第二章「親友」

 いつの間にか、私は彼女の頭の中にいた。

――高瀬亜莉菜たかせありな

 それが彼女の名前だ。

 何時から彼女の頭の中にいたのか、全く覚えていない。気がつくと、彼女の頭の中にいた。

(私は最低だ。最低の女だ)

 彼女はそう自分を責めている。朝起きて、顔を荒い、鏡で顔を見ながら自分を責める。街角のショウ・ウインドウに映った自分の姿に気がつくと、そう言って自分を責めるのだ。

――止めなさい。そんなに自分を責めるのは。

 そう言ってみるのだが、私の言葉は彼女には届かない。

 彼女が自分を責め続ける言葉だけが、わんわんと頭の中で木霊している。

 私は彼女が自分を責め続ける理由を知っている。彼女は最近、親友をなくした。子供の頃から仲の良かった幼馴染だ。

 名を真野葉月と言った。

 葉月の死に亜莉菜は係わっていない。なのに、彼女は葉月のことで、自分を責め続けていた。

 亜莉菜は(私みたいな性格、誰からも好かれない)と密かにコンプレックスを抱えていた。

 自分は自己中で他人に厳しく、自分に甘い最低な性格だと分かっていた。そんな亜莉菜だったが、葉月とは子供の頃からの長い付き合いだった。葉月だけが、自分のことを理解してくれる唯一無二の存在だった。

 幼稚園で一緒になった時から、妙に気が合った。二人は手を繋いで一緒に園内を走り回った。何をするもの二人は一緒だった――そう二人は思っていた。

 亜莉菜の家は、小さなコーヒーショップを経営している。両親は共働きで、子供が三人いた。亜莉菜は長女だ。

 葉月の父親は一流企業に勤める会社員で、母親は専業主婦、葉月は一人っ子だ。葉月の方が経済的には恵まれていたかもしれない。子供の頃、亜莉菜が欲しかった魔法のコンパクトや可愛らしい自転車など、葉月はなんでも持っていた。そんな葉月が羨ましかった。時に、亜莉菜は彼女から玩具を借りて遊んだ後、返さなかったことがあった。それでも、葉月は何も言わなかった。

 最も亜莉菜にしてみれば、好きでパクっていた訳ではない。玩具を家に持って帰ると、直ぐに弟や妹に取り上げられてしまう。だから、返したくても返せなかったのだ。

 葉月もそのことは分かっていたはずだ。だから、亜莉菜に借りパクされても、何も言わなかったのだろう。

(あの子は恵まれている。きっと、私に恵んでくれているつもりなのだ)と亜莉菜は思った。プライドの高い亜莉菜は、少しだけ葉月のことが憎かった。

 だが、二人は何時も一緒にいた。

 小学生の頃だ。亜莉菜と葉月はクラスで五人組の仲良しグループを作っていた。真琴まことという可愛いが、あまり性格の良いない子がいて、彼女の下僕のような女の子、二人と亜莉菜、葉月の五人で、仲良しグループをつくっていた。

 クラスの女子の中心的な、ボス的なグループだった。

 真琴と亜莉菜という二人のかしらを抱くグループだ。早晩、二人が衝突することは、避けられない事態だった。

 ある日、ささいなことで二人は口論となった。

 五人が熱中していたアイドル・グループの誰が良いかで言い争いになってしまったのだ。最初は、亜莉菜と真琴が、イチオシの男の子の良いところを誉め合っていたのだが、その内に、相手の好きな男の子の悪いところを貶し合うようになり、最後には相手自身の口撃を始めてしまった。

 葉月や二人の下僕たちは、はらはらしながら二人を見守ることしか出来なかった。

 結局、二人は決別し、亜莉菜は仲良しグループを離れた。

 仲良しグループから離れることは、クラスで孤立することだった。真琴たちは亜莉菜を徹底的に仲間外れにするだろう。実際、亜莉菜と真琴はクラスで気に入らない女の子がいると、仲間外れにして、虐めの対象にしていた。

 葉月には仲良しグループに残る選択肢があった。常にクラスの中心にいられて、学校生活を楽しく過ごすことができるはずだった。だが、葉月は亜莉菜を選んだ。大人しくて、自分の意見なんて言ったことがない葉月が、真琴に「御免ね」と別れを告げてグループから離れると、「亜莉菜ちゃん。一緒に遊ぼう」とやって来た。

 大人しい子だ。なけなしの勇気を振り絞ったに違いない。

 正直、涙が出る程、嬉しかった。だが、亜莉菜は「いいのよ。無理しなくて。真琴ちゃんたちと一緒にいなよ」と言って突き放した。

 葉月は「ううん。私、亜莉菜ちゃんが良いの」とだけ答えた。

 亜莉菜は救われた。クラスで孤立しないで済んだ。高校生の頃、葉月に聞いたことがあった。あの時、一人になった私が可愛そうで仲良しグループを抜けたのかと。その時、葉月は笑顔で答えた。「そんなことないよ。真琴ちゃんより、亜莉菜ちゃんと一緒にいたいと思っただけ」

(葉月のことだ。きっと、私に同情して、仲良しグループを抜けたに違いない)亜莉菜は今でもそう思っている。

 長ずるに及んで、亜莉菜は美しく成長した。

 高校生になると、それこそ毎日にように靴箱にラブレターが入れられるようになった。葉月は目立たない女の子のままだった。

 二人の位置関係が逆転した――と亜莉菜は思った。時には胸がときめく相手からラブレターをもらうことがあった。恋人がいたこともあった。だが、長くは続かなかった。

 高校時代、葉月がずっと思い続けていた男の子と付き合ったことがあった。

 葉月は口にしたことはなかったが、彼のことが好きなことは、態度を見ていて分かった。その彼から告発された時、「御免ね」と亜莉菜は葉月に言った。すると、葉月は「何故、私に謝ったりするの?私と彼とは何の関係もないよ。彼ね、ずっと亜莉菜のことが好きだったみたい。彼と仲良くしてね」と言われた。

 彼のことが好きで、ずっと見ていたからこそ、彼が亜莉菜のことを好きだと知っていたのだ。

 葉月がずっと好きだった子が、私のことを好きだと言ってくれた――ただそれだけの理由で、彼と付き合い始めた。別に葉月のことが憎かった訳ではない。勿論、葉月に対抗心を燃やした訳でもない。ほんのちょっとした悪戯心だった。

 そんな不純な動機で付き合い始めたのだ。正直、外見も性格も、亜莉菜の好みではなかった。一か月で別れた。別れを告げた時、「そんな・・・付き合い始めたばかりなのに・・・」と言って、彼は泣いた。

 そんな女々しいところも嫌いだった。

 頭の出来は五十歩百歩、二人は同じ大学に進学した。この時期から、両親が経営する喫茶店は経営が悪化していたのだが、亜莉菜は気がつかなかった。

 大学に入学して、テニス・サークルに所属した。

 葉月は運動音痴で体を動かすことが苦手だった。「一緒に入ろう」と言う亜莉菜の希望に合わせただけだった。

 テニス・サークルの二つ上の先輩に、柚木信ゆづきしんがいた。

 細面でアイドル・グループにいそうなイケメンで、手足が長く、スタイルが良い。それでいて筋肉質、細マッチョと呼ばれる体型だ。次期キャプテン候補に挙げられており、サークル内での人望が厚く、決断力があって頼れる先輩だった。

 亜莉菜にとって理想の男性、好みのド真ん中にいるような男だった。当然、入会して直ぐに柚木のことが好きになった。

 彼の前では、今までの付き合った男たちが霞んで見えた。

――特定の彼女はいない。

 と聞いた時には、チャンスだと思った。周りを見回しても、自分より美しい女はいない。彼はきっと自分を選ぶだろう。そう思った。

 だが、柚木は別の女を選んだ。

 よりによって、柚木が選んだのは葉月だった。地味で目立たない葉月を選んだ。葉月が柚木に憧れていたことは間違いない。誰かを好きになると、態度を見ているだけで直ぐに分かった。その葉月がのぼせた赤い顔をして、「柚木先輩から告白された・・・どうしよう?」と相談を持ち掛けて来た時、亜莉菜は(嘘だろう――⁉)と思った。自分が選ばれるものだと、思い込んでいたからだ。サークル外の美女ならともかく、よりによって柚木が葉月を選ぶなんて思ってもいなかった。

(嫌だ。何で、何であの子なの)と亜莉菜は思った。

 葉月が亜莉菜に勝っているところなんて、胸の大きさくらいだろう。

「柚木先輩のお母様、美人だけどとても厳しい人で、先輩、私みたいに、トロくさい女の子が良いんだって~」葉月が嬉しそうに言う。

 おっとりしているという面では、まさに葉月はその典型だ。鈍感と言えた。実際、亜莉菜が柚木のことを好きだったことに、露ほども気がついていなかった。

(なるほど。柚木先輩のお母さんは私みたいな人間なのね。だから、葉月みたいな鈍い人間の方が良いんだ)

 柚木が葉月を選んだ理由は納得できたが、嫉妬だけが残った。

 サークル仲間で冬山にスキーに出かけようという話になった時、当然のように亜莉菜も誘われた。だが、断った。二人がベタベタする姿を見せつけられては構わないと思った。

 そして、思った。

――葉月なんて、死んじゃえ。死んじゃえば良いのに。死んじゃえ、死んじゃえ。スキーで足の骨でも折ってしまえば良い。

 つい、そう思ってしまった。

 そして、葉月は死んだ。

 スキーの帰りに、交通事故に巻き込まれて命を落とした。そのことを聞いてから、亜莉菜の後悔が始まった。亜莉菜は自分のことを責め続けた。

(私は何て人間なのかしら。あれだけ仲が良かった葉月が死ぬことを願ったなんて。本当、私は最低、最悪の人間・・・)

――亜莉菜ちゃん。そんなに自分を責めないで。本気で葉月ちゃんが死んじゃえば良いなんて、思った訳ではないでしょう。例え、そう思ったとしても、葉月ちゃんの事故はあなたの責任ではないのよ。

 毎日のように、亜莉菜の苦悩を聞いて来た。そう慰めてあげたかったが、私の言葉は彼女に届かない。ただ、彼女の苦悩を聞いてあげることしか出来なかった。

 そんなある日、亜莉菜は夕食の席で両親から思わぬ話を告げられた。

「大学を辞めて働いてくれないか」と言うのだ。

「何故、一体、どうしたの? 何故、私が働かなければならないの?」

「御免な、亜莉菜。近所にデッカイ大手のコーヒーショップのチェーン店が出来て、客足が激減してしまったんだ。もう直ぐ、あのお店は人手に渡ることになる。パパ、次の仕事が見つかるまで、当分、うちは無収入だ。ママも働く。でな、お前の学費までは面倒見切れないんだ。お前の弟や妹はまだ義務教育だ。あいつらの学費を見るだけで精一杯なんだよ」

 父親が申し訳なさそうに言った。途中から、言葉が頭に入って来なかった。

(大学を辞める。折角、入った大学なのに――⁉ なんで・・・嫌よ。働きたくなんてない。もう少し、学生生活を楽しみたい)亜莉菜はそう思った。

――亜莉菜ちゃん、しっかりして。

「いや、もちろん。お前がバイトを掛け持ちしてでも、大学を続けたいというのなら、それでも良い。でもな、パパたちは何もしてやれなんだ。家に居て、飯を食わせてやるくらいのことは出来る。でもな、お前の学費の面倒までは、とても見てあげれない」

 安易に私学に進学したことを、この時は後悔した。だが、国立大学であっても、バイトひとつしたことがない亜莉菜が何とかできる学費ではなかった。

(そんな、無理よ。私に働けと言われても・・・)

 亜莉菜は混乱した頭で考え続けた。

「御免ね~」と母親も亜莉菜に頭を下げた。そして、春までは学費を払い込んであるので、大学に通って良いが、来年度分の学費を払い込むことは無理だと告げられた。

「まだ時間があるから、よく考えてくれ。働いてくれるのなら、早めに仕事を見つけてくれ。そして、うちに金を入れてくれ」と父親に頼まれた。

(そんなに苦しいの・・・何故よ! 何故、私が犠牲にならなきゃならないの‼)

 段々、腹が立ってきた。食事を途中で放り出すと、亜莉菜は自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。「何で、何でよ!」と喚きながら、ベッドの上を転げ回った。

 やがて、怒りが収まって来ると、(これも、葉月を呪った罰なのね)という気がしてきた。

――そんなことない。葉月ちゃんの事故と今度のことは関係ないのよ。

 何とか励まそうとするのだが、私の気持ちを彼女に伝えることができない。

(私は最低の女。あれだけよくしてくれた、私みたいな人間を見捨てないでいてくれた葉月を呪ったりなんかしたものだから、神様が罰を与えているんだ)

――違うよ。あなたは最低の女なんかではない。

(そう言えば、葉月が亡くなってから、一度も彼女に会いに行っていない。仏壇に線香ひとつ上げに行っていない。私は本当に冷たい人間)

――仕方ない。葉月ちゃんを失って、あなただってショックだったんだから。

(ああ~葉月。もう一度、会いたい。会って、御免なさいって伝えたい)

――もう~だったら、会いに行けば良いのよ~!

 私の感情が爆発した。すると、亜莉菜に伝わったようだった。

(そうね。そうよ。彼女に会いに行こう)という彼女の言葉が頭の中で響いた。


 翌日、亜莉菜は真野家を尋ねた。

 高校時代までは、頻繁に遊びに行っていた。葉月の部屋に泊めてもらったことなど、一度や二度ではない。テスト期間中は試験勉強をすると言って、葉月の部屋に泊まっては、勉強そっちのけで話ばかりしていた。

 子供の頃からの付き合いだ。葉月の家に泊まると言えば、両親も心配しなかった。葉月が亜莉菜の部屋に泊まりに来ることもあった。

 大学生になってから、やや縁遠くなっていたが、亜莉菜にとっては第二の我が家といえた。

 事故以来、顔を出さなかったことに罪悪感を覚えながら、真野家を訪れると、「亜莉菜ちゃん。お久しぶり~わざわざ来てくれてありがとう。葉月もきっと喜んでくれるわ」と言って恵が出迎えてくれた。

「葉月ママ」と呼んだ瞬間、亜莉菜は感情を抑えきれなくなった。

「おばさんって呼ばないで」と恵が言うので、「葉月ママ」と呼び始めた。そのことを思い出した途端、葉月の顔が、葉月との思い出が、亜莉菜の脳裏に洪水のように押し寄せて来たのだ。

 私は、亜莉菜の頭の中で、葉月の思い出に溺れそうだった。

 亜莉菜は泣いた。今まで、押さえつけていた感情が爆発して制御できなくなった。玄関先で恵の迷惑も考えずに、「あ~ん、あ~ん」と大声を上げて泣いた。

「あらあら~亜莉菜ちゃん。そんなに泣いてくれて。ありがとう。とにかく、上がってちょうだい」恵は亜莉菜の背中を撫でながら優しく言った。

 泣きじゃくる亜莉菜を前に、恵も泣いていた。

 仏壇に手を合わせた。

(葉月。御免なさい。あなたのこと、死んじゃえ――なんて思ってしまって。あなたが柚木さんと付き合うことになって、私、嫉妬していたの。御免ね。最低ね。私って)

――そんなことない。あなたは最高の友達よ。

 私がそう言ってあげると、(ありがとう)と亜莉菜が思ってくれた。また、私の言葉が通じたようだ。

 恵と葉月の思い出を語り合った。「私の知らない葉月を教えてちょうだい」と恵が言うので、思いつく限り、葉月の思い出を話して上げた。

 途中から恵はハンカチを片手に、時折、涙でむせながら亜莉菜の話を聞いてくれた。

「ねえ、もうちょっと良いかしら。もう直ぐ主人が帰ってくるの。仕事はどうでも良いからと、最近は早く帰って来てくれるの。主人にも葉月の話を聞かせてあげたいの。きっと喜ぶと思うわ。ねえ、一緒に夕食、食べて行ってくれない」

 どうせ家に帰っても、することがない。「私でお役に立てれば」と返事をした。

 やがて、彬史が戻って来た。三人で食卓を囲んだ。

「やあ、久しぶりに賑やかな食卓だな」彬史は嬉しそうだった。

「今日ね。亜莉菜ちゃんから教えてもらったんだけど、葉月がねえ~」と恵が嬉しそうに亜莉菜が話した葉月の思い出を話す。彬史は目頭を押さえながら、「うん、うん」と聞いていた。

「亜莉菜ちゃん。また遊びに来てね」と恵が言った。

「はい。でも、これから忙しくなるかもしれなくて・・・」

 両親が経営していた喫茶店が潰れ、亜莉菜は仕事を探して働くことになることを伝えると、「そんな・・・」と恵は驚いた。

「亜莉菜ちゃんのこと、本当の娘のように思っているんだ。私たちに出来ることがあれば、何でも言ってくれないか。学費くらい、私たちで何とかするから、大学を続けてはどうだい。葉月が行けなかった分、亜莉菜ちゃんには大学生活を楽しんでもらいたい。もし、良ければ私からご両親に話をしてあげるよ」と彬史が言ってくれた。

 夢のような話だった。

 彬史は本当に亜莉菜の両親と話をしてくれた。両親は喜んだ。やはり、亜莉菜には大学を辞めてもらいたくない――というのが、彼らの本音だった。

 真野家が学費を出す条件はただひとつ。月に一度、家に来て、葉月のことを思い出しながら食事をしてくれることだった。

「勿論。月に一度なんて言わないで。お邪魔でなければ、何時でも飛んできます」

(葉月。あなたのご両親のことは、任せておいてちょうだい)

 亜莉菜はそう思った。

――ありがとう。亜莉菜。

 何故か私はそう思った。

――ああ、何処に行くの?

 私は霧が晴れるように彼女の頭の中から消えて行った。

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