第16話 聞きたい声は聞こえない
リュクス大聖堂から戻ったその夜、アメリーは王の寝室に行かなければならなかった。特に何もなければ、十一時十五分前には近衛騎士が後宮の入口まで迎えに来る。
今までになく気が重いのは、ラウラの圧力――アメリーから謝って、ベッドに誘う――に加えて、イザベルの言葉を伝えるべきか悩んでいるからだ。
『誰も恨まないで。幸せになって』
その言葉の裏には、分不相応な野望を持ってしまったというイザベルの自責の念も込められている。
そのことを知らずに復讐を終えてしまった今のジェラルドに、わざわざ伝えるべき言葉なのか。余計な後悔を与えるくらいなら、何も知らないままの方がいいのではないかとも思う。
(そう簡単に出せる答えではないわね……)
アメリーはため息をつきながら、王の寝室の扉をノックした。
「入れ」と声がかかったので、近衛騎士に開いてもらった扉から中に入る。
「ごきげんよう、陛下」
「うむ」――と、何も変わらないやり取り。
ジェラルドはいつものようにベッドに腰かけているので、アメリーはその前に置かれたイスに座った。
「今夜も竪琴をお聞きになるということで、よろしいでしょうか?」
ジェラルドが黙ったまま、じいっと見据えてくるので、アメリーは目を合わせないように竪琴を膝に乗せた。
「その前にアメリー、一つ言っておきたいことがある」
「な、何でございましょう……?」
ジェラルドが鋭い視線を向けていることに気づき、アメリーはぞわりと嫌な寒気を感じた。
(なに!? 怖い前振りはやめてほしいわ!)
「私がそなたを『形だけの妃』とするのならともかく、そなたが決める権利はない」
「そ、それは確かにその通りで……ご不興を買ったのでしたら、謝罪申し上げます!」
『首は飛ばさないで!』と胸の内で叫びながら、アメリーは頭を下げた。
「では、今宵は竪琴ではなく、そなたを所望してもよいか?」
「はい?」
アメリーが身を起こしたと同時に手を引っ張られ、ぶつかるようにジェラルドの胸に飛び込んでいた。膝から滑り落ちた竪琴が、ゴトリと音を立てて床に転がる。
(いきなりご所望になられても……!! お母様は喜ぶと思うけれど! )
突然のことに顔が真っ赤になるどころか、身体中の血が沸騰しているのかと思うほど熱くなる。頭の中は完全に真っ白になっていた。
だから、これはすべて無意識下の行動――
気づけば、アメリーは両腕を突っ張ってジェラルドの身体を押しやり、寄せられる彼の唇から逃れようと、思いっきり顔をそむけていた。
(ま、またやってしまったわ……!!)
今度こそ怒りの
「さすがの私もそこまで嫌がられると、傷つくのだが……」
「ち、違うのです……!! 嫌とかそういうことではなくて、身体が反射的に――」
「それを嫌がると言うのではないか?」
ジェラルドが暗い眼差しを向けてくるので、アメリーは慌てた。
(何か他にいい言い訳は……!?)
「……あ、そうです! 今宵はお母様の、イザベル様のお話をしようと思っていたのです!」
一瞬にしてジェラルドの身体から力が抜け、その表情は緊張ともいえる硬いものに変わった。
(『お母様』は、陛下の鎮静剤として絶大な効果があるのだわ!)
何かあったら今度も使ってみよう――などと考えている状況ではなく、話を振ってしまった以上、このまま続けるしかなくなってしまった。
「何の話がしたい?」
アメリーがそろそろと身体を離しても引き留められることはなかったので、改めてイスに腰を下ろした。
「今日、大聖堂に行ってまいりました」
「母親の月命日だったとか」
最終的に外出の許可を出したのはジェラルドなので、当然この『嘘の目的』は知っている。あえて訂正することなく、アメリーは首肯した。
「その時、イザベル様ともお話しすることができました。わたしは死者の魂と言葉を交わすことができるのです」
ジェラルドに驚いた様子はなかった。亡くなったイザベルの声を聞いたことのある彼からすると、ロジーヌよりも受け入れやすい話なのかもしれない。
「その竪琴は、やはり特別なものなのだな」
「その通りでございます」
アメリーは答えながら、床に落ちていた竪琴を拾って膝の上に乗せた。
「母は何と言っていた?」
「そのまま伝えるべきか、わたしは今迷いながら、こうして話しています。わたしが介することで、イザベル様の想いを歪めてしまうかもしれません。できることなら、陛下が直接お話しするのが一番かと思ったりするのですけれど」
「そのようなことができるのか?」
ジェラルドは驚いたように目を
「不可能ではないと申し上げます。陛下はそれを望まれますか?」
ジェラルドは少しうつむいて、アメリーの視線から逃れた。両手を膝の上に組み合わせ、考え込んでいるのか、迷っているのか、無言の時間がしばらく続いた。
「――可能ならば、自分で聞きたい」
ややあって、ジェラルドは小さな声でつぶやいた。
「八年前に何を伝えようとしていたのか。そうでなくても、もう一度母の声を聞けるのなら、私は聞きたい」
「陛下のお気持ちは分かりました。ただ――」
アメリーは竪琴の調律を変え、【交霊の調べ】の一節をかき鳴らした。
ジェラルドの顔が苦痛に歪むのが見えて、すぐに手を止める。
「残念ながら、今の陛下にはイザベル様のお声は聞こえません」
「これは何なのだ?」
騒音がやむと、ジェラルドはほっとしたような顔でアメリーを見つめてきた。
「陛下を恨む魂たち――悪霊たちの叫びです」
ジェラルドは皮肉げに乾いた笑いを漏らした。
「なるほど、私は悪霊憑き――呪われているということか」
「その通りでございます。悪霊は普通の魂に比べると、声が大きいのです。陛下がイザベル様のお声を聞くためには、この悪霊たちを先に天に送らなければなりません」
「そなたはそれができるのか?」
「はい。そのためには、わたしが悪霊たちを祓っている間、陛下が先ほどの音に耐えなければなりませんけれど」
「どれくらいの時間がかかる?」
「今のところは五分程度といったところでしょうか」
「思ったより長くないのだな。母と言葉を交わせるというのなら、その程度は我慢してみせよう」
毅然と答えるジェラルドの目に揺らぎはない。おそらくそれくらいの精神力はあるのだろう。イザベルに守られているとはいえ、これだけの悪霊に囲まれていても、今まで命をつないできた人だ。
とはいえ――
「大変申し上げにくいことですけれど、その五分でどれだけの悪霊を天に送れるかは分かりません。一度で済めば話は早いのですけれど、悪霊たちがどれほど陛下に執着しているかによって、もっと長い時間が必要になる場合もあります」
「ならば五分と言わず、必要なだけ時間を使えばよい」
「そうしたいところですけれど、残念ながら今の陛下では、五分が限度なのです」
「五分以上、私が耐えられないとでも?」
みくびるなと言わんばかりに睨まれたが、アメリーはかぶりを振った。
「今、陛下の心身を悪霊たちから守っているのは、イザベル様です。イザベル様まで天に送ってしまわないためには、その間、離れていていただく必要があります」
「つまり、母が五分以上離れていられないということは――」
「イザベル様の守りがなければ、陛下のお命はないということです」
ジェラルドの顔色がかすかに青くなるのが分かる。あと五分で死ぬと言われたのも同然なのだ。どれだけ自分が死のそばにいるのかを知って、恐怖を感じないはずはない。
「陛下がイザベル様のお声をお聞きにならなくても良いとおっしゃるのなら、わたしは今すぐにでも悪霊をすべて天に送りましょう。陛下のお命を脅かす者はいなくなります。それでも、あえてイザベル様のお声を聞きたいとお思いになりますか?」
両手を膝の上で組み合わせるのが、ジェラルドの考え込む時の癖らしい。アメリーは彼が答えを出すまで、黙って待っていた。
「八年だ――」
ようやく口を開いたジェラルドが発したのは、そのひと言だった。
「母は八年もの間、私を守ってきてくれた。そなたが救ってくれるというのなら、私は自分の命を大事にすべきだろう。母の声まで聞きたいと思うのは、欲張りすぎるか? そなたはどう思う?」
顔を上げたジェラルドは、迷い子のような目をしていた。
「陛下の望むままに。答えは今すぐでなくても良いのです。ゆっくりお考えになってください。わたしがイザベル様から頼まれたのは、陛下を救ってほしいということだけですから」
「母はそのようなことを願ってくれたのか……」
ジェラルドが
「すまない。考える時間が欲しい」
「かしこまりました」
「今夜は気が高ぶって眠れそうもない。竪琴を弾いてくれないか?」
「曲は何でもよろしいのですか?」
「よく眠れそうなものを」
「はい」
ジェラルドがベッドに入る間にアメリーは調律を元に戻し、それから弦をはじき始めた。
(ああ、またお母様に怒られるわ)
それでも、悪霊たちに抗うためには、深い眠りも大切になる。イザベルの守りがあっても、ジェラルドの身体そのものが弱っていたら、悪霊たちに対抗することはできない。今は少しでも身体を健康に保つ方が優先だ。
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