いくつになっても人生の楽しみ方はある

春風秋雄

中学の同級生だと名乗る美女だが、俺はこの女性を知らない

「大森君?」

いきなり女性から声をかけられ俺は振り向いた。

「大森誠治くんだよね?久しぶり!」

どうやらこの女性は俺のことを知っているようだ。

「えーと、誰だっけ?」

「松下春奈。覚えてない?同じ中学に通っていた同級生だよ」

中学校の同級生?

「同じ組になったことあったっけ?」

「同じ組になったことないけど、私は良く覚えているよ。大森君バスケット部だったよね?」

確かに俺はバスケット部だった。

「あなたもバスケット部だった?」

「私は剣道部。体育館の隅の方で竹刀を振ってた」

剣道部が体育館にいたことも覚えていない。

「ねえ、前回の同窓会、大森君は出なかったでしょ?来年は卒業30周年の同窓会だから、是非参加してよ。そうだ、連絡先教えてくれる?私幹事をしているから、同窓会の日程が決まったら先に教えてあげるよ。そうすれば日程合わせやすいでしょ?」

松下さんと名乗る女性はスマホを取り出し、連絡先の交換を要求してきた。この流れで、断るのも大人げないので、俺もスマホを取り出し連絡先を交換する。登録の名前に「松下春奈」と入力し、括弧書きで(中学同級生)とメモしておいた。

「松下は旧姓?」

「私結婚していないから苗字は変わってないよ」

そうなのか。じゃあ卒業アルバムを見ればわかるかもしれない。

「大森君は、今は東京にいるのでしょ?」

なぜそんなことまで知っているのだ?

「ああ。お盆休みで久々に帰って来た」

「家族と一緒に?」

家族?俺はどうやって説明しようかなと思ったが、面倒なので「一人で帰って来た」と答えた。

「そうなんだ。いつまでいるの?」

「決めてないけど、1週間くらいはいるつもり」

「じゃあ、飲みに誘ってもいい?」

「まあ、家の用事とかなければ」

俺はとりあえず、そう答えておいた。すると、松下さんは笑顔で「また連絡する」と言って行ってしまった。


地元に帰省するのは何年ぶりだろう。俺は今年45歳になる。大学進学で東京へ行き、そのまま東京で就職した。28歳のときに結婚したが子供はいない。というより作らなかった。妻はブティックを経営しており、現在は都内に3店舗を持っている。家庭より仕事を優先する女性だったので、出産、子育てに時間を取られたくないという彼女の意思で、子供は作らなかった。子供がいなくても夫婦二人きりで仲の良い夫婦はいくらでもいる。しかし、ブティックの経営者と普通のサラリーマンでは休みの日が合わず、次第に夫婦の会話はなくなった。6年前に3店舗目をオープンしてからは、妻はその店に付きっ切りになり、店の近くにマンションを借りた。それ以来俺たちは別居生活をしている。

今回久しぶりに実家に帰ったのは、父の喜寿の祝いのためだ。正規の盆休みにたまっていた有給休暇をくっつけて、2週間の連休にした。妻には帰省することも伝えていない。今日はその父の喜寿の祝いのプレゼントを買いに、この街で唯一のデパートに来ていたところで松下さんに声をかけられたというわけだ。


家に帰って、押し入れの奥から中学の卒業アルバムを引っ張り出した。俺が中学の時代はこの街も結構栄えていて、1学年6クラスあった。今では学年で4クラスほどしか生徒がいないと聞いている。

中学の卒業アルバムを開くなんて、何十年ぶりだろう。俺は3年の時に何組だったのかも覚えていない。1組から順番に見ていく。3組に俺がいた。同じクラスだったのに、写真を見ても誰なのかわからない奴もいる。松下春奈さんは6組だった。写真を見ると確かに今日会った松下さんの面影がある。おそらく中学の時は目立たない生徒だったのだろう。まったく記憶がない。しかし、今日会った松下さんはとても綺麗だった。女子は大人になると変わる人が多い。松下さんもそのタイプだったのだろう。6組の写真を見ていたら、井上貴子さんの写真に目が止まって、胸がドキッとした。俺は中学の時、井上さんのことが好きだった。ちょうど同じバスケ部の山田というやつが6組にいたので、用もないのに、休憩時間になるとそいつのところに遊びに行き、井上さんの姿を盗み見していた。井上さんには卒業前に告白したが、他に好きな人がいると言われて、みごとに振られた。そうか、松下さんは、俺がちょくちょく山田に会いに6組に行っていたので、俺のことを知っていたのだ。


松下さんから電話があったのは、デパートで会った3日後だった。親父の喜寿の祝いは前日に終らせていて、暇だった俺は飲みに行こうという誘いに応じた。

待ち合わせ場所に行くと、松下さんはもう来ていた。連れて行ってくれたところは、行きつけらしいダイニングバーだった。

「ここはよく来るの?」

「狭い街だから、あまり行くところがないので、ついついここに来ちゃうんだよね」

「卒業アルバム見たよ。6組だったんだね」

「そう、バスケ部の山田君と同じ組」

「6組にはよく行っていたので、それで俺のこと知っていたんだ?」

「大森君のことは1年の時から知っているよ」

「1年のときから?」

「体育館でバスケの練習よく見ていたから」

「そうなんだ。俺、剣道部が練習していたなんて、全然記憶がなくて」

「まあそうだろうね。剣道部に限らず、同じ体育館で練習していた部活の女子からは大森君結構人気あったんだよ」

「そうなの?俺全然もてなかったけど」

「だって大森君は、貴子のことしか目に入ってなかったから」

「え?俺が井上さんのこと好きだったこと知っていたの?」

「そりゃあわかるでしょう。山田君に用があるみたいに6組に来てたけど、大森君はいつも貴子のこと見ていたもの」

「気づいていたんだ」

「他の人はどうかわからないけど、私は気づいていた。だって、私はずっと大森君を見ていたから」

「え?」

「私、大森君のこと好きだったから」

俺は何とリアクションすれば良いのかわからなかった。

「こんなこと平気で言えるようになったのは、私もオバサンになったからだろうね」

「オバサンなんて言うなよ。同い年なんだから、俺もオジサンになるじゃない」

「オジサンだよ。45歳なんだから、オジサン、オバサンなんだよ。それは仕方ない事。でも、オジサン、オバサンなりの人生の楽しみ方があるんだから、別に悲観することはないよ」

「そうなのか?」

「そうだよ。大森君、お子さんは?」

「うちは子供はいない」

「そうなんだ。じゃあ、夫婦水入らずが続いているんだ」

「水入らずどころか、深い深い川が流れているけどね」

それから俺は、何故か松下さんに俺たち夫婦のことを話してしまった。

「そうかあ、人生色々だね」

松下さんはそう言って、同級生の誰それは離婚したとか、誰それは三度目の結婚をしたとか、色々教えてくれた。井上さんのことは教えてくれなかった。松下さんも知らないのか、教える必要がないと思ったのか。俺は気にはなったが、敢えて聞かなかった。

松下さんは、実家が電気設備工事の会社を経営しているので、工業高校へ進学したあと、実家の仕事の手伝いをしているということだった。フォークリフトの運転もしているらしい。


それ以来、松下さんとは毎日のように飲みに行った。中学時代にはまったく話したことがなかったはずなのに、何故か松下さんと話していると、懐かしい気がする。中学時代の話が出てくるということもあるが、地元の方言が心地よいからかもしれない。


明日東京へ帰るという日だった。

「明日帰っちゃうんだ?」

「仕事があるからね」

「今度はいつこっちに帰ってくるの?」

「お袋と同じことを聞くね」

「あまりこっちには帰りたくないの?」

「帰ってくる理由がなかったからね」

「じゃあ、帰ってくる理由を作ろうか?」

俺は松下さんを見た。少し酔った目が艶めかしく俺を見つめている。


松下さんは実家に住んでいるものと思っていたが、一人でマンションを借りていた。実家は会社を継いだお兄さんの家族が住んでいるので、7年前から一人暮らしをしているらしい。

ベッドで春奈さんの裸の肩を抱きながら、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかったので、俺は戸惑っていた。確かにこれで帰省する理由は出来た。また春奈さんと会いたいと思う。しかし、これは紛れもなく不倫だ。春奈さんはそれでいいのだろうか。

俺が天井を見ながら考え事をしていると、春奈さんが聞いた。

「貴子が今どうしているか、気になる?」

「いきなり何を聞くんだよ」

「貴子は地元の短大を出てすぐに、県会議員の息子さんと結婚した。貴子のお父さんって、市会議員だったじゃない。その県会議員さんが国政に打って出る予定だったから、その後の県会議員になるために繋がりをもっておこうとしたみたい。言ってみれば政略結婚だね。でも子供も3人作って、結構幸せそうだよ」

そうなのか。幸せならそれでいい。

「よく知っているんだね」

「私、中学の時から貴子とは仲良かったの」

「そうなんだ?」

「大森君、卒業前に貴子に告白したでしょ?」

「そんなことも知っているのか?」

「貴子、他に好きな人がいるからと言って断ったらしいけど、多分それは嘘」

「どういうこと?」

「貴子、他に好きな人なんかいなかったと思う。そんな話、全然聞いたことなかったもの。貴子は私に気を使ったのだと思う。私が大森君のこと好きだって知っていたから。だから貴子は大森君から告白されたけど、他に好きな人がいるからと言って断ったと私に報告してきたの。他に好きな人いるの?って聞いたら、笑っているだけだった。ひょっとしたら、貴子も大森君のこと、好きだったのかもしれない。でも大森君よりも私との友情を大切にしてくれたのだと思う」

井上さんは、そういう人だったんだ。遠くから見て好きになっただけで、井上さんの人柄なんか、まったく知らなかった。

「だから、大森君の恋が実らなかったのは、私のせいかもしれない」

「中学生の時の恋なんて、実るも何もないだろう。あの時は、ただ単に自分の思いを伝えたかっただけだから」

「ごめんね」

春奈はチラッと俺を見てそう言った。

「謝ることじゃないだろ。もう30年も前のことだし」

春奈は俺に抱きついてきた。

「こんど、東京に遊びに行った時、会ってくれる?」

「東京に来ることなんかあるの?」

「息子が東京にいるの」

「子供がいたの?結婚してないって言ってたよね?」

「結婚はしてないけど、子供はいるの。もう25歳。東京で働いている」

「25歳?二十歳のときに産んだの?」

「うん」

「父親は?」

「高校3年のときに付き合っていた彼氏。県外の大学に進学したから、妊娠したことも伝えていない。それ以来会っていないし」

「よくご両親が産むことを許してくれたね」

「父親は誰なのかとしきりに聞いてきたけど、一切言わなかった。幸い両親は授かった命を大切に思ってくれて、シングルマザーで産むことに協力してくれたの」

「じゃあ、息子さんも父親が誰なのか知らないのか?」

「うん。言っていない」

「息子さんのために、父親になってくれる人と結婚しようとは思わなかったの?」

「それどころではなかった。思っていた以上に子育ては大変だった。両親からは子供を産む条件として、実家の会社で働いて自分と息子の生活費は実家に入れるということになっていたから、いくら家には母親がいるといっても、フルで働きながら子育てしていては、出会いなんかなかったもの」

「大変だったんだね」

「まあ、自分で選んだ道だから。息子が大学へ行って、私も一人暮らしを始めたから、やっと母親から女に戻れると思ったんだけど、もうその時は38歳じゃない。近寄ってくる男は変な人ばかり。だから、男の人とこういうことをしたのは、本当に久しぶりなの。その相手が大森君で良かった」

そんな話を聞くと、春奈が可愛く思えてきた。俺はもう一度春奈を抱き寄せた。


東京に戻ってから、無性にわびしさがこみ上げてきた。結婚して、本来であれば幸せな家庭を築けるはずだったのに、今はこの広いマンションで、一人で暮らしている。毎日が同じことの繰り返しの生活。仕事に対しても、特にやりがいを持っているわけでもない。出世には興味がなく、ただ単に、給料をもらうために働いている。それに比べ、妻は自分の店に自分の人生をかけて働いている。春奈さんは、子供を育てるために、女を捨て、身を粉にして働いていた。俺はいったい何をやっているんだろうと思うと、無性に春奈さんに会いたくなった。春奈さんとの出会いは、この何十年かの中で、一番刺激のある出来事だった。しかし用もないのに、頻繁に帰省するわけにもいかない。そのうち東京へ遊びに行くと言っていた春奈さんの言葉を、俺は期待して待つしかなかった。


春奈さんが東京へ来たのは1ヵ月ほどした頃だった。

「今日は息子さんのところに泊るの?」

「ワンルームの狭い部屋だし、あの年になったら母親が泊るのは嫌がるわよ」

「さすがに俺の家には泊められないから、どこかホテルとろうか?」

「私、ラブホテルがいい。この年になるまで、ラブホテルって行ったことないの」

春奈にそう言われて、俺たちは食事が終わるとラブホテルに入った。

一か月ぶりに交わり、汗だくになった俺が風呂に入っていると、ドアがガチャリと開いて、春奈が入って来た。春奈は俺を背もたれにするように浴槽につかる。俺は背後から春奈を抱くように手を伸ばした。

「広いお風呂って、気持ちいい」

「なあ、俺が離婚したら、東京に来てくれるかい?」

春奈は一瞬考えたあと、口を開いた。

「それは、私が東京に来ると言えば離婚するということ?それとも、私が来る来ないは関係なく離婚するということ?」

俺は返答に窮した。

「大森君の人生を私のために変えて欲しくない。私は今まで自分の人生は自分で決めてきたから、他人の人生を決めるようなことも私はしたくない。私は大森君に離婚してほしいとは思ってないし、たまにこうして会ってくれれば充分だよ。」


春奈は二か月に1回くらいのペースで東京に来た。そして、俺は何年ぶりかで年末年始は実家で過ごした。両親はビックリしていたが、喜んでくれた。俺の中で、妻と離婚する気持ちは固まりつつあった。両親にそのことを話すと、夫婦の問題は親が口出しすることではないからと、賛成とも反対とも言わなかった。


春になって、俺は妻と離婚した。妻もこのまま籍を入れておく理由がないと言って、簡単に応じてくれた。マンションは賃貸なので解約し、俺はもう少し狭いマンションに引っ越した。

春奈が引っ越したマンションに初めて泊った。

「良い部屋だね」

「陽当たりも良いし、地下鉄の駅からも近いしね。ちょっと古いけど、住みやすい部屋だよ」

「それでも家賃は高いよね。東京だから仕方ないか」

「俺もこの年になって、それなりに収入はあるから、この程度の家賃は問題ないよ」


新しく買ったベッドで交わった後、俺は用意していた言葉を言った。

「春奈、東京に来ないか?」

春奈が黙って俺を見た。

「実家の会社は春奈がいなくても何とかなるのだろ?だったら、息子さんもいることだし、東京に来て、ここに一緒に住まないか?俺と結婚してほしい」

春奈は返事をしない。

「結婚という形式が嫌なら、籍は入れなくてもいい。ここに一緒に住んでほしい」

「大森君とは、今の関係がちょうどいいと思っているの。一緒に住むとか、結婚というのは考えたくない」

「どうして?」

春奈はしばらく黙っていたが、意を決したように、口を開いた。

「いつかは話さなきゃと思って、なかなか言えなかったんだけど、息子の父親は、山田君なの」

「山田って、あのバスケ部の山田のことか?」

「そう。山田君も同じ工業高校に通っていて、3年の時に同じクラスになったの。それで2学期の終わりから付き合い始めた」

「山田は大学に行ってから春奈には連絡してこなかったのか?」

「5月の連休に一度帰って来て、その後少しの間は連絡し合っていたけど、妊娠したことがわかって、私が別れようと言ったの。そしてもう連絡はしてこないでと言ったの」

「山田は春奈に子どもがいることは知っているのだろう?それが自分の子供だとは思わないのか?」

「別れてから山田君と会ったのは、高校卒業20周年の同窓会が初めてだった。お子さんはと聞かれて大学生と言っただけだからわかるはずないよ」

「それで山田は、今はどうしているのだ?」

「機械メーカーで働いていて、その時は福岡支店にいると言っていた」

「結婚はしているんだろ?」

「お子さんも二人いると言っていた」

「何か、納得いかないな」

「大森君が怒ることではないでしょ?私が山田君には知らせないと決めたことだから。だから大森君も山田君には絶対言わないでほしい。それより、私が山田君とそういう関係だったということを知って大森君がどう思うのか、私はそれが心配だった。ましてや、一緒に住むとか結婚ということになれば、息子とも顔を合わせることになるだろうから、息子の顔を見るたびに山田君のことが頭に浮かぶんじゃないかと思って」

確かにそうかもしれない。山田のことは嫌いではなかった。バスケ部の中でも気の合う方だった。ただ、これだけ春奈のことを好きになってしまうと、過去のこととはいえ、山田に嫉妬する気持ちがないといえば嘘だ。春奈は山田の将来のことを考えて妊娠のことは告げなかった。それだけ山田のことを大切に思っていたということだろう。そして、その山田の子供をどうしても産みたいと思ったのは、それだけ山田のことが好きだったということなのだろう。俺は頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。


春奈はあれ以来、東京に来なかった。いや、来ていたのかもしれないが、俺には連絡してこなかった。LINEで連絡してもありきたりの返事しか返ってこない。俺たちはこれで終わるのだろうか。

そうこうするうちに、中学卒業30周年の同窓会の案内が来た。お盆に開催されるということだ。あれから1年になるのか。春奈に出席するのかとLINEで聞くと、幹事だから出席しなければならないと返事が返ってきた。俺は葉書の「出席」に丸をして返信した。


同窓会は結構な人数が集まっていた。卒業アルバムで予習をしてきたのに、実際に顔をみると皆年をとって顔が変わっているので、わからない人がほとんどだ。それでも井上貴子さんは遠目から見ても輝くような美しさで、すぐにわかった。俺に気づいた井上さんが俺のところまで来て挨拶してくれた。俺も特にドキドキすることなく、普通に挨拶できた。宴が進み、場が乱れてきたところで、俺は6組のテーブルに行った。春奈は幹事なので、他の幹事と打ち合わせをしていて6組のテーブルにはいなかった。その代わり、山田がいた。俺は山田の隣に座った。

「山田、久しぶり」

「大森、久しぶりだな」

簡単な挨拶と近況報告をし合ったあと、俺は切り出した。

「お前、高校時代に松下春奈と付き合っていたんだって?」

「なんで知っているんだよ?」

「まあね、情報は色々入ってくるものだよ」

「確かに付き合っていたけど、大学に行ってすぐに振られたよ。俺は本気だったんだ。大学を卒業したら、彼女に結婚を申し込むつもりだった。でも、大学に行って、何か月もしないうちに振られた。ショックだったなあ。かなり落ち込んで立ち直れなかった。結局今の嫁さんと付き合うまで、誰とも付き合えなかったもの」

山田は真剣に春奈のことが好きだったのだ。もし、妊娠のことを春奈が告げていたら、おそらく山田は大学を辞めて働いていただろう。そうなると、山田の人生は大きく変わっていたはずだ。春奈が「私は今まで自分の人生は自分で決めてきたから、他人の人生を決めるようなことも私はしたくない」と言っていたのを思い出した。

ふと見ると、春奈が心配そうに俺たちを見ていた。俺が息子さんのことを山田に話さないか、心配しているのだろう。


同窓会が解散になったあと、俺は春奈にLINEした。

“話をしたいので、時間をつくれないか?”

“幹事の打ち上げがあるので、その後なら”

“何時になっても構わないので終わったら連絡下さい”


春奈が指定した喫茶店で待っていると、春奈が現れた。

「今日、山田と話した」

春奈がピクンと反応した。

「安心して。息子さんのことは何も話していない」

俺はそう言ってから、山田が話したことを伝えた。春奈の目が潤んできた。

「山田は、妊娠のことを知ったらおそらく大学を辞めて働いていたと思う。山田が春奈のことを真剣に思っていたと知って、俺は安心した」

春奈が意外そうな顔をして俺を見た。

「あいつが遊び半分で付き合っていたとか、妊娠を知って逃げてしまうようないい加減な気持ちで付き合っていたのだったら、俺は一生あいつを許せなかったと思う。でも、そうでなかったので、俺はあいつを許すことが出来た」

春奈は何も言わずに俺を見つめている。

「だから、俺と結婚してください。そして、東京に来てください。返事は今すぐでなくていいです。とりあえずこれを渡しておきます」

俺はそう言って自分の部屋の合鍵をテーブルに置いた。

「春奈にその気がないのなら、送り返して下さい。もし、俺と一緒に暮らしてもいいと思うのなら、その鍵を持って、東京に来てください」

春奈は、俺の話を聞いているだけで、結局一言も口にしなかった。


東京に帰って1ヶ月しても春奈から返事はなかった。その代わり、鍵の返却もない。俺は春奈に返事を迫ることはしなかった。彼女は自分の人生は自分で決める人だ。そんな人に俺がどうのこうのと言っても仕方ない。


春奈に鍵を渡してから2か月ほど経った日だった。仕事から帰り、マンションのドアの鍵を開け、ドアを開くと明かりが付いていた。玄関には女性用の靴がある。春奈だ!

俺は急いで靴を脱ぎ、リビングに入った。春奈が台所で料理を作っていた。俺が「春奈」と声をかけようとしたとき、横から若い男性が姿を現した。

「大森さんですか。初めまして。私、松下春奈の息子で、松下洋平といいます。これから母のこと、宜しくお願いします」

目元が山田によく似ている青年がそう言った。

俺は、思わず洋平君を抱きしめた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

台所で春奈が目元を拭うのがチラッと見えた。

1年前、初めて飲みに行った時、春奈が言っていた。

「オジサン、オバサンなりの人生の楽しみ方があるんだから、別に悲観することはないよ」

確かに、いくつになっても人生の楽しみ方はあるのだと、俺は実感した。

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