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◆◆◆


命がけでここまで来たんだ。

(私は絶望にここに来ました)。


何でこんなにも違うんだ。

(それは何でそう異なっています)。


この国は豊か過ぎる。

(この国は非常に豊富です)。


狡い。卑怯だ。

(クラフティ。ずるいです)。


やるしかない。

(行うだけでなく)。


すぐにバラバラにしてやる。

(マーラは落ちます)。


その後は仲間に任せよう。

(その後 他の人に任せます)。


どこへいってしまったんだ?

(あなたがどこにいる本当の事はありますか?)。


アイツはどこにいる?

(どこにいるの?)。


探さなければならない。

(あなたが取得する必要があります)。


◆◆◆


 我ながら病んでる、と思う。


 金の為にこの数ヶ月間、生きていく為なら何でもやってきた。やらざるを得なかった。インターネットで闇サイトなどを利用して、犯罪に手を染めた。盗みを働き、他人の弱みを握り、脅し、強請りに売春、昏睡詐欺の片棒まで担がされる羽目になった。もう完全に犯罪者の仲間入りだ。和彦が私の物になってさえいれば、こんなことにはならなかった。あの女さえ現れなければ、何もかもうまくいっていたんだ。


 の手口は最低だった。悪事に手を染めるのに赤の他人を使う。狡猾だった。巧妙だった。連中が何者なのかもさっぱり解らないのだ。自分達はなのだとぬかす。


 依頼をこなせば、金は手に入る。報酬は正当なものなのだとまでぬかす。金を受け取った以上は同罪だという。金の問題さえきっちり筋を通せば、犯罪とてビジネスの一環だとでもいうつもりなのだろうか? 依頼人と請け負い人の関係だとでもいうつもりか? まるでマフィアだ。人を馬鹿にしているとしか思えない。しかし、命令には逆らえない。抗えない。家族の借金まで盾にするようなまともじゃない連中だ。反吐が出る。


 理由は解らないまでも、ケチな犯罪だけでなく、中には雑用としか思えない仕事まで次々に回されてくるから頭にくる。支給されたスマートフォンはある日、自宅の郵便受けにいきなり入れられていた。命令は一方的にメールで送られてくる。一番最新のものはこうだ。


「外国人の旅行客が来たら、当座のアジトを提供して定められた期間内は出来る限り協力すること。依頼人である当方へのメールでのコンタクトは最小限に。詮索は一切しないこと」。


「吉祥寺にいる、休学中の大学生を探せ。名前は中島明。クライアントである当方への詮索及び依頼人の名前は決して口外しないこと」。


 人探しの依頼まで回ってくるのだ。こうなると、もう訳がわからなかった。恐らく動いているのは……動かされているのは私だけじゃないのだろう。外国人旅行客に扮して何をさせているのか、連中のターゲットのその大学生とやらが何者で、何をしたのかは皆目わからないが、他にも奴らに弱みを握られた連中は大勢いるはずだ。説明は不要だとばかりに一方的に情報だけが回ってきて、金に群がる有象無象が探し回り、あっという間に片がつく。何度かこの手の仕事は受けているが、これはいつものことだ。今やネット社会では、互いの氏素性など関係なく、他人を金で動かせるということだろう。


 連中はゲーム感覚で他人を操り、成功した人間には破格の報酬を与えもするが、抵抗や質問は一切させない。自分の足がつくことを何よりも恐れている連中とは一体何者なのだろう? バックにいて脅しに関わってるのは、あの指定暴力団の銀政界の組員という噂だ。脅してくる人間も堅気ではなく、金で雇われた本職の奴らなのだろう。


 正直そんなことをしている暇などない。とはいえ、連中の要求に逆らったら、何をされるかわかったものじゃない。奴らはあらゆる組織に入り込んで、あらゆる人間の弱みを握っている。どこから情報が洩れるのか、連中のターゲットになったら、もう逆らう手立てなどない。いずれにせよ和彦を奪った、あの女だけは絶対に許さない。私を捨てた和彦も、もはや一緒だ。思い知らせてやる。


 あの二人がFacebookを使っているというのは、こちらにとって好都合だ。二人のどちらかでもいい。TwitterやInstagramやLINEを利用しているなら、もっと都合がいい。認証が連動しているSNS認証を利用しているなら、二人だけの会話はいくらでも拾えそうだ。


……しめた。二人ともTwitterもLINEも使っている。これならいけそうだ。


 インターネット社会に生きる中、今や普通の人でも10や20を軽く超えるIDやパスワードをやり繰りしなければならない。電話番号や銀行口座、スマホのセキュリティーロックやパスワードやアドレス。現代人の悪い癖が、二人にも出ていた。


「すべて」とは言わなくても、意識しないうちに、半分ほどは類似したパスワードを設定しがちになるものだ。ところが、これが危険な方法であることは認証に対して詳しくない人々の間でも最近では段々と知られてきた。そこで登場したものが、FacebookやTwitterやInstagram、LINEなどのSNSを相互に活用したSNS認証だ。


 SNS認証は、SNSそのものに認証機能があるため、ボタンをクリックするだけで連携したサイトの認証を通過することができるというものだ。メリットは何よりも、アプリケーションを使用するまでのスピードが速いこと。そしてサービスひとつずつにいちいちIDとパスワードを入力する必要がないため、サービスごとに新たにパスワードを覚えておく必要もなくなることだ。


 このあまりに簡単な動作のため、利用者は認証のために個人情報を提供しているという「実感」もあまりない。


 ところが、この「実感のない利用」が落とし穴なのだ。Facebookの利用の仕方は人によって大きく異なるところだが、投稿している情報はFacebook限定の情報公開であり、それが外部に伝わることは絶対に避けたいという場合だってあるかもしれない。


 SNSとして世界的に有名なこのFacebookでは、利用者がパスワードを忘れてログインできなくなった場合の救済措置を逆手に取った、悪質なアカウント乗っ取り方法というものが知られている。


 Facebookには、パスワードを忘れたなどの理由でログインできなくなった場合、自分のアカウントに登録されている友達3人に協力してもらうことでパスワードを再発行してもらえる機能がある。これを逆手にとると簡単に他人のアカウントを乗っ取れてしまう。


 スマートフォンが軽量で薄型で、新しい機種がどんどん発売してバージョンアップするにつれ、この手の危険は飛躍的に増す割に、古いものは見向きもされなくなる。海外製の安いもので複数台を使えば、さらに露見のリスクは少ない。


 まず、友人になりすました3人分のアカウントを登録しておき、目標アカウントに友達申請をして友達になる。


 事前に相手の投稿に"いいね"を多く押しておくとか、当たり障りのないやり取りを繰り返して、最後には友達になる、という手順が味噌だ。日本の芸能界を例にとるまでもなく、有名人ほど相手の反応には気を使う。フォロワーが多いほど、乗っ取りのリスクは高まるといっていい。だって、友達の友達はみんな友達だもんね。これはそういう仕組みなんだし仕方ないよね。


……そう、それが犯罪者でもね!


……だって私達、友達じゃない?


……私には友達しかいないの。可哀想で孤独なの。だから友達のあなた達には、私を慰める責任があるの。


……なぁんてね。


 目標アカウントが一般公開しているメールアドレスを利用して救済措置を行い、3つのなりすましアカウントにセキュリティコードを送信する。そして、入手したセキュリティコードを使ってログインし、目標アカウントのパスワードを変更して乗っ取る、というのが基本の手口だ。


 後は好きなだけ個人情報を抜いた後にセキュリティコードを元の設定された番号に戻せば、見かけ上は本人は乗っ取られたことさえ気がつかない。これは運営側を騙している手法でもある。元のコードに戻っているということは、運営側も利用者がコードを本当に忘れたのだと理解するしかないからだ。


……これでよし。乗っ取ったFacebookのアカウントでSNS認証。プライベートな会話はLINEの履歴を見れば一目瞭然だろう。ログインして確かめてみよう。どれどれ……。


 共働きの家事の当番。夕飯のメニューといった当たり障りのない内容から最近使ったラブホテルのベッド。好きなSEXの体位。使ったディルドの形。嫌な上司や友人の愚痴や噂話など、身内同士の赤裸々な会話が嫌というほど続いている。


……あらあら、コイツらときたら! LINEでお互いに文字を打ってオナニーまでしてる! これがLINEセックスかぁ! コピペして、後で職場の皆さんに晒してあげようかなぁ。


 あったあった。自宅のスペアキーの隠し場所。警備会社と契約しているマンションのようだ。ふーん、隣の家のドア付近の壁に隙間があるんだぁ。お隣さんも知らないんだぁ?


……へえ、自宅のセキュリティーシステムのコードのナンバーも最近、番号設定を変えたようね。ひょっとしてストーカー対策かなぁ? 引っ越しまでして? 笑える! 全ッ然、意味ないんだけど!


 いいね。いいねぇ。

 出てくる出てくる。馬鹿な奴ら。


 セキュリティー意識の甘いカップルには罰を与えてあげる。ほら、駅とかでイチャイチャしてるカップルなんて死ねばいいとか思わない?


 写真で撮って幸せ絶頂の姿を公開してあげたいとか思わない? だって自分がされたらムカつくことを公共の場所で平気でやってる奴らなわけじゃない? どうなったって知ったこっちゃないよ。浮気とか不倫とか、こそこそ陰でやってりゃいいものをさ。職場で赤っ恥かくくらいの公開処刑して、帳尻を合わせて笑ってあげりゃいいんだよ。人の視線を気にしない罪で社会的に死刑ってね!


 高い金を貰ってる癖に、セックスはしたくてゴミに写真撮られてるアイドル達のスキャンダルと同じ感覚だよ。有名税ってやつ? 束の間、そんな人達と同じ立場になれるんだから最ッ高じゃない。


……だから、いいよね?  女を食ったなら責任もたないとね。泣きを見せてあげる。だらだら生きてるだけだなんて、つまらないでしょ? 人生には刺激が必要だよ。暇を持て余してたら人間なんて退屈で死んじゃうかもね。


 他人の不幸は蜜の味。人間なんて薄汚れて真っ黒なんだよ。他人の幸せなんて大ッ嫌いに決まってんだろ。つまんねぇんだよ、思ってもいない癖に。何が"いいね"だ。


『見て見て! 夕べ○○を食べました~。とっても美味しかった~。超幸せ!』


『息子と○○に行ってきました。どうですか、この嬉しそうな顔! 親バカだけど可愛いでしょ?』


『ウチのにゃんこの○○が超カワイイの! モフモフを撫でて撫でて撫で倒してやりました!』


『タレントの○○君に遭遇! 超カッコよかった~。泣きそう……』


 うるせぇ。知るかボケ。死ね。


 我ながら病んでる、とは思う。


 嘘だらけの世界にいたんじゃ、笑顔の作り方さえ忘れる。そんな気がする。


……だって、なんにも言えない世の中なんだもの。誰に、何に、何のために、誰の顔色を窺って、窮屈に生きていかなきゃいけないの?


 女だっていうだけで何でもかんでも性差までつきまとう。過去を探られ、初めての性行為の相手まで探られる。どうして男は卒業で、女は喪失なわけ? 何でもかんでも奪われる為に生きてるわけじゃねぇんだよ、こっちは。


 マナー? モラル? ルール? 不謹慎?


 何一つ自分はまともに守らない癖に。他人にはピーピーピーピーうるせぇんだよ。


 自分を解放すればいい。剥き出しの好奇心を満たせばいいんだ。まだ満たされない。もっともっと満たしたい。満たさせろ。その方が汚い獣らしくていいじゃない。人間なんてみんな獣。汚いものほど、見たいんでしょ?


 街中に溢れ返る映像やCMや広告なんて、中には見ているだけで不快になるし、ムカつくものだってある。うんざりだった。幼稚で後進的な女性観で寡占的なやり方で、女を金儲けに利用して、女がそれに乗っかる。とことん嫌な世の中だ。


 アイドル選挙? 女性議員選挙?


 女の性を売り物にして、女がそれに乗っかるのが当たり前なことだと思ってる。これも馬鹿だ。愛玩動物のように男に媚を売るだけの、卑屈な追従の象徴みたいなアイドル達の選挙など、今時誰が見たがるんだろう? 握手券というアイドルに会える特典を餌にして、何十枚何百枚もCDを買うファンもいるらしい。芸能事務所の中には自社買いで、CDのランキングを平気で工作したりもするらしい。そんな、やったもの勝ちのビジネスモデルが平気で罷り通っているのだ。


"CDセールス○○万枚の快挙!"などといいながら、実際の音楽ダウンロードのランキングには全く反映されていないのだから、お笑いだ。こうなると、もはや狂った宗教団体だ。握手券付きのCDは中古屋でも買い取ってもらえないらしい。馬鹿の馬鹿による馬鹿の為の、粗大ゴミの温床だ。


 考えた奴も馬鹿なら、それを商売に利用する奴らも、応援するファンも揃いも揃って馬鹿だと思う。その癖、行き過ぎたファンには"ストーカー行為は犯罪です"とまで宣う。散々、自分達が煽ってファンを金儲けに利用してきた癖に。アイドルなんて金の為に必死になって働いてるだけに決まってんだろ、アホ。家庭的な女がそんなに見たいのか? 世間に虐待事件なんかしょっちゅう報道されてるこのご時世に、子供を可愛がるだけの女がいるとでも思ってるの?


 新聞やマスメディアなんか、今や社会の公器どころか、金でどうにでも転ぶ、最低のゴミ溜めのクズ共の集まりだ。偏った情報を垂れ流し、土足で他人のプライベートに踏み込み、何の目的で、何の情報を、誰の為に提供しているというのだろう? 今やSNSの方が速報性が高くて、決定的瞬間を写した映像や写真などは、メディアが提供してほしいと願い出ることもあるらしい。


 女を個として認識しない。愛玩の対象にまでする、その異様性は大衆をいいだけ煽動してきた、コイツらの責任だろう。異常を異常だとも思っていないのだ。吐き気がするほど気持ち悪い。その癖、他人のスキャンダルにはハイエナのように群がり、食い漁る。


 みんな見たいんでしょ? 人が墜ちて駄目になるところ。風俗店で説教垂れる男と同じくらい馬鹿で面倒くさい。女は愛玩動物じゃない。人間、誰だって獣と同じだ。その辺をいい加減に解れよ、クソッタレのバカチン共。


 女らしいことを考えたことも少しだけあった。今、思えば馬鹿みたいなこと。


 帰ってきてほしい。朝まで私を求めてほしい。


 何をすれば私だけのモノになってくれるの?


 幸せであればあるほど、心が荒んでいく矛盾……。必ず味わうに決まってるんだよ?


 女がずっと綺麗なままでいられるはずがないんだよ?


 子供をうるさいと思わない親なんていないんだよ?


 可愛いハーフの子供にブロンドの奥さん。それは誰もが羨むに決まってるけど、そこはそんなに幸せな場所? そんな窮屈で退屈になるに決まってる家庭なんか捨てて、私といたらいいじゃない。絶対に退屈なんかさせないのに。


………


……なぁんてね。馬ッ鹿みたい。


 この音声メモが公開されることはないけど、ストレス解消にちょうどいいからやめられない。喋っているだけで文章が自動入力されて、保存までされるんだから凄く楽でいい。


 Facebookみたいに"いいね"をもらえないのが凄く残念だ。作家でも目指そうかな?


……教えてあげよっか。捨てられたあの日から、私がどんな目に遭っていたのか。


 一生かけて、後悔させてやる。


 自分のモノじゃなくなるなら、いっそ燃やして灰になって消えればいいんだ。作られた偶然は、きっと必然のものになる。過去は未来に復讐するってことを、その幸せ絶頂期の今という時間にたっぷりと刻んであげる。


……ぶっ壊してあげるわ。



◇◇◇


3月11日(火) 晴れ


「相変わらず……消えませんか?」


「はい……」


 50代くらいの黒縁眼鏡の医師は、僕の左腕を見ながらそう言った。


「中島さん、この間の診察でも申し上げましたが、全く空白の空間から成り立つ身体の部分が、稀に耐えがたい痛みを伴って患者さんに襲いかかるのが、その幻肢痛なのです。多くの場合、なくなった四肢の末端部分に感じる痛みです。これは切断された指や腕や脚といった四肢だけではありません。乳ガンを患った女性の患者さんが、女性の象徴である乳房を切除した場合などでも起こりますし、交通事故が原因の抜歯や関節離断や外傷により切断した部位にだって生じます」


 医師はいくぶん困ったような表情で、汗でズレた眼鏡の縁を直した。


「医師がこういったことを言ってはいけないのかもしれませんが、人間の意識や精神に一度刷り込まれたネガティブな記憶というものは、そうそう簡単に忘れられるものではないのです。そこに確かにあるはずなのに現実に耐え難い痛みを伴う。そこにないはずなのに痛みを感じる。中島さんの左腕のように外科手術によって神経や骨や筋肉に至るまで元通りになっても、痛々しい記憶が当時の痛みをそのまま引き継いでしまうということは、充分にあり得るとしか申し上げられないのです」


「つまり、僕の記憶が消えでもしない限り、治る見込みはないかもしれないということですか?」


 残念ながらその通りです、と医師は苦渋の表情でそう言った。医師は敢えて震災という言葉を意識的に避けて、口にしなかった。生き残れただけでも奇跡的だ。生き残った人でさえ心に不安を抱えている人は実際に多いのだろう。


「かつては、戦場などでの突発的な負傷で、四肢が切断された患者の幻肢痛が多かったのだそうです。現在では、下肢閉塞性動脈硬化症などの血管性疾患や糖尿病性動脈症、悪性腫瘍などのための予定手術として切断術を受ける患者さんの幻肢痛が多いのです。人の精神と肉体は、そもそもが一つであるということの証でもあるのですが、実際は根本の原因が解っていても、どうにもならないことがある……。誰かの死や病というものが与える多大なストレスを乗り越えるというのは、実際は並大抵のことではないのです」


 とりあえず痛み止めの薬は出しておきましょう、と言って医師はカルテにスラスラと何かを書いていた。お大事に、と付け足された言葉が、ややおざなりな口調に感じた。促された僕は、ゆるゆると立ち上がって待ち合い室に戻ることにした。


◇◇◇


3月13日(木) 曇りのち雨


 とにかく怪しい店だった。


 偽物の札束。電気ショックが走るイタズラ用のリモコン。ブーブークッションにウンチ型の石鹸。アニマルマスクにおもしろアイマスク。臭いガスが噴射されるスプレー。フェイクムカデにフェイクゴキブリ二十匹セット。悪趣味なパーティーグッズがそれはそれは所狭しと並んでいる。それでも10月31日のハロウィーンの時期に入れば、それなりに賑わったりもするのだろうか。


 ジェイソン・ボーヒーズのマスクにフレディマスク。ジグソウ・キラーの豚のマスクといった定番のキャラクターの被り物から、マントやナイフや爪やトラバサミの罠といった小道具。映画やアニメのコスプレ衣装。玩具とは思えない、手錠に鞭に拷問マスク。ショッキングピンクや赤や紫といった、毒々しい色に彩られた包装の小袋に入ったラブドラッグ。


 何十匹も釣り下がったゴム蛇に本物の蛙そっくりなダミーフロッグ。イタズラ妊娠検査薬にガラスのショーケースに小さな座布団のような物に乗っかった髑髏。ドクロだ。頭蓋骨まである。


 アンティークショップとは名ばかりで、ジョークグッズばかりを扱う店でそれを見つけた時には、なぜか異様に気持ちがざわついたのを覚えている。


 人間の頭蓋骨だ。かの水晶髑髏の逸話や真言立川流の密儀など、人間の頭蓋骨を呪物や儀式に用いるというのは、実は世界中で定番であり、そう珍しいものではないのだが、僕はなぜかそれがやたらと気になった。


「気になるかい? そのドクロね、結構な曰く付きの品物らしいよ」


 鼻と耳にやたらとピアスを着けて、まだ冬場だというのに黒字に派手な柄が入ったタンクトップを着て、ムキムキの腕に派手なタトゥーが縦横に入った金髪の店員が、僕に気安く声をかけてきた。年の頃は40才前後だろうか。派手な格好の割には結構な年で、前歯が何本か抜けているのは、昔シンナー遊びでもしていた影響だろうか。


「曰く付き? この髑髏が?」


 そう言われるとやはり気になるもので、僕はそう尋ねた。何かしら引き寄せられるような何かを感じたのは確かだが、なぜそれが気になったのかは上手く言葉に表せない。しいて言えば、その髑髏は比較的新しいものなのだ。しかも犬や猿といった動物の骨ではない。作り物とは思えないほどに精巧で生々しく、見ているだけで何だか気持ちがざわつくのだ。


「骨董を扱う業界ってのは割とすぐに情報は集まるものなんだけどね、こっちもあまり大きな声じゃ言えないんだが……」


 そう言うと店主は幾分かカウンターに身を乗り出して内緒話でも始めるような小声で、これまた分かりやすくも右手をメガホンのような形にして僕に耳打ちするように話しかけてきた。もっとも、どこか怪しげな雰囲気の漂う、うらぶれたアンティークショップを平日の午前中にわざわざ訪れるような酔狂な客など僕以外にいる訳もなく、他に客の姿はなかったのだが。


「それね、震災の犠牲者じゃないかって噂があるのさ。罰当りというか何というかさ、あの震災で何もかも壊れちまっただろ? 何でもかんでも拾って売りにくる輩ってのは、まぁいるもんでさ。ウチも商売だからね。震災髑髏なんて不謹慎過ぎるとは思ったんだが、根負けした店員がつい引き取ったって話。あ、コレ内緒ね。最近はSNSとかうるさいからさ、そんな話なんか知られようモンなら……」


 ギーッと金髪の店員は派手に顔をしかめ、首元を平手で横に引いた。警察に摘発されかねないということか。ジョークグッズやアンティークショップを扱う店の中には、危険ドラッグさえ平気で売っているような場所も未だにあるというから、それなりの事情というのはあるのだろう。


「コレ、売ってくれませんか?」


「毎度ありぃ! お包みしますんで、こちらで少々お待ちを」


 髑髏の黒い眼窩に穿たれた穴を真剣な表情で見つめる僕に、その店員が何を感じたのかは分からないが、店員はあっさりとそれを売ってくれた。


◇◇◇


 3月14日(金) 晴れ


 ああ、頭の震えが止まらない。


 頭が震える。腕が絶え間なくウズウズと痺れて世界が膨らみ、呪わしい言葉が脳髄を駆け巡っている。あの供儀だけは、あの儀式だけは一刻も早く完成させなければならない。


 逸る体と心を押さえつけ、いつ着替えたのか解らない茶色の上着を荒々しく脱ぎ捨て裸になると、いそいそと透明で広いバスタブのある部屋ですぐに横になり身を沈める。


 暫くそうしていると、彼女達がいつものように次々と現れて出迎えてくれた。さぞや待ち遠しかったのだろう。期待と興奮に彼女達が歓喜しているのが、その濡れた裸身を通して伝わってくる。


 その神々しい緋色の裸身を露にした、真珠ナメクジの少女達を全身で受け入れる準備をする。この何ともいえぬ高揚感と高鳴る心臓の鼓動に身を任せ、待ち焦がれている時は、この世の何よりも至福の時間だ。


 彼女達との愛の営みは、彼女達が喜んで全身を愛撫し、彼女達を満足させる刺激的で甘美な一時なのだ。


 その痛いような痒いような何ともいえぬ心地に全身を満たしていると、それだけで下腹部に熱い血が集まって勃起してくるのが判る。どんな女達の、どんな愛撫をもってしても、この快感は味わえぬ。


『私よ』


《駄目よ、私》


“アタイだってば”


【駄目ぇ…アタシ】


(駄目、ウチの番やない)


<あぁん、私だったらぁ…>


「こらこら、順番だよ」


 仕方ないと苦笑して、そっと微笑んだまま目を閉じると妖艶な赤い唇で彼女達の一人一人が微笑みかけ、耳元で囁き、ポールダンスのように蠱惑的でセクシーなポーズで体をくねらせ、ある者は跳びはね、踊るように目の前でアピールしては、順番だというのに次々に我先にと愛撫してくる。


 皮膚の末端を通して脳髄まで熱く、蕩けそうな愛しい唇で何度も何度も吸い付いてくる。五、六分も身を任せていると声が出そうになり、ひたすらに腰を暴れさせて突き上げると彼女達の動きもどんどん激しくなる。


 頭に白い閃光が走ったような感覚と共に、彼女達に向けて思いきり全身で思いを込めたスペルマを放出すると、赤く潤った彼女達が手当たり次第におぞましく迸る白く濃厚な液体を受け止める。目に映る全てのモノが白く歓喜したように彼女達の声も、震える脳髄へと直接響いてくる。


『いい』


《いぃ…》


“いいわ”


【イイ…】


(えぇわぁ…)


<いいッ>


 一体どれほどの時を彼女達と費やして過ごして来たのだろうか…?


 この快楽に比べれば、世の中に溢れるセックスなど児戯に等しい。


 食うために生き、生きる為に血を交じり合わせ、全身で愛を確かめ合う命の交歓こそ至上の愛の営みだ。


 頭を悶々とさせ互いに互いを求め、身体を蒸らして焦がして待ちわびて、昼間から部屋にこもり、混沌の中で淡々と達する彼女達と過ごしているこの背徳の時は、堪らなく狂おしく甘美な一時だ。間違いない。


『もっと…』


《もっとぉ》


“もっともっと”


【モット…】


(ぅん…もっとぉ…)


<もっとシてぇ…>


 ひたすらに求めてくる彼女達を宥めて熱いシャワーを浴びると、頭の震えはなくなり、頭の中で陽気な歌がリフレインしてくる。


 怪奇小説や推理小説を書くとしたら、こんなところだろうか? ゴア表現やエログロといった官能的な描写をこれからこの日記の文章に混ぜてみるというのも、案外面白いアイディアかもしれない。


『気持ちいい?』


《ねぇ、ここは? 気持ちいい?》


「ありがとう、メイ。…モエのはちょっとだけ痛いかも」


 そう言って裸の背中を撫でてやると彼女達は嬉しそうに身体をくねらせて、さらに強く強く吸い付いてくる。


 僕を救ってくれた彼女達を買い取った時には、我ながら酔狂なことだと思ったが、今や彼女達との営みはとてもとても大切なことのように思える。


 こんなに幼い命との繋がりや関わりの方が、およそ外に広がる嘘だらけの現実世界より大切に思えてくるから不思議だった。


 彼女達と過ごし、これからも彼女達と生きていられればそれでよいとさえ思える。


 僕は彼女たちに命を救われた。後遺症は残ったが、それでもこうして五体満足で生きていられるのは彼女たちのおかげだ。医療用のヒルという名前はまったく聞いたことがなかったが、この小さな命が僕を絶望から引き揚げてくれたのだ。


 メイ、モエ、アミ、レイ、マイ、ユキ。


 実際のアイドルグループから名前をもらった。実際に多くの人に、夢や感動や一生懸命さを伝えるのがアイドルの仕事なら、彼女達はたとえ小さくとも、僕にとっては真のアイドルだ。


 医療用ヒルは、ドイツなどでは認可を受け、再生医療などに用いられている。一匹一匹があまり大きくならない上に医療に用いられるので、生まれたときから無菌状態で育てられているから、とても清潔で綺麗好きなのだ。縮んで丸くなったり、細長く伸びて水の中を泳いだり、眺めていると愛着がわいてくる。


 日本では昔から「悪い血を吸わせる」など、民間療法ではヒルは用いられていたらしい。最近ではペットとして飼う人もいるのだそうだが、その理由は僕にはよくわかる。ネットで調べてみて、さらに愛着が湧いた。


 ヘビやトカゲといった爬虫類をペットとして飼う人が増えているのはよく知られた話だが、イヌやネコに比べるとエサも少なくて済み、吠えたり暴れたりせず、嫌な臭いもしない。基本的に誰かに迷惑をかけたり、トラブルに発展しにくいというのは大きい。都会の狭い部屋で飼うにはちょうどいいペットだからなのかもしれない。


 ヒルも同じ理由で飼うのにあまり手間のかからないペットで、爬虫類のよさを知った人の中にはヒルの方に流れてくる人も多いらしい。体にたくさんピアスをするようなボディサスペンションをしている人もいるご時世だ。別にめずらしいことでもない。


 小さなヒルは色や模様が鮮やかなものが多く、縮んだり伸びたりする姿が凄くかわいらしい。ある程度、大きくなってくると、腕に這わせたりして肌とのコミュニケーションができるようになる。よりペットとしての感覚が強くなるのだ。イヌ・ネコに比べればずっと原始的な生き物なのに、不思議といろんな感情を持っているように見えてくる。


 数日に一回、水を替えてあげるだけで、本当に手間がかからない。水替えの際に体温を嗅ぎつけて手にペタペタ貼付くようになったら、だいたいお腹が減ったサインなのだそうだが、彼女達の場合はマイは一番綺麗好きで、バスタイムの度に一番大きなリアクションをする。水を毎回替えてくれとねだってくるのだ。


 一番食いしん坊なのがメイかモエで吸い付いてくる力も、他の子達に比べると大分強い。強いといっても、皮膚を爪で軽く引っかいたような痛みが最初に走るくらいで、あとは献血でもするような感覚だ。生きていく為の栄養を与えているのだと思うと、不思議な感覚になる。ヒルが大きくなると、自分の血を分けた子どもが育つように感じて、ヒルへの愛着が深くなる。


 もう一つの発見は深呼吸して落ち着いてくるように、彼女達に血を吸われていると、不思議と頭がクリアになってくることなのだ。実際にバスタイムに合わせて腹式呼吸をしながらリラックスした状態で血を吸わせてみると、効果は覿面だった。頭の震えはなくなるし、凄く気持ちが楽になる。


 ヨガでは腹式、胸式、片鼻、ウジャイ、カパラバティ、シータイなど、呼吸法とポーズによって心身のリフレッシュの仕方が異なり、美容と健康に役立つらしいが、この感覚はなかなかに新鮮だった。


 ただし、血中のアルコールやニコチンはヒルにとっては猛毒らしい。だからエサやりの数日前から酒やタバコを嗜む人は断つ必要がある。そのためにかえって健康になる人もいるらしい。もちろん、人の血でなくともホームセンターなどで安く売っている金魚などをエサにしても問題はないようだ。


 僕は彼女たちが生きていけるように、これからも命を分け与えていくのだろう。そう、今は本当にそれだけでいい。


◇◇◇


 実のところ、震災の時の記憶は、途中から途切れている。目覚めた時にはほぼ全身が包帯だらけで、病院のベッドの上で寝ていたからだ。


 ちょうど気仙沼行きの電車に乗り換えようと気仙沼で電車を降りて時間があった僕は、久しぶりに友人宅を訪れようと友達の家へと向かっていた。


 辺りは暗い曇り空で、雪がぱらついていて、辺りは冷たく、冬特有のすっきりしない天気だった。ぼんやりと久しぶりに訪れる故郷の海辺とくすんだ色の空を眺めていて間もなくの出来事だった。強烈なドン、という音が辺りを襲ったとみるや否や、それは突然に襲いかかってきた。


 その音は、まるで水平線の彼方から響いてくるような、遠くの方から聞こえてきたような気がした。瞬く間に辺りの景色がグラグラと揺れた。


 地震だ! 横に縦に斜めにと自分の身体が世界ごと大きく大きく揺れている。それも相当に長い揺れだ。遠くの方で、港の漁船が大きく揺れて、岸にぶつかっているのが見えた。相当な範囲で、大きく長く揺れている。


 辺りから人が騒ぐ声がする。高いところへ逃げろ、とか何かに掴まれ、避難しろ、といった声がする。嫌な予感がした。心臓がバクバクとあり得ない速度で高鳴っている。足が震えて呼吸が浅くなっている。すぐにこの場から逃げなければ!

 

 沖の方を見た時、僕は自分の目の前に真っ暗なカーテンが降りてきたのを今でもはっきりと覚えている。


 津波だ!


 黒い海と濁流。質量を伴った黒い水が次から次へと無茶苦茶に物を巻き込みながら、こちら側に向かってくるのだ。


 間もなく辺りからは狂ったように警報が鳴り、僕は慌てて山側に避難した。 その時点での大津波警報では、津波は3mということだったらしい。


 警報から15~20分後に海面がいきなり上昇をし始め、海岸から徐々に水が広がっていき、最終的には鉄砲水のような勢いで津波が押し寄せてきていた。 辺りからは、バキバキという音と爆発音がなり続け、海水が町全体で渦を巻いているようだった。


 僕は一体、何を見ているんだ!?


 世界がどんどん狭くなっている!


 辺りはもう黒い水だらけだ!


 家も歩いてきた駅の方も近くにある生涯教育センターも、全部水の中で、さっきまで見えていたはずの風景は既にその姿すら跡形も見えなくて、幼稚園があったはずの方向には海岸から流されてきた船があって、家が壊れて屋根がそのまま幾つも水に流されて浮いているのが見えた。


 父さんと母さんが気になった。訳もわからず、僕は必死で高台へと続くガードレールのある道路をひたすらに駆けた。みんな渦の中に消えていた。津波は中学校の海側の坂の半分くらいまできていて、避難して呆然とそれを見つめている人たちの肩には雪が積もっていた。 どこかのラジオからは津波は10m程度などという緊急速報の音声が聞こえてきたが、 実際にきた津波は30m近くあったのではないかと思う。


 僕は叫んでいた。逃げろ、高いところに逃げろ、と。その時だった。黒い水が僕の身体を呑み込んだ。全身に怖気が走る冷たい感触と金臭いような重い水に全身が浸った時は、生まれて始めて、僕は死を覚悟した。


 突然、左腕に鈍いような鋭い痛みが走ったのは、正にその時だった。


 何が起こったのか解らなかった。


 誰かの切れた左腕がそこにある。


 漁港から流れてきた、大型のマグロを解体するバンドソーという道具の刃が僕の左腕を奪ったモノの正体だった。それが自分のものだと認識した途端、左腕に万力で潰され、抉られたような耐え難い痛みが走り、僕は泣き叫んだ。


 ああ、何てことだ……。何てことだ!


 残った右腕で左腕を拾い、それを抱きしめるような形で僕は叫んだ、叫んだ、泣き叫んだ。磯臭いような鉄臭いような血の臭いと痛みで、周囲を巡る黒い水に船が、家が、瓦礫が浮かんで、もう状況は滅茶苦茶で訳も解らず、僕は泣き叫び、涙でグシャグシャに歪む景色の中で、僕はそのまま気を失った。気を失う前に、目の前にあるものはもう絶望しかなかった。


 もう駄目だ。死ぬんだ。


 しかし、僕は助かっていた。いち早く高台へと逃れていたこと。付近の雑木林が緩衝材の役割を果たしていたこと、高い位置に打ち上げられて一度枝か何かに引っ掛かった状態が続いていたことが、九死に一生を得て助かったのだと消防の人は言っていた。


 失神したままの僕が救出された時は、津波発生からなんと11時間が過ぎていた。取材のヘリが偶然にも波間を漂う僕を見つけ、ドクターヘリによって病院に搬送されて応急手当を受けた僕の体温は、その時は13度しかなかったらしいが、なんとか一命をとりとめた。


 切れた電線が切れた左腕ごと身体に巻きついてあり、皮肉にもそれが緩い圧迫止血の役割を果たし、プラスチックのようなものに乗っかりながら僕は漂流していたらしい。


◇◇◇


 震災のおぞましさは"遺体"に集約されていた。東日本大震災から9ヵ月経って、左腕を失いながらも、奇跡的に生き残った僕は、ヒルを使った外科手術のおかげで、ようやく普通の生活ができるまでにはなっていた。


 輸血に次ぐ輸血。全身は傷だらけで、あちこちに切り傷を負っていたという。還流現象によって壊死しかけた左腕は外科手術とヒル治療によって奇跡的に繋ぎ止められ、肋骨二本と左足の骨折。治療にはリハビリも含めると半年はかかっていたことになる。生き残れたことは奇跡だったが、僕はまったく無力だった。


 食事すら一人で取ることはできず、何から何まで誰かの助けを借りて生きていた。ひたすらに無慈悲で残酷な災害に遭った時、人間がいかに無力で何もできないのかを思い知らされた。


 入院とリハビリの間でも、情報は絶えず耳に入ってきた。もちろん心配だったのは、両親の安否だ。故郷の家はないと生き残った叔父に聞かされた時に、ある程度の覚悟はしていた。


 震災後の数ヶ月間、釜石の遺体安置所に身を置きながら、津波に飲まれた遺体とそれを迎える遺族と向き合った人達の話では瓦礫の上や車の中で見つかった遺体が多かった為、最初は綺麗な遺体が多かったのだという。


 問題なのは死後硬直だった。


 人の死体は生きている人と同じで、常に同じ形を留めてはいない。


 車を運転していて津波に飲み込まれた人は、椅子に座ったまま死後硬直していた。流されまいとして木につかまったまま死んでいるとか。赤ちゃんを抱いたまま死んでいる。そういう状態だったらしい。死んだ瞬間、ロウで固まらせ、横になっているような状態だったのだ。屍蝋化した遺体もあったという。


 そのままでは死体の検案も、棺桶に納めることもままならかったのだという。津波に流された母親の遺体が木にひっかかり、それを子どもが下から眺めている光景に出くわした人もいたらしい。


 津波が5メートルや10メートルの高さになると、そこへ流され、遺体がひっかかったまま水が引いてしまう。そうすると降ろせない。木の下は瓦礫の山だから脚立も置けないし、木に登ることもできない。


 死体を降ろしたところで、何キロと続く瓦礫があるから運べない。警察を呼ぶこともできない、携帯も通じないという状況の中、木にひっかかった母親の遺体を見ている子供に、周囲の人々はどんな言葉をかけてやればよいというのか。僕のように、高い位置に引っ掛かって比較的発見が早く助かる命の方が稀だったのだ。


 何よりも辛かったのは、その子が『うちのお母さんじゃないかも知れないよ』と警察の人に言っていたことだろう。地元の新聞ではその当時の様子を生々しく伝えていた。そのくらい損傷が激しい遺体があったのだ。


 世間では東日本大震災については、結果的に遺体とどう向き合うのかという大きなテーマを出された形となった。結局、津波は家を建て直せば終わりなのではない。


 生々しい死体を前にして、人は普通ではいられないのだ。災害は人を殺すのだ。生きている人の人生という時間の流れを、そのまま殺してしまうのだ。


 気仙沼を襲った津波で僕は両親を失った。3月11日午前発のJR大船渡線で東京駅から地元の気仙沼に帰省する予定だった僕が「明日帰るから駅に迎えに来て」と母親に電話を入れたのが、午後13時26分。東日本大震災の発災のちょうど前日。約26時間前だ。


 その時、母さんと交わした最後の会話を僕は今でもありありと覚えている。学生生活はどうなのかとか、恋人はできたのか、きちんとバランスのとれた食事を取っているのか、といった他愛のない会話が続いた。心配性な母親にそろそろ土産物の話でもして、会話を切り上げてやるかと面倒くさそうにしていたように思う。


「お土産はお金がかかるから買わなくていいわよ。明日の晩ご飯はカレーにするわね。何か他に食べたいものある? どうせ一人暮らしでロクなもの食べてないんでしょ? 父さんと一緒に迎えに行くから」


「母さんも来るの? 大袈裟だなぁ。別に来なくていいよ」


「そうはいかないわよ。母さんがそうしたいからそうするのよ」


 そして、あの震災が襲った。その後、両親とは連絡が取れなくなり、生き残った叔父の話では避難者名簿にもその名を見つけることはなかった。電話会社がすべて繋がったのは、3月18日のことだったらしい。


 連絡が来なかったということは、そういうことなのだ。入院している最中のことだった。覚悟を決めるというよりは、やっぱりそうなのか、という絶望と消えることのない喪失感だけが残っていた。


 ほぼ二か月間、左腕の治療に費やしていた僕に、母の死がもたらされたのは5月8日のことだった。母の遺体があがったのだ。顔の写真を見ても、最初は誰なのか分からなかった。残念ながら、実の母でも顔が水膨れで損傷の激しい身切れた遺体の状態では、判別するのは不可能だった。


 生き残った叔父の家族も写真だけでは確認するのは難しいと言っていた。最終的に医師が歯形の特徴を示し、『妹ではないかと思います』と叔父が言った時、僕も母の遺体であると確信した。笑うと見える尖った八重歯の特徴が酷似していたからだ。その頃にはもう淡い期待など、とうに失われていた。


 その後、残された血縁者である僕からDNAを採取し、遺体が母さんのものであるとの最終の鑑定結果が報告されたのは、9月21日だった。遺体の一部が見つかってから実に4ヶ月の歳月を要したのだ。


 DNAを採取した日は、皮肉にも父さんの誕生日だった。お骨がない葬儀というものは本当に寂しいものだった。


 ぽっかりと胸に穴が開いたような感覚だった。気持ちの区切りをつけられないのだ。震災だけでも付けづらいのに、何か核になるものすらないと感じていたからだ。遺体が見つかっただけでも良かったと考えるべきなのだろうか。


 父さんの遺体は、今もなお行方不明のままだ。僕を待っていた父さんと母さんは僕のせいで死んだ。僕の為に、あの場にいたから、二人は死んでしまったのだ。


◆◆◆


しくじった。

(失敗しました)。


俺のせいじゃない!

(あなたがある!)


消えるのは日本のあの間抜け共だろう!

(言葉でやる日本はいいことです!)


空港で目を離した、あの時だ。

(それは私が空港から私の目を取った時です)。


まさか逃げられるとは思わなかったんだ!

(降りないと思ったことはありません!)。


何とかしてくれ!

(どうにかして下さい!)


失敗した奴がどうなるか知ってるだろ?

(失敗はどうなるか知っていますか?)


アイツらは何だってやる!

(チームは何でもやります)。


俺を生かして帰すとは思えない!

(私のそれを鵜呑みにできないと思います)。


とにかく今はアイツを探す!

(しかし、私は今それを探しています!)。


アイツはどこだ!

(それがある場所です!)。


◆◆◆


 ホームセキュリティーの暗証番号は幸いにも旧式で、指紋認証はなかった。4桁のセキュリティーコードを入力すれば、ドアのオートロックが解除されるタイプのシンプルなものだった。もちろん、それは侵入異常だけであって、他にも熱感知器や煙感知器くらいは中にあるかもしれない。


 警備会社のプランでも最も安い工賃で提供されているサービスだ。ホームセキュリティが侵入異状を感知すると、警備会社のパトロール員が、およそ15分程度ですぐさま駆けつけてくるという最もシンプルなプランだ。


 カメラや指紋センサーがついていないところを見ると、画像認証による本人確認を必要としないタイプのようだ。これならまったく問題ない。周辺も含めて、辺りに防犯カメラの類いは見当たらないのは、予め入念に確認していた。


 隣室のドアの近くの天井の隙間、と。


 あったあった。自宅のスペアキー。無用心な馬鹿のすることは、とことんバカで間抜けだ。


 しかし、この鍵でそのまま部屋のドアを開ける訳にはいかない。誰かがコードを入力しないまま鍵を使ってドアを開けたり、ドアや窓を無理に壊して破ったり、こじ開けて侵入しようとすれば、ホームセキュリティが異常を検知する。鍵とホームセキュリティ。警備会社が入口に貼っているステッカーといった心理的な効果も含めて、この複数のロックにも重大な落とし穴があるということに、コイツらは気づいてすらいないのだろう。


 不動産屋が、契約の為に空き部屋を客が下見に訪れる際には、前もって合鍵を水道メーターにテープで張りつけておくとか、室外機の裏に隠しておくなどするらしい。これも不用心なことだ。植え込みや植木鉢に合鍵を隠すような馬鹿は未だに多いらしい。鍵なんて、元があれば今や5分でスペアが作れる時代だというのに。プロの泥棒は入居者が誰であろうと入居前にも潜んでいて、予め鍵を作っているかもしれないということを考えないのは、セキュリティーに対する認識が甘過ぎだろう。


『監視カメラ起動中』のステッカーや警備会社と契約している家やマンションほど安心して、その辺がルーズになる傾向があるらしい。ンなもん、泥棒が調べないわけないでしょうに。セキュリティーコードが予め解っていたら、堂々と外して家人や友人のふりをして開けるに決まっている。


 犯行の最中に空き巣が家人に見られて、人を殺してしまったという事件はまま聞くが、それはしくじった馬鹿のすることだ。入居者に見られたから口封じに殺すなど、一番やってはいけないミスだろう。殺しや脅しはあくまでも最終手段だ。犯行から離脱まで誰にも見つからず、痕跡や足跡を一切残さず、入居者に盗まれたことすら気づかせずに犯行を終えるのが理想。その為には事前の情報収集に一番時間をかけるのが、本当のプロのやり方だろう。


……さて、存外に奴らの部屋にはあっさりと侵入できた。この分なら例の仕事も楽勝だろう。たかが学生一人、どうとでもなる。まずは、こっちの用事の方が大事だ。


 拠点の確保はできた。どんな犯罪でもスペースの確保というのは重要だ。犯行現場を隠蔽するというのは基本中の基本だろう。もちろん、毛髪や指紋その他の痕跡を一切残さないように、常に自分の行動には気を配らねばならないが。


 盗聴機にピンホールカメラはどこに仕掛けるのがいいだろう? 銀行通帳や実印の隠し場所は? 二人の秘密は何だろう?


 クズはクズのやり方に学び、クズのやり方で他人の人生をゴミにする。


……クスクス。やりたい放題できるじゃない!


……さあ、この部屋でどうしてやろうか?


◇◇◇


 東日本大震災。僕にとって忘れることの出来ない悪夢。2011年3月11日に発生した、東北地方太平洋沖地震による災害とこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害だ。


 僕のいた気仙沼市内では地震発生後、火災が多発していたという。そして、そのほとんどが放火だと噂されている。


 食糧や金がある家がまず狙われたのだ。家が残った人は、わずかな食料も隠していた。無法地帯そのものだったらしい。放火だけでなく、窃盗の数も頻度も酷かった。僕が上京するまではその地域は家の鍵など、まず閉めなかったが、震災後は戸締まりから火の付けられそうな物は周囲に置かない。知らない人間の情報は、地域一帯で共有するなど、徹底して確認するまでになったそうだ。


 東日本大震災では略奪の限りを尽くした火事場泥棒。被害の状況を見る為に気仙沼入りする前に、病院で親切な老人に僕はこう忠告された。


「他県ナンバーの車には気をつけたほうがいい。友達が2人で支援に来たんだけど、車を集団で囲まれて、ガソリンと食糧を奪われたんだ」


 治安が悪化しているとは聞いていたが、酷い話だった。震災でもそんな非人間的なことをする人達が信じられず、宮城県警の関係者と思われる親切なお巡りさんに僕は尋ねた。


「だいたいが本当だよ。街に放置されてあるペシャンコの車を見てみな。全部給油口が開けられているからすぐにわかる。でもそんなのは序の口さ。コンビニやスーパーでは食料品に加えてレジも空っぽになってるんだ。自販機だって壊されて、中身も全部抜かれてる始末だからね」


 震災後、被災地は無法地帯になったらしい。実際、気仙沼信用金庫・松岩支店からは4000万円が盗まれたことも明らかになっている。今では地震や災害の時に抉じ開けられたATMには特殊なインクがかかって使用不能になるらしい。誰かの悲しみや犠牲の上に、何もかも手遅れになってから技術というものは進歩してくれるものらしい。


 新聞は、僕の入院の間に起こった出来事をあまさず教えてくれた。


 3月30日の宮城県警の発表によると、震災後の窃盗被害の総額は1億円を超えていたという。窃盗が増えているというのは事実だったようだ。


 では、放火や集団犯罪はどうだったのだろう。警察関係者に記者が尋ねたという会話を、そのまま拾って記事にしているものがあった。


「放火だと分かっているんだが、捕まえられない。気仙沼警察署が津波で機能しないため、今は防災センターに一時移転していて、人もパトカーも足りなければ、市民からの通報もままならない。それに、犯人がいたって、電気がまったくない暗闇の中じゃ瓦礫だらけで追えない。だから、捕まえることができたのは大谷地区で起きた1件だけ。あとは、抑止力を期待してパトカーを数台走らせるのがやっとだね」


 信じ難い話だがレイプ事件も頻発し、警察が把握できない状況になっていたという。


 以下は被災者が見るに堪えない、ネットを介した世間の生の声だ。


“擁護しとるわけやないけど、「せや、今ならATMからカネ抜き放題やんけ」って気がついて行動に移せる人達の行動力って素直に凄いわ~。


【衝撃】東北土人、震災時に略奪の限りを尽くしていた ATM破壊やコンビニ強盗の様子が初公開される


「俺たちの日本は略奪が一切なくて、世界の人々から秩序正しさを賞賛されたとか聞いたんだが?」


「日本だから異常だと思うけど、実際はどの国でもこうなると思う」


「放射能で脳がやられとるんやろ」


「日本人の民度が世界一っでマジ? 嘘っぱちに決まってるわ」


「日本アゲ日本人すげぇって番組でこれを取り上げてみせろや」


「盗る奴らはどこにでもいるけど、マスコミが一切報道しないんだ。奴らは結局ゴミ。身内や特定の人種の犯罪は庇うマスゴミ」


「海外の略奪や強奪は嬉々として放送するくせにな」


「避難所生活の闇を取り上げてほしいわ。その方が役に立つ」


 心ない声だった。当事者を差し置いて好き勝手に言ってくれる。


 東日本大震災に関連した自殺者は、警察庁の自殺統計に基づく厚生労働省のまとめで分かった。


 宮城県が8人で最も多く、福島県が7人、岩手県が6人だった。


 30代と40代、50代がそれぞれ4人、70代が2人、20代と80歳以上がそれぞれ1人。


 原因・動機別(複数回答)では「健康問題」が13人で最も多く、「家庭問題」5人などとなっている。


 2月には陸前高田市の男性の遺体が新潟県で発見された。新潟県糸魚川市で2月、東日本大震災で被害に遭った岩手県陸前高田市の高齢男性とみられる遺体が見つかったことが分かった。


 ああ、僕だけじゃないんだな…。


 そう思って新聞の情報を読みながら、薄情にも僕は少しだけ楽になった。


 誰だって死にたくもなるだろう。こんな殺伐とした、心ない世の中なら…。


◆◆◆


言葉が分からないと不便だ。

(あなたはそれについて何も言えません)。


この機械に喋ればいいのか?

(これについてどう思いますか?)。


こちらの状況は知ってるんだな?

(これの意味は何ですか?)


その女も奴らの仲間か?

(あなたの名前は何ですか?)。


その女も誰かを殺したのか?

(あなたと何が問題なの?)


これ以上、しくじる訳にはいかない。

(これ以上、ある場合はあります)。


◆◆◆


 あの女が決定的に憎いと思ったのは、男を奪われたからというよりは、幸せの絶頂といった日常のあれこれを、SNSにひっきりなしに投稿していたからだ。


 どこに泊まって何をしたのかとか、何を食べたのかとか、何をプレゼントしてもらったのだとか。とにかく色々だ。Facebookは本名や電話番号、生年月日や住所や所属など、個人情報を登録することで利用者同士が簡単にコミュニケーションできる。友人知人の誕生日をお知らせしてくれたり、恋人や家族同士なら更新された情報で誰といるかまで解ったりもする。中にはきちんとブログとして、日記のようにきちんと更新しているマメな利用者もいる。同じ話題をシェアできて、あらゆる人間と繋がれるというのは大きい。だが、人間がそんなに品行方正な訳がない。人の幸せを妬む人間だっている。元恋人が誰といて何をしているのかなど、そういった話題が気にならない訳がない。


 これが意外にも精神的に堪える。嫌なら見なければいいという問題じゃない。嫌なら見るなというのは、最近では日常会話でもインターネット界隈でもよく聞く言葉だ。例外はあるが、多くは何かを見て苦情などを言ってきた人に対して「批判するな」の意味で使われる事が多い。


 だが、これはやはり自分勝手で一方的な言い草だ。あらゆる情報は、誰かに見られることを前提に発言したり、書かれたりするものだ。しかし、時には見る人よりも見せる人や、その周辺の文化などに問題があったり、他の人間に意識せずに迷惑をかけている場合もある。嫌なら見るなで簡単に片付けるわけにはいかないだろう。

               

「嫌なら見るな」という発言は正当性の有無に関わらず、排他的、攻撃的な意味合いを持つために雰囲気を悪化させやすい。注意したつもりが、自分も無自覚な荒らしとなってしまうことが大半なのだ。ムカつくなら見なければいいのに、やはり見たい。知りたい。


 我ながら歪んでいると思う。


 いや、これは世の中のこうしたやり取りや現象の方が歪んでいると思う。自分の言葉や態度が問題で炎上したり、必死で水をかけては言い訳して、また炎上したら言葉を費やして説明する。一度言った言葉を説明するのに、百の言葉をかけて説明して、それが言い訳のように扱われるのだから、本当に面倒くさい。まるで醤油に塩をかけて食っておきながら、その奇行を説明しているような妙な感覚だ。


 要するに人間というのは暇で寂しがりやなのだと思う。退屈な日常を吹っ飛ばすような出来事や刺激が欲しくて堪らないのだろう。自分からその対象を見に来て「こんなの最悪」「つまらない」と騒ぐ行為が褒められたものではないのも事実で、それをいちいち騒ぎ立てるのは醜いとも思う。けれど、同じ話題を共有することで得られるメリットを多くの人は選択するからだ。


 ニュースのワイドショーなどがいい例で、悪意のある内容ならともかく、見るか見ないか、知りたいか知りたくないかは個々人に予め選ぶ自由が与えられているのだ。見る方が「自分の好きなもの以外は見せるな」と言うのは傲慢だろう。いきなり自分から相手の股に顔を突っ込んで、「こんな汚い物見せるな!」と騒ぐようなものだ。


 だからこそ、憎いと思う。


 あのキャリーバッグがそうだった。


 オレンジ色の可愛らしいプレゼントで、いつかこれで旅行に行こう、と和彦が買ってくれたものだ。


 まったく同じ物の話題があの女によってFacebookに投稿された時に、腹は決まっていた。


……あの二人には、生き地獄を与えてやる。


◇◇◇


 あの不思議な光景は何だったのだろう。今でも思い出す光景がある。


 実家が津波で流された僕は震災から9カ月後、何もかもなくなってしまったであろう、故郷の様子を見にいこうと瓦礫の中を歩いていた時、ある違和感を覚えた。


 例によって左腕がズクズクと痛み、頭の震えが止まらなかった。


 瓦礫だらけだった。何もかもが壊れていた。こんな真っ平らな場所が自分の故郷なのかと愕然とした。僕は高台へと歩みを進めていった。深い木立が海岸に迫り、眼前には気仙沼湾の穏やかな水面が広がるこの浦島地区は、大浦、小々汐、梶ヶ浦、鶴ヶ浦という4集落からなっている。各集落の住民は、それぞれが強い血縁関係で結ばれている。そんな場所だ。


 この地区では、かねてから牡蠣や昆布などの養殖を生業として盛んに営まれてきた。震災前、浦島地区にはおよそ240世帯が浜ごとに軒を連ねて暮らしていたが、約7割の住民が津波で自宅を失い、僕と同じように家族は離散した。


 特に梶ヶ浦は、世帯数が約50世帯から5世帯余りに激減し、集落そのものの存続が危ぶまれていた。住民がかつて暮らしていた海岸沿いの居住地は、災害危険区域の指定を受け、原則として、人が住むことができなくなくなってしまった。住み慣れた集落に戻るためには、高台に移転するしかない。国と市町村は、被災した住民の集団での移転を後押しするため、「防災集団移転促進事業」(高台移転)を進めている。


 この事業は5戸以上の住民がまとまって高台への移転を希望すれば、行政がいったん土地を買い上げて造成し、宅地として賃貸または分譲するというものだ。移転先の敷地は約100坪で、ここに自力で住宅を再建するのだ。


 集団で移転するとしても、わざわざ沿岸の高台に移らなくてもいいじゃないか、津波の恐れのない安全な内陸の土地に移り住めばいいじゃないかと思うかもしれない。しかし、それは故郷を失っていない人々の言うことだ。


 故郷への強い愛着はどこで生きていたって消えるものじゃない。住み慣れた土地から引き離されることで伴う大きな痛みの言葉を、僕は叔父達からも度々聞かされてきた。それは「自分の根っこが奪われる」ような感覚なのだ。


 海岸沿いに居を構えていた住民の暮らしは、常に海とともにあった。それは必ずしも漁業を生業とする住民の場合に限ったことではない。海と深くつながった生活習慣を持つ僕らは、海が見えないと落ち着かないのだ。


 こうした感覚が、たとえ壊れていても故郷へと足を向けさせたのだ。学生生活を終えたら父さんや母さんのいる故郷へと帰ってきて、当たり前のように地元で暮らして地元の誰かと結婚してここで暮らすのだと、僕はそう思って生きてきた。


 今さら僕が言えたことではないが、元の集落から離れて内陸の土地に移り住むことは、容易に選択できることではない。一方で、高台への移転を選択し、住宅を再建するまでには、長い時間がかかるだろう。いずれ気仙沼市では、計画された高台移転事業が、土地の引き渡しの段階も含めて実行に移されることになるのだろう。4年か5年後には。


 仮設住宅で暮らしながらそれを待つことは、大きな負担として、特に地元の高齢者には重くのしかかる現実なのだろう。元の集落に戻るのか、集落を離れて別の土地に移り住むのか。住民は苦渋の決断を迫られることになるのだろう。


 辺りは静かで穏やかだった。ふと高台へと上がってきた時、僕はその不思議な光景を目の当たりにした。


 高台の崖から海を一望できる場所に一人の女が立っていた。女を一目見て異様だと感じたのは、遠くから見えるその女が頭から足の先まで真っ白だったからなのだ。


 まさか、幽霊? こんな真っ昼間に?


 吸い寄せられるように僕はその女から目が離せず、どんどん近づいていった。近づくごとに、女のその不思議さは目に見えて大きくなっていき、僕の好奇心を刺激した。夢でも見ているのだろうか?


 髪の毛が真っ白だった。しかし、どこからどう見ても若いのだ。僕と同じくらいの年齢だろうか? わざわざ白髪に染めているのだろうか? どこかエキゾチックな顔立ちで、モデルのように背が高いのだが、顔立ちは日本人そのもので、白い服を着たその女は、やけにふわふわして神々しかった。その白い服もまた、どこか異様だった。


 ドレス姿なのだ。白くてふわふわしているのだが、普段着で着るものではまずありえない。本当に幽霊としか思えなかった。なぜなら、その女は死に装束を着ていたからなのだ。


 確かフューネラル・ドレスというのだったか。納棺の際に、死者の遺体に最後に着せる服だ。休学中の身の上とはいえ、こう見えても、民俗学を専攻する学生だ。見間違えるはずもない。近年では死装束も多様化し、故人の希望や家族の希望で好みの服を纏うことが多くなっているというが、それにしても日常的に着るものではまずないだろう。日本の伝統的な死装束は仏衣だ。経帷子を着せ、脚には脚絆、手には手甲、脚には白足袋に草鞋を履かせ、三途の川の渡し賃と言われる六文銭を入れた頭陀袋をかけ、頭には天冠という三角布を着ける。西方浄土へ旅する修行僧の姿になぞらえた巡行姿で、仏教徒でも真宗の門徒はこれを着用しない。そうしてみると、宗派はキリスト教徒なのだろうか?


 それとも陽光に照らされて、僕は白昼夢でも見ているのだろうか? それとも、本当に頭がおかしくなってしまったのだろうか? ついにお迎えがきたのだろうか?


 急に具合が悪くなって、このまま進んでいたら倒れるかなと思った。やばいと思った僕は、すぐ来た道を引き返そうとした。頭の震えが止まらなくなるような感覚と共に、また左腕がズクズクと痛みだした。


 暫しの間、鬱蒼とした林に囲まれた山道のど真ん中で、真新しいアスファルトの地面に手を付いて喘いでいたように思う。


『大丈夫ですか?』


 女が近くに立っていた。幻ではなかったらしい。ハッとするほど綺麗な女の人だった。


「大丈夫だと思います。多分……」


『さあ、無理をなさらずにこれに』


 女の傍らにはなぜか車椅子があって、女は手慣れた様子で僕をそこに座らせると、ゆっくりと高台から海が見下ろせる、先ほど立っていた場所へと車椅子を押してくれた。結構な距離を上ってきたのだが、景色の良い場所へと誘ってくれたのだ。どこか眠気を催すような不思議な香水の匂いがした。


 これが世に言う怪談話というやつなのだろうか。僕はその不思議な女が問うままに、自分の左腕が失われた経緯や故郷を失ってしまったこと。今は東京の吉祥寺で暮らしていて、休学中の身の上であることを語った。引き寄せられるように、女は崖の方へと近づいていく。不思議と僕は怖くなかった。僕は白い女の言うがままに、ただ自分のことを語っていた。


 鬱蒼とした木立に囲まれた林を抜けると、その先は切り立った崖だった。それがどんどん近づいてくる。僕はただ、白い女の押す車椅子に揺られている。本当に不思議な時間だった。時間が間延びしたかのような感覚だった。進んでいるのか飛んでいるのだか判然としない。それよりもまず移動しているのか静止しているのかが判らなくなるようだった。その感覚は今でも上手く表現することが難しい。たいした距離ではないのだが、それが随分と長く続いていたのか、それほどでもなかったのか、それは思い出せない。


 林を抜け、刹那。光明が射した。パッと視界が開けて、遠くの方に海が見える。真っ青で穏やかで、あの真っ黒い色をした水と同じものだとは到底思えなかった。このまま幽霊の押す車椅子から崖に落ちて、死んでしまうのだろうか。故郷にいると、それもまた悪くない気もしてくる。


 そんな僕に女は静かに言った。風鈴を鳴らすような、どこか内側に響いてくる不思議な声音だった。


『生きることは苦しいですか?』


 苦しい、と僕は素直に答えた。都会で生きていても楽しくも何ともない。人だらけで、それぞれが好き勝手に生きていて、うんざりするほど勝手な言葉ばかり聞かされて、その度にまた傷ついて。痛くて苦しくて、頭が震えて。両親も死んだ。友達もたくさん失った。家はなくなった。故郷はぼろぼろだ。生きていても、楽しくもなんともない。心も身体も痛い。病んだ身障者が生きていける世の中じゃない。辛い。そう答えると、女は淡々と言った。


『忘れては……いけないのです』


『たとえ傷ついても、過去が消えなくとも、それでも貴方は生きているということを。生きていかなくてはいけないということを』


『痛みは生きていることの証』


『その痛みは……きっと貴方が貴方である為に、存在しているのです』


『貴方は……私と同じなんですね』


 女は微かに笑ったようだった。


 自分と同じ? それはどういうことだろう? 振り返って彼女に問いかけようとしたその時には、白い女の姿は既にその場にいなかった。車椅子のハンドルの辺りには、どこから涌いてきたのか、陽光に照らされたナメクジの艶々した表皮が見えた。僕は暫くの間、放心したように車椅子に座り、海をただ見つめていた。


 あの体験は本当に何だったのだろう。車椅子はその場に置いてきた。そのまま来た道を戻ると、すーっと何かが身体からなくなるかのように、体調は回復していた。


 一度避難して、荷物を取りに戻った人とかが流されたり亡くなったりしている場所なので、その人たちの魂が、あの不思議な女神を呼び寄せでもしたのだろうか。真珠のように真っ白で神々しくも、どこか艶かしい女だった。静かに微笑みかけてくるその表情が、それは凄く綺麗で可憐で印象的だった。


 しかし、彼女と話して急に体が楽に感じたのは確かだ。


 恐らく。多分なのだが、僕はその人ならぬ女に恋をしてしまったのだろうと思う。それは、あの震災で死んでいたかもしれない僕の中では、とても鮮烈的で印象的な体験だったのだ。


 ああした不思議なことは、あるものなのかもしれない。


 真珠ナメクジの女神にでも出会ったのだろう。僕はそう表現している。恐らく誰からも共感などは得られないだろうが。


◆◆◆


アイツはどこだ!

(それがある場所です!)


アイツはどこだ!

(それがある場所です!)


あの変な女はなんだったんだ!

(だからこそ変な女です!)


おかげで見失った!

(先入観のおかげ!)。


おかしな家がたくさん並んでいる。

(面白い家がたくさんあります)。


逃げた家を探せ。

(エスケープ家を探します)。


この辺りの家のどこかにいるはずだ。

(私はこの家のどこかによ)。


◆◆◆


 二人の部屋は割とシンプルだった。


 引っ越してきてまだ間がないのだろう。全体的に段ボールがやたらと多いように感じる。キッチンは中ほどでバスルームがかなり広い。寝室のベッドは大きなダブルベッドだった。バスルームやベッドでの和彦とあの女の情事を想像すると、見ているだけで吐き気がしてくる。


 姿見に鏡台。化粧品やメイクの道具が大量にある。分別用に分けてあるゴミ箱に、スルメのように潰されたペットボトルがたくさん入ったゴミ袋。


 小物入れに使うカゴ型のラックのそば。テレビの横、ゲーム機の置かれたメタルラック。二段目にアロマディフューザーとアロマインセンス。近くにスタンドに掛けられたアコースティックギター。女の甘ったるい匂いがする。あまり長くいたい場所ではない。


 きっとモテる男は女を振ることをスマホを機種交換する程度にしか思っていないのだろう。けれど忘れちゃいけないの。交換するにも、本人確認の証明が必要だってことを。あの女と付き合いながら私と寝ていたんだから、その代償は払ってもらわないとね。


 ストーカー? メンヘラ? 狂人? 何とでも呼べばいい。愛情と憎悪は表裏一体。どちらも他人に執着するという意味では同じこと。あのブレンダという女を愛するくらい、同じように私を憎むといい。少なくとも、私を忘れられなくなる経験だけはさせてあげられそうだ。


……さて、これからどうする?


 そういえば、連中が探しているという例の学生のアパートは、この近くだったはずだ。夜中のうちに、そちらもついでに下見をしておくべきだろう。その学生は一体、何をしたのだろうか? 皆目見当もつかない。


 闇サイト。ネットの噂。外国人。学生。


 これだけのキーワードでも、何かしらこの吉祥寺という街に今、何か不穏な動きが起こっていることだけは間違いない。


 組織だった犯罪の運び屋に一般人や学生を使って、足をつきにくくするという犯罪の手口はまま聞く。中にはそうした人間の弱みを握って脅し、金を用意させる連中もいる。そうした連中に脅されていた奴らが消えたとか消されたという話はそれなりに聞くが、そうした事と何か関係があるのだろうか?


 その時、懐のスマートフォンが鳴った。奴らに支給されているものだ。こんな時間にメールか?


 嫌な予感がする。


◇◇◇


 3月15日(土) 曇りのち雨


 頭の震えが止まらない。


 ずっと死を求めていた。

 死を感じていたかった。

 死は常に間近にあった。

 あの日、全てを失った。


 あれだけの人や物が一瞬で消えた。あの巨大な暴力のような災いに一瞬で呑まれて消えた。数多の命と共に瓦礫の山と、原形さえ留めない無数の残骸が打ち捨てられた。


 痛みと共に覚醒した己の世界は浜辺に打ち上げられた魚も同然だった。ズクズクと痛む腕とブルブルと震えの止まらぬ頭が、己と世界の全てを否定していた。今しも消えていきそうな魚眼のような目で見た世界は、悉くが壊れ、死にかけて見えた。


 こんな痛みを味わうぐらいなら、大切な人達と共にあの暴力の濁流に呑まれて腐り、朽ちて、そのまま海の藻屑となって消えてしまえばよかったとさえ思う。


 あの時、はっきりと認識した。人の命は地球より重いなどという。あれは嘘の繰り言だと。汚い言葉は失われた数々の命にさえ、止めどなく吐き捨てられた。


 人間など悪意の塊だ。己の命さえよければそれでいいという存在だったのだ。


 誰のどんな言葉も届かず、心には少しも響いてこなかった。それほどに壊れた世界は荒んでいた。どんな災いも争いも、己の身に降りかからなければ所詮は他人事でしかないのだ。災いを経ても人の心などそう変わるものではない。それが耐え難い痛みと共に解った残酷な真実だった。数多の人々の悪意が、思いが、言葉がそれを証明していた。


 人の命はただそこに存り、それは個人の所有物であり、他者とはけっして相容れない。たったそれだけのものだったのだ。


 他の生ける命を食らわなければ生きてさえいけない身の上なら、命の重みなど最初から無きに等しい。ひたすらに他人に悪意をぶつけて己の私欲のままに獣のように生きれればそれでいいのだろう。


 命を食らい、命を摂取し、命を消化し、命を自らの内に取り込み、命を排泄する。その命の残り滓を汚物とさえ称する。人と獣など、何ら変わり映えしない。否、ひたすらの悪意をあらゆるものにぶつけ、己を殊更に特別扱いして持ち上げ、他人同士でさえ傷つけ合う、この人という悪意の塊のような種とは一体何なのだろう?


 他者の命を軽く扱い、言葉を刃にして他者をひたすら傷つける。そんな獣にも劣る悪意の塊のごとき獸の命が、果たして世界より重いと言えるだけの上等な命といえるのだろうか? だとすれば、その上等な命とやらの終末はなんと呆気ないもので、なんと救いようのないものなのだ。


 国の一部が壊れ、多くの人々が泣き叫び、喚いて、他人の顔色を窺って他人を叩いて、変わらずに金を求めて争い続けて壊れていくこの世界で、人の何かが満たされたか? 世界は変わったのか? この国は? 本当に変わったといえるのか?


 否。空虚と喪失だけが残り、災いの真相を語る舌さえ失われてしまったのだ。真実への介入は命と引き換えにする禁句とされ、上辺だけの善意と喪失だけを残して人の虚へと消えていった。時間と共に泡沫のごとく、ただ消え去り、当たり前のように今、人は笑っている。嘲笑っている。哄笑っている。


 甚大な被害に命が幾つも失われ、灰燼に帰した瓦礫の山が溢れ、都会の灰色の街へ溢れるがごとく逃れ、暮らしていた人々に対して人々は何をしていた? 何をしてくれた? 変わらずに労働の獄舎に繋がれ、汚い言葉を他人に吐き捨てていただけだったではないか。

 

 空っぽの器を金や物や一時の夢で満たせれば、それでいいとでもいうのだろうか?


 ならば、その中身のない、ひたすらに満たされることのない底無しのがらんどうの虚ろこそが人の真実であるのだろうか?


 頭の震えが止まらない。もう世界には絶望しかなかった。ならば、せめて死ぬ前にこの虚を満たさねばならないだろう。


 定めたルールに則って、混沌を秘めた頭蓋骨にひたすら呪文を唱えていく。


「エコエコアザラク エコエコザメラク エコエコケルノノス エコエコアラディーア」


 バスク語由来。魔女宗の典礼聖歌。


「ベールゼブブ ルキフェル アディロン ソエモ セロイアメク ルロセクラ」


 繰り返す。


「エルプラント カメロルアル アドリナノルム マルチロル チモン」


 繰り返す。


「ザーザース ザーザース ナーサタナーダー ザーザース」


 繰り返す。


「ヘイカァス ヘイカァス エスティ ビィ ベロイ」


 反撃、報復、危地からの脱出。


「エロイムエッサイム エロイムエッサイム 我は求め訴えたり」


 黒い雌鳥。


「オン キリカ ソワカ オン ダキニ ギャチ ギャカネイエイ ソワカ」


 真言密教。荼枳尼天法。


「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十(ひ ふ み よ い む な や ここの たり)。布瑠部 由良由良止 布瑠部(ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」


 布留の言霊。十種神宝の祓祝詞。


 頭の震えが止まらない。

 ずくずくと左腕が疼く。

 ひたすらの儀式を繰り返す。

 ただただ呪文を繰り返す。

 あらゆる呪文を繰り返す。

 

 この頭蓋の虚ろに宿そう。

 虚ろが満ちるまで呪おう。

 世界に満ちるまで祈ろう。

 喚起の念を。死者への念を。


 その時こそ舞い降りる。真珠ナメクジの女神を召喚し、この身代に宿すのだ。その時こそ空の虚は満たされ、霊威はみなぎり、身体の機能は迸る。世界は変わるはずなのだ。


 呪詛と祈念が人と獣の境界を越えさせる。

 何としても。何としても、この儀式だけは成功させねばならない。


◆◆◆


あの車は何だったんだ!

(すぐにその車は何ですか!?)


新型のバイクか?

(すべての新しいピキピキ?)


なんて速さなんだ!

(恐ろしいスピード!)


日本にはあんなものがあるのか?

(日本に存在する場合の車?)


クソッ! おかげで見失っちまった!

(ダミー!私は視力を失いました!)


あの女はどこだ!

(どこにその女性!)


◆◆◆


『大学生の中島明のアパートからアンティークの髑髏の置物を盗み出せ。報酬は最低100万円から。報酬の上乗せは応相談』


『タンザニアから来る外国人に吉祥寺のアジトを提供しろ。滞在期間は二週間。連絡を待て』


 内容はこれだけだった。髑髏? 頭蓋骨ということか。髑髏のアンティークというのも、おかしな話だ。高値で取引されるような品物なのだろうか?


 いずれにせよ、そのタンザニア人とやらもまともな素性の人間ではないのだろう。運び屋か、殺し屋か。


 犯罪者の弱みを握る奴らとは一体、誰なのだろう? 今、考えてみても理不尽でやり場のない怒りを感じる。女の過去につけこんでくるクズのような奴らは、今やどこにだっている。親にバラす。恋人にバラす。友人にバラす。SNSに晒す。おかげで真っ当な仕事にはありつけない身の上になる。クズにゴミ同然にされて、同じクズの人生を歩むことになる。


 大量生産。大量消費の社会。ウンザリする。派遣型の労働形態は今や当たり前。給料は上がらず、金を持つ者は将来への不安からひたすらに溜め込んで、金を持たない者はストレスだけを溜め込んで消費は金は回らず停滞して経済は冷え込む。


 他人を蹴落として、のしあがって、他人の手柄は自分の物にして当たり前と考える競争型の社会。ウンザリする。代わりなどいくらでもいるとばかりに、人間も使い捨てだ。現代社会の末路は恐らく、今まさに起こっているこの現実だ。人間を粗大ゴミやスクラップ同然に扱い、壊れて駄目になったら廃棄して、代替品を大量に量産しては、また繰り返しを続けるようなものなのかもしれない。


 私の場合も、きっかけは上司との不倫だった。和彦に振られてイライラしていた。一時の爛れた肉体関係に癒しを求めた。その馬鹿な気の迷いと心の隙間を奴らに突かれた形になったのだ。


 和彦とのプライベートの写真や上司とラブホテルに入っていく画像付きの写真が社内に出回ると脅された時に、一流企業に勤めるOLとしての社会生活は死んだ。普通に恋愛をして、結婚するという女なら一度は夢見る甘い未来は一気に閉ざされた。後はもうお定まりの転落人生だった。何者かの言いなりで動くだけの操り人形にされた。華やかな人生など儚い夢にしかない。ゴミのような人生など、ケチなミス一つで一瞬でやって来るというのに。


 だが、報酬は魅力的だった。100万円。学生の住むボロアパートを泥棒までさせて盗ませるような代物というのには俄然、興味がある。闇サイトにも、そうした情報はまだ載っていない。一体、そんなものに何があるのだろう? 何をさせたいというのだろう? 誰かに先を越される前に確保しなければ。


◇◇◇


3月16日(日) 晴れ


 もう、どうだっていい。


 しょせん呪いの儀式など、気休め程度の救いにしかならなかったのだ。生きていても意味のない世界に、意味のない命が消える。たったそれだけのことだ。僕が死んでも意味はないが、生きていくのも無意味なのだと気づけば、この拾った命だって別に何の意味もないのだろう。


 外は酷く風が強かった。春一番の吹き荒れる春の嵐だ。部屋の窓が頼りなく、強風が吹く度にガタガタと鳴って震えている。まるでこの僕のようだ。粗末なアームチェアに乗り、部屋の天井にフックを取り付けてロープを交差させ、結び目を確かめた。築30年以上は経っていそうな建物だから強度が少し不安だが、僕一人の身体を吊るせないほどではないだろう。特段に感慨は涌かなかった。


 これから自分が死ぬんだと思っていても、怖くはなかった。せっかく拾った命だというのに、それを己で壊そうというのだから、死んだ父さんや母さんにひたすら申し訳ないとは思ったが、もうすぐ会えるのだと思うと、却って気持ちは落ち着いた。


 父さん、母さん。本当にごめんね。


 もうすぐ会えるよ。


 僕は首吊りロープの輪に両手をかけた。


 その時だった。


 ミシミシ、という頼りない音がしたかと思うと突然ドン、という音と共に天井が崩れた。と思ったら、何か白い大きな物が落っこちてきた。


「は? え、ちょっ……えぇっ!?」


 僕は金縛りにあったように動けなかった。僕の目の前に薄着の女が…落ちてきた。白髪の老婆が僕の部屋の床に横たわっている。


「え!? ちょっ……えぇっ? 何でぇ?」


 僕は究極に頭が混乱した。動揺して声が思わず裏返っていた。何が起こったのだ!? 僕は必死になって答えを探していた。僕の部屋に老婆が落ちてきた?


 いったいなぜ? 天井が抜け落ちたのか!? 僕がロープを引いたタイミングと彼女が上で寝ていた場所が絶妙だったとでもいうのか。いやいや、そんなことじゃなくて……。老朽化した薄くて脆い木造の天井が重さに耐えきれず、そしてお婆ちゃんが落下してきた、と。そういうことなのか……?


 この上は4階だ。確か大家のおばちゃんが雨漏りのする部屋だから、と立ち入り禁止にしていた部屋だ。昭和の木造アパートの生き残りのような粗末な4階の床が抜け、おまけにお婆ちゃんが人生に悲観して自殺を試みようとしていた直前の大学生の3階の“真上”に落下してきた! そういうことなのか!?


 ありえない! 漫画やアニメじゃないんだ! こんな馬鹿げたことが現実にあって堪るか! 僕は驚いて思わず、乗っていた回転椅子から転げ落ちそうになった。そうだった! 今、正に死のうとしていたのを忘れていた。椅子は倒れたが、それどころじゃない。すぐに助け起こさないと! 頭を打っていたら大変だ!


 僕はネグリジェのような薄いワンピースを着た老婆を抱き起こしてみて、二度驚いた。お婆ちゃんじゃない! 若い。少女といっていいほどだ。白髪の少女だ。老婆と見間違えたのも無理はない。真っ白だ。真っ白なのだ。髪も肌も真っ白で、血管が透けて見えそうなほどに白い。


 真珠ナメクジの……女神! まさか、あの時の彼女!?


 いや、そうじゃない!


 白髪の少女が微かに呻いた。その時、白髪に隠れていた彼女の顔立ちがはっきりと見えた。ハッキリした二重の大きな目。フサフサな睫毛。横に広がった鼻と少し大きめな鼻の穴、色素が薄いが、ぷっくりとした厚い唇。この子は……。


 日本人じゃない! アフリカ人!? アフリカ人なのか!? でも黒人には見えない! この娘は一体…?

 

「ね、ねえ!? き、君……だ、大丈夫かい!? あ、ええと……アー、ユー、オーライ!?」


「う、うぅ…」


 何か方法はないのだろうか? 頭の震えが止まらない。あの真珠ナメクジの幼生達のように痛みや辛さを肩代わりしてあげることが出来ればいいのに……。苦悶の表情を浮かべて苦しそうだ。せめて僕がこの痛みを変わってあげることが出来れば……。


 いつか見た、あの女神の姿がそこに重なる。何とかして助けてあげたい。


 こうしちゃいられない!


◆◆◆


見つけたぞ。

(私は見てきました)。


アイツを見つけた。

(私は男を発見しました)。


この国の服か?

(この国はドレスですか?)


リボンが付いていた。

(色とリボン)。


青い服でリボンが付いている服だ。

(それは青いテープが付いている服でドレス)。


首を絞めて殺そう。

(首を伸ばす為に殺します)。


これで俺も大金持ちだ!

(これは私も億万長者!)


◆◆◆


 血相を変えて部屋から出て行ったが、同居人がいるとは初耳だった。


 あれが例の学生だろうか。白髪の老婆を背負っていたように見えたが、あれは親戚か何かだったのだろうか? 急病人なら救急車を呼べば良さそうなものだが、何か人目をはばからなければいけないような事情でもあったのか? 尋常な様子ではなかった。


 不自然にならないよう、なるべく普通の訪問者を装って上の階へと上がる。一応、インターホンを鳴らして、ごめんくださいと声をかけてみた。当然ながら誰も応答しない。慎重に鍵を確かめてみる。


……しめた! 慌てていたのか、鍵をかけ忘れて出て行ったようだ。好都合だ。今なら簡単に侵入できる。これなら男相手に、わざわざ手荒な真似はせずに済む。


 人間の頭蓋骨を探せ、か。それにしても訳のわからない仕事だ。あの得体の知れない連中のすることだ。その頭蓋骨とやらに、どんな秘密があるか知らないが、いずれ裏側はまともな内容ではないだろう。


 この辺りには妙な噂がある。


 夜な夜な白髪の老婆がとんでもないスピードで出没するとか、泥棒の被害が多発している場所だとか、いずれその手のくだらない噂の類いだ。


 とにかく、今が千載一遇のチャンスだ! アパートの住人に見られるのはマズい。侵入するなら今しかないだろう。百万円のドクロを回収したら、すぐにこのアパートから立ち去らないと!


◆◆◆


間違えた。

(障害がありました)。


この女は違う。

(この女性は異なっています)。


馬鹿な女だ。無知は罪だ。

(馬鹿な女。無知は罪であります)。


だが、奇跡の薬には違いない。

(医学の奇跡に差はありません)。


仲間に頼もう。

(そこの同僚)。


バラバラにしよう。

(引き裂きます)。


人体の一部を分割するんだ。

(人間の体の部分を分割)。


すぐに四肢と耳は切り分けよう。

(今、四肢や耳のペア)。


性器と鼻と舌は切り取るんだ。

(性器と鼻と舌にカット)。


薬は送ればいい。

(ダワを送信しています)。


持ち帰る。

(持ち帰ります)。


必ず持ち帰ってやる。

(常にバック持参)。


耳と舌は簡単だ。

(耳と舌 使いやすいです)。


性器は難しい。

(性器は困難であり)。


性器は腐るのが早い。

(性器崩壊早いです)。


俺は殺されるのだろうか?

(私は死であるのでしょうか?)


冷凍した方がいいだろうか?

(それとも凍結した方がよいですか?)


大きなバッグが必要だ。

(あなたは大きな袋を必要とします)。


本物はどこだ?

(あなたがどこにいる本当の事はありますか?)


すぐに見つけなければ。

(レアル出来るだけ早く取得)。


依頼人には二つあると伝えよう。

(Tsutaeroとクライアント2があります)。


土産が一つじゃ割に合わないからな。

(お土産の不十分1)。


持ち帰れなきゃ消されちまう。

(Mochikaereがない限り消去しました)。


◆◆◆


 ペットにヒルを飼っているとはめずらしい。中島明という名前だったか。部屋の主は今は留守だ。あまり時間に余裕はない。


 件の大学生の部屋は、到ってシンプルで比較的掃除も行き届いていた。部屋の広さは六畳一間くらいのものだろうか。狭く、縦長の部屋だった。部屋の奥の外側には、膝くらいの高さの段差の先に粗末なバルコニーがあった。


 ベランダの両側には、災害や緊急時には隣の部屋に破って出られるパーテーションがある。壁も天井の材質も薄そうだ。隣室の物音など筒抜けのような、プライバシーなど部屋の中だけ保証されているような粗末な部屋だ。たとえここが吉祥寺で、学生向けの家賃の安いアパートだとしても、この安普請では今時の女子大生は好んで住んだりはしないだろう。


 それにしても男の独り暮らしとは思えないほどに部屋の中は片付いていた。机の上にデスクトップのパソコン。ガラス張りのテーブルにウォークインクローゼットにシングルベッドに備え付けの流しと古い型の冷蔵庫。


 建物自体は築三十年は経っていそうな、元はビジネスホテルか何かだったのか、殺風景な鉄筋コンクリートの四階建の建物だった。本当に今時の大学生が住む部屋なのかと思うほど殺風景で生活感のあまりない清潔な部屋だった。一人暮らしにしても物が少なすぎる。


 気になったのはベランダ付近の天井が壊れていて、大きな穴が空いていたことだ。元からあったものだろうか? 上の階の住人がベランダから部屋の中に入ろうとした際に、ぶち抜いたものだろうか? 残骸のような木材とロープのようなものが片付けられもせず、部屋の隅にぞんざいに転がっていた。


 件の髑髏はすぐに見つけることができた。デスクトップのパソコンのある机の上に、堂々とこれ見よがしに載っていた。おそらくこれのことだろう。家主が留守なのは既に確認している。運がいい。


 首尾よく依頼のものは手に入れたが、今度はまた厄介な依頼が舞い込んできた。例のタンザニアから来た男がしくじった。案の定、男は殺し屋。それもアルビノ専門の殺し屋らしい。


 人の身体を商売の道具にするというのは、別にめずらしいことでも驚くことでもない。麻薬やコカイン、ドラッグに拳銃の部品など、海外から日本を経由して入ってくるブツが、何も部品やパーツだけとは限らない。少女趣味の変態はどこの国にでも一定数いる。人間の臓器など、生きた人間でも商品になるし、麻薬やコカインや金の延べ棒なら、胃や肛門の奥、女なら膣に隠すボディーパッカー専門の運び屋だっている。


 しかし、その殺し屋も情けない。逃げたターゲットを仕留めそこなったどころか、よりによって別の人間と間違えて殺したらしい。それも死んだのは、コスプレをしていただけの制服を着た普通の女子高生らしい。こんな間抜けな話もない。


 こんな厄介な仕事、やはり断るべきだろうか? いや、そもそも私に選択の余地などあるのか?

 

 待てよ。これは逆にチャンスかもしれない。汚れ仕事専門と思われるのは癪だが、汚い仕事はかなり報酬はいいとも聞く。それに、私にはこれがある。運が巡ってきたと考えるべきだ。


 待ち合わせに指定された場所はダイヤ街の近くだった。何のことはない。一番近くにいた人間に白羽の矢が立ったということのようだ。GPSの位置情報を切ることは基本的に禁止されている。本当に腹が立つ。まるでゲーム感覚に人を操っている。


 タンザニアから来たという、その黒人の男はカシム・アジャヒと名乗った。大きなスーツケースを持って堂々と現れた姿は、傍目からは黒人の旅行者にしか見えない。人目を忍んで、路地裏でスーツケースの中身を見せられたが、あいにく死体の死に顔は白い髪に隠れて見えなかった。だが、一目で納得した。


 なるほど、この見た目なら、カシムが間違えたのも無理はない。遠目に見たらアルビノにしか見えない。それにしても、この女子高生も馬鹿じゃないだろうか。世の中にはアルビノを狙う人間だっている。貧困な国から日本に出稼ぎにやって来る人間だって、今や大量にいるご時世だ。コスプレをしただけでも殺される理由になるとは考えなかったのだろうか。馬鹿だ。

 

「場所はどうする? こいつも大事な薬の材料だ。本物を含めて二人なら儲けは二倍。この死体の始末に手を貸してくれるなら、アンタにだって大金は入る。アンタにとっても悪い話じゃないだろう?」


 このカシムという男、人を間違えて殺したという割には、少しも動揺していない。この状況で取引とは、なかなか強かで肝が据わっている。どうせ真っ当なやり方で金を得ようとは思っていない。


 まずは勝手な動きだけはしてくれるなと言い置いて、カシムには予め用意していたアパートの一室を提供することにした。住所不定無職というのは、色々とやりにくいのだ。ビザだって簡単には許可は降りない。住む場所を提供した上で何かをさせる。これも奴らの手口だ。


「場所はどうする? 用意してくれたアジトでやるか? 俺は別に構わない」


「ちょっと待ってくれる? 考えがあるの」


 カシムは気にかけているが、実のところ死体を始末する場所はまったく問題にならない。天啓が舞い降りた。運というヤツはまったく、あっさりとゴミに変わればある時に、いきなり転がり込む時には転がり込んでくるものらしい。乗るしかない。この勢いと波に。


 どうやら、この私にも千載一遇のチャンスが巡ってきた。この死体は、正直言って使える! あの女に、あの二人に最大級の屈辱を味合わせてやれるチャンスではないのか?


 殺害と犯行現場は、二人のあの部屋に見せかけるというのはどうだろう? 死因は幸いにも絞殺だ。首尾よく死体を部屋に運べれば、カシムが言うところの奇跡の薬も調達できる。あわよくば、本物のアルビノを拐ってきて、奴らが留守中の間に同じ部屋で始末できれば、カシムにとっても一石二鳥だろう。多少気持ち悪い思いはするだろうが、解体だ。


 必要なパーツ以外を、消せばいい。


 死体を解体して、身元を消せばいいのだ。


 むしろアイツらの自宅で行うことは、この計画では必須の条件だ。問題はやはりというべきか、この女子高生の死体の処理の仕方だろう。その場合は殊更に死体の身元が捜査線上に上ることは避けねばならない。まったく、その点に関しては厄介なことをしてくれたものだ。そうなると、問題は骨だ。太い骨は始末するのには厄介だ。肋骨は? いくら女でも、尾骨だってそれなりに大きい。肩甲骨は? 大腿骨はどうだ?


 頭蓋骨まで消去できるだろうか?


 まずは頭蓋骨の前に骨自体を薬品で消せるのか? まずそこから検証しなければ。


 強アルカリ性の薬品同士を混ぜてみるか? …いや、駄目だ。臭いが強烈過ぎるし、異臭騒ぎで近所に通報されることだけは絶対に避けなければならない。“混ぜるな危険”の注意書きは信用すべきだ。下手に混ぜるのは危険なんだ。時間ならたっぷりあるんだ。焦らずにいけ。人一人消すくらい訳ないはずだ。何か方法はないだろうか?


 あちこち部屋を見渡してみる。


 姿見に鏡台。化粧品やメイクの道具が大量にある。分別用に分けてあるゴミ箱にスルメのように潰されたペットボトルがたくさん入ったゴミ袋。割と几帳面な性格だ。


 いいものがあった。小物入れに使うカゴ型のラックのそば。テレビの横、ゲーム機の置かれたメタルラックの二段目にアロマディフューザーとアロマインセンスがある。小さな箱があって中に何個か入っている。新品のアロマオイルを幾つか買い求めている。


 アロマセラピーだ。これを使おう。我ながらいいことを思いついたものだ。


 これで部屋から漏れる臭気を生活臭によって誤魔化すのだ。窓から漏れ出る腐臭や血の臭いなら、これで心配なくなる。幸いにもキッチンは中ほどにあり、換気扇を回し続けていれば大丈夫なはずだ。駅の沿線からもここは遠いし、特に問題はないだろう。いける。


 都内の駅のプラットホームではたまに人身事故が起こって、概ね一時間も電車が止まるような事態が起こった場合は、大概が人が死亡した後なのだと容易に想像はつく。


 死体の肉片を拾い集めたり、警察の現場検証や捜査や線路の清掃には多大な時間がかかり、多くの人々が足止めを食らう羽目になる。その為、ホームは人でごった返し、駅員が悪い訳ではあるまいに、駅員やサービスマネージャーに食ってかかるような短気で思慮の浅いクレーマー気質の旅客はことのほか多い。鉄道網を利用している癖に自分本意の理屈を他人にぶつけて、他人に謝らせて束の間のストレス解消を味わうのだろうが、それで事態や己の何かが変わるわけでもあるまい。


 核攻撃や大規模な震災の際に都内で生き延びる為には、地下鉄の駅や構内は良い避難経路になるはずなのだが、そうした連中はそうしたことも考えられないのだろう。ストレス社会に生きる者達がセコい理屈をひたすら捏ね回して、己のことしか考えずに他人を叩くような下世話でクズな話は多いものだ。


 それはともかくとして、人が死ぬほどの人身事故の現場は、ホームに上がった瞬間に即座に人が死んだのだと解るそうだ。


 よく聞くのは“魚屋の前を通ったような臭いがした”と形容されることだ。それほどに人間の身体というのは出血の程度によっては凄まじい臭気を発するものなのだ。


 轢断死体からの出血や肉片の清掃にあたるのは、駅員や駅の契約する清掃会社の人間だが、JRの場合は系列の子会社の社員の多くが退職した元駅員だったりもするらしい。かつてはマグロ拾いなどというアルバイトも存在したらしいが、今は駅員や清掃員に特別手当が支給されるのだと聞く。


 血の臭いや色は人間の原始的な感情を刺激し、生存本能を第一に優先させようとするのだが、現代に住む日本人は多くが争いや喧嘩や殺人や死体や自殺や怪我などを連想して顔をしかめ、嫌悪感を呈するようだ。


 死体を運び出すと誰かに見られる危険性が飛躍的に高まる。運ぶとなると車が必要だが、遠方の山林に埋めるまでにナンバーがどこかに記録されない訳がない。やはり死体を消す方法があらゆる面でリスクは少ない。多少臭いは漏れるかもしれないが、そこまで酷いものにはならないはずだ。


 問題は水だ。死体の解体には大量の湯水が必要になる。水で流しながらとなると、トイレかバスルームが理想的だが、死体を細切れにして便器に流す方法は便器が詰まる危険性が高い上に、行き着く先は下水だ。都内で死体を解体したいなら、行方不明者の部屋は絶対に避けるべきだろう。水道のメーターさえ捜査では調べられる。異常に高い数値を記録される日が警察の捜査で疑われるのは必然で、そこから足がつく可能性が高い。この問題をクリアにしなければ。


……さて、どうすべきか?


 困った時のネット検索だ。


“死体処理の仕方”と。死体が存在しなければ警察に捜査されずに済む。捜索願いは出されるだろうが、この世から死体を完全に消してしまえば、最終的には特殊家出人という名の警察のリストに載るだけだ。解体に際しては、肉片や臭いに閉口するだろうが、最終的には骨まで砕いて破片すら残さず死体を消してしまうのが確実だろう。頭蓋骨すら残さずに白い骨すら残さず消せばいい。死体など最初からなかったことにすればいい。


 かなりの数がヒットした。やはり都会の殺人者が一番頭を悩ませるのは、この種の話題だろう。こうしてみると表に出ていないだけで、それなりの数の人間が消えているのだろうということは想像できる。


 夥しい数の人間がひしめく大都会に暮らしているとつい忘れそうになるが、行方不明者の数だけ完全犯罪は成功しているものなのかもしれない。ありがたい先達の教えは、素直に参考にさせてもらうとしよう。


“この世から○○という一人の人間がいたという痕跡を他人の記憶や記録に至るまで完全に消すことは不可能だが、死体をこの世から完全に消し去ることは不可能じゃない”。


“殺人行為から死体の処理までの間に誰にも見られず、かつアリバイを確保できて、出来れば時間に余裕がある方がいい。死体が見つからなければ足跡を辿られることもなく、捜査が開始されることもないってわけだ”。


“防犯カメラの映像記録は上書き保存される時間が、施設や建物や警備会社によってまちまちだよ。死体が見つからずに捜索願いも出されずに一ヶ月くらい経過すれば、ほぼ映像記録から辿られることもなくなるだろうから犯行は時間稼ぎする手法に限られるね。ビッグデータに嘘はつけない。あくまでそうした時間稼ぎって意識が大事”。


“死体を完全に消すには幾つか方法はあるが、時間的な猶予がある場合はな、いっそ溶かしちしまえばいいんじゃね?”。


“髪の毛すら溶かしてしまう溶剤なら実は俺らの身近にあるぞ。強アルカリ性の液体型のパイプ洗浄剤だ。この薬品の強さは中学校の理科の実験で実際に体験したことがある奴もいるんじゃねぇか? 人の皮膚すら溶かすから、触れたらすぐに水で洗えって教師に注意された経験のあるヤツもいるはずだ”。


“強アルカリ性のパイプ洗浄剤は水酸化ナトリウムの保有率で大きく変わるよ。約4倍近い水酸化ナトリウムで4.5%くらい強力な方が理想だ。さらに次亜塩素酸ナトリウムも高濃度に保有しているようなタイプがいい”。


“劇物には当たらない製品にも関わらず、高度な洗浄を行うことが出来る商品なら通販でも購入できるけど、購入履歴が残るネットショッピングは足がつくから、さすがに避けるべきだろうな。業務用の商品を扱うホームセンターが理想的だが、業務用の洗剤と寸胴鍋とかをまとめて買うのは、いつだったか八王子のホストが、ぶっ殺された事件を連想させるから、できればやめておけ”。


“さすがに不審がられるだろうし、レジ担当のスタッフが昼と夜で替わる店を選ぶのがいいよ。防犯カメラに映っても大丈夫な程度の変装をしていくのを忘れないでね”。


◇◇◇


 3月18日(火) 曇りのち晴れ


 小説なら、こんなところだろうか。


 ひたすらの儀式を続け、絶望していた時、その女は現世に舞い降りた。


 血管が透けて見えるほどに透き通った、その白い裸身から延びた白い指が触れる。


 赤い瞳をした美しくも神々しい女神だ。


「君はどこにいたんだい?」


“ずっとここにいました。いつでもあなたと共にいます”。


「君はどこから来たんだい」


“遠い遠い世界。始まりと迫害の場所”。


 機械を通したような声で聞こえる彼女の声がその時、ダイレクトに脳に響いてきた。


「幸せになんてなれないよ」


“幸せです。あなたといられたら、それだけで幸せです。きっと幸せです”。


「君は真珠ナメクジの女神なのかい?」


“そうかもしれません。そうじゃないかもしれません”


「彼女達はどこに行くのかな?」


“解りません。あの少女達は、あなたに必要なのですか? なら私もあなたの妻です”。


「解らない。けれど君がいればそれでいい」


“それだけでいいです。あの少女達のようになれなくても、あなたには私がいます”。


◆◆◆


 It's easy. All goes well.

 簡単だ。これでいい。

 すべて上手くいく。


 英語ならともかく、スワヒリ語ではなんとも上手く説明しにくかったがスーツケースだけは受け取って、とにかくカシムには、アジトに身を隠しながら逃げたアルビノの少女とやらを追わせることにした。何らかの形で文章に起こしておくだけで、こちらの状況は奴らにも正確に伝えることができるだろう。依頼人と呼ぶには癪に触る奴らだが、金さえ払ってくれるなら、これも取引の範疇だ。


 この日記代わりの音声メモが思わぬところで役に立ちそうだ。スマートフォン様様だ。カシムに説明するのに使った翻訳アプリや互いの会話もコピーペーストしてメールの添付ファイルに付け加えれば、後で奴らに報告書を送るのには役に立つだろう。


 外は凄まじく風が強かったが、車で出歩けないほどじゃない。事前のリサーチで近くに業務用の製品を多く扱っているホームセンターは見つけていた。一見したところ、あの周辺の邸宅やアパートには警備会社のステッカーはあったが、防犯カメラはない。


 寸胴鍋などというものも買ったことがない。サイズはと店員に聞かれ、ボソボソと一番大きなのを、と答えると親切にも場所まで案内してくれた。マスクをしていれば声音や声質から辿られることもないはずだ。最低限マスクと眼鏡とニット帽で変装はしてある。わざとらしそうに何度か咳をしてみた。春先とはいえ、まだ寒い。不自然さはない。


 時間に余裕があるとはいえ、何日も家を空ける訳にはいかない。ガレージに鋸と鉈があった。切断には、これを使おう。チェーンソーもあったが、部屋の中で派手な騒音はホラー映画でもあるまいに、さすがにマズい。


 寸胴鍋になみなみと強力な溶剤を満たしていく。骨すら残さず綺麗に溶けて消えてくれるのが理想だが、そこまで強力なものがないのが些かも残念だ。骨というのは、いや人間というのはともかく執念深いものであるのかもしれない。骨一つで事件が発覚し、犯人まで露見してしまうこともあるのだから。呪いや死者の念などあるわけもないが、それほどに死体の始末というのは厄介なものだ。


 高温高圧下で煮沸、溶解させ、浴室の排水管に遺棄し、溶け残った骨は、河川敷かどこかのキャンプ場でハンマーで粉々に砕いて川に投棄するのだ。週末に家族連れでバーベキューに訪れるような場所なら、首都圏に限らず日本中にいくらでもある。


 確認してみたがコイツの歯には、インプラントの類は一切入っていなかった。八王子の事件では警察の執念の捜査で配水管のパイプに残った歯のインプラントが決定的な証拠となり、犯人は足がついたらしいが、ここから辿られることもないはずだ。


……いや、待て。このやり方でもまだ充分とはいえない。再度検証してみる必要がある。何かないだろうか?


 そうか。あのキャリーバッグが使える! あの妖怪アニメのストラップがあれば完璧だ!


 本当に私は運がいい。この発想の数珠繋ぎには運命さえ感じる。命を運んでくると書いて運命と呼ぶなら、これこそ正に運命。天の啓示だ!


 このまま一気に計画を遂行する。


 カシムの入れていた死体を詰め替える。防水処置だけは完璧に施した死体を自分のオレンジ色のキャリーバッグに詰め込むのは相当に難儀したが、自宅からの移動にはさほどの時間もかからなかった。キャリーバッグとは本当に便利だ。大胆不敵というべきか、移動には電車を使った。事前の下見や準備も兼ねてだ。


 駅のホームは混雑すると酷く狭い。キャリーバッグ自体を入れ換えるチャンスはズバリ、電車待ちのタイミングだ。ここに落とし穴を仕掛ける方法がいい。要は電車が来るまでの間、あの女が重い荷物から手を離せばいい。要は一瞬でも気を引くチャンスが出来ればいいのだ。まさか同じ物が二つあるとは考えてはいないはずだ。


 ならば近くで電話を鳴らすとか、チャンスはいくらでもある。女のよそ見とながら歩きの割合は異常だ。ショッピングエリアの残客と狭い道で道を譲らない奴らとイヤフォン女の事故率の8割は女だそうだ。


 それにしても、こうして死体を運びながら堂々と駅の改札を通っても誰も不審に思わないのだから、都会の人々というのは、とことん薄情で呑気なものだ。外国人旅行客も多い昨今では、大型のキャリーバッグを持っている人などめずらしくもなんともないのだ。電車に乗っている時は、開かない扉の方に邪魔にならないように置いておいた。


 広い改札を通る際も、死体入りのキャリーバッグの中身を駅員に怪しまれるようなこともなかった。


 ストーカー対策に引っ越したらしいけど、ご苦労様! 引っ越してまだ間もないのか、ご近所付き合いはないようだ。慣れた動作で堂々と表玄関からこうして入っても誰も不審には思われない。長期間、旅行するというのは好都合だ。アイツに罪を被せよう。


 それにしても不用心にもほどがある。銀行口座の暗証番号であれゲームのIDパスコードであれ、スマホのナンバーロックであれ、最近は面倒くさがって忘れないように番号を統一しておく人は殊更に多い。


 0000のまま未設定になっているセキュリティーのナンバーロックを、設定した番号と違うと三回間違ってしまい、使えなくなったとショップの店員にキレているババァや自動券売機で買う食券やタッチパネルで注文する店の仕組みが解らないと店員にキレているジジィ共を見かけたことがあるが、アレもバカじゃないだろうか。


 仕組みを理解しない、しようとしない自分の頭の出来の悪さと記憶力と注意力のなさを棚に上げる団塊の老害共はまとめて死んでほしい。他人にキレればそれで済むと思っているのだ。そんなおめでたくも可哀想な思考の持ち主だから、簡単に振り込め詐偽の被害者にもなるし、肩がぶつかった程度で他人にキレて暴力を振って警察を呼ばれたり、車のブレーキとアクセルを踏み間違えて子供を牽き殺すようなことも平気でするのだ。要するに世の中は馬鹿で溢れかえっているのだ。


 介護保険料だの何だので散々若者達に負債を負わせておいて、自分達はのうのうと年金で飯を食ってダラダラと生きて、最後には認知症で人様に迷惑をかけてくたばる老害共は、いいだけ他人に騙されて金を毟られて、失意のまま早いうちから首でも括って死ねばいいと思う。何が認知症だろう。ただの呆け老人で充分だ。


 それはともかく、誕生日などの解りやすい情報を設定するなと散々注意されているにも関わらず、未だに4桁だからと自分の誕生日を設定する大馬鹿も未だにいる。恋人や家族がいるなら、その相手の誕生日にしたりする。これも馬鹿のすることだ。浮気相手がいると疑ったら相手の生年月日や、息子や娘や孫など家族の生年月日を試さないわけがないだろうに。ヒントは必ず転がっているものだ。人は秘密の情報ほど意識せずに載せていたりするのだ。


 事前の二人のやり取りで、設定されたホームセキュリティーの4桁の暗証番号キーは予め知っていた。何のことはない。二人の誕生月を合わせていただけだった。甘い恋人同士のスイーツな会話もSNSでのやり取りも今や筒抜けになっているのだから、これも自業自得だし、こちらにとっては本当に好都合だ。


 容易に第三者が知れる中で、甘ったるい男女の会話などしていた迂闊さを、何もかも手遅れになった頃に味わうといい。現代の優秀なホームセキュリティーというシステムも扱う人間がこんな間抜けで雑な性格なら、まったく意味を成さないということだ。そこら中にこんな馬鹿がいるなら、泥棒の方がはるかに儲かる商売かもしれない。


 思わず笑いたい衝動を堪え、女の子の死体をバスルームに持っていくと、清潔そうな白いタイル張りの床に堂々と転がした。


 濁り始めた瞳でひたすら天井を見ながらバスルームに寝そべって死んでいる少女を、改めてじっくりと観察する。


 乱れた髪を上げ、額に手を押し当て、横にしてみた。死んだナメクジのように、だらりと口腔から舌が伸びてきた。今度は顎の先を上げるようにして顔全体をじっくりと観る。飛び出した眼球。青黒く変色した唇。雑巾を絞ったように皺が寄った首に残った索状痕は紫色に変色している。整った鼻筋にまだあどけなさを残した、死んでいてもそれなりに美しい顔立ちをした少女だ。


 下半身が剥き出しの脚は酷く細く、手触りは滑らかで、まるで小さい頃に近所の友達が持っていたリカちゃん人形の脚を思い出させた。この死体も屋外に放置などしていれば、やがて蛆が涌き、鼠やカラスなら喜んで死肉を漁るような肉の塊になるのだろう。野良猫や野良犬でさえ、腹が空いていればこうした人間の死体さえ食い漁るのかもしれない。


 そう考えると、やはり死体を遠くの山林に捨てたり埋めるなどという手段はますますとれない。都会に比べて地方の山合いに暮らす住人などは、見慣れない車や聞き慣れない車のエンジン音には特に敏感なはずだ。


 そうした集落の周辺で車のナンバーがチェックされない訳がない。部外者が現れたという情報は、瞬く間に周辺に拡散され、警察による被害者の足取り捜査を容易にしてしまうだろう。レンタカーを使うなどという愚を犯すほど馬鹿ではないし、盗難車などの情報はすぐに高速道路の料金所やオービスの防犯カメラなどで検索できてしまうだろう。それだけは避けなくてはならない。


 今度は両手で全身を触ってみることにした。首筋、脇腹、そして乳房。もう、まったく反応がない。そして酷く冷たい。生きていればくすぐったがったり、愛撫に身体をくねらせたり声を上げて悶えては男を興奮させたりもするのかもしれないが、当然のように死体であるから、そんな反応など少しも示さない。本当に人間なのかと思うほど無反応だ。


 精巧なリアルドールとセックスをして擬似的に性交する男や、冷たい性器の中でなければ興奮しないという理由で死後屍姦する為に人を殺す殺人者も世の中にはいるらしいが、この少女も生きていれば、何人くらいの男に抱かれていたのだろうか? 二十歳を過ぎる頃には、建物の外まで聞こえるような喘ぎ声くらいは上げていたのだろうか? そう思うと少しだけ哀れな気もしてくる。


 いい女は死んだ女だけ、か。


 どこかで聞いたようなジョークだと思い、クスクスと笑みまでこぼれたが、すぐに気を取り直して仕事に取り掛かることにした。


 予め刃物は複数用意してある。出刃包丁に肉切り包丁が二本。セラミックの包丁も予備で用意している。いずれもよく研いであるから四肢や部位を切断するだけなら、さほどの時間もかからないだろう。


 よく切れる包丁の刃は、分厚い氷すら数分で細かく切れる。刻んだり削るのではなく、文字通り切れる。薄い紙なら刃に落とすだけで紙は真っ二つになる。刃物の扱いに習熟していない人間は道具の扱いもぞんざいだ。一流の料理人は裁断に無駄に時間をかけたりするようなこともしない。複数の作業を同時にこなす為には、扱う道具には常日頃から気を配ることが必要だからだ。


 あとは鋸と鉈だ。これは切断しにくい部位への対策だった。骨の存在を考慮してのことだった。関節部位でも筋肉でも、人の身体は部分によって切りにくい箇所はいくらでもある。いくらよく切れる刃物でも、硬い部位へ闇雲に刃を突き立てて引いてみたところで、悪戯に切れ味を落として余計な手間や時間が増えるだけだ。セラミックの刃は熱で温めればいくらか切れ味は戻るだろうが、浴槽に貯めた湯水はなるべく洗浄にだけ使いたい。風呂掃除に使う程度の水の量で片をつけるべきだろう。


 どれぐらいで解体できるものだろうか? ちらりと時計で時刻を確認すると、もうすぐ12時だった。思ったとおり、あまり時間は残されていない。定められた儀式のように淡々とやり遂げなくてはならないだろう。


◇◇◇


 3月19日(水) 雨


 本当に人生とは、いつ、どこで、何が起こるか分からないものだ。日記をつける習慣があって、本当に良かったと感じる。日記に限らず、あらゆる文章は誰かに読ませることを前提に書かれているものなのだと痛切に感じた。この記録が誰かの目に触れる機会はまずないだろうが、きっと後で読み返せば、いい思い出や記念になると思う。


 何にせよ、この日記が僕の遺書にならなくてまずは良かったと書くべきだろう。これからここに綴る文章が、せめて杞憂に終わってくれることを願ってやまない。そのくらいの運命的ともいえる出来事との出会いが突然にやって来たのだった。


 幸い彼女は腰を強く打っただけで大事には至らなかった。病院から自分の部屋へと連れ帰って、食事を作ったり洗濯をしたり部屋を片付けたりしながら、僕は彼女がどうして僕の部屋に降ってくるような事態になったのかを、おおよそ理解することができていた。


 きちんとした翻訳機がないので、相変わらずスマートフォンの音声翻訳アプリを介してのたどたどしい会話なのだが、アイカ・バンベニという女性のことについて、きちんと記録に残しておくべきだろう。真珠ナメクジの女神の化身ともいうべき彼女を、僕は放ってはおけない。彼女がこのまま何者かに連れ去られるなどということはあってはならないし、その為にこの文章が後々役に立つことを願う。


 アイカはザンジバル近郊にあるストーンタウンから来た、まだ17才になったばかりのアルビノの少女だ。元々はタンザニアのチャガ族の生まれらしい。チャガ族はタンザニア北東部の、キリマンジャロ山麓に居住するバントゥー系の民族で、トウモロコシやバナナを主食とし、キリマンジャロ山で主にコーヒー栽培に従事している者をはじめ、農耕と牧畜を生活基盤としている民族だ。タンガ鉄道が開設されてからは、モシに居住して商業に従事する者も増加しているチャガ族は独自の言語体系のチャガ語を話す部族だが、彼女の家では事情が異なった。


 彼女の家系ではどういう訳か、何代に一人くらいの割合でアルビノの女の子が生まれてくる家系らしいのだ。これが彼女がチャガ族でありながら、スワヒリ語を話し、ストーンタウンに引っ越さざるを得なかった事情らしい。タンザニアは主にイスラム教徒ばかりだが、彼女の家族の歩んできた道は、彼女のこのアルビノという出自によって一変してしまうことになった。


 彼女の家族は、なかばひっそりとストーンタウンで暮らしていたのだという。アルビノ狩りから逃れる為には家族も必死だったのだそうだ。学校などはもう通えなくなって、母親がつきっきりで勉強を教えてくれていたりもしたそうだ。彼女はかの悪名高い風習であるFGM(女性器割礼)からも免れた。


 壮絶な過去といえるだろう。彼女の家族が外国人観光客の多いストーンタウンに居を構えていたことが、ある意味で助かっていたのかもしれない。


 それにしても理不尽な話だ。僕は彼女を放っておけなかった。生まれつきアルビノや女性であるというだけの理由で、家族が離ればなれにならなければならないことは元より、人間狩りや障害が残るような悲惨で非人道的な迫害が行われている現実も許せなかった。それよりも何よりも、見世物小屋のような感覚で日本のバラエティー番組で面白おかしく扱われる為に、彼女はわざわざこの国にやって来た訳じゃない。生きたいと願う意志すら許されないというのは、絶対に間違っているはずだ。


 相手は犯罪者だ。テレビへの出演という話自体が嘘かも知れないし、出演したならしたで、彼女の身の回りの危険はより増してしまう。日本で有名になるということは即ち、より多くの好奇の視線に晒されてしまうことに繋がる。仮に出演して一時の話題になったとしても、視聴率至上主義の日本のテレビ局が、命の危険さえ伴っている彼女の身の安全を保障してくれる保証などどこにもない。警察だって同じだ。彼女は生きる選択肢すら、生まれつき与えられなかった人間だということを、お役所仕事の警察に、まず説明して理解してもらえるかどうかすら怪しい。


 それにしても、この東京に人身売買さえ厭わないような連中がいるという現実が、僕には信じられなかった。僕はそのカシムという彼女を追ってきた殺し屋の男の特徴について、名前以外に情報はないのかとスマートフォンの音声翻訳を通して、彼女に尋ねた。


 彼女は手慣れた様子で途切れ途切れだが、身振り手振りを交えて教えてくれた。これなら機械音声独特の語彙がおかしくなることはないと判断してのことだろう。スマートフォンの使い方も、もうある程度は慣れ始めている。思った以上に利発で頭の回転の早い少女だ。


「短く刈り込んだ頭髪。獰猛な目つき。年齢は二十代後半くらい。あの男がどうして簡単に日本に入国できたかは解りません」


「黒人だという以外に特徴はないのかな?どうやって一緒に入国したの?」


「就労ビザを使って入国しました。日本を経由すれば、金になるからって…。何かに凄く怯えていて…。しくじれば殺される。おとなしくしろって…」


 音声翻訳アプリの良いところは、互いに音声による言語はわからなくとも、文字にきちんと変換されることだろう。互いの声を通して、相手の言語のネイティブな発音も同時に学ぶことができるというのは大きい。ある程度は状況は理解できたが、そんな得体の知れない、アルビノ狩りのハンターのような殺し屋がいると彼女は言っているのだ。この平和な日本に? そんな絵空事のような奴が? しくじれば、そいつが今度は何者かに口封じに殺されるから、必死になって彼女を探しているというのか? まるで映画かドラマだ。にわかには信じられなかった。


 それにしても問題は、いかにして彼女をその追っ手から守るかということだ。そいつと関係あるかはわからないが、彼女を病院から連れ帰ってきて、すぐに異常には気づいた。慌てていたとはいえ、鍵をかけ忘れて部屋を出たのは本当に迂闊だった。部屋の中が荒らされて二つの物がなくなっていたのだ。


 メイやマイ達がいない。医療用のヒル達が一匹残らずいなくなっていた。バスタイムの時に食事を与える為にアクアリウムのように装飾した透明な水槽に入れてやっていたのだが、丸ごと持ち去られた。可哀想なことをする。きっと今頃、お腹を空かせているはずだ。あの水槽は小さいもので、持ち運びは充分に出来る。同じ泥棒にやられたのだ。1回食事をすれば1ヶ月以上は食べなくても平気な生き物だから、すぐに死んでしまうことはないだろうが、お腹を空かせているはずだ。無事でいてほしい。


 そして、あの髑髏もなくなっていた。それにしても医療用のヒルに髑髏か。アンティークとしては価値があるかもしれないが、あんなものが正直、何の役に立つというのだろう?


 デスクトップパソコンまではさすがに持ち出せなかったにしても、なぜあの髑髏でなくてはならないのか。呪術を目的とするとか誰かを脅かすような悪趣味な目的以外に有用性など皆無に見える。あれを積極的に欲しがる人がいるとは思えない。泥棒の仕業なのだから、何をどう悔やんでも、もう後の祭りだ。


 マズいことになった。考えられる最悪のケースとしては泥棒がもう一度戻ってくるかもしれないということだ。そいつの狙いは恐らくアイカだ。そうなると、この場所は連中に知られてしまっていることになる。


…ならば、どうする? 警察に言って保護してもらうべきだろうか。それとも…。


 こんなに誰かのために必死になっているなど、いつからだろう。理性と本能の狭間で大きく揺れている自分の感情に、僕は今さらながら驚いていた。


 僕はアイカをどうしたいというのだろう?


◆◆◆


 本当の理性ある人間とはまるで大理石のように毅然として、硬質で美しくあるべきなのだ。氷のように硬質な輝きを持つ女神はひたすらに神々しく、卑俗な者が近づくことを許さない。神に選ばれた者に近づけるのは、同じく神に選ばれた者だけだ。


 この死の臭いのする血の儀式こそが人が辿り着くべき真実だったのだ。


 視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚でさえ…五感の全てが痛いほどの刺激を感じている。人の死に直接触れていられることの、何と気持ちのいいことだろう。何と心地のいい気持ちの高ぶりなのだろう。


 神経の閾値が突如として引き下げられたように、五感の全てが鮮明に、あらゆる新鮮な刺激を拾っている。脳下垂体か何かから覚醒物質が溢れ出てナチュラル・ハイにでもなったかのようだ。神でも悪魔でもいい。今、まさしく人を越えた異形の怪物に変われた瞬間が訪れたのだ!


 今、ようやくわかった。だったのだ。


 殺人とはあくまでその破壊の過程であり、副次的な要素でしかないのかもしれない。サディスティックな人間の欲望の向かう先は、突き詰めていけば結局は人が人を壊したいと思う願望なのだろう。それは、幼児がまだ生きている昆虫の足を生きながらに一本一本もいで、その反応を確かめている感覚に似ているのかもしれない。


 清の時代まで中国には凌遅刑といって生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間に渡って激しい苦痛を与えた上で死に至らす処刑があったという。


 沸騰した湯の中に罪人を落として蓋をして煮て殺す釜茹での刑や、同じく罪人の四肢を紐で牛と繋ぎ、同時に走らせバラバラにして殺す牛裂きという処刑法もあったという。


 手足を切断し、両目と両耳を破壊し、点滴で栄養注入して永遠に生かす、だるまといった刑罰もある。ベトナム戦争で朝鮮人が好んで凌辱する手法にも用いられた。


 拷問器具とて世界を見渡せば、残酷な物は枚挙に暇がないほどあるようだ。


 古代ギリシアには、ファラリスの雄牛というものがある。真鍮で雄牛を鋳造し、中を空洞にして脇に扉をつけ、有罪となった者は雄牛の中に閉じ込められ、その下で火が焚かれる。熱電導率の高い真鍮は黄金色になるまで熱せられ、中の人間を炙り殺すのだ。


 中世ヨーロッパに開発された拷問器具である“洋梨”はその名のとおり洋梨を象った拷問器具で、身体に激痛を与えつつ内部から破壊することを目的に作られた。これは口、肛門、膣などから挿入し、ちょうど傘を開くように梨のような器具が開かれていき、苦痛を与えながら局部を破壊していく。装飾的な見た目や名前とは似ても似つかぬ恐ろしい道具で今ではオークションでも手に入るという。


 医者の名前であるフランスのギロチンや日本の床が抜ける絞首台などはむしろ、苦痛を与えずに一瞬で受刑者が死ねるように考案されたものなのだから、これらは罪人には良心的なものでさえある。


 ローテンブルクの中世犯罪博物館を訪れた時は心が踊ったものだ。この場所は12世紀から19世紀までのドイツの法律と刑罰に関する具体的な展示が、日本円にして440円という低価格で見物できる。フロアは1~4階まであり、欧州問わず膨大な数の拷問器具が展示されていた。


 全てドイツの事例ではあるが、ヨーロッパ全体に共通する中世の生活様式と文化を知ることのできる非常に貴重な博物館で、注釈には日本語まであり、日本人の観光客も多く訪れる。見世物小屋のように悪趣味なものを好む体質は、世界共通であるのだろう。


 これらの拷問や罰は当時の世の中では法的に認められた行為として重要な役割を果たしていたそうだが、罪の立証が困難な魔女裁判で多くの無実の人間が拷問されたことを契機に社会の非難が高まり、18世紀には刑事訴訟手続きの改革が行われ、拷問は徐々に姿を消していった。罪人にとことん優しい世の中になっていったということだろう。


 痛みと苦しみは遠ざけられ、人道だの倫理だので罪人の基本的な人権とやらは保証されたが、逆に人の魂と法は嘘で歪められていったのだ。人など獸と変わらない。人が人を壊すことを…破壊することに悦びを覚えないはずがない。相手が罪人なら何ら遠慮はいらぬと、殺しや痛みに愉悦を持つようになったとしか思えない。今のこの国がそうだろう。

単純にネットを介して陰湿なやり方に変わったというだけだ。


 殺人までいかずともセックスでもそうだ。オーガズムの時には男も女も、まるで獣のように大声を上げてよがり狂い、オーガズムへと達するのもまた、人の獣性の証だろう。男も女も互いの肉を貪るように乳房や性器を肉欲のままに求め、時にサディスティックな行為にだって及ぶ。快楽の行き着く先に愛と錯覚するようなものがあるだけなのだ。


 生殖行為であれ欲望を満たす為であれ、一旦行為に及べばそこには恥も外聞も入り込む余地はない。人とは獣の獰猛な破壊の衝動を内に秘めながら、それを理性の鎖に縛りつけることで己が一段階、進化したと思い込んでいる存在なのだろう。人の脳髄が獣の本能を抱え込んでいる以上、人がどれだけ否定しようとも破壊と殺戮の衝動は、きっと抑えきれぬものとして人に宿っているに違いない。


 ならば、食う為でも生きる為でもなく、人を痛めつけては切り刻み、切り裂き、血の歓びに遊ぶのが人の証明でもある。人と獣の歓びとは即ち、この行為そのもの。人を破壊することにこそあったのだ!


 ゴリゴリとした感触が包丁を通して手に伝わってくる。耳の外耳にあたる部分を外側へと引っ張りながら刃を横にあて、削ぎ落とすようにして引いていくと左耳は存外にあっさりと切り落とせた。次は右耳だ。


 鼻と耳を削ぎ落とした人体は、まるで筋肉が剥き出しになった理科室の人体模型のような格好になった。これが終われば、その次は舌だ。その次は両の胸だ。


 この儀式のような作業にも手が慣れてきた。邪魔な両の乳房の脂肪には閉口するかもしれないが、それを切り落としたら随分と仕事は捗るだろう。


 慎重な解体を必要とする性器も、この分なら然して時間はかからないだろう。


◇◇◇


 3月21日(金) 晴れ


 それは運命というべきか、あるいは必然だったのか、僕とアイカが恋に落ちるのは然して時間はかからなかった。元々があの真珠ナメクジの女神という、僕以外ではまず考えられない理想像が先にあったことは確かだが、こうしたことはやはり理屈ではない。まさかアルビノの女性に恋をしてしまうなど、つい先日までなら考えられないことだったからだ。ここにやはり僕は運命を感じずにはいられなかった。


 見ためはとても神秘的なのだけれど、一緒に暮らしてみると凄くよくわかる。普通の十代の女の子と何ら変わらない。明るくて表情豊かで、よく笑い、よく喋って、よく動く。好奇心旺盛で何にでも興味を示し、知りたがり、じっとしていることがまずない。


 今さら言うまでもないが、アフリカ人の肌はアイカのような稀少な一部のケースをのぞいて、褐色もしくは黒い肌をもっているのが特徴だ。アフリカ人の持つ黒い肌は、アフリカ大陸に降り注ぐ大量の紫外線が関係している。紫外線から肌を守るのはメラニン色素であり、このメラニンの量によって人間の肌の色が決まる。黒色には、光を遮る“遮光機能”がある。強烈な紫外線から身を守るために、アフリカ人の肌はメラニン色素を多く持つ黒い肌へと進化を遂げたのだ。アルビノが霊的な力があると信じられている理由は、この辺にあるのだろう。日本人の僕でさえ、神秘的な力の介在を信じてしまいそうになる。


 アフリカ人の性格は基本的に底抜けの明るさを持ち、働かなくても危機感を持たず、大らかで態度も大きいのが特徴だろう。素朴で純粋で、人間的には良い人が多い印象だ。ただし物事を信じ込みやすく、迷信や嘘なども割とすぐに信じてしまう為に、身近にいたら迂闊なことは言えない。勘違いも多く、思考パターンもどちらかと言うと単純で、はたから見ていると分かりやすい人が多いようだ。アフリカ出身のスポーツ選手がそうであるように、天性のバネや筋肉の質に恵まれている為に肉体的にも強靭な人が多く、生命力が強い。過酷な環境に耐えうるように進化を遂げた、もしくは人間の原種に近い遺伝的なその資質は、生きていく力が非常に強いともいえる。


 読書の習慣があまりないので知識が乏しいのがたまにきずだが、それを補って余りある純真さ、素朴さを持っている。これが都会暮らしに疲れた人達にとっては新鮮で癒されるのだ。友人に一人いると、非常にありがたいと感じる存在ではないだろうか。いつも今現在をしっかりと生きていこうとするので、過去のことをあまりクヨクヨすることがないのだ。済んでしまったことを後悔したり思い悩まないのだから、メンタル面でも強く、とても元気で快活なのだ。この心理的な傾向や考え方やメンタル面は先進国の都会人達こそ、よく見習うべきだろう。


 この僕がいい例だとつくづく感じる。心理的不幸の多くは、過去にとらわれることから発生するからだ。良くも悪くもアフリカの人達は、あまり将来の事や先のことを深く考えない。要するに、あまり過去も未来も拘らず、悩まずに今を一生懸命に生きていこうとする人達なのだろう。だからこそ、とても純真でいられるし心も綺麗な人が多いのではないだろうか。太鼓や笛など、どちらかというと原始的な楽器を使った音楽を好む。それはアイカも同じで、たまたま日本のお祭りの動画を見ていた時には、アイカはとても喜んだ。リズムを取るのが大好きで、太鼓や笛の音楽にあわせて踊りまくったのには驚いた。いつも鼻唄混じりで、聴いたばかりの音楽をハミングしていたりする。世界で活躍するダンサーやミュージシャンにアフリカ出身者が多い理由も納得だ。天性のリズム感に加えてノリや拍子の取り方、音の持つ流れや動きの本質を身体で理解していて、それを自然に表現できる資質を元々持っているのだから当然だろう。


 もちろんアフリカは広いし、お国柄も歴史も考え方も異なるため一緒くたにはできない。砂漠地域もあるのだが、その地域の人達で少し性格は異なるらしい。元々が砂漠の民なので、どちらかと言うと厳格で、掟やルールに厳しい。残酷な刑罰なども存在し、誇り高く、忍耐強く、妥協を許さない性格を持っているといえるだろう。この辺がイスラム教が生活にしっかりと根付いた理由であるのかもしれない。テロ組織に見られるイスラム原理主義のような考え方は、あくまでも一部だ。キリスト教や仏教と同様にイスラム教とて一枚岩ではない。普段は自由で明るい性格で、陽気なところもある。サハラ砂漠に住む人達も、やはり砂漠の民の自由かつ厳しい性格を持っているらしい。


 アイカはまぎれもなく、日本人の僕からでも美少女といっていい特徴的な顔立ちだろう。アフリカ人の顔立ちは、ハッキリした二重の大きな目と、フサフサな睫毛が特徴的だ。そして横に広がった鼻と大きめな鼻の穴、厚い唇も特徴として挙げられる。アフリカ人の髪は、黒くて縮れているのが特徴だ。これにも、肌の色と同様に太陽からの紫外線が関係している。直射日光が強く大量の紫外線が降り注ぐアフリカ大陸では、その刺激から頭を守るために、縮れた毛になって紫外線を遮断できるように進化したのだ。アフリカ人の縮れた髪の毛は、延ばしていくと丸いアフロヘアになっていくのが特徴なのだ。また、縮れ毛になる一番大きな原因は遺伝であり、アフリカ人の髪の毛は100%に近い割合で縮れ毛になると考えられている。


 ここ数日、気がかりなことは特に何もなかった。やはりアルビノ狩りや殺し屋など、僕の取り越し苦労だったのだろうか。学生のアパートにアルビノの女性がホームステイにやって来たというのは、彼女がここにいる理由としては多少苦しいが、別段不思議はない。


 アイカとこの数日、一緒に過ごして思ったことは、アフリカ人女性は肉体的にも精神的にもパワフルで自然と隣り合わせで暮らしているせいか、エネルギッシュで活発な性格だということだろう。初めて会った僕にも非常に愛情深く接してくれるし、何よりも家族と一緒に暮らすことを第一と考え、別れた家族のことを本当によく考えている。家事を積極的に覚えたり、日本の料理を楽しんで覚えようとしているのもアフリカ人女性の特徴だろう。


 また、アイカは美意識もとても高い。アフリカスタイルというおしゃれが流行っていて、世界中で真似する女性がたくさんいるのも納得だった。おしゃれへの関心がとても高く、おしゃれを自分なりにアレンジしたりもする。黒人だからと差別されても自分の肌の色や質感が大好きで、よくパックなどをして肌を大事にしているそうだ。


 僕はアイカに自分の持っている限りの日本の文化や知識や言葉を教えて、アイカは僕にタンザニアのことをたくさん教えてくれた。


 たとえばタンザニアの交通事情だ。主要な移動手段が車またはダラダラと呼ばれるバスのため、通勤ピークの渋滞はひどく、一度ハマってしまったらなかなか抜けられないのだという。


 この特性を活かし、タンザニアでは渋滞プロモーションというものがあるそうだ。それは何かというと、軽トラの荷台に派手な服を来た踊り子を乗せ、渋滞で止まるたびに踊り子が荷台を降り、広告を持って車の間を踊りまわり、車が動きだしたらまた荷台に戻るといったプロモーションなのだそうだ。街中を広告でデカデカと飾ることが第一のような日本とはえらい違いだ。


 またダラダラは多くが日本の幼稚園の送迎バスなどの払い下げなのだそうで、日本のナントカ幼稚園のような表示がそのまま残っていたりもするのだそうだ。


 他にも彼女は僕の知らないことをたくさん教えてくれた。エチオピア辺りを見てもアフリカは都会的だというのは知識として知っていたが、タンザニアは東アフリカでケニアに次ぐ経済大国なだけあって、サンドイッチのsubwayもあればフローズンヨーグルト、クロックスもあることや、外の海があるらしく、彼女の故郷は素晴らしく綺麗なのだそうだ。


 外国人や大使館の人が多く住むオイスタービーチというエリアには、おしゃれなレストランやショップも沢山あるらしい。他にもアフリカと言ったらサファリというイメージしかなかったのだが、彼女の故郷のストーンタウンは真っ白な砂浜とコバルトブルーが美しい、それは素敵な場所なのだそうだ。


 アイカの髪は陽の光の下では白銀のように輝くし、夜は月光のように優しい光を放つ。狭いベッドでスヤスヤと寝息を立てる彼女を見ていると、まるで映画のワンシーンのように、彼女を取り囲む風景から音が消え、そのひとつひとつのしぐさがゆっくり見えた。こんなことが現実にありえるのだろうか。彼女といると不思議と心が安らぐ。なぜだろう?


 普通なら言葉が解らないからこそ、相手の気持ちを知ろうと一生懸命に相手に伝わる言葉の方を探そうとするだろう。表情や動作から相手の感情を汲み取ろうとするだろう。僕はそれが普通なことだと思って生きていた。けれど、彼女は違う。


 彼女はアキラ、アキラと常に僕の名前をよく呼ぶ。言葉は解らなくても、自分の言葉で話して身振り手振りで一生懸命に何かを伝えている。それを理解して僕が色々と何かをするだけで、生活面はまったくといっていいくらい困らなかった。その時には決まって彼女は明るく笑った。


 彼女のようにストレートに自分の言葉で一生懸命に相手を好きだと表現すること。全身で表現すること。積極的に相手に触れること。それは一方的でひどく戸惑うのだけれど、凄く大切なことに思えたからだ。


 ああ、本当に人生はどこで何が起こるか解らないものだ…。アイカが僕のことをどう思っているか、まだ僕自身は確かめてはいないが、彼女にはこれからも僕のそばにいてほしい。メイやマイ達のことは心配だったが、こんなに幸せで穏やかな日々がずっとずっと続いてくれたら嬉しい。


◆◆◆


 畜生! クソッ、クソッ、クソッ!


 何もかもうまくいかない! なぜだ!? こんな不幸なアクシデントがあって堪るか! 幸せで穏やかな日々が約束されるまで、あとちょっとだという時に!


 なぜ、私がこんな目に合わなきゃならないのよ! クソッタレ!


 きっと魂が穢れているから、死体もきちんと溶けなかったんだ!


 この書き込みが外に漏れるだなんて、こんな馬鹿なことがあっていいはずない!畜生! どこのどいつだ!


 どこの誰だか知らないけど、人の家に空き巣に入るだなんて! 迂闊だった! あのメモが紙になって晒される羽目になるだなんて! どこの誰だ! どこの誰が私達が留守の間にアジトに入り込んだんだ?


 髑髏はキャリーバッグに入れて決行までに保管しておくはずだったのだ! 泥棒が何者か知らないが、あの髑髏自体を盗んでいった訳じゃない。それはなぜだ? 百万円の価値があるのに? ただの意趣返しや嫌がらせの為に入れた訳じゃないということか。


 ならば…。まさか…。


 奴らの探し物はまさか、#これ__・__#なのか?


 泥棒も奴らの差し金か?


 ならば大丈夫! #外側__・__#なんかもう用済みだ!


 あんな奴ら、もう知ったこっちゃない! カシムと一緒に絶対に逃げ切ってやる!


 それにしても…。


 畜生! チクショウ! ちくしょう!


 もう形振りかまってなどいられるものか! こうなったのも、全部アイツらのせいだ! あの女だ! あの女が全て悪いんだ!


 一刻も早く本物を見つけなければ! あの時だ! あの中島明という学生。あの部屋に入る直前だ。あの時だ。あの時に見逃していたのだ。あの時に背負っていた、あの白髪の老婆と見間違えた女が、恐らく本物のアルビノの女神だったのだ。…クソッ!


 なんて最悪のニアミスだ! だが、ピンチじゃない。これは逆にチャンスだ。あの学生が匿っているのなら、取り返せばいい! 女神を早いところバラして、金にする算段を整えれば…。


 まだチャンスはある! まだ間に合う!


 これさえあれば、当面の金の心配などいらない!


 こちらにはカシムがいる。こちらは二人だ!


 私の計画に狂いはない!


◆◆◆


とりあえず上手くいけそうだ。

(しかし、それはうまくいくように見えます)


あの女を放っておくのか?

(あなたはその女性を残しますか?)


失敗した時はどうするつもりだ?

(失敗の時を考えてください)


あの女も邪魔なんだろう?

(女性も痛いですね)


殺しなら俺に任せろ

(あなたが殺すなら、私を行かせてください)


代わりに金を用意しておけ。

(それの代わりにお金を準備する)


奪うに決まっている

(それは取ることを決めました)


億万長者は俺一人でいい。

(私は十億歳に過ぎない)


用が済めば殺せばいい。

(あなたが終わったら殺すことができます)


間抜けな日本の警察などに捕まるか。

(あなたは日本の愚かな警察に巻き込まれますか?)


あまり時間がない。

(私は時間がない)


出国の用意をしておいてくれ。

(出発の準備をする)


◇◇◇


 3月23日(日) 曇りのち晴れ


 幸せの崩壊は夜にいきなりやって来た。


 突然、インターホンの音が鳴らされた。ごめんくださいという、やや控えめな若い女の声がした。こんな時間に来客? 保険の勧誘員か誰かだろうか?


 僕はびっくりしている様子のアイカに、取り敢えず部屋の外からは見えない死角に隠れるよう言った。僕はいつもそうするように反射的に内側の鍵を開けたが、ふと思い立ってドアについているレンズ越しに外にいる相手が誰か確かめてみることにした。


 いきなりドア越しに、血に飢えた獣のような目をした黒人の男と目が合った。黒人!?


 どういうことだ!? さっきの声は女だった!


 ということは…。


 その瞬間、外開きのドアがガチャガチャと今にも開かれようとしているのを見て、僕は慌ててドアノブを掴んでこちら側へと引っ張った。ドアは閉じられたが、耳慣れない言語の叫び声がしたかと思うと、今度は凄まじい音が辺りに響いて、ドアノブを掴んだ僕の腕が僅かに振動した。黒人の男がドアを蹴り飛ばしたのだ。二回、三回とそれが繰り返される。ドアを蹴破るつもりか! 僕は慌てて背中でドアを塞いだ。薄いドアを隔てて、背中越しにあからさまな暴力の衝撃が伝わってくる。蹴られる度に体が前につんのめりそうになる。これじゃ内鍵が掛けられない!


…そうか! コイツら、二人組なのか!


 連中の狙いは間違いなくアイカだ!  クソッ! コイツらがアイカを狙っている連中なのか! ならば、僕の敵だ。アイカには指一本触れさせるものか!


 一瞬、体が浮き上がるような感覚がして、ドアが外側へと再び引っ張られた! 力任せに、ドアを無理矢理こじ開けるつもりだ! マズい!


「窓から外に出るんだ! ベランダから隣の部屋に逃げろ!」


 僕はわざと大声を上げた。酷く怯えている様子のアイカに見えるように、必死で首を横に振ってかぶりを振る。ウォークインクローゼットに入るように、顎でしゃくった。視線と顎で必死で天井へと注意を向けさせる。


……気づいてくれ、アイカ! 敵は二人いる。上の階の空き部屋の穴から侵入されたら、一貫の終わりだ! 相手はアルビノ狩りにアイカを探しているような連中だ。見つかったら何をされるか、わかったものじゃない。せめて僕が、時間を稼がなければならない!


 再びドアが外側に開かれようとしている! 僕は必死で両手でドアノブを掴んで、こちら側に引っ張っていた。物凄い力だ! 鍵など掛けさせて堪るか、という明確な暴力の意志が伝わってくる。


 粗末なドア一枚を隔てて、無理矢理ドアを開けようと相手も必死でドアノブを引いている。開けさせまいとドアノブを掴んで引っ張る僕と、無理矢理こじ開けようと、外側へと開こうとする黒人の男。互いの力が拮抗している。粗末なアパートのドアが、壁が、頼りない木造の天井がミシミシと軋む。今にもどこかが壊れそうな頼りない建物だ。構うものか!


 誰でもいい! 誰か、早く! この騒ぎに早く気づいてくれ!


 アイカは僕の思惑をすぐに察したのか、頷いてウォークインクローゼットに身を隠した。


……よし、いいぞ! それでいい!


 もう自分の不甲斐なさのせいで、誰かが死ぬのなんてゴメンだ! ここが最終防衛ラインだ。僕が彼女を守るんだ! しのげ!  あの震災を生き残ったんだ! このくらい耐えろ! アイカの為に踏ん張れ! 生き抜いてみせろ!


「どいて!」


 女の声がした。その瞬間、ガシャンという音と共に目の前のドアのガラスが割られ、破片が僕の顔や肩口に降り注いできた。僕は思わず顔をしかめた。何が起こったのかと、目の前のそれを見た瞬間、僕は全身に怖気が走った。突き出された黒い突起物が見えた。柄か!? ナイフの柄だ! ダガーナイフだ! 夜だというのにマスクをしてサングラスまでかけた女と目が合った。血走った目でこちらを見つめる、その表情には明らかな殺意がみなぎっている。


 クソッ! 誰だか知らないけれど、この女、何てことを考えるんだ! ホラー映画のワンシーンを地でいくような展開だ。ドアの隙間から僕を刺し殺すつもりか! このままだと決定的な隙を作ってしまう  鍵をこじ開けられてしまう!


……クソッ! マズイ!


 もう駄目なのか! そう思った。


 その時だった。


「フリーズ! ドン、ムーヴ!」


 誰かの裏返った声がした。


「ドン、ムーヴ! 動くなと言っている。ホールドアップだ! そこの二人! 武器を置いて両手を上げろ!」


 誰だ? ドア越しに灰色のスーツを着た小柄な男が、何と両手で銃を構えてこちらを向いて立っている。警察か! 黒人の男は構わずに部屋に入ってこようと再びドアノブを掴んだ。女がナイフを逆手に持ち代えて、後ろを振り返った。女は標的を後ろの男に変えたようだ。


「う、動くな! ち、近づくと撃つぞ!」


「どけ、梅田ッ!」


 突然、何か白い獣のような塊が、眼鏡をかけた小柄な男の後ろから突風のように現れた。それは白いスーツに帽子を被った男だった。その男は、俊敏な動作で女の腕を素早く捻り上げると、女が持っていたナイフを即座に右の手刀で叩き落とした。


 声にならない悲鳴を上げ、女はナイフを取り落とした。派手な金属音がして、ナイフが硬い床に落ちる。男は返す刀で女の鳩尾に拳を入れた。猛然と突っ込んできたその白いスーツの男は、今にもドアを開け放とうとしていた黒人の男の腹を、そのまま勢いよく蹴り上げた。


 もんどりうって部屋に転がり込んできた男の眉間には、いつの間にか黒い銃口が突きつけられていた。速い! 恐ろしく速い! 一体、誰なんだ!?


 突然現れた長身の男は、正に電光石火と呼ぶにふさわしい、獣の狩りのように無駄のない俊敏な動きで、一瞬で二人を制圧していた。


 僕は思わず見とれた。現れた男を間近で見るに、改めてその出で立ちに驚いた。象牙色の白いスーツに揃いの白いソフト帽を被り、黒いアンダーシャツに赤系統のネクタイという派手な出で立ちだった。本当にヤクザの組長か何かだろうか。


 全身から殺気を発しながら、黒人の男を見下ろし、銃口を突きつけながら威圧している。その男の獰猛で、静かで抗えない迫力に僕は身動き一つできず、気圧されていた。一見クール過ぎるような出で立ちだが、帽子の下に隠された鬼神像のごとき怒りの表情を、隠そうともしない。獰猛な狼のようなその目は、ヤクザよりも恐ろしかった。


 長身の白いスーツの男は、いきなり耳慣れない言語を発した。クローゼットの中に隠れていたアイカが後で教えてくれたのだが、刑事はスワヒリ語でこう言ったらしかった。


「動くな。額に穴が開くぜ。そこの天井みたいにデカい穴がな」


 倒れていた黒人の男は、そこで始めて白いスーツの男を恐怖の眼差しで見つめた。男が発している言葉が、きちんと相手に通じている。黒人の男へと白いスーツの男は再び続けた。


「出稼ぎご苦労。あいにくだったな。奇跡の薬は品切れだ。人殺しは億万長者にはなれないんだぜ」


 その言葉に、男は突然暴れだした。何を言っているのか皆目解らなかったが、確実に黒人の男には通じているようだ。暴れる男の顎を獰猛なスーツの男は容赦なく蹴り上げた。声にならない声を上げ、黒人の男が再び地面に倒された。獣のような白いスーツの男は、黒人の男の鳩尾を躊躇せずに踏みつけた。苦しんで、のたうち回っている男を冷たい目で見下ろしながら、男は言った。


「生きてるだけマシだと思えよ、人殺し共。日本の警察をナメるんじゃねぇ」


 白いスーツの男が顎でしゃくると、硬直していた黒い眼鏡の小男はハッとして、弾かれたように黒人の男を後ろから羽交い絞めにして拘束した。


 バタバタと音がして、狭い廊下にさらに乱雑な音が響いた。また誰かが現れたようだ。いかにも刑事といった風貌の、灰色のスーツを着た長身の刑事と黒いスーツを着た女性までいる。二人は互いに頷いて、そのまま倒れたコートの女の退路を塞ぐ形をとった。


 白いスーツの男は鳩尾を押さえて、うずくまっている、そのマスクとサングラスの女へと銃口を向けた。


「さて、後はアンタだけだな、レディー。俺はこの通り、相手が女だろうが外国人だろうが犯罪者は容赦しねぇ。人権擁護に女性差別? そいつは何だ? 新手の食い物か何かか?

……そのマスクの下は火傷だな? 普段は眼鏡でもかけてたんじゃねぇのか? 苛性ソーダを扱う時には、その辺はもう少し慎重になるべきだったな。さっさと警察病院の医者にでも治療してもらえよ」


「どうして……ここが?」


「アンタがしくじったからさ。Facebookに書き込んだのは間抜けすぎるぜ。女の火遊びは文字通り、こんな風に火傷するってこった。アンタも身にしみて解ったろ? アンタが死体を解体した手口も、ブレンダ・ルイス・ステファニーに罪をなすりつけた手口も、こちらは既にお見通しだ。もう無駄な抵抗はよすんだな」


 得体の知れない女は観念したのか、忌ま忌ましいといった様子で、マスクとサングラスを外して苛立たしげにコンクリートの床に叩きつけるように投げ捨てた。その瞬間、後ろにいた女性がハッと息を飲むのがわかった。その黒いスーツの女性は恐らく仲間の刑事なのだろうか。口元を押さえて恐怖の表情を浮かべている。それほどまでに、女の容姿は頬から耳にかけて焼け爛れたような跡が酷かった。白いスーツの男は、動揺している様子で傍らにいる、恐らくは彼の部下と思われる仲間達を片手で制した。


「口裂け女の都市伝説はまんざら間違いでもなかったってわけだ。そこのカシムと組んで、女神様をバラしてトンズラしようって腹だったんだろうが、昔から警察には探偵って協力者がいるもんでな。お前らみたいな臭ぇ犯罪者には、そいつは殊更に鼻が利くらしいぜ。そいつが情報をくれたのさ。何をしようが無駄だ。お前が坂谷由衣だな?」


「だったら何よ? どうせ私だけじゃないわよ。私の代わりなんかいくらでもいる。今の世の中と一緒よ。私なんかどうせ使い捨てのクズよ! 男に弄ばれて捨てられて、浮気で職場にもいられなくなった人生の落伍者でゴミよ! 誰にも、何にも選ばれなくてクズになった女よ! 何よ、たかが女子高生の死体の損壊と遺棄でしょ。殺したいなら殺してよ! このままそれで撃ち殺して死刑にでもしたらいいでしょ! 出来るものならね!」


「へっ、ゴミか。随分と自分勝手な生ゴミだな。かつて学校の校庭で小学生を殺しまくった胸糞悪いクズや、歩行者天国で暴れまくったゴミも似たようなことぬかしたがよ。犯罪者のその捨て鉢で投げ遣りで人様を巻き込んで居直る態度ってのは、俺はどうにも気に入らねぇな。ま、おかげさまでクズの扱いには慣れっこだがよ。クズだのゴミだのにされてきた割には、随分と甘ったれたことをぬかすじゃねぇかよ」


 刑事がそう言った時に、ちょうどはかったようなタイミングで刑事の懐からスマートフォンの着信音が鳴った。刑事は仲間に顎でしゃくると、銃口と視線はそのままに電話に出た。


「俺だ。ああ、無事に確保したぜ。…ん? ああ、わかった。別に構わねぇぜ。ったくよ、本ッ当にお前もお節介な奴だな。面倒見のいいこった。まるで俺達の会話を聞いてたみたいなタイミングの良さだったぜ。……おい、アンタのチャチな計画をぶっ潰した俺の仲間からだ。そのまま聞きな」


 ヤクザのような男はスマートフォンを通話モードのまま、受話音量を最大にして女の前に掲げた。電話から聞こえてきた声は、意外にも若い女の声だった。


「坂谷由依さん、初めまして。私は片桐美波と申します。そこにいる西園寺さんに捜査協力させて頂いた者ですわ。どうぞ、よろしくお見知りおきを」


「はっ! 女名探偵さんが道を過ったクズの犯人に忠告に参上って訳? 悪いけどお呼びじゃないわ。それにここは学生の住むボロアパートよ。死にたがりな二時間ドラマの犯人が最後に動機を都合よく喋る為にたどり着く、どこかの自殺の名所の海岸の崖じゃない」


 女は続けた。


「ねぇ探偵さん、わざわざ忠告に来てもらって悪いけど、私は別に悪いとも思ってないわよ。こんなクズの私でも、どうせ死刑にはならないんでしょ? 刑事や弁護士や裁判官や法務大臣や人権団体が、これからいいだけ長い時間をかけて私を守ってくれるし、これからも生きていけるんでしょ? クズに優しい世の中って素敵よね。だったら、もういいわ。こっちはアンタみたいな、どこの馬の骨とも知らない探偵や警察の犬が語る有難い御託なんか聞きたくもないの。お説教もお節介もまっぴらで間に合ってるのよね。消えてくれない?」


「あら、気が合いますのね。私も社会派ドラマの犯人逮捕直前のワンシーンなど興味ありませんわ。最後に感情を爆発させて動機を吐露して、崖に落ちて死にたがる二時間ドラマの犯人のご都合主義な展開なんて、捻りがなくて、あんまり面白くありませんものね。私がこうして貴女に声を聞かせるのは、一人の女として貴女に聞きたいことがあったからです。それが終われば、電話を切って消えてあげますわよ」


「へぇ、聞きたいこと? どうしてあの女子高生をバラバラにしたかってこと? 女探偵さんはサイコパスの犯人の異常心理の方にでも興味があるっての? それもドラマの展開によくあるヤツよね?」


「私が知りたいのは、なぜ貴女が自分や他人をゴミだと思ってるかどうかについてですの。社会心理学や犯罪学でいうところの逸脱行動。そのフィールドワークの為の調査の一環といったところですわ。そこで好奇心でお聞きしたいのです。たとえ生きる道を選べなかったとしても、人種や国籍や容姿がたとえ生まれつき人と違っていても、人はそれでも生きているものです。貴女はそれも含めて、他人や自分をどうもゴミ呼ばわりしては、愉悦を感じるタイプの人のようです。それは別に構いませんが、貴女が切り刻んで煮溶かしたのも、貴女が殺そうとしたタンザニアから来た女性も貴女と同じように弱く、普通の女性ですよ? それはなぜです? 同じゴミだから、どうしようが勝手だというなら、それは困りますわ。だって私も女なんですもの。ゴミにされたら美波、困っちゃう」


「だから何よ! 解った風な口を利かないで! アンタもどうせ、警察の犬なんでしょ! アタシをパクって報道で有名にでもなりたい訳? なればいいじゃない! 女名探偵として一躍人気者になれるわ!」


「残念ながらそうもいかない事情があるのですわ。西園寺さん、あまりお時間はとらせません。通話モードをテレビ電話に切り替えて、彼女と少しお話をさせてもらえませんか?」


「いいのかよ? 犯人に恨みを買うのは、警察だけで充分だぜ。自分の身を晒す以上は、あとは自己責任の範疇だ。お役所仕事で悪いが、実害や被害届が出ない限り、警察は動けないぜ。お前がたとえ事件の協力者でも身の安全までは配慮しかねる。民事不介入の原則ってやつだ」


「構いません。口で説明するよりも、私を直接こちらに見てもらった方が早いでしょう。

Seeing is believing。百均は一軒でもいけず。一休さんお断りといいます」


 どういうことだ。百均は一軒でもいけず? 百円均一の乱立に悩む京都出身の人なのか?  一休さんお断りというのは、どういう意味だろう? 僕の頭にハテナマークが大量に浮かんだタイミングで、別の誰かの声が聞こえてきた。


「それをいうなら、“百聞は一見にしかず”ね。あと“一見さんお断り”だよ。一休さんは関係ないし、とんだ風評被害だ。京都の人に怒られるよ。そもそも“いけず”や“一見さんお断り”というのは、嫌味で陰湿な性格だと誤解されがちだけど、自ら築き上げてきたクオリティーの質を落とさず、昔から自分達を支えてきてくれた身近なお客さんを大切にしたい、という京都人の遠回しな気遣いのことであって……」


「ああ、もう! ンな講釈は今はどうでもよイのですッ! 後からまとめて聞きますわッ! とにかくカメラマンの東城はんはこれを持って、そこに立って、ウチを撮ってくんなまし!」


「はいはい……。これさえなけりゃクールな女探偵なのにねぇ。せっかくの場面が滅茶苦茶のぶち壊しじゃないか……」


 スマートフォンをテレビ電話モードに切り替えた途端、坂谷由依と呼ばれた女が高らかに笑った。


「はっ! ハハハハ! あははははは!  何よそれ? 安楽椅子探偵ならぬ車椅子探偵って訳? あっはははは! まさか私、こんなアホな障害者の女にしてやられたって訳?」


「アホとはなんです、アホとは! 坂谷さん。こんな風に人は見た目や結果の勝敗ではないのですよ? 私は警察の協力者ではありますが、自分の意志でそうしているだけのこと。それは安っぽい功名心からしたことではありません。私は多少ひねくれた女でして、こんな滅多に世に現れないような、複雑怪奇な素敵な謎を提供してくれた貴女のような方にはむしろ、感謝のお礼を言いたいくらいなのですわ! 死体遺棄はもちろん褒められたものではありませんが、それでも自分をゴミと言いきる貴女を助けたいのです」


「はっ! 何様のつもりよ! 私を捕まえる警察の手助けをしておいて、今度は私を助ける? アンタ、頭が狂ってるの? 犯罪者に同情して、今度は動画の実況生中継って訳? 車椅子の女探偵はお涙ちょうだいの感動ポルノで有名になりたい人な訳?」


「繰り返しますが、私は有名人になんかなりたいとも思いませんわ。感動ポルノなんて殿方達の夜のおかずにすらならない上に、わざとらしく泣かせたがる偽善の押し売りを強要するポルノなど売りません。だいたい夜のおかずとポルノで飛ばしていいのは、わざとらしくちょちょぎれる涙ではなく、殿方の欲望剥き出しの濁りきった濃いスペ……」


「スペースシャトルはスッゴいなー!

……ねぇ、知ってる? 地球を衛星として周回するために必要な第一宇宙速度は時速28,400km。スペースシャトルの場合は第二宇宙速度で時速40,320kmあたりまで加速するんだ。驚異的なスピードだね! アメイジング! 宇宙まで飛べ、僕らのスペースシャトル! 高く強く速く! ビューン!」


「アホの突っ込み役は必死だな……。東城よ、お前に心底同情するぜ。俺がその場にいたら、そいつの頭をひっぱたいてやるところだ」


「ああ、ええっと…うん。美波さん、大事なシーンで下ネタはやめようね。お願いだからね」


「わーかってますッ! いいから、カメラはこっち! ええっと…そう! 坂谷さん、私は貴女のように失ってしまった過去を牛の反芻胃のようにウニウニ数えて、いつまでもシコシコと自らを慰めて泣いているような暇な人生など生きていませんわ!」


「ウジウジな。あとシクシクだ。なぁアンタ、多分コイツに悪気は一切ねぇんだ。アホのやることだから、全面的に勘弁してやってくれ」


「擬音は連想するから禁止。下ネタ駄目、絶対」


「そこ! 現場の刑事と裏方の記者が電話口でいちいち突っ込まない! ええと、何が言いたいかっつーと、永谷さん!」


「坂谷さんね」


「しゃかたにしゃん! 私は貴女のその他人の顔色を必要以上に窺って、最後には他人をゴミだの馬鹿だのアホだのと断じる小心な性格には我慢なりませんわ! 貴女のように他人をクズだのゴミだの言っておきながら、最後に自分はゴミだのクズだの選ばれなかった女だの、もういいから好きにしろだのと、簡単に逃げるような後ろ向きな思考には私、片桐美波が一言物申しゅ! 言ってやりてぇことが、腐るほどありゅのでしゅッ!」


「噛んだよな、今」


「噛んだね、盛大に。興奮してるからね。取り扱いには要注意だ」


「オッホン! ……いいですこと、坂谷さん。私はこんな風に誰かに知恵を貸すことくらいしかできませんの。道を過ってしまった人に説教なんて偉そうなことは言えませんが、とにかくもう我慢できないから、貴女にこれだけは言っといてあげますわ!」


「自覚してたんだね。意外……」

 

「上から目線で態度は相変わらずデカいけどな」


「ゥオッハァン! 安楽椅子探偵などといえば聞こえはいいですが、実際は現場に飛んで行きたくても行けないし、そこにいる西園寺さん達のように実際にこうやって誰かを逮捕したり、誰かの命を救えるわけではないのです。そこで貴女に考えてみてほしいのです。動かす相手が違うだけで、私のしていることは、基本的に貴女を操って犯罪に駆り立てた人達と何ら変わらないことをしているのですよ?」


 ケロイドのような火傷を負った女は微かに動揺した様子で、視線をそわそわと動かしていたかと思うと、ふと電話口から顔を背けた。


「アンタに話すことなんか何もないわよ…。

……ちょっと、アンタ達警察でしょ。何してるのよ、下らない三文芝居と漫才は打ち切って、さっさと私を捕まえてくれる?」


「貴女をそこまで貶めた人達のことが知りたいのです。貴女に協力してほしいと言っています。これはむしろお願いです。坂谷さん、貴女がゴミになろうが化け物になろうが知ったことではありませんが、自分の魂の価値を決めるのは他人ではなく、最後は自分自身の意志です」


 僕はその言葉にハッとしていた。周囲にいる者達全員が、訳がわからないなりに女の声に耳を傾けている。女の口調は滅茶苦茶なのだが、どこか有無を言わせぬ迫力があって何をどう反応してよいやら、なんと表現すればよいのか、とにかく滅茶苦茶な割にはやたらと牽引力があって何かしら引きつけられるものがあった。僕の位置からは画面は見えなかったのだが、とにかくやたらと存在感のある女なのは確かだ。


「腐っているのは世の中ではありません。いろんな人が何か事件がある度に騒ぎ立て、その陰に隠れて好き放題にネットで同調圧力に乗っかって、誰かを好き放題に責め立てる。そんなウンザリするような繰り返しとネットと現実であまりに違いすぎる人間の性格とそのギャップに貴女は戸惑っているのでしょう? 当たり前のように受け入れている、この情報の波に溺れそうな現実が果たして人として正しい在り方なのか? 貴女はそこに矛盾を感じているのです。ならば私が答えを出して差し上げますわ」


 やたらと存在感と迫力のある言葉に、いつの間にか場は静かになっていた。女は続けた。


「人の数だけ答えや落としどころがあって、疑問は無限大に膨らみ続ける中、答えを探しても上手くいかずに潰されそうな現実があっても、最後に答えを出すのは自分自身なのです。何もかも他人や世の中のせいにして、どうせみんなやっていることだからと、壊して、打ち捨てて、切り刻み、他人の命をゴミ同然にして貶め、他人より優位に立って弱い者いじめがしたいだけの、そんな臆病で誇りもない弱い魂に、貴女は矛盾を感じないのですか? 弱い人達をゴミクズのように貶めて操る本当のクズ達に、貴女は怒りを感じないのですか? 操り人形に利用されたことを貴女は悔しくなかったのですか? 貴女の口からそれが聞きたいのです」


 コートを着た女は項垂れていた。何を考えているのだろう? 先ほどとうって変わって、微かに震えているのが解る。 粗末なアパートの床を心ここにあらずといった様子で、坂谷由依はひたすら一点だけを見つめている。何も聞いていない訳ではないようだ。


「葛藤していますわね? それでいいのです。坂谷さん、貴女はゴミでも、神に選ばれた人間でもないし、化け物でもないわ。ただの弱い人間で普通の女の人です。今すぐでなくて構いません。いずれゆっくりと、貴女には話を聞かせてもらいたいですわ」


 見るも無惨に焼け爛れたその頬を、もはや隠そうともせず、女はうちひしがれた様子で、地面に両手をついて俯いた。先ほどまで女を駆り立てていた、焦りと苛立ちの塊のような殺意と狂気が霧散している。


「もう……どうだっていいわよ……。とっとと逮捕でも何でもすればいいじゃない……」


 その時、一瞬だけだったが白いスーツを着た刑事の肩口から、彼が持ったスマートフォンの動画映像がちらりと見えた。ふっくらとした下唇の左に艶ボクロのある、端正で上品な女性の口元だけが見えた。女がにっこりと微笑んでコクリと頷いたタイミングで、通話は途切れた。白いスーツの男は、即座に銃口を上へと向けてスマートフォンを懐に仕舞うと、仲間達に指示を始めた。


「よし、現行犯逮捕だ。コイツらも民間人と変わりねぇんだ、もう手荒な真似はするなよ。このまま地元の警察に引き渡す。梅田、もう銃をおろせ。美玲、いつまで怯えてる? 色々と面倒だから、この女を頼むぜ。松岡、拘束したら美玲と二人で車にぶちこめ。吉祥寺警察署にすぐに連絡だ」


「了解です。21時47分。タンザニア国籍のカシム・アジャヒ。そして、坂谷由衣。女子高生殺害と死体遺棄及び殺人未遂の容疑で、お前たちを逮捕する!」


 松岡と呼ばれた刑事と美玲と呼ばれた女刑事は二人を伴い、外へと出ていった。


 梅田と呼ばれた黒縁眼鏡の小柄な男は、ホッとした様子で拳銃を下ろし、ひゅうっと口笛を吹いた。


「カッコいいです、班長! いつスワヒリ語なんて勉強したんですか?」


「シビレたか? なぁに、決め台詞くらい予習しときゃチョロいもんさ。ま、種明かしをするとだな、語学が堪能でお節介なさっきのダチが翻訳語のアプリをLINEで送ってくれたのよ。ハードボイルド小説の刑事みたいにカッコよく決めてみろってな。そいつの台詞を代弁しただけさ」


「なあんだ。全部お友達のおかげですか。褒めて損しましたよ」


「やかましい。しッかし、便利な時代になったもんだぜ。今やスマホでこうして翻訳機まで持ち歩ける時代だってんだからな。爆買いだ、おもてなしだ、お客様だ、技能実習生だ、グローバル化だと、やたらと外国人を持ち上げてるようだが、今回の事件みたいに犯罪やテロだって簡単に国を越えるってことを知らないと、これからの日本人は痛い目を見ることになるぜ」


 ヤクザのような刑事は、手に持った黒光りのする大きな拳銃をしげしげと見つめながら言った。


「まさか、本当に44口径を持つハメになるとは思わなかったがな……」


「モデルガンですけどね。スミス&ウェッソンM29。通称“44マグナム”。6.5インチ銃身長のブラックモデル。かの名作映画『ダーティー・ハリー』のハリー・キャラハン刑事で一気に有名になった1970年代当時のS&W社の最高級モデルです。44口径リボルバーの6連発。腕の一振りで人間を瞬く間に殺傷する獰猛なグリズリーを5発で沈めた記録があります。あのゾンビで有名な某ゲームや映画でも有名ですね。I have this! 俺にはこれがある。愛銃にこめたバリーの台詞にはシビレましたねぇ」


「ゲームマニアは銃オタクでもあったな。俺の周りには変な奴ばかり集まるな。刑事がいい年こいて戦争ゴッコもねぇだろうに」


「サバゲーです。サバゲーは紳士のスポーツであります。刑事の嗜みですな。常在戦場。刑事たる者、心と身体はいつも戦場にいる時のように強く雄々しく、冷静沈着であれ」


「その割には、随分とあの二人には舐められたようだがな? お前の声はドスが効いてない上に聞き取りにくいんだよ。心のどこかで拳銃を持ってるって甘えがあったんじゃねぇのか?

いいか、追い詰められた犯罪者はな、自分が助かる為には形振りかまわねぇ相手だってことを忘れるな。こちらが武器を持ってるとなったら、奴らはそれを奪って使う側に回るってことを考えろ。警官が銃を奪われたら、テロなんざ起こり放題だ。確保の時こそ、あらゆる危険が付きまとう。視線の揺らぎ、口調、手の震え。ちょっとした動揺は即、自分の身に返ってくると思え。敵は必ずそこを狙ってくるぞ」


「す、すみません……。ま、まぁそこはそれ! そのマグナム44も室内での戦闘用にカスタマイズした仕様です。文字通り44口径なので西部劇で有名なピースメーカー・コルト45より、やや小さいサイズ。マグナムの11.4mm弾は小銃の7.62mm弾や5.56mm弾に比べて火薬の量が多い分、破壊力と銃の反動が劇的に増します。本来は大型の野生動物などをしとめるために開発されたもので、人間を撃つものではありません。ちなみに先ほどの班長のように片手で照準して実銃で撃ったりなどしたら、華奢な人なら下手をすれば反動で肩を痛めます。発砲音もド派手で大きく、日本の住宅街でブッ放すには、相当に不向きであります」


「当たり前だ。たいした趣味だが、改造だけはするなよ。多発する外国人犯罪者への威嚇や脅し程度には使えたようだがな」


「いいですねぇ。今度はAK47で突入したいですねぇ。作戦行動における偵察、立案、突入の3ステップ。攻撃と防衛のスリリングな駆け引きと包囲網! 今回の事件は痺れますね~。まるでレインボーシックスだ」


「言ってろ。本当に緊張感の足りねぇ奴だ。現実が小説やゲームみたいにいくか。現場のデカがSAT並みにアサルトライフルで武装しなきゃならねぇ事態には、そうそうならねぇと信じたいがな。分かったら、あの九州弁のうるさい大家やアレで武装してるつもりになってる、あの住人達に事情を説明してこい。ヤクザが殴り込んできたって俺達が通報される羽目になるぞ」


「班長のその格好が色々と紛らわしいんですよ……。白いスーツ上下にソフト帽って! 静かなるドンですか」


「やかましい。さっさと行け」


 白いスーツ姿の男は、そこで僕を見留めると、ゆっくりと僕の方へと近づいて快活そうに手を上げて言った。


「よぉ、勇敢なナイト様。ようやく会えたぜ。騒がせて悪かったな。もう大丈夫だ。お前のことは、俺達はよッく知ってるぜ。お前の働きは警察としても感謝状に値するぜ。よく俺達が来るまで頑張ったな。……よぉ、そこのクローゼットにいるアルビノの女神様、アンタももう外に出てきて大丈夫だぜ。いきなりで訳がわからねぇだろうが、俺らは警察だ。つっても日本語じゃ解らねぇか。そうそう、俺は丸の内警察署の刑事課強行犯一係の刑事で西園寺ってもんだ」


 アイカのことまで知っている。探偵といったか、それに隣にいたのはカメラマン? 裏方の記者といったか? あんな滅茶苦茶な協力者までいるのだろうか? スーツの男は、まるでこちらの動きまで予め、全部読んでいたかのような口ぶりだ。訳が分からなかった。


 白いスーツを着たヤクザのような男は、そこで始めて内ポケットから見開きの警察手帳を出して僕に自己紹介した。『西園寺和也』という名前が確認できた。口調は粗野でぶっきらぼうだが、先ほどとはうって変わった気さくな様子で話す、この頼もしい刑事に僕は大いに好感を持った。ハードボイルドを地でいくような、ややキザなところも見せたが、少なくとも、この刑事は信用できそうだった。


「アルビノの彼女には、後で事情を聞かせてもらうとして、まずはお前だ。後でわんさか後続の警察官が来るだろうからな。大家にはこちらから事情を説明しておくから、安心しろ。ご近所の目もあるからな。外で話そうぜ」


 後ろの方を見ると、九州弁の賑やかな大家のおばちゃんと顔にダース・ベイダーのマスクを被ってマイナスドライバーにゲームのコントローラーを手にした妙なコスプレをした1階の学生や他の住人達が、揃ってこちらを見ているのがわかった。思った以上に騒ぎになっている。なんだか申し訳なかった。


 春先とはいえ、夜風はまだ冷たかった。アパートの近くの児童公園に来ると、西園寺と名乗った男は温かい缶コーヒーをポンと投げて寄越した。僕は慌てて野球のキャッチャーのように両手でそれを受け止めた。刑事はそれを見るとニヤリ、と微笑んだ。


「お前のその左腕、もう何ともないみたいだな。安心したぜ。頭の震えが止まらない、か。後遺症ってのは、なかなか消えねぇものらしいからな……」


 この西園寺という刑事、僕の左腕のことまで知っている。それに僕の後遺症のことまで。なぜだ?


 公園のベンチに座りながら、刑事は僕の知らなかった、もう一つの現実を余さず僕に教えてくれた。女子高生の殺人事件に盗難事件、そして殺人未遂事件と、とんでもない事件の連鎖だった。アイカがなぜ、あの屈強なカシムという黒人の男や怪しげな格好をしたあの坂谷由依という女に狙われなければならないのかも、僕はようやくにして、そこで理解した。それにしても、何ということだろう。僕の書いた日記の一部がSNSで世間に広がっていたらしい。寒い夜中だというのに、僕は思わず赤面してしまいそうなくらい恥ずかしかった。


 自分の日記の大ファンの女性がいて、それがさっきの滅茶苦茶な女なのだと聞かされた時は訳がわからなかったが、事情を聞いて納得した。アイカを病院に連れていった、あの日だ。ヒル達がいなくなっていたことや髑髏がなくなっていたことにはすぐに気づいたが、パソコン周辺の部屋の配置がいつもと変わったような違和感を覚えたのは、間違いなかったのだ。


 あの日に別々の泥棒が二人も入り込んでいたということだったのか。鍵をかけ忘れていたのは本当に迂闊だった。アイカを軸にして、僕がアンティークショップで買った、あの髑髏を軸にして、とんでもない事件が次々と僕達の周りで起こっていたというのか。にわかには信じられなかったが、起こったことを素直に理解するには、そうとでも考えなければ説明のつかないことばかりだった。そして、それは彼らにしても同じだったろう。こんな複雑な事件を解決しろという方がそもそも無茶苦茶なのだ。それも、あのちょっと変わった女の人が謎を解いたというのか?


 あの片桐美波という女性は謎解きが大好きで西園寺刑事曰く、とにかくもう滅茶苦茶な性格で興奮したりテンションが上がると日本語の語彙まで怪しく、しっちゃかめっちゃかになって人の名前すら平気で間違う躁病気質の変人なのだそうだが、探偵としての腕前とその発想や閃きだけは確かなのだそうだ。


 滅茶苦茶な名探偵の活躍には呆れるやら感心するやらで、会ったこともない僕としては戸惑うばかりではあったのだが、アイカの命の恩人ではある。西園寺刑事も口では邪険にしていても、ちょっぴり変わったあの女探偵の友人を信頼しているのだというのは充分に伝わってきた。ひとしきり冗談のような女探偵の話を続けていた刑事は、それが会話の掴みだったかのように、やや打ち解けた様子で、僕に真剣な表情で語りかけてきた。


「なぁ、一つ聞いときてぇんだがな、生きて誰かに傷つけられるのは嫌か? 自分が誰かを傷つけて生きていかなきゃいけねぇってことは、お前にとっちゃそんなに辛いことなのか? 俺とさっきのダチが好きなハードボイルド小説によ、そういやこんなスカした台詞があったっけな。タフじゃなければ生きていけない。優しくなれなければ生きていく価値がないってな」


「フィリップ・マーロゥですか……。『プレイバック』ですね。レイモンド・チャンドラーは昔、読んだことがあります。人は強くも優しくもありませんよ。孤独だから死ぬ訳でもない。きっと絶望するから人は死ぬんです……」


「その通りだ。人はとことん残酷さ。警察官なんかやってるとよ、うんざりするほどそんな奴らに出会う。テメェがよけりゃそれでいいとまでは言わねぇが、今の世の中、自分が生きてくだけで精一杯なのさ。他人にかまって、いちいち傷付いたり傷んだりしていたらよ、身も心ももたねぇんだ。あんな震災があったってのにな……。悲しんだり悩んだりする暇すら、与えてくれねぇんだよ」


 刑事は赤いタバコの箱を取り出して一本くわえると、ジッポーのオイルライターで火を点けた。紫煙を深く、ゆっくりと吸いながら西園寺刑事は僕に続けた。


「酷なことを言うようだがな、死んだ人間はもう帰ってこねぇんだ。両親の死が、お前にどれほど深い傷を与えたのか、俺なんかには到底解らねぇ。……けどな、誰かの死に怯えて、このまま自分の人生からも逃げ続けてるだけで、お前は本当にそれでいいのか? それだけはきちんと聞いておきたくてな」


「よくは……ないです。僕はもう生きることが解らなくなってしまった……。世間的にはニートと呼ばれる人達と同じだ。明日が見えないんです。十年後の自分どころか、一週間先の自分さえ想像できない……。自分一人で死ぬくらいなら別に怖くない。けれど彼女と、アイカと出会って、今はもう、死ぬのも生きるのも怖いんです。無為に時間が流れることが凄く怖い……。不安なんです。僕なんかに彼女を守れるのかって……。自分が殺されるかもしれないなんて考えたこともなかったし、今まで誰かに必要とされる人間だなんて、一度も思ったことはない。父さんや母さんが死ぬまで気づいてもこられなかった。死んだ父さんや母さんに謝りたいです……。それだけが心残りで……。考えるだけで後悔で胸が張り裂けそうで……」


「そうか……。だがな、これから先はそうはいかないんだぜ? この先、お前以外の誰があのコの盾になってやれる? お前、まさかあのコをこのまま言葉もロクに解らねぇ、この世知辛い国や、遠いアフリカの故郷に放り出すつもりじゃねぇだろうな?  彼女にとっちゃお前こそが、この国で……いや、これから生きていく為には、唯一の生きる道標なんだぜ?」


 それは考えていたことではあった。僕は彼女をどうしたいのだろう? アイカはこの国で、初めて人が当たり前のように生きられるということを知ったのだ。そんな煮え切らない僕を見て、西園寺刑事は言った。


「わかってるよ。お前はきっとそんな選択はしないだろう。お前の目を見ていて解った。お前は何が大切で、自分がこれから何をするべきなのかは、もう気付いてるんだよ。お前の目は、もう死にたがってる奴の目じゃねぇ。困ってる女を見捨てるようなクズなら、この場でぶん殴ってでも目を覚まさせてやるところだったがよ。何のことはねぇ、お前はただ、迷ってるだけじゃねぇかよ!」


 やさぐれた刑事は、僕の背中をいきなりバシンと叩いた。物凄く痛かった。


「ビシッとしろ! 胸を張って、腹を括れ。お前はもう一人じゃねぇんだ。古臭ぇ言い方かもしれんがよ、これから一人の女の盾になって一国一城の主になろうって男が、他人が怖いだの、もう傷つくのは嫌だなんて、情けねぇ理由で、生きることや誰かを守るってことから逃げんじゃねぇ!」


 刑事は被っていたソフト帽を傍らに投げ捨てると、今度は頭突きでもするように僕のこめかみに両手を当て、自分の額を押し付けるように真っ直ぐに僕の目を見つめてきた。手のひらから感じる体温が凄く熱い男だった。煮えたぎったマグマのような血に直接触れているような感覚だった。力強く獰猛なその瞳は、生きることそのものを渇望して尚も満たされない、飢えた獣のように、ひたすらに真っ直ぐで真剣な眼差しだった。


「いいか、誰かを守るってことはな、自分を支えてくれる人間がいるってことでもあるんじゃねぇのか? お前の日記がこうして俺達を呼び寄せて、あのコの命を救ったように、生きてる限り俺達は誰かと繋がってるんだ。誰かと繋がって生きていられるんだぜ。こんなありがてぇ話が他にあるか? 俺はこんな性格だからよ、誰かの助けや支えなしには生きていけねぇ自信があるぞ。俺がここにたどり着けたのもアイツらをお縄にできたのも、仲間が俺を支えてくれたからだ。だから俺はそれに全力で応えた」


 西園寺刑事は立ち上がって、今度は僕の肩をしっかり掴んで言った。


「ずっとモヤモヤしてたがよ、ようやくその正体が解って俺はスッキリしてるぜ。俺の勘は、正しかった。お前の日記には、見捨てちゃいけない何かを感じたんだよ。それはきっと、お前の文章からは誰かを救いたい、こんな自分を助けてほしいって気持ちがあって、その必死のSOSが俺たちに通じたからなんじゃねぇかと思ってる。そういう意味じゃ、俺は刑事としても一人の男としても、お前に礼を言わなきゃならねぇ。お前のおかげで犠牲者を出さなくて済んだんだ。本当にありがとな……」


 ありがとうはこちらの台詞だ。こんな優しい言葉をかけられたことなんてない。この人は本当に、芯から熱い男なのだろう。僕は自分の目頭がいつの間にか、熱くなるのを感じた。


「誰かと比べるな。そんなに堅ッ苦しく考えるなよ。俺達は生きてるんだぜ。誰が言ったか忘れたがよ、人生ってのは生きてるだけで丸儲けだろ? 今まで生きる自由すら与えられなかった、あのコの力になってやれよ。お前はどこまでも、お前らしく生きればそれでいいんだよ。人間ってのはよ、そんなに賢くて偉いものなのか? 金や家柄や学力だので人の価値を測るような奴もいるが、それで手に入れた場所がどんなに良い環境だからって、悩みがなくなる訳じゃないぜ。金や物で人の欠けた隙間が満たされるのか? 」


「西園寺さん……」


「俺はこの通りの礼儀知らずだがよ、感謝の気持ちってヤツだけは、いつだって忘れたくねぇんだ。誰かに感謝の言葉も口にできねぇ生き方ってのはよ、きっと寂しくって世知辛いもんだぜ。やたらと他人を叩きたがる御時世だがよ、完璧な人間がどこを探したらいるってんだ? 世の中、殺伐としちまっててよ、最近の都会じゃ孤独死なんて現実はめずらしくもねぇが、人は一人ぼっちじゃ生きちゃいねぇし、生きていけねぇものだろう? お前が誰かを支えている限り、お前は一人ぼっちじゃないし、孤独でもないんだぜ。それだけは忘れるな」


 その時だった。


「アキラ! アキラぁっ!」


 アイカは泣きじゃくりながら、僕の胸に飛び込んできた。僕は慌てて彼女を抱き留めた。僕の腕の中でアイカは何度も何度も僕の名前を呼んでいた。


 キザな刑事は象牙色のソフト帽を拾って埃を払うと、僕たちに背中を向けた。


「ほら見ろ。お前はもう一人じゃねぇだろ? ほんで、お前らの味方は他にもいるってこった。もう一人で悩まなくてもいいんだぜ?」


 お邪魔虫は退散だ後はよろしくやってくれ、といって背中を向けてバイバイしながら西園寺刑事は去っていった。


◇◇◇


 タンザニア東部。ザンジバルのストーンタウンは、徒歩で1日で回れる場所のようだ。市街の中心部は道が入り組んでいて、地図を持っていても迷うほどらしいが、この辺りは治安が悪くはないので、問題はないようだ。


 アイカの故郷であるザンジバルは、アフリカ大陸はタンザニアの東に浮かぶ群島だ。10世紀ごろからアラブ商人が定住し、大航海時代にはポルトガルが占領した。後にオマーン、さらにイギリスへと支配者が代わっていく。アフリカからの奴隷・象牙・金などの輸出、東西交易の中継やクローブの栽培などで栄えた。


 主島であるウングジャ島(ザンジバル島)には首都ザンジバルシティがあり、ストーン・タウンはその旧市街地だ。支配層であるヨーロッパとアラブ双方から文化の影響を受け、3階建て以上の石造建築物が連なる街並みは、東アフリカ地域において特異な歴史的景観をなしている。


 細い路地に多くの店があり、昼間は気軽に観光客に声をかける人たちが多いのだという。それは世界中の海辺のどこの村や街にもある平和で長閑な光景だった。子供たちが遊んでいたり、老人たちが立ち話をしている。タンザニアは治安の良くない場所といったイメージはあくまで一部だ。実際は人の暖かさを感じられる街で僕は好感を持った。ヨーロッパ調の建物と、入り組む多くの道がいい味を出している町だ。市場の様子を写した写真をスマートフォンで見せると、彼女は懐かしいと喜んだ。


 ザンジバル島はインド人が多いようだ。インド洋交易によって多くのインド人が入ってきたからだという。だからタンザニアには多くのインド系企業が進出しているので、面白い場所だ。昔はオマーン領でもあり、貿易の中心でもあったから、アラブ人も多い。イスラム教徒が多い理由にも納得だ。


 海に囲まれた島なので、海鮮料理が美味しく、人気がある場所のようだ。英語が通じるところが多く、現地にはガイドもいて観光スポットの定番になっていることもわかった。美味しい海鮮料理と町並みを楽しみに、いつか彼女と一緒に訪れてみたい。


 日本語名ストーンタウン。硬質な輝きを持ち、かつ魅力に溢れた彼女は正に真珠ナメクジの化身だと僕が感じたのは必然であったのかもしれない。こうして彼女の生まれ育った街を眺め、彼女からいろんな話を聞いている時間は本当に楽しい。


 その日は曇り空だったが、アイカは久しぶりに外に出たがった。時折雲間から姿を覗かせる太陽が少し心配だったが、彼女は僕と食事に行きたいらしかった。


 食後の散歩に彼女から色々な話を聞いていた時のことだった。彼女はふと立ち止まったので、僕も歩みを止めた。優しげな眼差しで彼女は僕に語りかけてきた。


「そろそろ自分を責めてきた時間を取り戻して生きていきませんか? 私と一緒に…。この国なら、アキラと一緒なら私、どんな場所でも生きていけそうな気がします…。

 あなたが今、取り戻している時間、私を守ってくれた日々…。私と過ごしてくれているあなたという大切な存在はきっと、神様が私にくれたものなんです。私とあなたの出会いはきっと運命だったんです。

 私があなたとこの国を知り、生きることの喜びを共に分かち合い、取り戻していく為の時間だったんです」


「君は優しいな。君はまるで太陽の光だ……。僕には眩しすぎるくらいだ。こんな足踏みばかりして、時間を無駄に過ごしてきた僕にも優しい……。自分や他人の暗闇を見つめて、誰かの心ない言葉に怯えて、いじけてばかりいたこの僕が、君のように海を越えたり、言葉や文化の壁を乗り越えることなんて、できるのかな? 何も出来なかった僕にも、何か成し遂げられることがあるのかな?」


「何でもできます。どこへだって行けます。私達は暗い隅へと追いやられる為に生きてるわけじゃない! だって私たち……生きているんですから!」


 夏の太陽のような輝いた表情で、彼女は両手で強く僕の手を握った。そんな優しい彼女に、僕は微笑んだ。ぎこちない笑顔だろう。今はまだ。そうだ、言葉や文化や肌の色なんて、今や本当に些細な違いなんだ。


 もう金輪際、僕は弱音は吐かない。そう誓わなければならないだろう。僕を支えてくれた、あの優しい刑事さんやその仲間の人達の為に。そして、自分の為に。何よりも彼女の為にだ。


 あのやさぐれた刑事さんの言う通りなんだ。過去がこうだ、だから未来もこうだなんて一体、どこの誰が決められるというんだ。死んだ父さんが言っていた。自分の人生に百点をつけられるのは自分自身しかいないのだ。


 誰に何を言われたって構わないじゃないか。何を恐れる必要がある? 何を迷うことがある? 自分が正しいと思うことを信じて、逃げずに全力でベストを尽くす。それは獣でなく、人間だからできることなんだ。


 僕が生きることの微かな希望として信じていた真珠ナメクジの女神は確かに現実に存在していて、どうやら今後は生身の人間として僕の傍にいて、この僕を支えてくれるんだ。それでいいじゃないか。


 両親をあの震災で失い、左腕を失い、生きることに絶望していた時に、この奇跡は春一番という突風と共に、嵐のように僕の前に突如として起こった。


 こんな偶然が信じられるか?


……もう、笑うしかないじゃないか!

 

 真珠ナメクジの幼生もその化身もターボ婆さんの都市伝説も現実にあるのなら、暴風と共に突如として現れ、人間の抱える絶望や悲しみを全て吹き飛ばして去っていくような、とんでもない神だっているのかもしれない。


 人の出会いは偶然のようで必然。縁は異なもの味なもの。現実は小説よりも奇なり。本当によく言ったものだ。

 

 死に場所を探してきた。生きることに苦痛を感じながら彷徨い歩いていた。頭蓋骨を見つけて、呪術に凝って、その儀式が無駄だと解った時には人生のあらゆる虚しさに死のうとさえ思った。けれど、そうじゃなかった。


 あんなに小さなヒル達が、自分達が生きる為に僕を支えてくれた。だから生きる為に、僕も彼女達に命を分け与えようと思った。ヒルの一匹一匹が可愛らしく、それが異性だったらと、あらぬ妄想さえ抱いたものだ。


 そんな日々の中、故も知らない誰かの髑髏も呪いの儀式もきっと、無意味ではなかったのだ。彼女と出会えた奇跡が起こったことは元より、最終的にはあの髑髏はこの僕に教えてくれていたようにも思う。


 お前は生きろ。呪詛を祝福に変えられるのは自分自身なんだ。命を大切に思え、と。それと繋がっていられる喜びや、それを失う悲しみは必ず、誰にでも訪れる、生きる為に必要なことなんだ。失ってばかりじゃないんだ。失うことで得るものもあったはずなんだ。


 そうだ。もう失うことを恐れるな。間違うことを恐れるな。何度だって間違ったらいいじゃないか。自分が思い描いた場所に近づけたなら、それは足踏みではなく前進した証だ。


 人同士の出会いや繋がりは、言葉や文化の違いを越え、時には人の命を救い、絶望する人間が改めて生きていくことの強さに目覚めさせてくれるような奇跡さえ起こせるのだ。このきわめて当たり前なことを、震災や失われた左腕の感覚と人間らしさを徐々に取り戻すことを通じて、生まれて始めて僕はそれを真摯に受け止め、知ることができたのだ。長かった。ようやくたどり着けたんだ。


 僕は左腕を力強く握りしめてみた。動く。確かに動く。何度かそれを繰り返す。何度もそれを繰り返す。痛みはない。あっても構うものか。痛みは僕が僕であることの証だ。いける。僕は確かに生きている。


 もう頭の震えも幻肢痛も感じない。


 僕は何を待っていたんだ? 僕は何を迷っているんだ? 立ち往生して待っているだけじゃ、人生は何も始まらないじゃないか。


……だって、そうだろう?


 何かを手に入れたいのなら、いつだって臆病でいちゃ駄目なんだ。僕の扉は今、ここに確かにある。ようやく見つけられたんだ。逃げずに自分自身であり続けなければならない。僕が生きる意志を示す時に、この扉は開かれるんだ。それはきっと生きていくための真実の扉だ。


 今、ここに掴みかけている何か……大袈裟に言えば、この真実を失うなんてことは僕が生きて、それを信じている限りは多分もう絶対にない。闇の底はいいだけ見てきたんだ。だから、輝ける明日はきっと必ずやってくるはずだ。僕はもう一人じゃないんだから。


……父さん、母さん。助けてあげられなくて本当にごめんよ。そして、待たせたね。見ててくれよ。僕はどうやら生きていける。これからはきっと、もっともっと強く生きていくよ。生きていく限り、この痛みを力にして、生きることの大切さをまだ見ぬ誰かに伝えていく。


 あらゆる偏見や差別や国の違いを乗り越えていくんだ。これからの、この日本で。僕なら…いや、僕達二人なら、それができるかもしれないんだ。


 さあ、やっとスタート地点に着けたのなら、やることは一つだけだ。下なんか向いてる暇はないぞ。位置について、前を向け。


 今こそ走り出すんだ!


「僕は僕を支えてくれる人達の為に、これからは強く生きるよ。君と一緒にね。アイカ。僕と結婚しよう。この国で僕と一緒に暮らそう。これからも僕は君を守り続けていく。だから、君は僕を支えてほしい。中島明と中島アイカは、今日からこの日本で本当の夫婦になるんだ!」


 彼女の故郷タンザニアのチャガ族の部族語で、アイカは『ありがとう神様』を意味する名前なのだそうだ。


 真珠のように大粒の涙がアイカの目から溢れ落ちた。それがアスファルトに落ちる前に、僕は彼女を強く抱き締めていた。


 この魔法が消えてしまわないように。

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