【僕と彼女】
僕と彼女は進学し、高校三年生になった。
受験勉強で忙しい毎日だけど、ふとした瞬間に心に過ることがある。それは、「ああ、この数学部での日々も、もうすぐ終わりなんだな」ということだ。
たった二人しかいない、倉庫と化した教室で勉強をするという謎の部活でも、一応は正式な部活動だ。高三の春先には引退することになっている。
後輩は入ってきていない。
僕達は二人のままだ。
少し寂しいが、それで良いと思っている。
いつか彼女がそうしたように、こんな妙な部活があることを知った誰かが、息抜きの場所として、この教室を利用するようになるかもしれない。
いつか僕がそうなったように、そんな事情を知った誰かが、一緒に取り留めのない時間を過ごすようになるかもしれない。
そんな夢想をするのも、悪くはない。
「さて、行こうか」
最後の一本の煙草を吸い終えた常盤は帰り支度を始める。
今日はこの数学部、最後の日。
思い出深いこの教室から、僕達が去らなければならない日だ。
きっと、あっという間に受験シーズンが到来し、すぐに高校も去ることになるだろう。
高校時代は終わりを迎えるのだ。
「常盤」
僕はいつものように呼び掛ける。
「どうした? ひょっとして、寂しくなったとか?」
「……それもある」
「ふふふ。可愛いところもあるわね。で、どうしたの?」
「お前に言ってなかったことが、二つあったと思ってさ」
「言ってなかったこと?」
ああ、と僕は続ける。
「一つ目。お前から、優等生になったキッカケを聞いた時、『お母さんも褒めてくれなかった』と言ってたよな。でもさ、それって、母親的には当たり前のことだったんじゃないか?」
「……どういうこと?」
「お前が優等生だろうと、それとも不良だろうと、お前が『常盤藍』だってことは変わらない。お母さんにとっては、成績なんてどうでも良かったんだよ。だって、お前がお前であるだけで、既に十分だから」
あの時からずっと考えていたこと。
僕の考えに、彼女は静かに「……そうかもしれないね」と頷いた。
「もう一つ、お前に言ってなかったことがある」
「え? まだあるの?」
「ああ。あー……。なんと言いますか、実際に言うとなると、かなり恥ずかしいことなんだけど」
僕は言った。
「僕、煙草吸う女子、好きなんだよ。可愛いな、って思うし、癒される」
「へっ、え、はいぃっ!?」
「というか、お前の煙草を吸う仕草が、好きなんだ。これが言ってなかったことの二つ目」
常盤はとびきりに変な顔をした。
半笑いで、唇を歪めて、汗を流して、視線はあらぬ方を向いて、頬は紅潮して、すぐにその顔を伏せて……。
けれど、やがて顔を上げた彼女は、恥ずかしそうに笑いながら、動揺を隠すように煙草を取り出して、火を点けながら、こう言った。
「……はは、は。物好きだねえ……」
「そうかな? 結構、メジャーな性癖だと思うけど」
「あっ、あのー……っ。ところで、それはいつ頃から……?」
「いつ頃からも何も、最初からだけど。出会った時からずっとだけど」
「ひゅぇっ!?」
その所作は、いつもと違って、手は震えているわ、煙草は落としそうになるわ、火はちっとも点かないわ、全然、まるで少しも、手慣れた風ではなく、洗練されておらず、いっそ滑稽ですらあったけれど。
やっぱり、好きな仕草だった。
「……あの……。ちょっと落ち着きたいから、もう一本だけ、煙草を吸ってもいいかな……?」
「もう一本だけも何も、既に火を点けてるじゃないか」
「あ、は、はは……。そうね、確かにそうだ……。……ちなみに、これは参考に聞くだけ、ううん、ただの余談であって、全然深い意味はないんだけど、彼女が、つまり恋人が煙草を吸っていたら、嬉しかったりするのかな……?」
「だから、そう言ってるんだよ」
「あ、ああ……っ! そうね、そうだったわね……」
そこにいたのは、皆が知る、物静かで聡明な『常盤藍』ではない。
僕しか知らない、不良な『常盤藍』だ。
僕だけが知っている彼女。
優等生な彼女にそんな面があることを僕だけが知っている。
それはやはり、とても嬉しいことで。
彼女が許すのならば、これからも色んな彼女を知っていければいいな、と思うのだ。
『誰もが認める優等生なあの子が不良だということを僕だけが知っている』 了
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