善悪の天秤

神埼 和人

善悪の天秤

 かわばたさんは気がつくと雲の上に立っていました。


 見渡すかぎりの真っ白な雲と青い空。

 それ以外は何もありません。


「ここはどこだろう? 僕はここで何を……たしか車を運転していて、犬が飛びだしてきて……それから……」


 見ると、遠くにたくさんの人が行列を作っています。

 列の先頭には大きな二つの門が見えました。とにかく行ってみようと、かわばたさんもその列に加わります。


 列が進むとそれぞれの門には一人づつ門番がいることにきづきました。

 二人の前にはおかしな形の天秤が置いてあります。


 やがて、かわばたさんの順番がやってきました。


「私は天使。今からあなたの善いおこないと、悪い行いを天秤にかけます」

「オイラは悪魔。行いがワルけりゃ地獄行き~♪」


 そういうと門番の二人が同時にかわばたさんの胸に手をつっこみます。


「うわっ! なにをするんだ!」


 二人は胸の中からそれぞれ白いハートと黒いハートを取りだし、天秤にかけました。

 するとどうでしょう、天秤はぴったり水平につりあってしまいました。


 困ったのは門番の二人です。


「まいったなぁ……。最近多いんだよ、こういう人」


 そういいながら悪魔は、かわばたさんの生前の経歴けいれきが書かれた報告書ほうこくしょをペラペラとめくります。


「うわっこいつ、善いことも悪いことも全然してない!」


「はぁどうも」かわばたさんは頭をかきながら、苦笑にがわらい。


「仕方ないですね」


 天使は、悪魔から報告書を取りあげながらこう続けます。


「かわばたさん。あなたに一日だけ地上に戻る時間をあたえます。その間に善い行いか悪い行いのどちらかをしてきてください」

「できれば善い行いをおすすめするよ。でないと……シッシッシ」

「では行きます!」


 天使がそう言うと、かわばたさんの足元の雲がすーっと消えてなくなり、ひっぱられるように体が落ちていきました。


 気がつくと、かわばたさんはいつもの見なれた街にもどっていました。


「足もある、ほっぺをつねっても痛い」


 あれは夢だったのかとつぶきながら歩きはじめると、そこに横断歩道が渡れなくてこまっているおばあさんがいました。


「さっきの夢のこともあるしなぁ」


 そう思ったかわばたさんは、善い行いをしようとおばあさんに声をかけます。


「おばあさん、私が向こうまで連れていってあげましょう」


 しかし、おばあさんはかわばたさんの方を振り向きもしません。横断歩道を渡るのをあきらめて行ってしまいました。


「耳が遠いのかな」


 信号が変わって、走りさる車が窓から空き缶を投げすてます。それがもう少しでかわばたさんに当たるところでした。


「あっぶないなぁ」


 そういいながら、かわばたさんはその空き缶を拾おうとしました。


「あっあれ?」


 空き缶はかわばたさんの手をすりぬけてしまいます。

 なんど試しても同じでした。不思議に思ったかわばたさんは電柱や壁にさわろうとしますが、ふれることすらできません。


「おーい! だれかー!」


 大きな声で叫んでも、誰一人振りかえりもしませんでした。

 そう、誰もかわばたさんに気づいていないのです。


「僕は、ほんとうに死んでしまったんだ……」


 かわばたさんは悲しくなって泣きはじめました。

 そのとき再び、天使の言葉を思いだします。


「善い行いをしろといっても、ふれることも話しかけることもできない僕にどうしろっていうんだ……」


 途方にくれる彼の元に一匹の野良犬がやってきました。

 くんくんと、かわばたさんのにおいをかぐ野良犬。


「おや、お前は僕のことがわかるのかい?」


 犬はワンワンとうれしそうに鳴き、しっぽをふります。

 よくみると犬は首輪をしており、そこにはタロウと名前が書いてありました。


「そうか、お前は迷子なんだな、ヨシヨシ。ご主人様を探してやろう」


 そう言うと、かわばたさんの体はふわりと浮き上がりました。そのまま屋根よりも高くのぼっていきます。


「なんたって僕は幽霊なんだから」


 すると、電柱のわきに一人ぽつんと立ちつくす女の子の姿が見えました。

 地面には花束とドックフードが置かれています。


「あれっ? もしかしておまえも?」


 気がつくと、タロウも空を飛んでかわばたさんのところまで昇ってきていました。


「そうか、あの時の犬が……そうだったのか。ごめんな、僕のせいで……」


 かわばたさんがタロウの頭をなでると、そこにはしっかりとした感触かんしょくがありました。

 クゥン、そう悲しそうに小さくなきながら、タロウの視線は女の子をとらえてはなしません。


「タロウ、ごめんね。私がちゃんと気をつけていれば……」


 女の子の目には涙があふれていました。


「やれやれ、困ったな」


 かわばたさんは頭をかかえてしましました。

 そして、地上に戻るまえに天使から渡された薬のことを思いだします。


「あなたの死はあまりにも急で、ご家族とお別れする時間がなかったから……」


 その薬を飲むと、ほんの少しの間だけ元の体にもどることができるといいます。


「しかたない!」


 かわばたさんは決心し、薬をポケットからとりだしました。

 



 その頃、葬儀場そうぎじょうではかわばたさんの葬儀が行われていました。

 おきょうの声が響き、すすり泣く声があちらこちらから聞こえます。


「ワン!」


 突然、犬の鳴き声がしました。

 それはひつぎの中からでした。おきょうが止み、その場が静まりかえります。

 

 お坊さんが恐る恐る棺をのぞきこむと、今度は勢いよく棺のふたが開きました。

 おどろいて後ろむきに倒れるお坊さん。

 棺の中からむくりと起き上がったかわばたさんは、お坊さんを無視してそのまま四つんばいで走り出します。


 お坊さんも葬儀に訪れた人々もびっくりして声もでません。

 中には驚きのあまり気を失ってしまった人もいました。


「ちょっと、あなた! 葬儀中にどこへいくの?」


 かわばたさんの奥さんが必死に呼び止めます。


「ゴメンナサイ。すこしの間、かわばたさんの体をかりますワン」


 振り向いてぺこりとおじぎをすると、かわばたさんはまた走り出しました。




「あなたのせいじゃないワン……です」


 かわばたさんは、電柱のわきに立ちつくしていた女の子に話しかけました。

 女の子は突然のことに拍子抜ひょうしぬけした顔。


「飼っていた犬が死んでしまったんだよね?」


 そう、かわばたさんが続けると女の子は小さくうなづきました。


「私の不注意で犬のタロウが事故にあったんです。タロウは私の身代わりに……」


 そう言うと女の子はまた泣き出しました。


「舞ちゃんの命が助かったなら、タロウはそれでよかったって思ってるよ」


 かわばたさんは満面の笑みをうかべてそう言います。


「なぜ、私の名前を……」


 女の子の問いかけを無視して、かわばたさんは続けました。


「舞ちゃんに拾われて、舞ちゃんと一緒に育って、タロウは幸せだった。たくさん、たくさん幸せだった」


 女の子は黙ったまま、じっと話を聞いています。


「毎日、ブラッシングとお散歩をかかさずしてくれたね」

「誕生日にプレゼントしてくれた赤いスカーフは、僕の宝物だったよ」

「舞ちゃんが大好きで……大好きで……」


 いつの間にか、かわばたさんも泣いていました。

 クゥーン、クゥーン、それはまるで犬のような泣き声でした。


「舞ちゃんありがとう……いつも空から見守っているよ」

「タロウ!」


 舞ちゃんがかわばたさんを抱きしめようとした瞬間、かわばたさんの体は光になってはじけました。

 そして、そこには天に昇っていくタロウの姿がありました。


 かわばたさんは天使からもらった薬をタロウに飲ませていました。そして体のないタロウに自分の体をかしてあげたのです。


「タロウ、ありがとう。ありがとう……」


 微笑みに満ちた彼女のほほを、あたたかい涙がつたい落ちていきます。


「よかった……本当によかった……」


 空からその様子を見ていたかわばたさんが、ほっと胸をなでおろした次の瞬間、自分のからだが強い光につつまれていることに気がつきました。

 そして、ゆっくりとゆっくりと、天へ昇って行きました。

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