【日常と今後】



 本来の『常盤藍』と知り合って、もう暫くで一年が経つ。

 季節はすっかり冬だった。

 僕達は変わらない。常盤は相変わらずのヘビースモーカーだ。変わったことは、僕の成績が多少、マシになったことくらい。学年有数の優等生と毎日のように一緒に勉強しているのだ、これで成績が向上しなければ嘘だろう。


「常盤は大学進学希望だっけ?」

「そうね。楽しみだわ。大学に行けば、心置きなく、誰に憚ることなく、煙草を吸えるし」

「そうだな。……って、大学生とか関係ないだろ!? 酒と煙草は二十歳からだ!」


 危うく流すところだった。


「細かいことを言わないでよ。どうせ、誰にもバレないって。大学の喫煙所にいる学生が何歳かなんて、気にしている奴はいないわよ」

「そりゃそうだ」


 尤も彼女が煙草を吸い続けようが、何かの間違いで禁煙に成功しようが、僕には関係がないし、意見を言える立場でもないのだが。


「あなたは? 大学進学?」

「進学できるだけの学力があればな」

「あはは。それはそうね。土下座してお願いしてくれたら、付きっ切りで家庭教師をしてあげてもいいけど?」

「お前に土下座するくらいなら両親に土下座して浪人を許してもらうよ」

「残念」


 言葉ほど残念ではなさそうに彼女は呟いた。

 ……土下座したら、どうなっていたかな?

 いよいよとなったらその選択肢も考慮しなければならないかもしれない。


「私、ふと思うんだ」

「え?」

「大学に行っても、私はこのままなのかな、って」

「煙草はやめようと思わなければやめられないと思うが……」

「そうじゃなくって!」

「やめようと思っても、やめられないかもしれないけど……」

「だから、違うって!!」

「違うのか?」

「違うわよ! もっと真剣な話!」

「お前から煙草以外の話題が出ると思ってなかった

「私をなんだと思っているのよ!! ……私が言いたいのはね、いつまで、優等生をやっていないといけないのかな、ってことよ」

「……優等生でいるの、嫌になったのか?」

「最初から嫌よ、そんなもの」


 常盤は吐き捨て、次の煙草に火を点けた。


「女子達には『良い子ぶってる』って陰口を言われるし、男子にはモテないし、先生方には頼まれ事ばかりされるし……。優等生のフリをしてるって、意外と大変なのよ。オススメしないわ」

「そう言われても、僕はお前と違って、優等生のフリなんてできないよ。落ちこぼれでいるのは、実のところ、結構楽なんだよな。誰にも期待されなければ、余計な荷物を背負い込むこともない」

「そうね。そうだと思うわ」


 しばらくの間、二人の間を沈黙が支配した。

 やがて僕はこう問い掛けた。


「常盤」

「何?」

「お前は普段の自分を『優等生のフリをしてる』って言った。僕からすれば、お前は正真正銘、優等生なんだ」

「平気な顔で煙草を吸って、あなたを顎で使っているのに?」

「前者はともかく、後者は直してくれ」

「だって、言うことを聞いてくれるじゃない」

「そりゃ首を絞められちゃ堪らないからな」

「そんな昔のことをぐちぐちと……」

「昔じゃない、つい半年くらい前のことだ。……そのことは今日はいいや。でさ、常盤。僕は思うんだよ。優等生であることと不良であることは、必ずしも、矛盾しないんじゃないか、って」

「……どういうこと?」

「お前は成績優秀だし、嫌々かもしれないけど、他人の手伝いも率先してしている。それについて、あーだこーだ言う奴もいるかもしれないし、他ならぬお前自身が嫌になってるかもしれないが、でも、お前はやり切っているじゃないか」


 彼女は隠れて煙草を吸っている、素行不良生徒だけど。

 それだけで、普段の、物静かで聡明な彼女が消えてなくなるわけじゃない。

 優等生の彼女が全否定される必要はない。

 だからと言って、喫煙という素行不良が打ち消されて帳消しになるわけじゃないが、常盤はただ、不良の側面を持っているだけだ。

 それは矛盾なく成立すると思う。


「…………」


 常盤は黙って、僕の言葉を聞いていた。

 僕は彼女に意見を言える立場にないし、彼女は僕の意見を聞く必要はなかったのに。


「ありがとう」


 やがて彼女はそう言った。


「でも、私の本性は――取り繕ろっていない私は、やっぱり不良なんだと思う。優等生であることは、やっぱりフリでしかない。本当の自分じゃない。ここでの私が本当の私。自分が一番、良く分かってる」

「常盤」

「何?」

「だとしたら、お前はいつから、優等生のフリをしているんだ?」

「……中学生の頃かな。小学生の頃の私はね、この私だった。素の私だった。乱暴で、ガサツで、短慮で……。でも、そうすると、人は遠ざかっていく。私は一人だったんだ。かと言って、家に帰っても、お母さんはいない……。その時は成績も悪かったから、お母さんも、褒めてはくれない。あはは、褒められるようなことをやってないんだから、当たり前よね」

「…………」

「でね、思ったのよ。『私が良い子になれば、私は必要とされるかな』って。人気者になりたかったのかな……。クラスにいる良い子ちゃんみたいに、皆に人気で、先生にも褒められて、きっとその子は親にも褒められている……。そうなりたい、と思った」

「だから、中学から優等生に?」

「うん。中学デビュー、ってやつ」


 恥ずかし気に彼女は笑った。


「でも、それは失敗した。優等生になることだけは成功したけど、それだけだった。必死に勉強したのに、周りからは距離を置かれて、裏では陰口を叩かれて。先生にはこれ幸いと雑用を押し付けられて。お母さんは――何も、言わなかった。私の成績が良くなっても。特に、何も。でも、だからって、急に優等生キャラをやめて、素直に振る舞うわけにもいかないでしょ?」

「……そうだな」

「私はどうすればいいか、分からなくなったの」


 煙草を吸い始めたのは中学二年生の頃だと常盤は言っていた。

 多分、限界だったのだと思う。

 優等生である自分と、そうではない自分。思い通りにならない現実。

 逃避先が必要だった。

 それが――一本の紙巻き煙草。


「きっと私は、根本的な部分で生きることが下手なんでしょうね。上手くいかないことばかりだ」

「そんなことはないだろ。お前はちゃんと、優等生をできてるじゃないか」

「誰でもできるわよ、そんなこと」

「誰でもはできないだろ、そんなこと。少なくとも僕には無理だ。だから、常盤、お前は誇っていいんだよ。優等生をやれていることを。本当の自分じゃないとしても、その行動や行為までが嘘になるわけじゃない。消えてなくなるわけじゃない」


 何度だって言ってやろう。

 常盤、お前は不良かもしれないけれど、優等生でもあるんだ。

 そして、それは凄いことなんだ。


「ありがとう」


 ねえ、と彼女は訊ねてくる。


「私が優等生じゃなくなっても、仲良くしてくれる?」

「……当たり前だろ。僕は昔から思ってたんだ。あの近寄り難い、優等生な『常盤藍』よりも、今のお前の方が話していて、ずっと楽しい、って」

「そっ、そうなの……!?」

「ああ。そうだ。僕は今のお前、結構好きだ」

「……ッ……!」

「だからさ、常盤。優等生であることを、優等生であるフリをやめられないと言うのなら、ここでは――僕の前くらいは、好きに振る舞えばいい。いくらでも煙草を吸って、好きなだけ愚痴ってくれよ。それでお前の気が楽になるなら、だけど」


 常盤は。

 微かに笑い、目を細め、今にも泣き出しそうな、けれどもどうしようもなく嬉しそうな、そんな顔をして、こう言った。


「……ありがとう」


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