第31話 竪琴のない夜(後編)
アメリーは無我夢中で身体をよじり、首にかかる手を取り除けようと、その両手首を掴んだ。
手に触れる手首はすべすべした柔肌で、女性のものに違いない。そうでなくても、この後宮に男性が入り込めるほど、警備は甘くない。
首を絞める手がかすかに緩んで、アメリーの喉にもわずかながら空気が流れ込んでくる。
「や……めて……!!」
必死で抵抗する中、稲光で一瞬部屋が明るくなる。
その一瞬で見えた顔は、マレナのものだった。昨日アメリーを
「マレナ、様……!!」
アメリーの倍ほどもある体重がのしかかり、首を押さえる力もさらに強くなる。声を出そうとしても、かすれた息が漏れるだけだ。
「さっさと死ね!」
喉から絞り出されるような低い声は、マレナのものではなかった。しわがれているが、女性のものに違いない。アメリーが聞いたことのない声だった。
(これ、誰かが
竪琴の継承者と認められて十年、このような事態は遭遇したことがなかった。
(死者の魂にこのような力があるなんて……!!)
アメリーは暴れ続けることで、なんとか完全に首が閉まることから逃れているが、徐々に意識がもうろうとしてくるのを感じる。
(誰か……!!)
助けを呼ぼうとして、そこでようやく自分が『妃』であることを思い出した。
ベッド脇のサイドテーブルの上には、女官を呼ぶためのハンドベルが置いてある。手を伸ばせばギリギリ届くところだ。
アメリーはマレナの手首から右手を離して、思いっきり腕を伸ばし、弾き飛ばすようにハンドベルを床に落とした。
「死ね! 死ね! お前を生かしておくわけにはいかない!」
マレナに憑依した何者かは、ベルの音に驚いた様子もなく、
アメリーは遠くなる意識の中、部屋の扉がノックされる音、続いて扉が開かれる音を聞いた。かすむ目に
(ああ、誰か来てくれたわ……)
「マレナ様! 何をなさっておいでなのです!?」
悲鳴にも似た金切り声を上げるのは、アメリーのよく知るサラだった。しかし、彼女が部屋に飛び込んできても、マレナの力が緩むことはない。
「マレナ様、おやめください! 誰か、近衛騎士を呼んで!」
サラが叫びながら、
やがて、開きっぱなしになっていた扉から、数人の女官がなだれ込んできた。
「な、何事なの!?」
「いいから、ローラは近衛騎士を呼んできて! 他の人たちはこっちを手伝って。このままではアメリー様が死んでしまうわ!」
一人が廊下を駆け去る足音とともに、アメリーにのしかかるマレナの身体は、数人がかりでようやく離れていった。
アメリーの喉には空気が流れるようになって、咳き込みながら何度も深呼吸を繰り返した。
「いったい何をされていらっしゃるのか、お分かりですか!?」
「マレナ様、どうか落ち着いてください!」
傍らでは、マレナが三人の女官に押さえられながらも、
「離せ! 邪魔をするな! この娘を殺す!」
廊下からバタバタと乱れた足音が聞こえたかと思うと、一人の女官を先頭に近衛騎士が二人飛び込んできた。マレナを押さえるサラたちの顔に
その一瞬――
拘束する力が緩んでしまったのか、マレナは女官たちの手を勢いよく振りほどいた。
「この身体はもう使えないか……!!」
忌々しげに吐き捨てたマレナの言葉に、アメリーは震撼した。
マレナは踵を返すと、入口に立つ近衛騎士たちに向かって突進していく。
「駄目! その人を逃がさないで!」
アメリーはとっさに叫んでいた。
「アメリー様!」と、サラの呼ぶ声が聞こえるが、気にしている状況ではない。
廊下を走っていくマレナの後ろ姿が見える。近衛騎士の二人がその後を追っているが、太った女性のものとは思えない機敏さがあった。
(ここに竪琴があったら……!!)
【鎮魂の調べ】で、憑依している悪霊をすぐにでも天へ送れたかもしれない。たとえそれが叶わなくても、マレナの身体から追い出すことはできた。
アメリーを狙うのなら、竪琴がここにない今夜ほど絶好のチャンスはない。
『誰がわたしを殺そうとしているの?』
『どうしてわたしを殺そうとするの?』
問いかけることもできず、答えを知ることもできずに、アメリーは階段の上で立ちすくんだ。
二人の近衛騎士が青ざめた顔で階下を見ている。その視線の先、階段の踊り場にはマレナが倒れていた。真っ白な寝巻は、腰から足元にかけて、流れるような真紅で染まっている。
(遅かった……間に合わなかった……)
アメリーは力が抜けて、その場にへたり込んでいた。あふれる涙の向こうでも、真紅だけが目に焼き付いたように視界の中で光っていた。
追って駆けつけた女官たち、騒ぎを聞きつけて集まってきた妃や侍女たちが悲鳴を上げている。
アメリーにはそんな声もどこか遠くに聞こえた。まるで夢の中にいるようで、現実味がなかった。
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