【家族と恋人】



 その日、常盤が数学部に現れたのは、正課の授業が終了して、随分と経った頃だった。

 ドアを開けるなり、ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟った彼女は、眼鏡を机に投げ捨てながら、「鍵」と端的に命じる。はいはい、了解しましたよ。

 いつも通りの振る舞い。

 けれど、何処か普段より荒れている気がする。僕には分かる。

 春先に彼女の秘密を知って、もう秋だからな。長い付き合いじゃないが、浅い仲でもない。


「何かあったのか?」

「雑用よ、雑用。……っ、ふーっ……。あー、落ち着く」


 ニコチンをキメた常盤は二人掛けのソファーに身体を沈めた。


「優等生が優等生でいる為にはね、成績が優秀なだけじゃダメなの」

「……自分で自分のことを『優等生』って言った……」

「文句ある?」

「ありません」


 彼女の振る舞いや意見に対し、文句は全面的にない。あったとしても口にはしない。また首を絞められたら堪らないからな。

 しかし、「成績が優秀なだけじゃダメ」か……。

 言われてみると、常盤は教師の手伝いも率先して行っている印象だ。今日も常盤の本性を知らない教師陣に、何か、面倒事を頼まれたのだろう。そして、その雑用をこなして、ここに来た。内心、舌打ちでもしながら。

 大変だな、優等生は。他人事のように思う。


「常盤。お前の家って、喫煙者が多いのか?」

「どうして?」

「煙草を吸わない身からすると、親の影響でそうなったのかな、と推測してしまうのさ」


 常盤は少し悩んで言った。


「母親は喫煙者よ。そのことに影響を受けたかどうかは、分からないけど」

「ふーん……。お父さんは?」

「私の家に父親はいない。片親よ」


 しまった、流れで余計なことを訊いてしまった。

 気まずい気分になる僕に、常盤は、


「気にしなくていいわよ。むしろ気にされると、気に障る」


 不幸だと思われると気分が悪い――と。

 そう続けて、煙草の灰を空き缶に落とす。


「……でも、」

「え?」

「でも、お母さんが煙草を吸っているのは、父の影響なんだろうな……」


 その言葉には色々な思いがあったし、様々な過去があったのだろう。

 一言では表せないほどの。

 あるいは、彼女も知らないような。


「……―っ、はー……。あのね、女が煙草を吸ってる場合、大体は元カレの影響なのよ」


 常盤はとんでもない偏見を口にした。

 確かにマンガや小説ではそういう描写を目にするが、うーん……。


「そうとは限らないんじゃないか? 例えば常盤、お前だって、」

「私の元カレは煙草吸ってたわよ」

「……え?」

「うっそー」


 常盤はにやにやと笑う。


「騙された?」

「まあ、うん……」

「恋人なんて、いたことないよ。安心した?」

「どうして僕が安心するんだ」


 僕がそう言い返すと、常盤は快活に笑った。

 ……なんだか負けた気分だ……。


「……でも、私に恋人ができることはないんだろうな、って思うわ」

「へえ。そりゃまた、どうしてだ?」

「煙草吸ってる女なんて、男は嫌でしょ?」


 またも偏見を述べる常盤。

 偏見まみれの女だな、昨今のコンプライアンスに逆行している。

 そうでもないだろ、と僕は言う。


「気にしない男もいるよ」

「それは嬉しい話だけど、例えば、何処に?」

「……ここに?」

「っ、げほっ、ごほっ……!」

「常盤!?」


 突如として咳込んだ彼女にそう声を掛けると、手で制される。


「だ、大丈夫……。煙草の煙が灰に入っただけ」

「そうか……」


 ん?


「常盤。煙草って、そもそも肺に入れるものじゃないか?」

「そういう説もあるわね」

「そういう説しかないだろ」

「葉巻は煙を肺まで入れない、って聞くわよ。だから肺がんにはならないんだって」

「へえ、そりゃ知らなかった」

「代わりに口の方がガンになるらしいけど」

「じゃあ一緒じゃないか!」


 何の話をしていたんだったか。


「それより勉強、勉強! あなた、また成績下がったでしょ」

「う……。どうしてそれを……」

「先生が言ってたわよ。愚痴ってた。同じ数学部なのに、って」

「……優等生ってだけで色んなことを教えてもらえるんだなあ……」


 どうやら僕のような落ちこぼれにプライバシーはないらしい。


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