突然、暴発することだってある。他者を攻撃することとは巡り巡って、その悪意が己や他人の身に及ぶことまでを、考えなくてはならないということなのかもしれない。


 そして、人の悪意とは目に見えないものとは限らない。海外での銃乱射事件は言うに及ばず、日本でもそうした事件はまま起こる。思わぬ場所、思わぬ時間、思わぬ人々の下で。突如として人の弱さが暴発することだってある。常軌を逸した行動となって現れることもある。


 友人の片桐美波は、その弱さをハッキリと犯人である坂谷由依に告げたのだ。


「貴女は神でも悪魔でもない。ただの弱い普通の女です」と。至ってシンプルに。簡潔に。友人の感情任せな滅茶苦茶な言葉が一体全体、彼女にどのように届いたのかは解らない。


 しかし、坂谷由依は全面的に容疑を認めており、女子高生の死体を解体、遺棄してその罪をブレンダに擦り付けようとした容疑についても、自分が行ったことで間違いないと容疑を認めた。報道では動機について、彼女は『男を盗られて妬ましかった』と供述した。どういった心境の変化が彼女にあったものか、ここ数日は至って従順に、淡々と供述を進めているという。


 ニュースの報道などで逮捕された犯人が容疑を否認する話はよく聞く。しかし、今回犯人がしっかりと目に見える形で世間に動機を吐露したことについては、私は友人である片桐美波の功績であり、意義深いことだと考えている。滅茶苦茶な語彙や彼女の関わり方の経緯はどうあれ、悪しき因果を断ち切るのも探偵の役目なのだろうと私は勝手にそう思うことにした。


 親族会議で家族に諭され、丸の内警察署に自首した迷惑な泥棒。逮捕送検された島谷俊彦は到って従順に供述を始めており、彼は民家の二階や三階の無施錠窓などから侵入する手口で、あちこちのアパートやマンションへの空き巣を繰り返していたことを認めた。


 送検容疑の期間は会社をクビになって以降の昨年十月から今回逮捕された三月末までのおよそ半年間で、犯行の範囲がまた幅広く、彼は都内だけでなく近隣の埼玉県や千葉県の民家など約110戸に渡って侵入し、被害の総額は現金にして計1517万円。他にもネックレスや指輪などの宝飾品や商品券など、ひたすら盗むのを繰り返していたようだ。


 警視庁捜査一課へは西園寺が捜査協力した形となったが、捜査3課からもたらされた情報によれば、彼の窃盗や住居侵入は、学生だけを狙った単純な物ではなかったようである。彼は作家修行という体裁を整える為に学生のパソコンの情報を狙って盗んでいた訳だが、その被害総額や手口たるや、もう呆れる他なかった。


 彼は主に物置や雨どいなどを足場にして壁をよじ登ったり、アパートの通路から隣家に飛び移ったりなどしていたことから、武蔵野市の捜査員たちの間では「ムササビ」とも呼ばれていたという。


 家族でマンションに住み、昼はサラリーマン風にスーツを着て電車で移動しながら、駅近くのアパートやマンションを狙った空き巣をさんざん繰り返していた訳である。空き巣に好都合な場所の情報は前もって闇サイトなどで集め、ムササビや焼き破りや天井渡りなど、犯行の手口が一つの地域で偏らないような工夫までしていたといから、これまた呆れるしかない。


 ガスバーナーによる焼き破りと呼ばれる、窓ガラスを焼いて穴を開け、クレセントなどを開錠して侵入する手口も含まれており、これについても彼は容疑を認めた。


 彼の所持するビジネスバッグには、ピッキングツールやバール、小型のガスバーナーやラペリングロープなど、彼の窃盗の七つ道具が入っていたらしい。彼の焼き破りの手口は音が小さいが侵入に時間がかかるデメリットがあった為、多少音が大きくなる危険性はあるが、小型のガスバーナーを使用するもので、この手荒な方法により時間短縮を狙ったと思われ、この手口で彼は坂谷由依がカシムに用意した、アジトのアパートに侵入したことも認めた。


 余談だが、昔からあるこそ泥の手口と違い、近年の窃盗犯の中には外国人が持ち込んだ、こうした強引な手口まで流行り出しているのだそうで、空き巣の窃盗犯が殺人と死体遺棄の犯人宅に忍び込んだ、その鮮やかな手口と全容が明らかになるにつれ、私や西園寺は全くもって憤懣ふんまんやる方なく、ほとほと呆れ返るしかなかったというのが正直なところである。


 坂谷由依や島谷俊彦が利用していた闇サイトについても、その詳細が明らかになった。その名を『クライアント』という数ある闇サイトのうちの一つだった。


 闇サイトは主にアングラサイトとも呼ばれ、インターネットが生活の中心になってきた昨今、世間にも広く周知されているところだが、多くが殺人や恐喝などの犯罪行為の請負や、違法行為の仲間を求めるものなど、利用する側が反社会的な問題行為に荷担してしまうものが殆どで、その存在が問題視されている。


 こうしたインターネットサイトは主に、そのサイトの開設者によって運営される訳だが、実態は広告収入(アフィリエイト)を目的にサイトを立ち上げ、犯罪の勧誘や実行や委託が実際に行われても、我関せず無関心という開設者が多く、事件の報道や坂谷由依の逮捕と前後して、そのサイトは既に管理者によって閉鎖されていた。


 我々が思った以上にその逃げ足は早く、警視庁は引き続き、このサイトの管理者の身元を辿るとしているが、西園寺の話では今回の事件以外にも依頼殺人や忖度殺人があったのかどうかの細かい調査や、何者かに犯罪に利用されていた人々の実数や実態を掴むのは、削除された書き込みやログの解析を辿るだけでも膨大で、相当な時間を要するだろうという話だった。


 坂谷由依のアジトからは彼女が犯行に使った凶器とともに、この事件の核ともいうべき、ある重大な証拠品が押収された。それは中島明がアンティークショップで入手し、坂谷由依が奪った、あの髑髏の眼窩の奥に隠されていたもので、なんと麻薬の顧客情報を記したICチップだった。 これは購入した中島明ですら、知る由もないことだったに違いない。


 大きさにして数ミリから数センチ角の半導体の小片の上に集積回路を作り込んだ、その小さな黒色の物体こそ、この事件の影の主役であり、本当の呪物であったといっても過言ではない。恐喝、脅迫や窃盗を生業とする犯罪者達にとって、それは莫大な金を生み出し得る、とんでもない情報の塊であったのだ。


 中身は推して知るべしである。ICチップには2000年以降から現在に至るまで、都内各所で捌かれた大麻にMDMAやMDA、覚醒剤にヘロイン、コカイン等の違法な薬物の密売人の名前や住所や所属、出所や販売された経路も含めて、夥しいほどに整理、種類ごとに区分され、列記された情報がこと細かく挙げられていた。


 購入していた顧客の個人情報までもが詳細に記されており、今のところ確認できているだけでも、某政党の政治家や議員秘書。弁護士や代議士、大手芸能事務所所属の芸能人や報道機関のプロデューサー。とある大企業の幹部、会社役員の名前や住所までが列記されているなど、それが本物ならば、一瞬で幾つかの組織を瓦解させるには充分なほどの破壊力を持つ、狂気染みた時限爆弾のようなものであった。


 これは同時に、泥棒の島谷俊彦が密かに探し求めていた物でもあったようだ。彼の供述によれば、そのマイクロチップは暴力団の資金源とも海外のとあるマフィアの資金源を内偵調査していた、とある組織のとある捜査官が残したと噂される、とんでもない代物らしい。


 件の闇サイトの情報で一部の人間達にはその存在は知られていたようなのだが、なかば胡散臭い都市伝説の域を出ない、名状しがたい眉唾の噂としか信じられていなかった、徳川の埋蔵金のようなものだったらしい。


 誰が、なぜ、何のために人の死体であるところの頭蓋骨などに隠すような真似をしたのか。そして、そもそもが何者の頭蓋骨で、生き別れたならば当然、首なし死体がどこかに存在している訳である。


 何故に震災髑髏などという荒唐無稽にして冒涜的な噂で、その存在や経緯を糊塗されてアンティークショップの店内で売られるに到ったのかは今もって謎であり、我々にとっては何とも尻の座りの悪い、絶奇なる結末だった。


 瓢箪ひょうたんから駒とはよくいわれるところだが、この事件によって晒された、このとんでもない証拠品は警察にとって大金星ともいうべき手柄であり、丸の内警察署の西園寺和也警部補は一躍、警察内部にカミソリ西園寺の二ツ名を轟かせたようなのだが、彼自身の表情は事件が解決したにも関わらず、いつも以上に不機嫌で愛想がなく、周囲が心配するほどに優れないものだった。


 それは今回、新聞やニュースが取り上げないスクープを取り上げたことで、競合他紙よりも抜きん出るほどの売上を記録させ、記者界隈でも有名になってしまった、とある犯罪週刊誌の事件記者である私にとっても同様だった。


 予め片桐美波によって、私達にはそれとなく予測されていたようなものではあったのだが、この背筋がうそ寒くなるような偶然の連鎖と複雑怪奇を究めた奇怪な事件の様相は、正にこの秘匿された黒々とした核によってもたらされた必然だったともいえるのである。


 私はその全貌の一端が明かるみに出たことで、赤黒くもどす黒い、澱のように沈殿した何者かの悪意が腹の奥底にじわじわと凝って結晶化していくような、何とも言えぬ暗澹とした気持ちになった。一連の経緯でようやくにして、その一端が明らかになった訳だが、震災髑髏というその冒涜的な言葉に全てが象徴されていたようにも思える。


 あの大災害以降、色々な局面で様々な物事が見直されたり、それまでにあった価値観まで丸ごと引っ繰り返されたような経験を経て、私だけでなく震災をリアルタイムで経験した人々は様々なことを考える契機になったことは間違いない。


 ただ、私自身は何かが変わるべきだとか、何から何まで全部変えなくてはならないのだとか、そんな風には思わない。思わないのだが、半ば人生を変えられてしまった人々というのは大勢いるのだし、そうでなくとも、少なくともこのままでいいとか、色々放っておけとか、そんな風には思えなくなったことは確かだ。ボランティアやチャリティーの在り方に対する考え方もその一つだ。


 実際に放っておけないことは沢山ある。東北地方の被害は甚大なものだし、それは物理的な傷痕に留まるものではない。復興自体も遅々として進まない訳だが、人の心にまざまざと刻まれたきずの方とて簡単に癒せるものではないだろうと思う。それは直接被害を受けていない者にも言えることである。原発問題も含めて、制度や考え方自体を検証し直したり、作り直したりしなければ立ち行かなくなっていることも事実だろう。そんな中で今回の事件は、今思い返してみても、実に様々な示唆を私に与えてくれたようにも思うのだ。


 いずれにせよ中島明がアンティークショップで入手し、それを泥棒の中谷が狙い、さらに坂谷由依が一計を案じて奪って、最後にはブレンダに冤罪を押しつける形で世間に暴露され、女子高生の並木洋子が殺害される背景になった、あの髑髏は故も得体も知れない何者かの頭蓋骨などではなかった訳である。


 他殺死体の頭蓋骨の中に違法な薬物の顧客情報を隠していたというその異常な事実もさることながら、発見されたマイクロチップの中身など何も知らなかった坂谷由依も島谷俊彦も、得体の知れない闇サイトを利用し、何者かに利用された被害者であり、あくまで全体を構成する要素の一部にしか過ぎず、氷山の一角でしかなかったということである。


 タンザニア出身のカシム・アジャヒは執拗に取り調べを拒んでいると聞くが、何が彼のような外国人をそこまで恐れさせるのかは、ついぞ不明で、彼の背後に関わっている何らかの組織が関係していると思われた。


 西園寺の話では、首なし死体の行方や顧客の連絡先や個人情報を記したマイクロチップも含め、薬物事件の背後関係や全容を解明するには、相当な時間がかかるという話だった。


 私の心胆を改めて冷えさせたのは、この大都会東京の膨大な人口とそこに住まう人々とその莫大な情報の中にまぎれるようにして、黒々とした人の闇を利用する犯罪組織というものは確かに存在し、人々が安穏と暮らす日常のそこかしこに片鱗をひた隠し、震災すら利用し、犯罪によって利益を吸い上げては、都会の闇に潜んでいるというその事実だった。


 言葉巧みに高齢者を狙って騙す悪質な特殊詐欺といった事件は表層的で、今や誰もがその危険度は認知するところだが、背後に莫大な金が動く、こうした組織的な犯罪や薬物を巡る事件も背後にあるのだということは、一人の犯罪事件の記者としても看過できない問題といえた。


 前回の事件でも感じたことだが、この我々の暮らす都会には、未だ解かれ得ぬ未踏の闇や事件の扉が、あちこちに開けているようなのである。


 得体の知れない手記の裏に隠されたこの一連の頭蓋骨の奪い合いともいうべき『腐臭の供儀』事件の裏の背景と、事件の背後に見え隠れする得体の知れない謎の組織、そして真珠ナメクジの女神という不可思議なキーワードの正体は、奇しくも二ヶ月前に起こった『怠惰な死体』事件と同様、後に思わぬ形で私達自身の身に降りかかることになるのだが、これはまた次の機会に記すことになるだろう。


 今にして思えば、この時の私達、ことに私といえば、後にとんでもない災厄に見舞われる己自身の運命など、その時は夜の露ほども気にかけず、凄惨な事件の幕引きと片桐美波の鮮やかな謎解きに再び立ち会えた、絶奇なる幸運と狂騒のカタルシスにひたすら酔いしれるばかりで、未だ興奮冷めやらぬ状態でいた。


 有り体に言えば、その時の私は犯罪事件の記者という、犯罪に対して最も警戒すべき立場の人間でありながら、己の身の安全など歯牙にもかけず、完全に浮かれていたし、油断しきってもいたのである。スクープを連続で物にした事件記者として世間的な評価を得ていたことで、完全に図に乗っていたと言っていいだろう。


 ともあれ、これが『腐臭の供儀』事件の全貌である。私には関係者達の膨大な手記を整理して、事件記録を執筆する時間がまだまだ必要だったが、巷に怪しげな噂だけを残した春先の謎の怪事件は、ようやくにして終息したのである。



「今回の事件は結局のところ、真相に至る重要な核となる部分が二つあり、それが背後にある複層的な謎と共に目を眩ましあって、全体が更にぼやけてしまうというのが基本の構造であったと思うのです」


 形のよい白く細い指先で、マンハッタンのカクテルグラスを一口飲みながら、片桐美波はそう言った。


 3月28日の金曜日。東京は丸の内。オフィスビルの地階にひっそりと佇む暖色系の仄かな灯りが灯る、静かで小粋なショットバーの隅の席でのことである。Husterの店内は、今夜も暖かく、ゆったりとした時の流れの中で、異国から訪れた旅人達や働く大人達の一日の疲れを癒してくれている。


 地階とは感じさせない高い天井や篝火を思わせるような淡く黄色い間接照明がとても雰囲気が良く、席もゆったりしているので、一人でも落ち着いた時間が過ごせる。いつものことながら、気忙しいビジネス街のオフィスビルにいるとはとても思えない、外界から隔絶されたような奇妙で落ち着いた、それでいて贅沢な大人の空間が楽しめる場所である。


 例によって私達三人はハスターにいる。事件の余韻や反省会のようなものだろう。いわゆる事件のあとの後日談というやつである。西園寺と私はそれぞれのグラスを傾け、半ばほろ酔い気分で美波の言葉に頷いていた。美波は淡々と続けた。


「謎の手記という構造に隠された不可解な謎。誰が、なぜ、なんの為にこれを書いたのか? どうしてこんなものが、この世に存在するのか? 謎の所在も正体も、まるで掴めない。そんな中で起こる複雑怪奇な事件……」


 たっぷりと間をもたせ、美波は続けた。


「異世界からやってきたような謎の手記の不穏で不確かで、ただただ噎せ返るような言葉の渦と波に、読む者は翻弄され、その内容と密度に圧倒される。謎が解けてしまった今となっては、跡形もなく霧散してしまいましたが、初めて原稿を見た時は不謹慎にも私、ワクワクしてしまいましたわ」


 本当に嬉しそうである。いくらか興奮気味に美波はさらに続けた。


「まるで腐臭漂う赤い霧に、いくつもの目が存在する奇怪な生物のような印象を抱いたものですから。返す返すも謎というのは、始まりから解けて消える終わりまで徹頭徹尾、人を惹き付けてやまない美しさがありますわね」


 美波はこうした奇妙で奇怪な謎には、誰よりも目がない女性なのである。謎の余韻を愉しむかのように、うっとりした様子で、彼女はマンハッタンを再び一口飲んだ。


 私の記憶が確かならば、マンハッタンのレシピは氷を入れたミキシンググラスにアンゴスチュラビターズ、ウィスキー、スイートベルモットを入れて混ぜ、ストレーナーをかぶせたカクテルだったはずである。 冷やしたグラスにカクテルピンに刺したマラスキーノチェリーを入れて注ぎ、仕上げにレモンピールを搾って出来上がりである。


 この上品で骨まで溶けるような芳醇な香りの飲み物は、別名カクテルの女王とも呼ばれ、禁酒法時代を舞台にした映画『お熱いのがお好き』でマリリン・モンロー扮するシュガーたちが汽車内で作ろうとするシーンに登場する。


「犯罪事件の謎が美しいねぇ……。俺にはその辺の感覚はさっぱりだな」


 カラリ、という音と共に西園寺はグラスの中のウィスキーに口をつけて続けた。


「論理的に解き明かされる事件の謎やカタルシスにパズル的な楽しみを見出だすミステリーファンってのはよくいるよな。“エレガントな解答を期待します”とか言ってよ。その辺の美的センスはともかく、初っぱなから訳もわからずその美しき謎に関わる羽目になっちまった俺としちゃ、奇怪な謎に満ちた事件に関わるなんざ、金輪際ゴメンだぜ」


 西園寺はそこで私の方へと身体を向けた。


「なぁ東城よ、お前がいつか書きてぇって言ってたような複雑怪奇なミステリーってヤツのテーマには、今回はちょうどいい事件だったんじゃねぇのか? いっそのこと、この間の事件と一緒にまとめて分冊にでもすりゃいいぜ。本物の事件を扱うなら、話の筋を考えなくていいからな。随分と楽な仕事じゃねぇか」


 西園寺はそう言って茶化すように自分のグラスを弄んだ。彼はザ・バルヴェニー12年ダブルウッドをトゥワイスアップで飲んでいる。こちらは深みのある力強いコクが特徴のウィスキーだが、彼は飲み方にも拘りがあり、最近ではストレートに水を1対1(0.8)の割合で入れる、この呑み方がいたく気に入っている。よりウィスキーを美味く味わうには、アルコール度数を20数度に落としたほうが最初から最後までブレずに同じ良さを味わえるとは彼の談である。最初にストレート、少しづつ水を足していくという通好みの飲み方もあるそうだが、ある意味で非常に彼らしいともいえる。私はそんな友人に肩を竦めて答えた。


「簡単に言ってくれるよ……。これから先も例の手記に関しては、まだまだ取材や確認しなきゃならないことは多いし、仕事の原稿を書く時間だって要るんだよ? なのに、こっちの気持ちなんか、お構い無しに次々に新しい事件は起きるじゃないか。こんな風に仲間と普通にくつろいじゃいるけど、僕だって暇じゃないんだよ」


 私はベイゼル・ヘイデンをロックグラスで楽しんでいた。こちらはライ麦のスパイシーさとハチミツ様の甘さが共存する、カナディアンファンも唸らせるクラフトバーボンである。西園寺と違い、私はストレートにピンポン玉ぐらいの小さい氷をオーダーしている。ウイスキーはわずかな水を加えられると、より香りが引き立つ。小さめの氷が徐々に溶けていくことで、香りも飲み口もだんだんと変化していく。その過程を愉しむために小さい氷を入れる、というわけである。


 混沌とした無限にある素材やレシピから一つのハーモニーを生み出すのか、最初から最後まで潔く筋を通すのか、緩やかな変化とその過程を好むのか。私達は酒の飲み方も楽しみ方も三者三様のようである。それはあたかも、今回の事件で私達が見てきた謎への相対の仕方にも似ていた。私はため息混じりに続けた。


「それにしても難儀な事件だったよね。白骨死体が実は二つ。奪う側と奪われる側が共に二人。実行犯と死体を処理していた人間……つまり犯人側も二人。同じキャリーバッグが二つ。現実と虚構の二つを繋いでいたのは、奇怪な内容の手記と様々な人々の噂。僕達はひたすら虚構のような複雑な現実と人の噂の間でひたすら踊らされていた、という訳だね」


「そう。白骨死体と謎の頭蓋骨が一つの地域で複数出現し、複数の人間がそれを奪い合い、混沌としていたところへ、さらに別人同士が書いて混ざり合い、現実の描写がねじ曲げられて書かれた謎の手記が出現したというところに全ての混乱が生じていたのですわ」


「なるほどね。確かに赤い霧のように不定形で、幾つもの目を持っていて、白と黒の二つの核が見え隠れするガス状の生き物なんてのが、もしこの世にいたとしたら、ぞっとするけど、今回の事件を生き物に見立てるとしたら、きっとそんな得体の知れない怪物が連想できるような気がするね。妖怪現象を体系化して、象徴的に作品を描く作家の先生や、奇怪な現象を心的なイメージに昇華させて描く幻想画家を僕は知ってるけど、ちょうどそんな化け物が現れたようなイメージだよ」


「まぁ、その奇怪な化け物も蓋を開ければ、人間臭い動機を背景にした事件の集積だった訳だ。これだけ偶然が混ざりあったややこしいヤマを手掛けたのは始めてだぜ。改めて繰り返すようだが、負け惜しみじゃねぇぞ。こんな偶然が狂喜乱舞するような事件なんざ…」


「事件を扱う側にしてみたらフェアも何もあったものじゃねぇ……かな?」


「へっ、まぁな。まぁ言いてぇことは腐るほどあるがよ、今回は改めて感じたな。現実はいつだって美しいばかりの都合のいいファンタジーにはならねぇし、いつだってアンフェアなものなんだってな。実際、俺達が生きてるこの現実がミステリーの犯人当て小説みたいに単純に出来てる訳がねぇ。俺はお話としてのミステリーは好きだが現実の事件を犯人当て小説にして正答率に喜んで一喜一憂するなんざ、くだらねぇと思ってるぜ。本格だの社会派だのと侃々諤々やりあったりするが、人殺しが知的なお遊びになって堪るかっての」


「そりゃ多くの作家が同じことを思ってるに違いないだろうさ。本格式と社会派式のミステリーについては、僕も専門家じゃないからここで違いを云々するつもりはないけど、事件は一度謎を帯びてしまえばどんな形であれ、様々な形で人々の口の端に上るんだ。要は社会派式であれ本格式であれ、謎の結合の仕方や捉え方や始末の付け方に違いがあるってだけなんじゃないかな? これはもう酒と同じで好みだね」


 私は酒のグラスを気持ち持ち上げて続けた。


「僕自身はミステリは犯罪小説でもあると同時に読み物という形になれば、娯楽性を伴うものになるのは仕方ないと思ってるよ。やや不謹慎な言い方になるけどね。報道やニュースなんかがそうだけど、事件は第三者の視点を導入した時点でエンターテイメントになってしまうんだと思う。もちろん、事件には加害者も被害者もいて、きちんと法に則った始末の付け方がある。謎解きを遊びにされてるみたいな捉え方は、警察にとっては目障りだろうけどね」


「頭蓋骨を麻薬の隠し場所にしてみたり、部分を持ち去る為に死体を溶かして隠蔽するような異常な犯罪がか? 随分とキナ臭いエンターテイメントもあったもんだな。これなら怪しげな館に関係者達やターゲットを閉じ込めて、順番に殺していくような事件の方が、まだリアリティーがあるってものじゃねぇか」


「そりゃ今回の事件が特殊過ぎたんだよ。殺人を冒した犯人が、最も頭を悩ますのは古今東西、昔から死体の後始末と決まってる。そういう意味では本格式や社会派式を問わず、ミステリにとっても、普遍的なテーマに触れた事件だったと思うけどな」


「にしてもよ、いつかの八王子ホスト殺害事件でも今回の事件の犯人にしてもそうだが、死体を溶かして消しちまうってのはよ、死体そのものを隠蔽したい犯人の選択としちゃ、充分にあり得る話なんだろうが、成功率としちゃ恐ろしく低くねぇか? ハードルと難易度でいったら、こりゃ楽じゃねぇぞ。気持ち悪いったらねぇよ。まず臭いだ。日本の住宅環境で、このリスクは大きいぜ。あとは同居人の存在だ。一人暮らしというならともかく、露見の可能性の方がはるかに高い」


 私は西園寺の述懐に感慨深げに頷いた。


「そうだね。犯人側が乗り越えるべきハードルとしては、低くはないだろうね。実際に八王子の事件では、犯人に巻き込まれる形で同居の父親と元妻が荷担してしまっていたよね」


 この事件の犯人の手記でも明らかになった、ホスト殺人事件についても、やはりというべきか、触れておく必要があるだろう。


 2010年11月25日、東京・八王子のホストクラブで、同店経営者が殺害された。経営者は“西東京のカリスマ”と呼ばれていたことから、「カリスマホスト殺人事件」とも称される本件だが、しばらく白日の下に晒されることはなかった事件だ。それは被害者の遺体が溶かされ、跡形もなく処理されていたからである。 


 捜査が大きく進展したのは2013年4月、共犯者の自宅汚水槽から、インプラントの部品が発見されたことだった。警視庁捜査一課の執念の捜査により、これが被害者のものであることを突き止めた。そして同年9月、共犯者や主犯が次々に逮捕された。


 被害者だけでなく逮捕された者たちも皆ホストクラブの関係者だった。同店の共同経営者が事件を主導したとされるが、立川拘置所で自殺を遂げ、本件での公判には至らなかった。実行犯の被告も元ホスト。彼は懲役20年の判決を受け、控訴している。


 インプラントの部品が見つかったのは、犯人の父親の自宅だった。犯人の当時の妻は被害者の遺体をホストクラブから実行犯宅に運搬し、その後、骨を遺棄する際にも夫と義理の父親を河原まで連れて行った。


 それぞれの思惑、動機、いろいろ明らかにされたが、なんといってもこの事件の特異性は遺体の処理方法だろう。これに関わった実行犯の公判で、そのおぞましさが明らかにされた。それは言うまでもなく、遺体処理の方法だった。


 犯人の父親は朝8時頃に帰宅すると、そこには息子がいて、台所には鍋があったと公判で供述した。被告は被害者を殺害後、遺体と寸胴鍋、コンロなどを父親宅に運び込んでいた。遺体を鍋に入れ、パイプ洗浄剤などの強アルカリ性の薬剤を大量に投入し、コンロの火をつけ、薬剤で煮溶かしていたのだ。


 元妻は被告から「父親を飲みに連れて行ってほしい。その間に死体を溶かす」と頼まれていた。そのため、前日の夜から被告の父親は元妻と飲みに出かけていたのだ。


 しかし、予想に反してなかなか遺体の処理は終わらず、結局朝になってしまった。それでも遺体は溶かしきれなかったのだ。父親が帰宅した時、目の当たりにしたのは自分の息子である被告が遺体を鍋で煮込んでいる場面だった。


「息子をそのままにしておけない、息子を犯罪者にするわけにはいかない。鍋もあって、死体もそこにまだあって、どうにもできず、しかも『頼むから続けさせてくれ』と言うので通報できなかった」


 公判でこう振り返った父親は、その後、息子の願いを聞き入れ、リビングで遺体が溶けるのを待ち続けたという。


「キッチンには入らなかったので鍋の中も見てません。溶ける時の音は聞こえました。けっこう大きな、ジュッて音だったんで……」


 父親は寛ぐ場所であるはずのリビングで身の毛もよだつような時間を過ごした。ところが翌日になっても息子の仕事は終わらない。結局、父親もついに死体損壊に関与してしまった。


「骨を砕くのを手伝いました。初め息子は『何もしなくていいから』と言っていたんですが、だんだん焦ってきたようで、鍋から骨を出して砕き始めて、その音が大きくなってきて、見るに見かねて『手伝うよ』って……」


 どんな気持ちでしたか? と弁護士は、父親に問いかけた。


「気持ち悪いっていうか、なんで私がやんなきゃいけないんだという思いはありました。鍋を洗ったり……」


 その後、骨だけとなった遺体を浴槽で砕き、大きな骨片は河原で“バーベキュー”を装いながら、被告とともに川に流したという。この“バーベキュー”を提案したのも、息子だった。偶然に事件に巻き込まれながら、最終的には主体的に関与してしまったのも、全て息子への愛情ゆえだったのか。


 坂谷由依は、この事件とインターネットの情報を元にして犯行を行ったのである。私はここに、あらゆる情報が簡単に検索可能で犯罪の模倣犯を瞬時にして産み出せる現代の闇があるように思う。


 私がそう言うと、美波はゆっくり頷いた。


「実際に事件にもなった訳で、突拍子もない発想のように思えますが、サスペンス映画やミステリには、よく死体を処理する描写に液体窒素やフッ酸や水酸化ナトリウムといった薬品などが出てきますわよね?」


「ああ、アクション映画やスパイ映画にも、よく出てきたりする薬品の代表格だな。例えば人知れず行方不明者が相次いでいる場所に出没するドラム缶満載のトラック。その先はとある企業の化学処理施設。実は、人知れずマフィアやカルトの宗教団体が、邪魔な人間を秘密裏に死体処理に使っている施設だった、とかか」


「作業着を着て作業用エプロンやガスマスクを着けたキャラクターとかが、いかにも悪役といった感じで出てきたりするよね。それを倒すヒットマンや正義のヒーロー役なんかが現れたりもする。犯人はどこかマッドサイエンティストのような人物として描かれたりね。南米ボリビアを舞台にした、犯罪組織の壊滅が目的のリアルな描写のFPS(ファーストパースンシューティング)ゲームなんかが今度、登場するらしいよ。梅田さんが喜びそうなね」


「ええ、それこそマフィア組織が有する、表向きはゴミ処理工場や化学処理工場のように、背景が大がかりな組織や企業連合でもなければ、実際に人間をこの世から骨すら残さず、痕跡ごと消して行方不明者として隠蔽する、というのは難しいでしょうね。今回の事件で使われた水酸化ナトリウムやフッ酸は確かに極めて強い酸ですが、人を跡形も無いほど溶かすには、かなり無理がある物質といえます」


 マンハッタンのカクテルグラスの縁を、指で撫でてから美波は続けた。


「特にカルシウムと反応すればフッ酸はフッ化カルシウムとなり、フッ化カルシウムは蛍石という鉱物の成分にもあるくらい、極めて安定した固体ですから、水にもフッ酸にも溶けないのです。人間の体内にある、大量のカルシウム分と反応して、蛍石の膜ができあがって、溶解反応が止まることもありますわ。人間の骨というのは、跡形もなく砕きでもしない限りは、残ってしまうものなのです」


 恐ろしくマニアックな話題だが、彼女はこうした話題にも強い。聞いている方は、まるで海洋深層水が湧き出るほどの深海に連れていかれているような感覚である。


 片桐美波の一風変わった頭脳は、若干のバグこそ混じるものの、それは多くが諺や語彙の勘違いなどであり、ほぼ躁病気質の明るい性格が災いしての暴走か、天然ボケの類いなのだが、こうした科学的知識を有する記憶領域の範囲とその深度は相当に侮れないのだ。あらゆる分野の知識に広範囲に渡っており、専門的である上に内容も常にアップデートされている。彼女がこうなると、大概の人間はほとんど置いてきぼりの状態で、多くが彼女の独壇場である。


 このハスターの私達の基本のスタンスは、こうしたマニアックな知識や話題を披露しあい、エンターテイメントのように互いに昇華して楽しみながら共有することにある。刑事に事件記者に探偵という三人が一同に会するような非常識な場がなければ、まず話題に上がることすら稀だろう。


 私達の場合、犯罪や科学捜査や最新のテクノロジーや映画やゲームやエンターテイメントから、暮らしやグルメの話題や薬物やドラッグやアダルトグッズやそうしたスポットに至るまで、時に話題の深度が異常に深かったりマニアックだったりもする訳である。


 私達の間では、事件の話題なども含めてそれらはいつだって格差なく同じ土俵で語られ、夜のショットバーで交わされる話題としては、きわめて不謹慎な内容が含まれている場合もあるのだが、毒食わば皿までとはよくいったもので、私も西園寺も美波のこうしたマニアックな講釈は割と好きなのである。


 いつものようにブレない彼女は、淡々と私達に向けて続けた。


「死体を徹底的に消すには、特殊な鍋で高温高圧状態にしてフッ酸で煮込み続ければ、体を構成する元素がフッ化物となって消滅させるということはできるかもしれませんが、これも現実的には不可能です。なによりフッ酸は死んでいる人より生きている人に対して極めて危険な毒なのですわ。なぜなら、人間の体の生体反応や死体現象は、体の中のあらゆる物質と反応してフッ素化合物にしてしまうからです。フッ素化合物は極めて安定的で強固な物質ですから、そうしたものが体内でミクロ結晶として大量に発生します。実際にフッ酸に触れた事故では、触れた指先が壊死し出して、切断しなくてはいけないような状態になります。また、その痛みも筆舌に尽くしがたいものらしく、薬品火傷の中でも凶悪な部類に入りますわ。実際に歯科医の医療ミスで薬品が間違えられ、フッ酸が歯の神経に使用され、小さなお子さんがショック死で亡くなる事故というのも起こっていますわ」


「聞いてるだけで痛そうな話だけど、酸といっても他にも候補はあるんじゃないのかい? 死体を処理するには限られてくるだろうけどさ。たとえば塩酸や硫酸とか……」


「ええ。溶かす薬品といえば真っ先にそれらが浮かびますわね。では、塩酸や硫酸といった他の酸ではどうなのかといえば、海外では酸の強さというのは、主に水素イオンの濃度の高さというのが規準になりますわ。ですが、これも科学的な意味合いではモノと定義による、としか言えませんわね」


「随分とややこしい言い方をするな。どういうことだ?」


「化学反応としては水溶液なのか、それ以外の溶媒中での話なのか、温度はどうなのか……数値や量はどの程度必要で、どのくらいの時間で溶解するのか、などなど細かい設定によって結果が変わってくるからですわ。ちょっと乱暴な言い方になりますが、分子から電子を奪うパワーの強さが、酸の強さと考えれば解りやすいかもしれません。白身魚を使った調理でも焼くのか煮るのか蒸すのか揚げるのか、どんな調味料や油やスパイスやハーブを使うのか、どんなお鍋やフライパンを使うのか、食材自体の保存期間や室温や温度管理や加熱の仕方で、風味や味が決定的に変わってくる感覚に似てますわね」


 私や西園寺に解りやすく、優しく合わせてくれているのだろうが、彼女の解説ではこのように喩えの仕方もやや一風変わっている。大概が不謹慎であったりするのだが、私や西園寺も慣れたとはいえ、リアクションに困ることが多々ある。例によってノッてきた彼女は、こちらの思惑など少しも気にせずに長台詞を続けた。


「“酸に溶けた”というものがどういうことを示すのかも、溶かすものによって定義が変わってくるということなのですわ。人間を含むタンパク質が“溶ける”という場合は、酸や塩基によってタンパク質の加水分解が促進されるということになります。タンパク質はアミノ酸同士の繋がりですから、アミノ酸にまで分解されると大半のアミノ酸は水溶性なので、酸性の液体には溶けるといえます。この場合はやや不謹慎ですが、消す対象が人間の死体なので、少なくとも組織がグズグズのドロドロになれば“溶けた”と表現してよいものとしましょう。酸も塩基も強力なものは、タンパク質を構成するアミノ酸同士の結合であるペプチド結合をゆるめて、水を入れて分解してしまうことができるということです。今回の事件で使われた水酸化ナトリウムのように…」


「実際に今回の事件で使われた、水道水で煮込んだお手製の苛性ソーダでも、被害者の骨は残っていた訳だ。犯人も前例があったとしても、相当に気持ちが悪かったろうな。その辺は既に犯人が元にしたっていう八王子のホスト殺人事件で結論は出てるんじゃねぇのか? 人を溶かして死体を消すにしても骨は残るし、時間がかかる。今回の事件の犯人も実際に火傷を負ってる訳で、そこは自業自得な訳だがな。警察としちゃ現実の犯罪に使うのは危ねぇし、ンなイカレた馬鹿な真似はやめとけとしか言えねぇな」


「まったくそのとおりですわね。骨や歯などは、リン酸カルシウムの密度が極めて高いため、モノによっては強固な膜を形成して、それ以上酸や塩基が入り込みにくい状態にしてしまうため、死体を薬品処理する犯罪者は“大きくて太い骨”の処分に困ってしまうわけです。この大きな骨も溶かそうと思うと、熱エネルギーをさらに加えることが必要になります。つまり、さらに煮込むとか溶媒を変えるとか、そういう手段になるのですわ。さらに、硫酸というカテゴリーには、酸を越える超酸といわれるものの使用まで視野に入ってきます」


「いよいよヤバそうな名前のブツが出てきたな。超酸だってよ。東城は知ってたか? 超酸」


「いかりや長さんなら知ってるよ。で?」


「超酸というのは、硫酸よりもさらに物質内に結合する電子を奪う反応が上位の酸のことで、有名なものは“5フッ化アンチモン”と“フルオロ硫酸”の混合液です。蝋燭に代表される炭化水素の塊をこの中に入れると瞬間的に溶けることから“マジック酸”などとも言われていますわ。では、これで人間が跡形もなく消せる魔法の化学物質かというと、これは何とも言えません。前例がない、というより事件として表に出てきた事例がないのですから」


「何だそりゃ……。結局、人間を完全に消す毒物や化合物なんか現実的じゃねぇ、あり得ねぇ代物だって話なのかよ?」


「そうは言っておりませんわ。それ以前に、人間の死体のような大がかりな物体を処理しようとするなら、溶ける際に大量の猛毒のフッ化水素を出す上に、ガラスさえも溶かしてしまうのですから、溶かす媒体である容器の問題だって考えなくてはなりませんわ。他の超酸もありますが、死体処理費用がおそらくウン百万円では済まない値段になる上に、今度は廃液が下水管をも溶かす可能性があって、中和処理の仕方も露見の可能性も山盛りあるため、一般人が犯罪に利用するにはリスキー過ぎて現実的ではないと言っているだけです。お願いだから良い子は真似しないでね。犯罪なんかダメよ、悪用しちゃダメよ、としか言えませんわ」


「結論としては殺人に薬品を使うというのは、今や何も特別なことじゃなく、充分にあり得るということなんだよね……」


「その通り。人が悪意を剥き出しにして形振り構わず犯罪という手段に出てきたら、どんなセキュリティーも約束事も、紙で作った箱も同然ということです。今回の事件の教訓としては、混ぜるな危険ということと、口は災いの元といったところでしょうか?」


 ね、と言って彼女は西園寺に向けて猫のように小首を傾げた。西園寺は不味いものを食べた犬のように顔を背けた。


「チッ……相変わらず一言多い女だぜ。そういう誰かさんは、交通安全を改めて教訓にした方がいいんじゃねぇのか?」


 西園寺の皮肉に、美波はつんとそっぽを向いた。


「しかしまぁ、なるほどな。埋めちまった方がてっとり早いって選択肢もあるわな。そうなると今度は自動車や運搬する代物が必要になって、住宅街に張り巡らされた防犯カメラやオービスや警視庁が誇るNシステムの的になりやすいって別の問題が出てくるわけか。俺も少し認識を改めることにするぜ。犯罪者って奴らは人生賭けて、そこまで考えるんだってことをな。犯罪者の心境ってのは、まるでミステリーのトリックや本格モノの定義に対して、重箱の隅をいいだけつっ突いて、うるさく細かくツッコミを入れてくる、読者を相手にしてるみてぇなものなのかもしれねぇな」


「少しでも理解してもらえて事件記者であり、作家志望の僕としては何より、かな。犯罪はあらゆる可能性を視野に入れなきゃいけない。時には人間のふとした悪意が牙を剥くことだってある。ミステリ云々の前に犯罪者の心理に立たなきゃ解らないことってのは、あるかもしれないよね……」


 私達は互いのグラスを嘗めながら、神妙に頷きあっていた。都会の犯罪はより複雑に、より難解なものになっている。そして犯罪はより可視化されやすくなっていると同時に、スマートフォンの普及で犯罪を冒す者が生まれやすく、犯罪者に利用されやすい環境が整っている。


 人々が情報を共有化できる現代に犯罪を犯そうとする者は、よりハードルも精度も高い賭けを行わなければならないという現実は、遵法者にとっては、素直に喜ぶべきことではあるのだろうが、犯罪は常に身近にある。


 時には、訳も解らないままに、巻き込まれたりすることだって充分にあり得るのだ。災害や犯罪は自分には無関係というのは、殺伐とした見解ではあれど、やはり視野の狭い思い込みにしか過ぎない。西園寺は頷いて言った。


「確かにな。結局のところ、我らが探偵女王閣下は、実際に人生を賭けて、壮大な悪戯を施す側の犯罪者の立場に立ってみりゃ、死体を消すなんざ間尺に合わねぇ選択だって言いたかった訳だよな?」


「その通りです。酸を使った薬品などで死体隠滅を行う場合、“ホーロー製の巨大な容器で死体を硫酸で煮込む”しか方法はありません。しかし硫酸(H2SO4)は加熱しても酸化力には限界があるので、これにさらに分解を促進するためには過酸化水素水を入れて、過硫酸(H2SO5)にする必要があります。こうすれば、ある程度、人間の骨をも溶かす溶解液ができそうですわ」


 本当にきわめて現実的でない、そしてこれまた実に悪趣味な話である。いずれ私が書籍にするであろうことを想定して、彼女も発言には慎重になっているのかもしれない。こうした知識を悪用する者や、模倣する人間や科学を悪用する犯罪者というのは、実際に後を絶たないものなのである。


 映画には、こうした後付けによる混乱を避けるために、意図的に悪用を避けて嘘を混ぜることもあるのだという。エンターテイメントにはリアリティーが求められるものではあるのだろうが、そこには同時に、ある程度の倫理や品位といった人間性は、必要不可欠な要素なのかもしれない。私は不完全でいてくれた方が人間らしいと思う口だ。美波はやや専門的というべきか、ややマニアックな解説をさらに続けた。


「とはいえ、人間一人を数十キロの肉の塊として考えると、それらを液体にするほどの硫酸は時間さえかければ同量程度で十分でしょうが、人間を跡形もなく消そうとするならば、おそらく体重の3、4倍量の溶液は必要になりますわ。こうした物質は同時に、反応時に凄まじい水蒸気の湯気を出します。飛沫は危険な希硫酸が大量に飛び散るということになるので、秘密裏に死体を静かに隠滅するというのは、実際には非常に難しいのです。でも、けっして不可能なことではありませんわね」


 美波は、彼女がいつもそうするように、傍らの銀色の杖を撫でながら言った。


「犯罪者となる人に考慮して散々慎重になってきましたが、結論としてはフィクションにありがちな“触れるだけでドロドロに即座に溶けてしまう毒”は、死体隠滅には難しいものの、候補はいくつか絞れます。例えば『熱濃硫酸』。硫酸は熱を帯びた状態では振る舞いが変わり、死体をも消すくらいのパワーを持ちます。またコストが安く運用が比較的簡単です。熱濃硫酸は通常の硫酸が緩く水飴状なのに対して、極めてさらさらした液状になり、水溶性がアップします。つまり組織の奥深くに入り込みやすいということです。化学反応的には、高熱の濃硫酸は反応性が高くなっていて、触れた箇所から速やかに水分を奪い、炭化させて組織破壊を起こします。表面が濡れていると、その空間にさらに入り込んで浸食しやすいので、映像的には煙を上げながら焼け溶ける感じになるでしょう。極めてホラー映画の演出に近くなりますわね」


「ンなマニアックなことを考えて、いちいち解説まで加えるのは、お前くらいだ」


「ふふん、例によって誉め言葉と受け取っておきますわね。今回の事件のようにスマートフォンという便利なツールに代表されるインターネットやSNSの普及は、爆弾の製造方法や銃の改造や暗殺凶器の製造など、今や様々な部分で犯罪に利用されるようになっている訳ですが、死体を秘密裏に処理しようとする犯罪者の心理としては、まずインターネットなどで下調べを充分に行った上で行うかもしれませんわね」


 美波は悪戯好きの猫のような目を、くりくりと動かしながら続けた。


「運搬用のクーラーボックスやキャリーバッグや車はどう用意して、どこに置いてどう使うのがベストなのか。強烈な腐臭を発する死体はどう処理してどう消臭するのか。バスルームが隣家と近い場合は、死体の解体方法や運搬はどうするのか、とかそういったことですわね」


「悪趣味極まりねぇな、お前」


「ふふん、リアルタイムでセンター試験を受けながら、スマートフォンで質問掲示板を使って、難問を不特定多数の人に解かせるような不正行為まで平気でする人がいる御時世です。リアルタイムな犯罪に利用する人だって増えるかもしれませんわよ?」


「まったく笑えないよ、美波さん」


「ふふ、『余った貰い物の大量の豚肉の処理に困っているの~』とか、『旦那の魚が腐ったような体臭がキツ過ぎて、強烈な消臭剤が欲しいわ~』といった質問が飛ぶようなら、世知辛いですが、すぐに発信者を特定して、情報を共有して警戒するくらいの世の中でちょうどいいのかもしれませんわ。まぁ個人情報が絡むので、なかなか上手くはいかないでしょうけれど」


「当たり前だ。ってか、どこまで、この悪趣味な話を深く掘り下げるつもりだ。そろそろ締めに入らねぇと、東城の原稿が半端な量じゃなくなるぜ。既に人様の原稿や日記を載せてるだけで、尺や分量は相当なもんになってるはずだからな。これがコンテスト作品に応募するつもりなら、字数オーバーで即アウトだ。今回の事件を長編小説にでもしてもらいたいのか」


「ふふ、不謹慎極まりないですが、長編小説くらい壮大なエピソードの事件なら、私は出会ってみたいところですわねぇ。探偵も刑事も事件記者も、探偵小説にするには、必要不可欠な定番のパートではありませんか。東城さんに素敵なアンサンブルを描いてもらえますわよ?」


「さっきも言ったがな、俺は金輪際、願い下げだ。この現実にそんなに都合よくガンガン、本格ミステリみたいなイカレた事件が連続して起きて堪るかよ。この間や今回みたいな事件は、絵空事の中だけにしてほしいもんだぜ」


「僕は……まぁ、この三人で挑戦するならそれもアリっちゃアリかな。面白い読み物になるかもね。おっと、こういうことを期待しちゃいけないんだよね。口は災いの元ってね」


「おいおい、お前も最近コイツに出会ってから随分とアクティブになったな。知らねぇぞ、本当に変な事件に巻き込まれちまってもよ。こういう前振りみてぇな出来事を、ゲームなんかじゃ"フラグが立つ"っていうらしいぜ。縁起でもねぇ」


 その時、この店の上品なバーテンダーが私達のいる隅の席へとやって来た。目つきが鋭い、どこか野性的で逞しい風体の男だが、端正で都会的で、上品な立ち振舞いが見事に野性味をカモフラージュした優男である。まるで、こちらの会話が切れるのを見計らったように現れた、そのタイミングがまた絶妙だった。私達やこの間の髭のバーテンダーと同じ歳くらいであろうか。彼は本日はお休みのようである。


「美波さ…失礼、お客様。何かお飲み物でも新しくお持ちしましょうか? 黒田から聞いておりますよ。よろしければ、不肖この私も、彼に負けないほどの、今の季節にぴったりのカクテルをご用意しますが?」


「ええ、ありがとう、赤川さん。今夜は貴方にお任せしますわ」


 赤川と呼ばれたバーテンダーは少々お待ちを、と言ってにこやかに微笑んだ。私と西園寺もグラスを空け、どうせならと同じものを注文することにした。明日は西園寺も非番で、私も休日である。他に客もいないようだし、今夜は誰に気兼ねすることもなく、三人で賑やかに酔っ払えそうである。


 私達が見るともなしに見ていると、バーテンダーの赤川は、やや芝居がかった演出で用意を始めた。シェーカーにメジャーカップ、ストレーナーの扱い方まで何だかキビキビしている。黒田という髭のバーテンダーに負けじといったところだろうか。


 ジャポネ桜。ティフィン。アプリコットブランデーのボルス。カクテルレモン。それらが手際よくカウンターに並ぶ。軽やかなリズムでシェイカーをステアーすると、赤川は丁寧な動作で私達の前に、桜色の淡い色の飲み物の入ったソーサー型のシャンパングラスを並べていった。


「今夜は御三方に、こちらをご用意致しました。ジャポネ桜とアプリコットブランデーをメインに使ったカクテルで、その名を『春の微笑み』といいます。華々しく咲き誇り、舞う日本の花の桜のように、お客様の心や空間を春の香りで彩り、明るい旅立ちを照らすように願う……。そんな想いを込めて、作られた一品だと聞いております」


「素敵。今夜は二組のカップルへ、乾杯しなければなりませんわね」


「いいね。春は始まりと旅立ちの季節。正に今の時期にぴったりだ」


「アルビノの女神と勇敢な騎士に。そして探偵女王と俺達に栄光あれ、ってか」


 西園寺がややキザな口調でグラスを掲げる。私達は揃って淡い桜色の液体の入ったグラスをそっと重ね、改めて乾杯した。口にしてみると、ほんのり甘い芳香と甘酸っぱい味がふんわりと口に広がって一気に花が開いたような、何だか明るい気持ちになれるカクテルだった。私はそこに異国の女性と日本人の男性が手を取り合い、互いに微笑みながら桜並木を歩いていく姿を重ねていた。


 三人で想像している風景はそれぞれに違うのだろうが、私は困難を乗り越えて未来へと歩み始めた恋人達が、せめて祝福された光に満ちた健やかなる旅路であることを願った。


 私は余韻を楽しむように、もう一度グラスに口をつけた。無頼な私達には、気取った軟派なカクテルなど似合わないと思っていたが、やはり仲間と交わす酒はどんなものであれ、良いものだ。カクテル言葉に誕生酒にレシピと、カクテルも色々と調べてみると面白い。


 私は余韻の後にしみじみと言った。


「しかし、犯罪もアンダーグラウンドな経済の仕組みで動いていると考えると、いくらでも今回みたいな裏の事情っていうものは出てきてしまうものなんだね。人の死体であるところの頭蓋骨に顧客情報を隠したり、闇サイトで支援者を募り、さらに犯罪者を利用する謎の組織までいるとなるとね……。そういう意味じゃ、少しだけ後味が悪いというか、モヤモヤしてしまったところもあるよね……」


「そうだな。差別だの人権擁護だのを突き詰めていくと、この国にはちゃっかり拝金主義がちらついてたりするもんだしな。まさか、人間様の髑髏が金の成る木に繋がってたとは恐れ入ったぜ。あのマイクロチップとあの二人を押さえられたのは正直デカい。多少モヤモヤするが、尻尾の先っちょはこちらが抑えてある。その組織とやらも、逃がしゃしねぇぜ」


 また忙しくなっちまうな、と西園寺は赤いラークの箱から一本抜き出して口にくわえると、ジッポーのオイルライターで火を付けた。私は話を振った手前、寛ぐ相棒に今くらいは事件を忘れてもらおうと、ここは話を逸らすことにした。


「そういえば、美波さんに例の手記を持ってきた初日も、最初はそんな話をしていたんだったよね」


 美波が興味深そうに私達を見つめていたので、私は美波がいなかった初日の私達二人の話をすることにした。偏見や差別、女性の権利や感動ポルノといった話題や西園寺の問題発言も次々に飛び出した訳だが、彼女の意見は、私もぜひ聞いてみたかったところではある。


 美波は西園寺のハゲの王のくだりにころころと笑っていたかと思うと、チャリティーや感動ポルノという言葉が出てきたところで、やや感慨深げに頷いて言った。


「震災ポルノや感動ポルノ、大いにけっこうではありませんか。それに身障者を売り物にしたような現代の見世物小屋があっても、私はそれはそれでよいと思っておりますわ。あくまで私の個人的な意見としては、ですけれどね。パフォーマンスでも過剰な演出でもチャリティー利権があってもいいじゃありませんか。年に一度でも、この日本でそうしたことを真剣に考えていく機会を与えられていること自体を私は幸運に思いますわよ。身障者も理解を求めている人達だということを知ってほしいと思います。世の中が急に変われるなんて思ってませんしね。

…ホモやレズやオカマの皆さーん、ほら、私はここにいますわ! 私達は理解を求める仲間同士なのですわ。共にお酒を飲みましょう! きっと楽しいですわー! とアメリカのホームドラマみたいに、私が公の場でジョークを叫んでも、この国では理解されないどころか、やっぱり頭のかわいそうな人っているんだな、と嘲笑されるだけかもしれませんわね。もちろん、他の身障者の方々はそうは思わないでしょうが、ああしたチャリティーを謳った番組が、ただ金儲けを目的としているから駄目だとか、やっかみも含めて芸能人が高額のギャランドゥーを貰って……」


「ギャランティーね」


「バカ高いギャランティーを貰って泣いてくれる日本の○○○芸能人が、タブー視されない環境作りというのも、ある程度は認めてあげるべきだと思うのですわ。彼らの知名度という看板なくしては、募金だって集まらない現実があるのですから」


 多少悪意のある表現と上から目線で、またも拳銃の効果音が鳴り響きそうな放送コードに触れる発言をした美波は続けた。


「身障者も番組の為に、ただやらされている訳ではないと思うのです。彼らにもいろんな事情があるのでしょうし、様々な承認欲求を満たす為に、支援の輪にして広げようと、本気で考えている人達の数少ない取り皿の一つに……」


「受け皿な。こういう重いテーマが面倒なのは分かるが、ここは真面目にやれ」


「コホン……ああしたチャリティー番組のやり方に異義を唱える方々もいますが、ああした番組が身障者の人達の受け皿の一つになっているということは認めてあげてほしいのですわ。

 こればかりは、人の意識を変えていくしか方法が見出だせないのですから」


「それはそうだけど、身障者の支援やボランティアって言葉には、様々な背景がつきまとうよ。感動を与える為にと言えば聞こえはいいかもしれないけど、支援には莫大なお金がかかるのも事実だ。感動ポルノと揶揄されたり批判されるには理由がある。それこそ見た人が今回の手記にあった、見世物小屋と変わらない印象を受けているのが現状なら、人の意識を変革するというのは、難しいんじゃないのかな?」


「確かに東城さんの言う通りですわね。実際に多くの人達の善意に頼らなければ生活できないことが感動ポルノの原因なのですから、身障者がなるべく他人に頼らなくても生活できる社会を実現すればよいと思うのです。私はむしろ、こうした支援の輪というものに対しては凄く肯定的な立場ですのよ。あの東京駅を見てください。駅の不器用な優しさでいっぱいの、広告やポスターを見てみてください。声かけサポート運動だなんて、一昔前なら考えられなかった啓蒙運動なのですわよ?」


 美波の言う声かけサポート運動とは、JRグループが推進している、旅客が駅の施設を安全かつ安心して利用するため、困っている旅客へ社員から声かけし、また利用する旅客にも困っている人に対しての助け合いの声かけの協力を呼びかける運動のことである。駅や車内でのポスターの掲出など、最近では、どこの駅や車内でも見かけるようになった。犯罪の防止という、不特定多数が利用する駅という施設の事情も、影響しているのだろう。


 お節介といえばそれまでなのだが、東京が治安の良さを売りにしたり、国際化の上で学ぶべき最も必要なビジネスマナーのお手本ともいえるような運動だろう。昔から袖擦り合うも他生の縁とはいうが、外国から来る旅客が日本に好印象を受ける要因の一つと考えると、こうした企業が推進する運動というのは侮れないものがある。これからの国際化や都会暮らしとは、すべからく老若男女問わず、上品で粋な立ち振舞が求められるものではあるだろう。


「東城さんに西園寺さん、私はこの時代に生まれてこれてよかったですわ。そして、この国で生きていられて本当に幸せだと思います。車椅子で暮らす身障者は不自由と思うかもしれませんが、私には却って世界が広がりましたのよ? 今や車椅子だって都会では見慣れた光景になりましたもの。私はどこへだって行けます。だって刺激や謎っていうスパイスやお酒がなければ、人生は面白くありませんもの。それに、探偵だなんて素敵だわ! 新しいワインに合う皮袋に、切り刻んだ人間の皮を使うくらい刺激的な犯罪者に私もいつか出会ってみたいですし、素敵な殿方達といつかデブマロンズにだって…」


「ラブロマンスね」


「そう、それッ! ラブロマンス! 何ッて素敵な響きなの! ラブッ! ロマンスっ! ラララブッ! ロロロロマンスっ! 私も素敵な殿方達と禁断の愛に溺れ、まっ逆さまに落っこちてデザイアしてみたいのですわ!」


 美波は例の夢見る少女のような表情で天を仰ぎ、ラブロマンスの“ら”と“ろ”の部分を盛大に巻き舌にして愛用の杖を畳んだかと思うと、いきなりクルリと回転して、スマートフォンで音楽プレイヤーを再生した。ド派手で懐かしいイントロが店内に響き渡る中、彼女はどこに隠してあったのか、艶々に磨きあげられたアルトサックスを手にすると、某大物女性歌手の、とある歌のサビの部分を演奏し出した。


 音楽著作権協会が色々と絡むので歌詞は控えるが、サビの途中で『落ちたら早いよ水商売』だの『つかんだ男は離さない』だのハッやドッコイだのという、合いの手が入る有名なアレである。彼女には原曲のインストを音楽プレーヤーで流しつつ、アルトサックスで盛大なソロを交えながら、完全に原曲の歌を耳コピして演奏するという奇態な特技があるのである。


 幸いにも今夜は残った客は我々だけのようで、バーテンの赤川も美波を止めるどころか、ジャズらしく裏拍の手拍子まで入れながら美波の悪ノリに付き合っている。あの黒田という髭のバーテンダーといい、サービス精神旺盛なバーテンダー達がいたものである。ああなると、もはや手に負えない。私と西園寺はもはやテンションの異様に高い彼女の好きにさせておくことにした。西園寺と私は頭痛を堪えるような仕草で、お互いカクテルに口をつけた。困った友人を持つと気苦労が絶えないのである。


「無駄に上手いから困るんだよな……。お前がラブロマンスなんて言うからだぜ。ありゃしばらく帰ってこねぇな……」


「まあいいじゃないの。今日は他のお客さんもいないし、彼女の持ち芸だからね。この間、彼女に聞いたんだよ。あの芸だけど、オカマの皆さんに大絶賛されたらしいよ。ほら、あの歌手の歌ってオカマの人達に異常に刺さるからね。新宿二丁目で働かないかって、スカウトまでされたらしいしね。喜んでたよ」


「マジか……。アクティブ過ぎるだろ……」


 美波は派手なビブラートまで利かせて劇的に演奏を終了した。完全に己の心象風景に陶酔してしまっているのである。


 完全にあちら側の世界へ飛んでいる美波は、今度は突然ピタリと止まって弱々しく、を作った。嫌な予感がする。これは完全に妄想が暴走している状態なのである。あの動きはから教わったに違いない。


「ぁん、壁ドンから強引な口づけだなんて狡いですわ。これじゃ動けません。今夜は一体どうなさったの? おやめになって……」


「……いいじゃないか、美波。もう他人行儀な呼び方なんかしないよ。僕はもう君に夢中なんだ。今夜はこのまま君を独占取材だ。もう君を離さない……」


「いやん、背中からいきなり抱き締めて、そんなトコ触っちゃ駄目ですわ……。強引な刑事さんですのね。人を呼びますわよ……」


「……減るもんじゃねぇし、いいだろ? 震えてんのか? 恋に臆病な、どうしようもない子猫ちゃんは逮捕するぜ。今夜は俺から、たっぷりお仕置きだぜ」


 私と西園寺は呆然としていた。声色を変えただけで、完全に某劇団の男役のような声と一人芝居が完成しているのである。子供には絶対に見せられない動きの、新たな持ち芸を獲得したであろう様子の美波を、私達はあんぐりと口を開けて見つめてしまっていた。全く疑問を挟まずに素直に芸を磨く彼女にも驚いたが、新宿二丁目のオカマの皆さんは、彼女にどういう芸の仕込み方をしたのだろう。これはもう、既に台詞を描写してはいけない域に達している。


「一人三役劇場とは新しいね……。歌唱力に演奏力に演技力と本当に多才なのは認めるんだけどさ……。それにしても、ラブロマンスって言葉だけで、どれだけ暴走して妄想を膨らませられるんだい。あのパントマイムも無駄にレベルが高いしね……。ちょっとした舞台女優だよ」


「アホか。客に見せられるか、あんな奇天烈な色モノ芸がよ。おい、まさかアレ、俺らを想定して妄想を爆発させてんのか? 危なすぎだろ……。例の手記みたいに場面構成やシチュエーションが色々と無茶で頭が痛ぇんだが……。今度は花園町に俺達の変な噂が広まっちまうぞ。ってか、台詞と動きだけで妄想の中身まで解るって凄ぇ芸だな。滅茶苦茶じゃねぇか」


「君がそれ言っちゃう? 彼女にウブな妄想家の一面もあったなんてね。これはエクセレントな体験だ……」


「ああ、ぶっ飛んでるぜ。……おい、物語の締めは、まだ終わってねぇんだぞ、お前。そろそろ戻ってきて仕事しろ!」


 ああスッキリしましたわ今度は着物で演奏したいですわ○○チョーリスペクト、などと意味不明なことを呟きながら、美波はようやく現世へと帰ってきた。


「そうそう、ズンドコポルノの話でしたわよね? 忘れてませんわよ」


「感動ポルノね」


「忘れてるじゃねぇかよ。身障者と健常者をどう繋ぐのかって話をしてたんだよ。ちゃんと真面目にやれ」


「ンもう……真面目な話ばかりだと疲れませんか? もっと笑顔でデラックス!  にっこり笑ってストレンジフリーですわよ!」


「リラックスね。あとストレスフリーかな」


「《ストレンジ》変なのはお前だ! どこをどう弄くったら、そんな変な語彙になるんだよ。お前、わざとやってるだろ?」


「こほん……ええと、身障者を支えるには、もちろん健常者の理解だけではありません。あらゆる場所へのスロープやエレベーターの設置といったバリアフリー化ということもあるのですけれど、最も重要なのは、やはり身障者に対してシステマティックに富を分配することのできるような、社会保障の早期の充実ですわ。社会保障は国に頼ることが必要ですし、身障者が誰かに頼らない生活をするということと矛盾するように聞こえるかもしれませんが、身障者の方々の人権を守るのは、やはり国の義務でもあります。その義務を国に達成するように要求することは法治国家においては当然のことだし、頼る頼られるという関係性は、そこには存在しないことになります」


「そうは言うが、身障者が過剰に守られたりしてる現状を打破するのは難しいぜ。金の為に、自分達が自らテレビに出演しなきゃいけない状況だってある。テレビに出る以上は編集作業は必ず行われるぜ? 身障者の編集されていない、ありのままの姿を見せろって極端なことを言う奴もいる。チャリティーマラソンにくっついて、実際に不正がないか確かめたりな。身障者が全員パラリンピックを目指せるような、パラアスリートばかりだと思ったら大間違いだ」


「ええ、その通りです。そもそも、身障者が感動というポルノを見せなければならない理由は、障害を抱えた方々や支援の団体に回るお金が少なく、危機をアピールする必然性に迫られているからです。しかし、度重なる震災や原発事故の余波、経済的な余裕や派遣労働という雇用形態が当たり前な在り方になって疲弊している今の日本には余裕がないのも事実ですし、健常者の皆さんに負担を強いてモヤモヤさせてしまわなければならないのが、また残念なのです。こうした保障の分配や、身障者が安心して健常者と混ざって働ける仕組みがそもそも世の中に足りていれば、身障者がわざわざ感動ポルノを売る必要もないのですから」


「この国じゃ社会保障が完全に行き届いているとは、まだまだお世辞にも言えないよね。この丸の内でも、一部のオフィスビルでは積極的にそうした人材を登用している企業もあるようだけどさ。金というシステムで世の中が動いている以上は、そこから抜け出すことは簡単にはできないし、経済優先の社会システムである以上は、社会保障にだって絶対にやっかみがつきまとう。誰かが儲けて、誰かが割を食うのが当たり前になっている世の中じゃ、やっかみや叩き方だって普通じゃないよ。今回の事件の彼のように、世の中に絶望するなんてことだって、あるかもしれないからね」


「もちろんですわ。身障者の社会保障というものが固有の権利であるという、社会的合意や人々の理解も必要不可欠なのです。それがなければ社会保障自体が“持つモノからのお恵み”として認識され、生活保護受給者へのバッシングと同じ批判が身障者を襲うことにもなりかねないからです」


「課題は山積みだな。悔しいが無力だぜ」


「そうだね。簡単に溝は埋まらないし、健常者と身障者。隔てられた世界は、簡単には繋げないんだよね」


「ええ、もちろん簡単にはいかないでしょうね。でも、お二人の気持ちは私も凄く嬉しいのですわ。SNSがこれだけ普及して、一億総クレーマー社会なんて揶揄されることもありますが、真剣に身障者の為に怒っている方々を否定もできませんし、私からすればこうした議論が徹底的に行われることは、これからの日本にも他の国々にも、もっともっと必要だと思うのです。だからこそ、私はこれからもどんどん前に出続けますわ。SNSでターボババアの噂まで広めてしまったのは実験失敗でしたけれど、最初にいいだけズッコケられたのですから、めげずにゴモラの試運転はこれからも続けていきますわ。身障者でも、これだけのことが出来るのだと世の中に見せてやりたいですから。なりたい自分になればいいのです」


「ゴモラ? まさか、その変な車椅子の名前か? 名前までつけてるのかよ……」


「じゃあ、その杖はひょっとしたら、ソドムっていう名前じゃないかい?」


 背徳の街ソドムとゴモラ。彼女のネーミングセンスには脱帽する。


「ふふん……そう、ソドムとゴモラ。私の大切な相棒であり、優秀な下僕達ですわ!」


「下僕って……」


「だって私は車椅子に座る陰気な身障者でなく、玉座に座る探偵女王ですもの! 私は今のこの私達三人の役割分担が何らかのヒントにならないかと思っておりますのよ? 事件記者に刑事に探偵。時には批判の槍玉に挙げられたりする、この三者がトライアングルのように一同に会して、それぞれが好きなことを好き放題に語って、好きなお酒を飲んでいるのですわよ?この関係って凄く素敵だと思いません? お仕着せのピエロで、私は探偵役を振られている訳ではありませんわ。車椅子バスケットも車椅子の改造も、自分が愉しいからやっているのです。好きでやっていることを、ただ淡々と続けていきますわ。それは何よりも、私の役割や生き甲斐として真っ当だと思いますし。探偵だなんて、小さい頃に憧れた女優になれたみたいで嬉しいのですわ。私、子供の頃に将来結婚したい男性は、コロンボ警部のような理知的な男性でしたわよ」


「へっ、コロンボは妻帯者だぜ?」


「それにしても探偵女王か……。大きく出たね。果てしなく壮大で僕は応援したいけど、美波さんが有名になれば、映画のフリークスの監督みたいになってしまうかもしれないんだよ? エレファントマンの監督とフリークスの監督では、世間に与えた影響は真逆だ。残念ながら、それが世の中の流れだったんだ。今は少しずつ変わってきているのかもしれないけどさ。探偵が女性で身障者というのは、乗り越える理解のハードルは低くないと思うけどな」


「あら、『フリークス』も同じですわよ? 健常者も身障者も同じ人で、人である以上は人でなしにはなれないのですわ。私も西園寺さんも東城さんも心に悪意を持ち、時には人を殺してやりたい、死ねばいいのにと思う同じフリークス。心は化け物の同じ人間で、仲間ではありませんか? だったら肩を並べてお酒を飲んで、醜い世の中や嫌なことを笑い飛ばして!明日の為に笑い合えれば、それだけでいいじゃありませんか。健常者も身障者も、時にはお互いにいいだけ悪口をぶつけ合った方が、モヤモヤした気持ちもスッキリ晴れましてよ? 身障者と健常者の間には、こんな風に幾つもまだまだ壁があって、それを乗り越えようとするのならば、フリークスの監督のように多くの方が犠牲になってしまいかねない危険性を孕んでいます」


「まぁな。口にするだけで差別だなんだと、うるさいのが湧くんだからな」


「確かに嫌な世の中だね……。ジョークや酒も許されないなんて、僕らには耐えられないしねぇ。僕たちは、これでいいのかもしれないね」


「要は質だと思うのですわ。視聴者がスタンディングオベーションするくらいの感動を与えられていないのなら、それは演じる方のやり方がまだ未完成で、受け皿を視聴する方々の意識や社会的な構造も支援できる組織や枠組みも、支援する側もそれを受ける側も、まだ未成熟の状態であるからだと思うのです。だって感動の形やお金を集めるやり方は一つではありませんでしょう? 西園寺さんの“金で血を流せ”も極端で面白いアイディアではありますけど、そこまで荒っぽくありませんが、クレイジーな拝金大国で、現状をひっくり返せるようなアイディアなら他のやり方だってありますわよ?」


 エネルギッシュな美波は明るく続けた。


「たとえば障害者スポーツを公営ギャンブルにして、世界中から人を集めて、拝金の王になるのだと惜しげもなく豪語してそれをやってしまう国にする、とかね? チャリティー番組や有名な芸能人の方々に頼らなくてもよい動画配信サービスを利用するとか、有償無償をはっきり提示できて、収益金を協力してくれた方々に分配できるシステムを考えるとか。障害を抱えた人達のためにいろんなことを考え、いろんなことをやってみる国なら、戦争にだってなりようがないのですわ。世界中の身障者の方々に稼げるチャンスや前向きなやる気が生まれますし、働ける場所だって提供できることになります。それを見守っていく人々の治安や平和に対する意識も、きっと変わりますわ」


「へっ、壮大な夢もあったもんだぜ」


「AIが今後さらに人の思考を学習して、ドローンやロボットやアンドロイドが人間の代わりに働く現場も増えてくるのでしょうが、テクノロジーの進化と共に人は不要になるのではありません。あらゆる現場でますます必要とされ、人手はまだまだ足りないしノウハウをどう模索して、どう共存していくのか手探りなのが現状なのです。ほらね、こう考えていくと夢がいっぱい広がりませんか?」

 

 底抜けに明るい彼女は、にっこりと微笑んで続けた。


「人間の喜怒哀楽に訴えかけるものが感動であるならば、その形にとことん拘っていけばよいと思うのですわ。多少荒っぽいのですが、再現ドラマに身障者をどんどん登場させて半ドキュメンタリー番組にするとか、ブラックジョークをいいだけ取り入れるコントとか、目くじらを立てる人を逆に皮肉ったり、時にはバイオレンス満載な展開にして不謹慎だと眉をひそめず、お互いに笑える環境にしていければいいじゃないですか? 今回の事件のように様々な人が関わって最後には「ああ、そうだったんだ」と笑顔になれるように、ちょっとずつ、少しずつでも変わっていければ。腫れ物に障ったら、毒で感染症が蔓延してしまうと人同士が傷つけ合って排斥しあう時代は、そろそろ終わりにしませんか?  私は座敷牢に繋がれていたくなどありません。見世物小屋なら、ぜひとも出演してみたいと思う側の人間なのです」


 私達が思っている以上に、片桐美波はタフでエネルギッシュなのである。こうなると、やはり私と西園寺は互いに微笑むよりない。そうなのだ。単純に私も西園寺も、彼女の何をするか分からない、その破天荒な性格と底抜けの明るさには、ずいぶんと救われているのである。この店に来ると、それが本当によく分かる。


「“不謹慎”という言葉や“やる偽善よりやらない偽善”や“感動ポルノ”という言葉が、これほど取り沙汰される辺りに、優しくて真面目で不器用で、時には陰湿な日本人らしさがよく表れていると思いませんか? 私達は解り合えないのではないのです。ボクシングの試合のように、まだジャブでお互いの距離を測っているだけです。世界中が痺れるくらいの感動を巡る戦いは、まだ始まったばかりじゃないですか?」


「へっ……お前らしいな。ま、殴り合わなきゃ解り合えないことってのは、あるかもな」


「喩えがやや頂けないけど、主旨と気持ちは伝わってくるよね」


 最後に笑うのは、勝者だけではないということだろう。敗者も観客もセコンドもレフリーも感動して、共に後から思い返して笑顔になれるのが、本当に感動する試合なのだろう。明と暗。白と黒。勝者と敗者。そこに様々な思いはあれど、敗者だって諦めないことが強さに繋がり、それが感動だって呼べる。新たな力を得て強くなれる。お互いの意見が対立しても良い方向に進むなら、それはスポーツと同じだ。平和の為の戦いであり代理戦争であり、平和への願いでもある。最後に誰かを笑顔に出来た者が、本当の勝者なのかもしれない。


 ちょっと恥ずかしいのですけれど、と言って美波はゴモラの背面にあるポーチから一枚の写真を取り出して、カウンターに置いた。


「私の宝物ですわ。大切な友達と、とある場所で撮った時の写真です」


 真ん中にいて車椅子に座っているのは、白い割烹着姿に帽子を被った美波である。周囲には若い男女が七人いて、笑顔で写真に写っている。私は写真の背後にある一本の木に釘付けになっていた。


「これは……あの奇跡の一本松じゃないか!」


 奇跡の一本松とは、岩手県陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ松の木のモニュメントである。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波の直撃を受け、ほとんどの松の木がなぎ倒されて壊滅した中にあって、松原の西端近くに立っていた一本の木が津波に耐え、この木は震災からの復興への希望を象徴するものとしてとらえられるようになり、“奇跡の一本松”や“希望の松”などと呼ばれるようになった。


 以前は7万本だった頃の松原と一緒に暮らしていない人間にとっては、これは希望の象徴のように見えるかもしれない。松原と毎日過ごしてきた人々にとっては、波の威力を象徴するもの以外の何物でもないかもしれない。見ていて辛くなる写真だ。つまり。


「美波、お前……あの場所に行ったのか?」


「ええ、そういえば言っておりませんでしたわね。こう見えて私、手先は器用でお料理は得意なんですのよ。普段はこの近くのオフィスビルで、学生ボランティアや身障者の社会復帰の為の仕事をさせてもらっていますから。後出しもいいところなのですけれど、御両親を失って左腕を失った中島明さんのことは以前から知っていたのです。医療用のヒルを手配したのは、そこに写っている医学部の友達です。彼の力になってほしいと頼んできたのも、その写真に写っている看護師の友達ですわ。ご近所だから気にかけていてくれと頼まれていたから、彼を知っていただけのことだったのです。私の友人達は今も現地で立派に働いています。こんな私でも、誰かの役に立ちたいという思いは変わりませんから」


「なんてこった……。あの手記といい、今回は学生達にしてやられた気分だぜ……。そうだよな……。あの震災からもう三年も経ってるんだ。それぞれに、何も変わってないわけがないもんな」


「無茶をする……。健常者ならまだしも、被災地の環境が、身障者に優しいとは限らない。冷たい言葉だって浴びせられたろうに……」


「いいえ。おかげでたくさんのことが学べましたわ。一生かかっても得難い体験もしましたし。災害の現場に身障者も健常者も学生もありませんわ。自分にできることを淡々とこなしていけば、いつかそれが仕事になる。与えられた仕事をこなしていけば、チームにとって大切なパートになるし、素敵なアンサンブルになる。今回の事件で改めてそう感じましたわ。目まぐるしい日々でしたが、人生で何より大切なことを色々と学べましたわよ?」


「へっ、奇態なお嬢様の垢抜けねぇ感じもそれなりに様になるもんだな……」


 西園寺が横から覗き込むように写真を見ながら、優しい表情で微笑んだ。


「東城さんに西園寺さん、私には夢があるのですわ。そのうち健常者も身障者も外国人も。ロボットもAIもドローンも衛星さえも。世の中の国や言語といった境界を越えて、あらゆる境界や壁がなくなって、それぞれ一人一人に一つ一つ自分の役割が与えられて、上も下もなく、あらゆる格差も越えて全てが一つの感動で繋がれる世界になったら、どれだけ素敵かなって…。

 愛で世界は救えなくても、夢見ることくらいは許してほしいのですわ。言葉の壁がなくなるように、ほんの少しずつ、ちょっとずつ変わっていければ、それでいいと思うのです。赤ちゃんが少しずつ成長していくように。私はこんな風に夢想家で妄想家の身障者ですけれど、行動派でありたいのです。私達は自分の思う自分の意思で、ほんの少しの善意をちょっとずつ出し合って、いつか本当に繋がれる世界の到来を夢に見ませんか? どんなに苦しくても、何度壊されても立ち上がって、変わらずに誰かの為に生き続けていきたい。そんなお人好しばかりの働き者の国があったら、私達はそれを素直に誇りに思えばいいと思うのです。探偵は偽りの世界を壊し、世界を繋ぎ、真実の扉を開くのが役目なのでしょう? 悪戯に誰かの罪を暴いて騒ぎ立て、ミスを許さないような殺伐とした環境で互いの顔色を伺い合って自分を傷つけ、他人を傷つけてストレスを溜め込んで互いにギスギスするよりも、全体の利益の為に自分がほんの少し、ほんのちょっぴりずつでも力を分け合って、少しずつ前進していける世界の到来のために……。人がいつか本当に自然に笑顔を交わし合える世界を祈って、乾杯していきませんか? 偽善でもお金の為でも何でもよいのです。誰かの笑顔の為に、みんなのほんのちょっぴりずつの力やそうした願い事が合わされば、漫画のヒーローのように、いつか世界どころか宇宙だって変えられますわ」


“自称”丸の内の探偵女王はそう言って、いつものように明るく微笑んだ。


「んフフ……ところで西紋寺さん、何か大事なことを忘れてやしませんか?」


「身内の名前を間違うんじゃねぇよ! な、なんだよ……。おい、近い。顔が近いぞ。い、嫌な予感がする……。何かザワザワする……。ち、近づいてくんな……」


「あ、そういえば事件が解決したら埋め合わせするって約束を……。あ……」


 しまった! 言ってから気づいてしまった。埋め合わせは西園寺と私が二人で盛大にすると。そして、既にしてもう遅い!


「さっすが、東城さん! もう私の考えていることが分かるだなんて! 心と心で通じ合う! こういうのを奇人変人というのですわね」


「以心伝心ね。君に言われたくないからね」


「御二人は既に、この探偵女王を守る立派な近衛騎士。女王に忠実な牢屋のガードルのゾンビではありませんか!」


「ロイヤルガードのコンビね。テンションが高い上にもう滅茶苦茶で、訳がわからないよ」


「いや、そのボケにすぐにツッコミを入れられる、お前も凄ぇよ……」


「ということでお二人には明日の昼から、この私とデートしてもらいます!」


「はああぁっ!? デートぉォオ!?」


 私と西園寺の声が綺麗にハモった。悪夢である。悪い夢なら早く覚めてほしい。驚愕する私達のことなど意に介さず、美波は既に両手を組み合わせ、例の夢見る少女のような瞳で天井を仰いでいる。もはや私達に、断るという選択の余地はなさそうだ。


「ああ、今から楽しみですわ! ヤエチカを探検? 大丸デパートでお食事? 丸ビルか新丸ビルでウィンドーショッピング? 皇居でピクニック? 駅のグランスタでお土産屋さん巡り? ううん、グランルーフのペデストリアンデッキに上がって三人で記念撮影というのも悪くないですわね! キャーッ! ブリリアンッ! どうせなら、三人で一日中この丸の内で遊び倒すというのも悪くないですわね! あ、もちろん力持ちで頼もしい西園寺さんや東城さんには、私の荷物は全て持ってもらいますので、そのつもりで!」


「ジーザスだよ……。原稿を書く時間が……。詰んだ……。僕のささやかな休日が……たった今、死んだ……」


「なんてこった……。こんなアクティブな変態に半日以上、付き合わされなきゃいけねぇのかよ……」


「あら! こんなたおやかで麗しく、か弱い女子のショッピングに付き合えるのですから、そんな震えるほど喜ばなくても……。そんな体たらくじゃ、そのうち会いたくて会いたくて震えてしまいますわ!」


「これが喜んでるように見えんのか!  悲しみと怒りとやるせなさで震えが止まらねぇんだよ!」


「もう! 愛しさと切なさで心細いだなんて……。そんなに照れなくてもいいんですのよ! カッちゃん、タッちゃん、美波をショッピングに連れて行って! 私を世界の果てまで連れ去って!」


「誰がカッちゃんだ! どっかで聞いたようなアニメのノリで言うんじゃねぇ! ええい、寄るな! わざとらしく瞳をウルウルさせんな。にじり寄ってくんな!」


 私は苦笑して、いつも通り賑やかな二人を眺めていた。私達が深海の底で出会った名状し難い未知の生物のような彼女はどうやら世界を壊し、世界を繋ぎ、世界を癒せる、ほんのちょっぴり変わった、底抜けに明るい人物で時にブッ飛んだ発想までする、そんな心優しい平成生まれの女名探偵だったようなのである。


 折しもこの出来事の二年後の2016年4月14日、日本は九州の熊本県と大分県で相次いで発生した地震で震災に見舞われ、またも家屋が倒壊し、多くの被災された方々が避難所生活をするような出来事に見舞われることになった。あの東日本大震災を経て、またも災害が発生し、多くの方々が支援の為に動き出し、様々な意見や議論が交わされることになるのだが、私は今でもそうした出来事がある度に、その当時の彼女の言葉をまざまざと思い出すものだ。


 私は写真の裏に寄せ書きされた、一人一人筆跡の違う、学生ボランティア達のその言葉の数々を見つめていた。


 真ん中の英語を囲むようにして、一つ一つ力強い筆跡で書かれてある。


 それは破壊と悪夢を切り取ったような悲惨な現実の中で生まれ、それでも懸命に今を生きていく者達によって綴られた、思わず読む者の胸を熱くさせるような、そんな誓いと願いが一心に込められた力強い言葉の数々だった。


 自らの意志の下に集い、かけがえのない絆で結ばれた仲間たちによって綴られた、愛と強さに溢れた言葉たちだった。


「立ち上がれ。俯くな。それでも前を向いて生きろ!」


「本当の自由と笑顔を謳歌する為に」


「私達は一人じゃない。特別じゃない。けれど、チームの思いは特別製」


「偽善と人を責めるより、今できることを精一杯やろう」


「瓦礫がなくなるその日まで、最後まで戦い続ける。悲しみを力にして」


「それぞれが、自分の意志で、誰かの為に」


「もっと丸く、もっと大きく。支援の輪を世界へと繋ごう」


「壊されても、何度でも立ち上がる。何度だって作り直せる」


「僕たちはもう知っている」


『Life will change』

(人生はいかようにも変えられる)


       隅の麗人Case2腐臭の供儀・了

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隅の麗人 Case.2 腐臭の供儀 久浄 要 @kujyou-kaname

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