【短編小説】憑き人

第一章「夫婦」

 僕は頭の中に住んでいる。

 そうとしか言いようがない。僕は彼の頭の中にいる。何時からだろう? 気がつくと、僕は彼の頭の中にいた。彼の眼を通して、世界を見ることが出来る。彼の耳を通して、音楽を聴くことができる。彼の皮膚を通して、日々の営みを感じることができる。

 だが、僕には何もできない。

 彼の指、足、目でさえ、僕の意志では動かすことはできない。僕はただ、彼と一緒に感じることができるだけだ。

 彼の考えていることは分かる。だって、彼が考えていることは、頭の中で、わんわんと鳴り響くからだ。ぼんやりと考えている時は、小さく、感情に揺さぶられている時は、外の音さえ聞き取れないほど大きく鳴り響く。

 残念なことに。彼に僕の考えは伝わらない。

 僕はただの存在だ。話をすることができない。彼に話しかけることができない。彼が間違った考えを持っていたとしても、僕にはそれを正してあげることができない。ただ、じっと、成り行きを見守ることしかできない。

――真野彬史まのあきふみ

 それが彼の名前であることは知っている。彼にはめぐみという美しい妻がいる。僕はこの大人しくて優しそうな奥さんが大好きだ。

 そして、彼には葉月はづきという名の娘がいた。

 そう。過去形だ。夏の八月に生まれたので、葉月と名づけられた。子供の頃は、男の子に混じって、真っ黒になって遊ぶような、活発な女の子だった。

 目に入れても痛くない――彬史にとって、葉月はそんな存在だった。

 葉月が子供の頃の話だ。

 年端も行かない娘から「大人になったら、パパのお嫁さんになってあげる」と言われたという話をよく聞くが、彬史は葉月から一度もそんなことを言われたことが無かった。

 ある日、彬史は聞いてみた。「葉月はパパのお嫁さんにはなってくれないんだね?」

 すると、葉月は「そうねえ~葉月、パパのお嫁さんになってあげたいけどダメなの。葉月がパパのお嫁さんになると、ママがパパのお嫁さんじゃなくなってしまうじゃない。可愛そうだからダメなの」と答えた。

 彬史は大笑いしながら、(頭の良い子だ)と感心した。

 それに、優しい子だった。口数は多くなかったが、葉月は何時も笑顔だった。

 葉月が中学生の頃だっただろう。

 窓からぼんやりと外を眺めていた。何気なく、「葉月」と声をかけると、葉月が振り向いた。何時も通り笑顔だったが、泣いていた。

 学校で辛いことでもあったのだろう。泣いていても、葉月は笑顔だった。

 だが、彼女は旅立ってしまった。それも、ある日、突然に。

 真野葉月は事故に遭った。二ヶ月前のことだ。

 大学生になって、葉月に恋人が出来た。(何時かこの日が来る)と彬史が恐れていたことだった。だが、恵から「葉月に恋人が出来たみたい」と聞かされた時、動揺を隠しながら、「そうか。葉月も年頃だからな」と物分かりの良い父親の振りを演じることができた。

(よくやったな、俺)と彬史は自分を誉めてやりたかった。

「サークルの先輩で素敵な人みたいよ。イケメンだし、早く紹介してくれれば良いのにね」と恵は嬉しそうだった。

 葉月から写真を見せられたようだ。

(俺には見せてくれないのか)と思ったが、口に出せなかった。

 その後、時折、恵から彼氏の話を聞かされた。真面目な青年のようだ。決して遊びで葉月と付き合っている訳ではないことが分かってほっとした。安心すると同時に、娘が遠くに行ってしまうような気がして、寂しさを感じた。

「今年の冬は彼とスキーに行くみたい」と恵から聞かされた時は、「そ、そんな。結婚前の娘が男と旅行だなんて――⁉」と動揺してしまった。

「大丈夫よ。サークルのお友達と一緒だそうだから。二人っきりじゃないみたい」と恵に笑われた。そして、「今からそんなに泡食っているようじゃあ、この先、心配だわ」とからかわれた。

 自分たちが通って来た道だ。葉月だって、何時までも子供じゃない。そう自分に言い聞かせた。

 彼氏が父親の車を借り、二人はスキーに出かけた。

 スキーに出かける前の晩、どうせ翌朝、娘が出かける時には会社に行っていていないと思い、「気を付けて行っておいで」と声をかけた。

「うん」と嬉しそうに頷いた娘の顔が頭にこびりついている。

 二人はスキーに出かけた。そして、帰りの高速道路で事故に巻き込まれた。

 事故の詳細については、まだはっきりと分かっていない。二台の乗用車が高速道路上で接触し、後続車だった娘の乗った車が制御を失い、ガードレールに激突して大破した。助手席に乗っていた娘は即死だった。

 車を運転していた彼氏も重傷を負い、ICUで集中治療を受けている。未だに目を覚ましていないらしい。植物人間になる可能性があると聞いた。

 こうして、娘の死により、二人の時間は止まってしまった。


 笑い上戸だった恵が笑わなくなった。

 習慣的に、家事はこなしてくれていたが、常に虚ろな表情を浮かべて、ぼんやりしていることが多くなった。娘のことを思い出しているのだろう。

 ぼんやりした後に、そっと涙を拭っている姿を何度か見かけた。

 彬史はリビングのソファーに座って、ぼんやりとテレビを見ていた。旅番組のようで、料理をほおばる若い女性タレントの姿が映っていた。何か言っているのだが、彬史の頭には響いていなかった。

――虚無。

 と例えれば良いのかもしれない。

(――だが)だとか、(それに・・・・)と言った言葉が断片的に、頭の中で鐘を突くように鳴るだけだった。

――言葉になっていない。

 娘を失った悲しみから立ち直れていない――ということが、痛いほど分かった。

 ふと気がつくと、洗濯物を畳んでいたはずなの恵の姿がなかった。彬史はよろよろと立ち上がった。

(ママはどこに行った・・・)

 部屋で一人になるのが怖いのだ。彬史は恵の姿を探して歩き始めた。

 娘の部屋の前を通る。部屋の中から、物音がした。

(あの子が帰って来た!)と思ったのも束の間、(そんなはずがない)と直ぐに頭の中で打ち消した。

 恵だ。娘の部屋にいるのだ。娘のものを洗って、洗濯物を持ってきたのかもしれない。やがて、部屋の中から「うっ・・・うっ・・・」と嗚咽が漏れ聞こえてきた。

 泣いているのだ。

――おい。彬史。奥さん、泣いているぞ。一人にするなよ。

 僕は彼に伝えようとした。だが、僕の声は届かない。

(泣いているのか)彬史には分かっていたはずだ。だが、何もしなかった。

――おいおい!悲しいのはお前だけじゃないぞ。奥さんを放っておくな。何故、この悲しみを分け合って、二人で乗り切ろうとしないのだ!

 僕は彼に語りかけ続けた。

 だが、彼には聞こえない。部屋の前で、暫く立ち尽くしていたが、やがて、のろのろとソファーに戻って行った。

(ああ、明日の午後から経営会議があったなあ・・・)と彬史は仕事のことを考えていた。

――辛いのは分かるよ。だけど、奥さんのことを、もっと気にかけてあげなよ。

 と思うのだが、僕には彼に言葉を伝える術がない。


 何時も通り、仕事に来た。

 家にいると、否が応でも娘の死と直面させられる。彬史は現実を見ることが辛かった。

(ああ、あの子がまだ小さい頃、夕暮れ時だったな。ここにこうして立って窓から外を見ていた。突然、『お父さん。怖い。お化けが飛んでる』と言い出した。何かと思って、外を見ると蝙蝠が群れを成して空を飛んでいた。蝙蝠を見たのが初めてだったので、あの子はお化けだと思ったんだ。ふふ・・・ああ~あの子はもういない)

 家にいると、そんなことばかり考えている。娘の思い出に浸りきってしまう。そして、最後には(思う出すのはもう止めだ。これ以上、考えると泣いてしまう。ああ、もう止めだ、止めだ)と思考を止めてしまう。

(恵に俺の悲しむ姿を見せてはいけない)と彼は考えていた。

 僕にはその考え方が理解できなかったが、彼にとっては大事なことであるようだ。

 彼なりの優しさなのだろう。

――一人で悲しみを抱え込むなよ。

 そう思うのだが、僕の言葉は届かない。

 彼は仕事に逃げていた。会社にいれば、忙しさに紛れて、娘の死を忘れることができる瞬間があるからだ。だが、その時間は一瞬で過ぎ去ってしまう。直ぐに悲しみが、津波のように押し寄せて来る。

(あの子はもういない。あの子はもういない)

 彼の頭の中で、同じ台詞が繰り返される。

 会議に出ていた。管理部門が今年のキイに挙げているプロジェクトの進捗状況の説明会だった。彬史はプロジェクトの責任者として、定期的に部下から説明を受けていた。オーバヘッド・プロヘクターで壁一面に投影されている資料を見ながら、担当者の説明を聞いていた。

「このプロジェクトが完成すれば、仕事の負荷を減らすことができ、職場の仕事環境が一気に改善します」という言葉で説明が終わり、従業員たちが楽しそうに仕事をしている写真が大写しになった。

 その中にいた若い女性の顔が少しだけ葉月に似ていた。

(ああ~これは・・・)と思った瞬間、津波のように悲しみが押し寄せて来た。

 次の担当者の説明が始まるが、「ちょっと失礼。少し、休憩しようか」と彬史はトイレに立つ振りをした。

 会議は小休止となった。

(もうダメだ)と彼はトイレに駆け込んだ。

 悲しみに圧し潰されそうになると、トイレに逃げ込む。個室で声を押し殺して泣くのだ。泣いて、悲しみを紛らわすしかない。

 素直に悲しみを表すことができるのは、会社のトイレだけだった。

――いいんだ。悲しかったら、泣けば良い。

 そう言って、慰めてあげる。だが、僕の声は届かない。彼の頭の中で、声を響かせることさえできれば、僕の考えを伝えることができるはずだ。だが、その方法が分からない。

 僕はただ、彼の悲しみを毎日のように聞かされ続けるだけだった。

 ひとしきり泣くと、気持ちが収まって来た。彬史は「ふう~」と深く深呼吸をする。後は、泣いていたことがバレないように、顔を洗って出て行けば良い。だが、赤く充血した眼は、暫く時間がかかりそうだった。


 静かな食卓だった。

 魂の抜け殻になった二人が、ひとつ屋根の下、暮らしている。会話を忘れ、黙々と機械的に食事を口に運ぶだけだ。

 ふと思い出して、彬史が言った。「ママ。明日はお客さんと宴会があるので、遅くなるよ」

「止めて!」恵がヒステリックな声を上げた。そして、「私のこと、ママだなんて呼ばないで。私はあなたのお母さんなんかじゃない。私は・・・私は・・・葉月のお母さんなんだから・・・」と言って持っていた箸をテーブルに投げつけた。

 カランと箸が床に転がる。

 恵が椅子から立ち上がった。「嫌よ。もう限界。もう嫌。あなたと暮らすのも、ここに居るのも、全てが嫌。この家にいると、あの子のことを思い出してしまう。家の中にいると、時に、ふと、あの子の匂いがすることがあるのよ。そして、あの子のことを思い出す。ああ、ここで、あの子が笑っていた。ここで、あの子が泣いていた。あの子がここに座っていた。あの子がここに立っていた。思い出すのは、あの子のことばかり。

 あなたは何も感じないの? いつも仕事のことばっかり。あの子が居なくなっても、普段通り。会社に行って、ご飯食べて、寝るだけ。あなたにとって、あの子は何だったの? あの子のこと、思い出したりしないの? あの子の部屋に行って、あの子の匂いに包まれていたい。そんな風に考えることはないの――⁉」

(違う。違う。違う。そんなことはない。俺だって、悲しいんだ。あの子のことを、思い出さない日なんてない)

――そうだ。その気持ちを奥さんにぶつけるんだ!

 彬史がよろよろと椅子から立ち上がった。箸を持ったままだった。それを見た恵が怒りを爆発させる。「何で、あなたは何時もそうなのよ~!」

(何のことだ?何を言っている?)

――箸を置けよ。奥さんの話より、食事が大事なのか? 違うだろう?

 だが、彬史には分からない。

「もう良いわ。あなたと一緒にいることに疲れたの。どうせ、私なんて、一人じゃ生きて行けない。そう思っているんでしょう。結婚してから、ずっと専業主婦だったから、自分と別れたら、一人じゃ何もできないないって、そんなふうに思っているのね!」

(そんなことない。そんなこと、考えたこともない)

――そうだよ。君はそんなこと、考えてなんかいない。

「この家に、あなたといると、あの子のことを思い出してしまうの。私、もう限界なのよ・・・もう限界なの・・・」

 恵は電池の切れたロボットのように、ペタンと椅子に座り込んだ。そして、顔を覆って泣き出した。彬史は呆然と恵を見下ろしながら、(どうしたんだ?俺と・・・俺と別れたいということなのか・・・恵と別れる・・・そんなこと、考えたこと無かった。あの子を失い、そして、恵まで俺から離れて行こうとしている・・・)

 彬史の悲痛な思いが、頭の中でガンガン響いていた。

――お前の気持ちを奥さんに伝えるんだ‼

 僕は叫んだ。どうやったのか、自分でも分からない。でも、感情を爆発させると、僕の言葉が彬史の頭の中で一瞬、木霊した。

 彬史には天の声に聞こえただろう。

「お・・・俺は逃げていたのかもしれない・・・あの子を・・・葉月を失って、その悲しみから逃れる為に、仕事に逃げていた。この家にいて、あの子の思い出と毎日、向き合っている・・・お前のことを、考えてやれなかった。自分のことで精一杯だった。本当にすまない。すまないと思っている。だけど・・・だけど・・・」

 そこまで話した時、彼の悲しみが堰を切ったように溢れ出して来た。

「どうしようもないんだ・・・あの子と会いたい。もう一度、あの子の顔が見たい。あの子の声が聴きたい。あの子が愛しくて愛しくて仕方ない・・・もう、俺だって壊れてしまいそうだ。いや、もう壊れてしまっている。俺はもう昔の俺じゃない。あああああ~!」

 彬史の眼から涙が零れ落ちた。一粒、涙が零れ落ちると、堰を切ったように後から後から涙が溢れて来た。恵の前で必死に押し殺していた感情が爆発してしまった。もう歯止めが効かなかった。

「ああああ~お前にだけは、みっともない姿を見せたくなったけど、もう、どうでも良い・・・ああああ~あの子に会いたいよ~ああ~ああ~」

 彬史が悲痛な叫びを上げた。

――それで良いんだ。素直になれ。悲しみを押し殺すな。

 彬史は泣いた。天井を向き、声を上げてわんわん泣いた。恥も外聞もない。気がつくと、恵が隣に来て、彬史にしがみついて来た。

 彬史は恵を抱き寄せると、二人で泣いた。

――そうだ。二人で悲しみを分かち合うんだ。

 泣いて、泣いて、二人は抱き合いながら、涙が枯れるまで泣いた。

 やがて、彼らの泣き声が段々、小さくなって行った。僕の意識が薄れて行く。

――何処に行くんだ?

 僕は霧が晴れるように、彼の頭の中から消えて行った。

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