第32話 真夜中の殺人未遂事件

 後宮の一階にある談話室――雷雨がなくても暗闇に染まる真夜中、すべての蝋燭ろうそくに火が灯され、煌々こうこうとした光に満ちている。


 ジェラルドは長椅子に腰かけ、見るともなしに窓に吹き付ける雨を眺めていた。傍らに立っているディオンも無言のまま、同じ窓の外を見つめている。


『マレナ様の命には別条はありませんが、足の骨を折られているので、しばらくは不自由な生活になるでしょう』


 彼女を診察した医師がそう告げて、少し前に帰っていったところだ。


 マレナが階段から落ちたという報告を受けたのは、完全に深夜を回っていた。寝室に来ていたナディアも自分の部屋に帰り、ジェラルドも執務室で仕事に戻っていた。


 連日起こる騒ぎに嫌気がさしながらも、ジェラルドはすぐにディオンを叩き起こして、一緒に後宮までやってきた。


 その時にはすでに医師が呼ばれ、部屋に運び込まれたマレナは診察中だった。


 彼女は真夜中に部屋を出て、何をしていたのか。なぜ、階段から落ちるようなことになったのか。


 聞きたいことは山ほどあったが、女たちは皆が皆、起こった事の大きさに震え、恐慌状態に陥っていた。ディオンがなだめすかし、全員部屋に戻らせるだけで精一杯だった。


 診察の結果、怪我は骨折と打撲だぼく程度で、マレナ本人は軽い脳震盪のうしんとうで意識を失っているだけだという。危ぶまれた流産も月のさわりによる出血ということで、側仕そばづかえの者たちもだいぶ落ち着いたようだった。


 おかげで懐妊の件は片付いたが、それ以上に大きな問題が発生してしまった。


(まさか後宮内で殺人未遂事件が起こるとは……)


 談話室に人が入ってくる気配を感じ、ジェラルドは座り直して表情を引き締めた。


 女官の制服をまとった少女が一人、かしこまった様子で膝をつく。


「陛下、おもにアメリー妃を世話している女官、サラです。一部始終を見ていたということで、こちらに呼びました」


 ディオンの紹介に、ジェラルドは頷いた。


「話を聞こう。おもてを上げよ。直答を許す」


「ありがとう存じます」


 サラは顔を上げると、淡々と話し始めた。


「一部始終と申しましても、わたしはアメリー様に呼ばれてお部屋に参上しましたので、それまでに何があったのかは存じません。わたしがお部屋を訪ねた時は、マレナ様がアメリー様の首を絞めているところでした」


 近衛騎士たちも同じようなことを言っていた。


『マレナ妃がアメリー妃を殺そうとしています。すぐに来てください』


 女官の一人にそう言われて、慌てて駆けつけたという。


 部屋に着いた時はすでに、マレナは女官たちに取り押さえられていて、近衛騎士たちの姿を見た途端に逃げ出したと。そして、廊下を駆け抜け、階段を踏み外したのではなく、飛び降りた。


『飛び降りる時、ためらう様子はありませんでした。自害しようとしていたのではないでしょうか』


『アメリー妃を殺そうとしたところを見つかって、もう逃げられないと思ったのかもしれません』


 現場を目撃した近衛騎士たちは、そのように証言していた。


「それはどうやら確からしいな。他に気づいたことはなかったか?」


 サラは逡巡しゅんじゅんした様子を見せた後、ゆっくりと口を開いた。


「先ほどのマレナ様は……こう言っては何ですが、おかしかったのです」


「どうおかしい?」


「話し方が違いましたし、何より声が違いました。まるで何かにりつかれているような……。陛下が信じてくださるかは分かりませんけれど」


「憑りつかれている……」


 ジェラルドは膝の上で握りしめた拳が冷たくなったような気がした。


(これは悪霊の仕業なのか……?)


 ほんのつい最近まで、呪いや悪霊など信じるに値するものではなかった。しかし、今は違う。ジェラルド自身、悪霊に命をおびやかされていることを自覚している。


 ただ、たくさんの悪霊に呪われていると理解はできるものの、『憑りつかれる』という感覚は今までになかった。


(アメリーなら、答えを持っているのだろうか)


 こういう話は彼女の方がよほど詳しい。実際にサラが部屋に入る前に何があったのかも、聞いてみなければならない。


「それで、アメリーはどうしている? 姿を見なかったが、無事なのか?」


「はい。逃げるマレナ様を追われるくらいには、お元気なご様子でした。けれど、階段から落ちたマレナ様を見て、気を失ってしまわれたようです。医師にも診ていただきましたが、特に問題はないとのことで、今はお部屋でお休みになられています」


 それを聞いて、ジェラルドは息をつきながら緊張を解いた。


「そうか。では、目覚めたら彼女から話を聞くことにしよう」


 ジェラルドはちらりとディオンに目配せを送る。


「陛下からのご下問かもんは以上になる。下がってよろしい」


「失礼いたします」と、サラは再び頭を下げてから部屋を出ていった。


「ディオン、さっきの話をどう思う?」


「マレナ妃が何かに憑りつかれていたのではないか、ということですか?」


「ああ」


「サラは女性にしては珍しく、見たものはそのままに、事を大げさにするような話し方をしない女官です。その彼女が言うのですから、マレナ妃の様子がいつもと違っていたというのは事実でしょう。ただ、それを『憑りつかれている』と表現するのは、いかがなものかと」


「お前なら話し方や声が違っていたことを、どう説明するのだ?」


「人間誰しも表と裏の顔がありますからね。陛下の前で愛らしい女性でも、素の姿がそのままとは限りません」


「ほう、私がマレナに騙されていたとでも?」


 ジェラルドがじろりと見やると、ディオンは小さく肩をすくめた。


「――と、もっともらしいことを言ってみましたが、マレナ妃は幾度となく問題を起こしてきた方ですからね。表も裏もあったものではないと思っています」


「客観的に判断すれば、すでに憑りつかれていると思ってもおかしくない言動ばかりだったからな……」


 ジェラルドは言いながら、こめかみに手を当てた。今までのことを思い出すと、頭が痛くなるようだ。


「つまるところ、私ではそのような非現実的な話をどう説明してよいのか分かりません」


「当然、そうなるか」


 ジェラルドが悪霊に呪われている事実を知らないディオンが、そう答えるのも無理はない。


「いい加減、ガルーディアに抗議の一筆くらい入れてもよろしいのでは?」


 ディオンの提案は、『マレナの首と胴がつながっているうちに、国に帰せ』と同義だ。


 何かというと他の妃たちと問題を起こすマレナは、いつ後宮から追い出してもいい存在だった。しかし、当の本人がそれを拒否していたので、無理やり帰国させる理由はなかった。それこそ、理由もなく国外追放となれば、戦争の火種になりかねない。


 正直、ジェラルドも彼女の扱いに関しては、手をこまねいていた。


 しかし、今回の一件は明らかに殺人未遂。目撃者も複数いる。国の基準から行けば、即刻処刑が妥当になる。ただ、他国の王女を処刑したとなれば、母国であるガルーディアとの国際関係に響く。


 もっとも、ジェラルドが即位して五年、政策や法整備が完全に整ったとは言えないものの、ガルーディアを恐れるほどこの国も弱くはない。しかし、ようやく平和のきざしの見えてきているこの国に、戦火をもたらすようなことは避けたい。


 マレナを国外退去、ガルーディアに帰して、そちらの方で処遇を決めてもらった方がいいのは確かだ。


(ディオンの意見はもっともだとは思うが――)


「いずれにせよ、厄介事になる可能性は否めないな」


「おや、あまり気が進まないご様子ですね」


 ジェラルドが何を懸念しているのか、ある程度は察しているのだろう。ディオンの表情はいつものニコニコ顔。驚いたそぶりも見せない。


 マレナを無事に、、、帰国させたくないと思うのは、アメリーの身に危険が降りかかる可能性があるからだ。


 マレナが帰国すれば、『イーシャ族の末裔がルクアーレ王国にいる』という話は、当然ガルーディアの王にも伝わる。あちらの国からしたら、もともと殲滅せんめつ対象のイーシャ族アメリーを殺そうとしただけの話。そのせいでマレナがルクアーレを追い出されるというのは、納得のいかない話にしかならない。下手をすれば、非難を受けるのはこちらの国になる。


「マレナも今のところは、話ができる状態ではないからな。落ち着いたところで、改めて話をするのがいいだろう」


「明日の――もう今日になりますが、王国議会で議題に上がるのは避けられませんよ」


「私の気持ちはもう決まっている。アメリーは私の妃だ。何が何でも守る。他はどうとでもしてやる」


 ちらりとディオンを見ると、いつものニコニコ顔がさらに笑み崩れていた。


「……何かおかしいことでも言ったか?」


「いいえ。陛下がようやく人間らしい表情を浮かべるようになられて、うれしいのですよ。それもこれも、アメリー妃のおかげ。失うわけにはいかないと、このディオンも陛下の決意をしかと承りました」


 ディオンの言葉に揶揄やゆするような響きはなかった。


「すべての復讐を終えた今、私が望むのは陛下の幸せだけですから」


 付け加えられた言葉に、ジェラルドはふっと口元に笑みを浮かべていた。


「お前もな」

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