鞭に打たれる寸前——聖は、誰かに横から蹴り飛ばされた。

 そこは靄の中などではなく、小岩井邸の子供部屋だった。


「ぐっ——」


 先刻まで聖が居たところに、異形の影が腕を振り下ろしていた。鋭い爪が空を切る。

 聖は転がりながら、必死に体勢を立て直した。

 彼を蹴り飛ばしたのは、市川だった。

 

「馬鹿野郎!何やってんだ!」

「僕は——僕は——」


 姿は既に、大人に戻っている。

 やはり、先刻のは幻覚だ。

 わかっている。

 わかっているが、しかし——






 南雲もまた、危機に陥っていた。


「くそっ、このままでは……!」


 影達の攻撃は、徐々に激しさを増していた。

 その爪が南雲に届くのも、時間の問題であった。

 と、その時である。


「楓さん!!」


 ——絹枝の声だった。


「絹枝、止せ!危ないぞ!」


 入口の方から、泰蔵の声が響く。

 部屋へ飛び込んで来た絹枝は、影達の飛び交う中を駆け抜け、真っ直ぐに楓の元へと向かった。


「楓さん、早くこの部屋から逃げて!」


 両手を広げ、楓を庇って人影の前に立ち塞がる絹枝であったが、


「邪魔をするな、女ァ!」


 人影はそう叫ぶなり、その躰をぐにゃりと変化させた。他の影達と同じく異形の姿へ変貌を遂げると、横薙ぎに腕を振るう。

 

「きゃあ!!」


 弾き飛ばされた絹枝が、勢いよく床へ倒れた。


「絹枝!」「おば様!」


 泰蔵と楓の叫びが重なる。

 悪魔達の高笑いが反響する中、泰蔵と楓は、絹枝の元へと駆け寄った。


「おば様、大丈夫?」

「私は大丈夫……楓さんこそ、怪我はない?」

「どうして……私はおば様の本当の娘じゃないのに……」

「貴方がそう思ってくれなくても――私にとって、貴方は私の大切な娘だもの」

「おば様……!」


 楓が息を呑んだ刹那——


 オオオオ……!


 苦しげな呻き声と共に、影達が動きを止めた。


「な、何だあ?急に悪魔が大人しくなったぞ?」


 ぜいぜいと肩で息をしながら、市川が周囲を見渡した。


「悪魔の力が弱まっている――楓さん、聞いてください」


 南雲は楓の傍らに座り、彼女と目線を合わせた。

 

「貴女に取り憑いていたのは、貴女のお母さまではありません。貴女のお母さまは、数年前に亡くなったのです」


 楓が大きく、目を見開く。


「君、何も、子供相手にそんなハッキリと……!」


 抗議しようとする泰蔵を、貴方——と、絹枝が制した。


「南雲さん、続けてください」


 南雲は心の中で絹枝に礼を言い、絹枝に小さく頷き返した。

 確かに酷な話かもしれない。

 しかし——〝子供相手の話〟と、〝子供騙しの話〟は異なる。

 少なくとも、南雲はそう思っている。

 

 物語は、時として人を救う。

 しかし——服用し過ぎれば、現実を飲み込む。


 神父の聖や、僧侶の市川であれば、また異なる話をするのだろう。

 正解はわからない。

 だが、大切な人を喪う哀しみは、南雲にもわかる。

 だからこそ——

 

「怪談師の僕がこんなことを言うのも何ですが、人が死んでも、その魂は残るなんていうのはファンタジイ、生きている人間がでっちあげたまやかしだ」


 ——自分にできることは、精一杯の誠意を持って向き合うことだ。

 南雲は、そう判断した。


「まや、かし……?」

「ええ。僕が使役するあやかしも、そしてここにいる、貴方のお母さまのフリをした悪魔もね」

「違う……いるもん……お母さまは、まだいるもん!」


 ——オオオオオ!


 楓の叫びに呼応するように、影達が息を吹き返した。

 再び動き出し、南雲を襲おうと飛びかかってくる。


「くっ——」


 歯噛みする南雲だったが——向かってくる影達の前に、誰かが立ち塞がった。

 聖だ。

 手には、聖銃・エクスシアを構えている。


「聖さんっ!」


 南雲の声が響く中、聖は必死に、銃の引鉄ひきがねを——






「聖、どきなさい……」


 ——聖はまた、白い靄の中にいた。

 目の前には父の影が揺れている。


「と、父さん……」


 指が震える。

 怖い。

 怖い、怖い、怖い——


「どけと言ってるんだ……聖……」

「う、ううう……!」


 やはり、自分には無理だ。

 銃を持った右手を下ろそうとしたその時——南雲の言葉が、脳裏をよぎった。


〝血が繋がっていなくても家族にはなれるし、血が繋がっていればいいというものでもない。僕はそう思います〟


「父さん……あなたは、僕ら兄妹を愛してはいなかった……」


 震える声で、聖は呟いた。

 聖はようやく思い出した。

 二人に暴力を振るう際の、父の顔を。


 靄の向こうから、父が姿を現す。

 悪鬼の様なその表情には、憎しみの感情しかなかった。


 ずっと、考えないようにしていた。

 自分達は、父に愛されているのだと思い込もうとしてきた。

 だが。

 父は特に、静流に厳しかった。

 聖が折檻を受けるのは、大半が静流を庇った時だ。


 静流の容姿は——母に、よく似ていた。


「あなたは僕らに、憎き母の面影を見ていただけだ……!」

「貴様、逆らう気か!私は父親だぞ!」


 父が口から泡を飛ばしながら、鞭を振り上げる。

 しかし、もはや聖は怯まなかった。


「たとえ、あなたが本物の父でも——〝親〟とは呼べない!」


 言い終わるやいなや、引鉄を引く。

 光の弾丸が父を——悪魔を貫いた。






 ギャアアアアアアアッ!


 聖に飛びかかろうとした影が、胸に大きな穴を開けられ、断末魔の叫びをあげながら消滅した。

 他の影達が、警戒するかの様にぐるぐると室内を飛び回る。

 

「フン——さっさと話を終わらせろ、怪談師」


 振り向くことなく、ぶっきらぼうに聖が呟く。

 もう、心配はしなくても良さそうだった。


「承知しました」


 南雲は薄く微笑んだ後、楓へと向き直った。


「楓さん。貴女のお母さまがまだいるというのなら、それは、貴女の記憶の中にいるのです」


 ——襲いかかってきた影を、聖が撃ち抜く。

 

「もう会うことは出来ないけれど、貴女がお母さまを覚えている限り、お母さまは貴女の中にずっと居続けるのです」


 それでいいじゃあありませんかと、楓の目を真っ直ぐに見ながら、南雲が優しく続ける。


「それを受け入れるのは悲しいことかもしれない。しかし、それ以上のことをフィクション——作り事に求めようとすれば、大事な〝レアリテ〟をも失ってしまうかもしれませんよ」

「大事な、レアリテ?」

「貴女の、すぐそばにあるものですよ」


 そう言って、南雲は楓の傍らへと視線を移した。

 つられて楓もそちらを見る。

 そこには——楓を慈しむ絹枝の顔があった。


……!」


 楓が、目から涙を溢れさせながら、絹枝に抱き着いた。

 その刹那——


 オ——オオオオオオ——!!


 ——影達が旋回をやめ、のたうち回って苦しみだした。

 その躰が、徐々に透明になっていく。


「悪魔が……消えていく……!」


 市川が感嘆の声を漏らした。

 やがて、影達が跡形もなく消え去った後、市川は窓辺に近づきカーテンを開けた。

 昏かった部屋に、光が差し込む——


「楓!絹枝!」


 泰蔵は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、妻と娘の肩を抱いた。






 拳銃を聖書の中に戻しながら、聖がぽつりと呟いた。


「礼を言うぞ、怪談師」

「はて、何のことでしょう?」

「何って——」


 と、そこまで言って。

 聖はハッとして、傍らの南雲の顔を見た。


「——お前、見えていなかったのか?先刻の——銃を撃つ直前の——」


 はあ、と南雲が首をかしげる。


「貴方の姿が、少しの間、黒い霧に包まれていたのは分かりましたが――何か、見えていたのですか?」


 どうやら、白い靄の中での出来事に関しては、南雲は全く認識していないようだった。

 聖の窮地を救ったあの言葉も、単純に、絹枝を慰めるためだけのものだったらしい。

 聖はてっきり、間接的に自分にも投げかけられた言葉だと思っていたのだが——


「……見えていなかったのならいい」


 聖は頬を赤く染め、そっぽを向いた。

 視線の先には、一塊ひとかたまりとなった小岩井一家が、おいおいと泣いている。


「家族、か」


 今日はなるべく、急いで帰ろう——聖はそう思った。

 何だか無性に、妹の顔が見たかった。






「ごめんなさい、お父さま、お母さま——私、新しいお母さまと仲良くしてしまったら、死んだお母さまが悲しむと思って——それで——それで——」

「いいんだ楓。私こそ、お前の寂しさを分かってやれなかった——許してくれ」


 泰蔵の言葉に、楓が涙を拭きながら頷く。

 

「お父様、私ね——死んだお母様に会いたかったの。寂しくて毎日泣いていたわ。そうしたら、お母様を生き返らせる方法が分かったの」

「方法?」

「生き返らせる為のおまじないが書いてある本があって、そこに書いてある通りにおまじないを唱えて、生き返らせたい人を思い浮かべるの。そうしたら目の前に、お母さまの影が現れて――」


 と、そこまで聞いて。


「――その本、一体誰が?」


 口を挟んだのは、市川だった。

 それまでとは異なる、恐ろしいほどに真剣な表情だった。

 おや、と怪訝に思う南雲であったが、そんな小さな違和感はすぐにどうでもよくなってしまった。

 楓の口から、黒幕の正体が明かされたからだ。

  

「……爺やよ。爺やが教えてくれたの」

「板倉が!?一体、どうして——」


 思いがけぬ返答に、絹枝が言葉を失う。

 

「でも、爺やには言われていたの。このおまじないは唱えちゃいけないって。でも私、どうしてもお母さまに会いたくて――ごめんなさい、ごめんなさい」

「いいの——いいのよ、楓さん」


 再び抱き合う母娘の姿を見ながら、聖は忌々しげに、くそっ、と吐き捨てた。


「――やるなと言えばやりたくなるのが子供というもの。ましてや、死んだ母親に会えるというのであれば尚更。それを分かって方法だけ教え、自ら約束を破らせて罪悪感を植え付ける――最も卑劣なやり口だ」


 そう言えば、と泰蔵が慌てて周囲を見渡す。


「板倉は、一体何処に……!?」

「姿が無いと言う事は、どうやら既に逃げ去ったようですね」


 南雲が溜息を吐くのに続いて、市川も、


「あの野郎、とんだ狸爺ィだぜ」


 と鼻を鳴らした。


 通常、あやかしというものは、人々の噂によって生じる。

 しかし、その様な過程を踏まず、人為的に怪異を顕現けんげんさせる方法もある。

 手順通りに行う儀式や、呪文の詠唱——それらによって、世の理に不具合を起こさせるのだ。


 そうした不具合から生じた存在は、場所や時代によって、〝使い魔〟や〝式神〟など、様々な名で呼ばれてきた。

 板倉が使用した〝本〟とやらの詳細や入手経路、それを使って何を成そうとしたのかはわからないが——そうした類の怪異を呼び起こす呪物とみて間違いないだろう。

 南雲は泰蔵に、


「彼の行方は、私の知り合いの刑事に探させましょう。こうした事件を専門にしている男です」


 と提案した。

 面倒臭えなあ、と顔を顰める山田の顔が容易に思い浮かぶ。

 まあ、いつも面倒ごとを引き受けてやっているのだ。これくらいの事は頼んでも罰は当たらないだろう。

 助かります、と泰蔵が頭を下げる。


「鶴泉さん、そして白峰さん、この度は本当に有難うございました。貴方達がいなかったら、今頃娘はどうなっていたことか――」


 私は大したことはしていませんよ——そう言って南雲は、ちらりと聖の方を見た。


「こちらの神父様が、勇猛果敢ゆうもうかかんに悪魔と戦ってくれたお蔭です」

「いや、僕は――」


 否定しようとする聖の手を、泰蔵の手が力強く握った。


「有り難うございます——流石、私の見込んだお方だ!」


 と——ゴホン、ゴホンと、やけに自己主張の強い咳払いが聞こえた。


「あー……誰か忘れてはおらんかな?んん?」


 おお、失敬失敬と、泰蔵が市川に近寄る。


「貴方にもお礼を——」


 と、そこまで言って。

 市川の手の汚さに躊躇ためらったのか、泰蔵は差し出しかけた手を中途半端な位置で止めた。


「ん?どうした?」

「ああ、いや——」


 ガハハ、と笑いながら、市川が泰蔵を抱きしめる。


「遠慮するな!また何かあれば、拙僧が力になろうぞ!」

「く、臭い……!」


 そんな二人の様子に苦笑しつつ、南雲は母娘の方へと視線を戻した。


「ねえ、楓さん」

「なあに?」

「良かったら私に——貴方のお母さまのお話を聞かせて頂戴」

「えっ」

「失った悲しみを消すことは出来ないけれど、その悲しみを分かち合うことは私にも出来ると思うの。私達、まずはそこから始めましょう」


 うん——と、嬉しそうに楓が頷く。


「さあ、いらっしゃい。向こうで暖かいミルクでも飲みましょう」


 絹枝は楓の手を握ると、南雲に向き直り、


「南雲さん。素敵な〝お話〟を、有り難うございました」


 そう言って、深々と頭を下げた。






 ——小岩井邸の門前にて。


「そう言えば、先程はすみませんでした」


 南雲はそう言って、聖と市川に頭を下げた。


「ん?何がだ?」


 ぽかんとした表情で、市川が訊き返す。


「御坊様と神父様の前で、死後の魂なんてものはでっち上げだ、等と――怪談師の戯言だと思ってお許しください」


 なんだ、そんなことかと、市川は大声で笑った。


「気にするな!大事なのは、あの嬢ちゃんが前を向いて生きて行けるかどうかだ。——なあ、神父様?」

「……まあ、今回は少しばかり助けられたからな。その程度は聞き流してやろう」

「有り難うございます」

「しかし、僕はまだお前のことを信用した訳ではないからな――鶴泉南雲」

「おや?ようやく名前で呼んでいただけましたか」

「フン——無明だと分かり次第、その腕を吹き飛ばしてやる」

「ふふ、そうならないことを、神仏しんぶつに祈るとしましょうか」


 肩を竦める南雲を、聖がじろりと睨む。

 そんな二人の間に、まあまあまあと、市川が割って入った。


「口喧嘩はそこまでだ、ご両人。ここは一つ、悪魔退治の祝賀会とでも洒落込もうじゃないか。さっき台所に忍び込んだ折に、旨そうな洋酒がズラリと棚に並んでいるのを見つけてな。あれだけあるんだ、一本や二本、いや五、六本開けても文句は言われまい――って、あれ?」


 市川が気が付いた時には、南雲と聖はとっくに、別々の方向へと歩き出していた。


「お、おい!小僧!どこ行くんだ!?」

「帰る」

「帰るって——南雲、お前は!?」

「興行が近いので」

「いや、ちょっとぐらい——おおい!」


 一人立ち尽くす目の前の道路を、バスがブロロロロ……と通り過ぎていく。


「……ったく、素直じゃねえ奴らだ」


 市川はひとしきり苦笑した後、


「さて——と」


 そう呟き、顔から笑みを消す。

 いつまでも巫山戯ふざけている訳にもいかない。

 ——彼の〝仕事〟は、ここからが本番だった。

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