終章
おや——またお会いしましたね。
最後まで長々とお付き合い頂き、誠に有り難う御座います。
この物語も、以上でお終い——
え?
まだ執事が捕まっていない?
ははあ——成程、成程。
仰る通り、折角の大団円も、黒幕が逃げたままではイマイチ締まらない。
であれば、重い腰をあげてこの私——いいえ、ウチが一肌脱ぐとしましょか。
いい加減、退屈で死にそうなとこやったしなあ。
フフフ——……
ビルの間の裏路地を、板倉は必死に走っていた。
手には古い本を抱えており、その真っ黒な革表紙には、獣が爪で引っ掻いた様な痕があった。
空は、徐々に紅く染まり始めていた。
——畜生っ、どうしてこんな事に!
追手を気にしながら、板倉は心の中で毒づいた。
あと少しで、全てが手に入った。
この日の為に、今まで忠実な執事を演じてきたのだ。
——おのれ、鶴泉南雲——それに、白峰聖——絶対に許さんぞ!
悪魔に願いを叶えてもらうには、大勢の生贄が必要だった。屋敷の人間だけでは足りないかもしれない。板倉は悩んだ。
そんな時に、奴らが来た。
まさに、渡りに船——そう思った。
充分に力を蓄えた悪魔の敵ではないと、高を括っていたのだ。
事実、屋敷を訪れたのがどちらか一人であれば、悪魔の手で始末できていただろう。
しかし、現実はこの通りだ。
「——くそうっ!」
これ以上は走れない。
壁に手をつき、息を整える。
大丈夫だ。自分にはまだ、この本がある。
これさえあれば、何度だって——
「何や——こんなトコにおったんかいな、板倉はん」
ぎょっとして、板倉は顔をあげた。
目の前に、女が居た。
着物姿で、布を
「だ、誰だお前は!?」
「名乗る程の者やありまへん。ウチは只の狂言回し。芝居の幕を引きに来たんや」
言っている意味がわからなかった。
女に道を譲る気配はなく、にやにやと笑いながらこちらを見ている。
「……何の用だ?」
「用があるのはアンタやない。その本や」
「お、お前——この本の事を知ってるのか!?まさかお前、
思わず声を荒げる板倉だったが、
「――〝黙れ〟」
女の発したその一言を聞いた途端、急に口から言葉が出なくなった。
「!——!?」
喉に手をやり、必死に口を動かすが、やはり喋ることができない。
「質問するのはこちらだ。お前はその本をどうやって手に入れ、何をしようとしていた?全て話せ」
先刻までの胡散臭い関西弁ではなく、標準語で女が続ける。
気が付けば、板倉は自らの意思と関係なく、女の質問にぺらぺらと答えていた。
「――主人である小岩井泰蔵はGHQにも顔が利く。その繋がりで、旧日本軍に、百八機関と呼ばれる研究機関が存在したという話を耳にした。そこでは、不死身の兵士の開発や、死者の蘇生などといったオカルティックな研究を秘密裏に――」
「ああ、その辺の話は知っている。聞きたいのはそこじゃない」
「――百八機関は、〝呪物〟に関する研究も行っていた。しかし敗戦後、百八機関は解体され、研究対象だった呪物の数々も散逸してしまったという。その噂を知った私は、泰蔵の人脈を裏で利用し、その一つであるこの〝魔術書〟を入手することに成功した。『悪魔を召喚出来る』というこの魔術書を使って、私は泰蔵の娘である楓を
と、そこまで言った時、
「やっぱり、とんだ狸爺ィだったな」
背後から、男の声が聴こえた。
「ちょっとぉ、遅かったやないの、和尚」
女が関西弁に戻るのと同時に、それまで板倉を支配していた不可思議な力が、ふっ、と消えた。
慌てて振り返ると、そこにはあの小汚い生臭坊主——市川虚空の姿があった。
「お、お前、この女の仲間だったのか!」
「ん?——おい
「せやかて和尚。標準語で喋ったら、アンタにまで〝
抄子と呼ばれた女が、ぴしゃりと自分の額を叩く。
「何だか分からんが——貴様らまとめて、悪魔の
「なあ爺さん、悪いことは言わねえ。その本をコチラに渡せば、命だけは助けてやる。俺は腐っても坊主だ。無駄な殺生はしたくはねえ」
「ほざけ!」
板倉は魔術書を広げ、素早く呪文を詠唱した。
板倉の周囲に、ぼんやりとした四、五体の人影が浮かび上がる。
力はだいぶ失われてしまったが、腐っても悪魔だ。
女の方は、何やらおかしな術を使うようだが——こんな奴ら、屁でもない。
「さあ悪魔よ、こいつらを八つ裂きにしろおっ!」
残虐に笑いながら、高らかに叫ぶ板倉であったが——
「爺さん、よく見てみろ――悪魔なんて、何処にいるんだ?」
「え?」
板倉は辺りを見回した。
影は綺麗に消え去っていた。
まるで、最初から何も無かったかのように。
「馬鹿な——儂は先刻、確かに悪魔を――」
額に汗を浮かべながら、慌てて詠唱をやり直す。
だが。
「無駄や。和尚の前では、全ての
「そ、そんな――」
がたがたと震えながら、板倉は二人を交互に見た。
「お前ら、一体、何者なんだ……?」
「『
「お前たちが、無明……!?」
おう、と頷き、市川が歩を進める。
「という訳で——物は元あった所に返すのが道理ってもんだろ?その魔術書、渡してもらうぞ」
「わ、分かった!この本はお前達に返す!だから、どうか命だけは——」
「〝動くな〟」
抄子の言葉が、再び板倉の躰を縛る。
「ひ、ひい……!」
「悪いな爺さん、〝仏の顔も三度まで〟なんて言葉があるが――」
市川の右手が、板倉の首に伸びる。
「がっ……!?」
「——俺は、一度までだ」
そう呟く市川の、光沢の無い漆黒の瞳を見つめながら、板倉は自らの
南雲や聖など、問題ではなかった。
真に恐ろしいのは、この男。
こいつを敵に回した時点で、自分の運命は決まっていたのだ——と。
——どこか遠くで、
つい先刻首の骨を折られ、絶命した板倉の屍を見下ろしながら、
「あれ?」
と抄子は首を傾げた。
「なあ和尚。〝一度まで〟ってことは、一度目は許してあげな、勘定が合わへんのちゃう?」
「……ん?」
市川は少し考えこみ、ぶつぶつ呟きながら指折り数え始めたが、結局面倒になったのか、
「——まあいいや。屋敷での分も含めれば二度目だ」
と、豪快に笑った。
大雑把やなあ、と抄子が溜息を吐く。
しかし。
無明の抱える大勢の異能者の中でも、特に強大な力を持つ七人の幹部——通称「
この男こそが、その中でも最強と評される破戒僧・市川虚空その人であった。
例えば南雲は、怪談師として、自らの語るあやかしを使役したり、相手のあやかしの物語を利用・改変して対抗する。
例えば聖は、聖職者として、「自らは魔を滅する者である」という己の物語を、相手の物語に衝突させることで駆逐する。
しかし市川は——「あやかしや異能など存在しない」と、相手の物語を丸ごと否定し、消滅させてしまうのだ。
小岩井邸では聖の目もあった為、力を大っぴらに行使する訳にはいかなかったが——それは、長く厳しい修行の末に市川が達した、恐るべき境地であった。
「よし、これで任務完了や。そこのカフェーで茶ぁしばいてから帰りましょか」
回収した本を抱えて、抄子が歩き出す。
遺体の始末は、路地の陰に潜んでいるであろう、〝組織の人間〟達が行う手筈となっている。
しかし。
「……」
「どないしたん?」
その場を動かず、自らが歩んできた方向——小岩井邸の方角を振り替えっている市川に、抄子が怪訝そうに声をかけた。
「いや……
市川は、先程別れた二人の顔を思い浮かべていた。
鶴泉南雲。
噂に聞く、
是非とも無明に欲しい逸材だが、蘇芳との因縁を
まったく、惜しいことだ。
一方の、白峰聖。
若さ故の未熟さが目立つが、奴はまだまだ強くなる。
一見、仲間に引き入れるのには苦労しそうだが——
「——奴らとは又、何処かで会うやもしれんな」
市川はそう呟くと、口の端をにやりと歪めて笑った。
邂談〜しんぶつまみえて〜 阿炎快空 @aja915
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