肆
鞭に打たれる寸前——聖は、誰かに横から蹴り飛ばされた。
そこは靄の中などではなく、小岩井邸の子供部屋だった。
「ぐっ——」
先刻まで聖が居たところに、異形の影が腕を振り下ろしていた。鋭い爪が空を切る。
聖は転がりながら、必死に体勢を立て直した。
彼を蹴り飛ばしたのは、市川だった。
「馬鹿野郎!何やってんだ!」
「僕は——僕は——」
姿は既に、大人に戻っている。
やはり、先刻のは幻覚だ。
わかっている。
わかっているが、しかし——
南雲もまた、危機に陥っていた。
「くそっ、この
影達の攻撃は、徐々に激しさを増していた。
その爪が南雲に届くのも、時間の問題であった。
と、その時である。
「楓さん!!」
——絹枝の声だった。
「絹枝、止せ!危ないぞ!」
入口の方から、泰蔵の声が響く。
部屋へ飛び込んで来た絹枝は、影達の飛び交う中を駆け抜け、真っ直ぐに楓の元へと向かった。
「楓さん、早くこの部屋から逃げて!」
両手を広げ、楓を庇って人影の前に立ち塞がる絹枝であったが、
「邪魔をするな、女ァ!」
人影はそう叫ぶなり、その躰をぐにゃりと変化させた。他の影達と同じく異形の姿へ変貌を遂げると、横薙ぎに腕を振るう。
「きゃあ!!」
弾き飛ばされた絹枝が、勢いよく床へ倒れた。
「絹枝!」「おば様!」
泰蔵と楓の叫びが重なる。
悪魔達の高笑いが反響する中、泰蔵と楓は、絹枝の元へと駆け寄った。
「おば様、大丈夫?」
「私は大丈夫……楓さんこそ、怪我はない?」
「どうして……私はおば様の本当の娘じゃないのに……」
「貴方がそう思ってくれなくても――私にとって、貴方は私の大切な娘だもの」
「おば様……!」
楓が息を呑んだ刹那——
オオオオ……!
苦しげな呻き声と共に、影達が動きを止めた。
「な、何だあ?急に悪魔が大人しくなったぞ?」
ぜいぜいと肩で息をしながら、市川が周囲を見渡した。
「悪魔の力が弱まっている――楓さん、聞いてください」
南雲は楓の傍らに座り、彼女と目線を合わせた。
「貴女に取り憑いていたのは、貴女のお母さまではありません。貴女のお母さまは、数年前に亡くなったのです」
楓が大きく、目を見開く。
「君、何も、子供相手にそんなハッキリと……!」
抗議しようとする泰蔵を、貴方——と、絹枝が制した。
「南雲さん、続けてください」
南雲は心の中で絹枝に礼を言い、絹枝に小さく頷き返した。
確かに酷な話かもしれない。
しかし——〝子供相手の話〟と、〝子供騙しの話〟は異なる。
少なくとも、南雲はそう思っている。
物語は、時として人を救う。
しかし——服用し過ぎれば、現実を飲み込む。
神父の聖や、僧侶の市川であれば、また異なる話をするのだろう。
正解はわからない。
だが、大切な人を喪う哀しみは、南雲にもわかる。
だからこそ——
「怪談師の僕がこんなことを言うのも何ですが、人が死んでも、その魂は残るなんていうのはファンタジイ、生きている人間がでっちあげたまやかしだ」
——自分にできることは、精一杯の誠意を持って向き合うことだ。
南雲は、そう判断した。
「まや、かし……?」
「ええ。僕が使役するあやかしも、そしてここにいる、貴方のお母さまのフリをした悪魔もね」
「違う……いるもん……お母さまは、まだいるもん!」
——オオオオオ!
楓の叫びに呼応するように、影達が息を吹き返した。
再び動き出し、南雲を襲おうと飛びかかってくる。
「くっ——」
歯噛みする南雲だったが——向かってくる影達の前に、誰かが立ち塞がった。
聖だ。
手には、聖銃・エクスシアを構えている。
「聖さんっ!」
南雲の声が響く中、聖は必死に、銃の
「聖、どきなさい……」
——聖はまた、白い靄の中にいた。
目の前には父の影が揺れている。
「と、父さん……」
指が震える。
怖い。
怖い、怖い、怖い——
「どけと言ってるんだ……聖……」
「う、ううう……!」
やはり、自分には無理だ。
銃を持った右手を下ろそうとしたその時——南雲の言葉が、脳裏をよぎった。
〝血が繋がっていなくても家族にはなれるし、血が繋がっていればいいというものでもない。僕はそう思います〟
「父さん……あなたは、僕ら兄妹を愛してはいなかった……」
震える声で、聖は呟いた。
聖はようやく思い出した。
二人に暴力を振るう際の、父の顔を。
靄の向こうから、父が姿を現す。
悪鬼の様なその表情には、憎しみの感情しかなかった。
ずっと、考えないようにしていた。
自分達は、父に愛されているのだと思い込もうとしてきた。
だが。
父は特に、静流に厳しかった。
聖が折檻を受けるのは、大半が静流を庇った時だ。
静流の容姿は——母に、よく似ていた。
「あなたは僕らに、憎き母の面影を見ていただけだ……!」
「貴様、逆らう気か!私は父親だぞ!」
父が口から泡を飛ばしながら、鞭を振り上げる。
しかし、もはや聖は怯まなかった。
「たとえ、あなたが本物の父でも——〝親〟とは呼べない!」
言い終わるやいなや、引鉄を引く。
光の弾丸が父を——悪魔を貫いた。
ギャアアアアアアアッ!
聖に飛びかかろうとした影が、胸に大きな穴を開けられ、断末魔の叫びをあげながら消滅した。
他の影達が、警戒するかの様にぐるぐると室内を飛び回る。
「フン——さっさと話を終わらせろ、怪談師」
振り向くことなく、ぶっきらぼうに聖が呟く。
もう、心配はしなくても良さそうだった。
「承知しました」
南雲は薄く微笑んだ後、楓へと向き直った。
「楓さん。貴女のお母さまがまだいるというのなら、それは、貴女の記憶の中にいるのです」
——襲いかかってきた影を、聖が撃ち抜く。
「もう会うことは出来ないけれど、貴女がお母さまを覚えている限り、お母さまは貴女の中にずっと居続けるのです」
それでいいじゃあありませんかと、楓の目を真っ直ぐに見ながら、南雲が優しく続ける。
「それを受け入れるのは悲しいことかもしれない。しかし、それ以上のことをフィクション——作り事に求めようとすれば、大事な〝レアリテ〟をも失ってしまうかもしれませんよ」
「大事な、レアリテ?」
「貴女の、すぐそばにあるものですよ」
そう言って、南雲は楓の傍らへと視線を移した。
つられて楓もそちらを見る。
そこには——楓を慈しむ絹枝の顔があった。
「お母さま……!」
楓が、目から涙を溢れさせながら、絹枝に抱き着いた。
その刹那——
オ——オオオオオオ——!!
——影達が旋回をやめ、のたうち回って苦しみだした。
その躰が、徐々に透明になっていく。
「悪魔が……消えていく……!」
市川が感嘆の声を漏らした。
やがて、影達が跡形もなく消え去った後、市川は窓辺に近づきカーテンを開けた。
昏かった部屋に、光が差し込む——
「楓!絹枝!」
泰蔵は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、妻と娘の肩を抱いた。
拳銃を聖書の中に戻しながら、聖がぽつりと呟いた。
「礼を言うぞ、怪談師」
「はて、何のことでしょう?」
「何って——」
と、そこまで言って。
聖はハッとして、傍らの南雲の顔を見た。
「——お前、見えていなかったのか?先刻の——銃を撃つ直前の——」
はあ、と南雲が首をかしげる。
「貴方の姿が、少しの間、黒い霧に包まれていたのは分かりましたが――何か、見えていたのですか?」
どうやら、白い靄の中での出来事に関しては、南雲は全く認識していないようだった。
聖の窮地を救ったあの言葉も、単純に、絹枝を慰めるためだけのものだったらしい。
聖はてっきり、間接的に自分にも投げかけられた言葉だと思っていたのだが——
「……見えていなかったのならいい」
聖は頬を赤く染め、そっぽを向いた。
視線の先には、
「家族、か」
今日はなるべく、急いで帰ろう——聖はそう思った。
何だか無性に、妹の顔が見たかった。
「ごめんなさい、お父さま、お母さま——私、新しいお母さまと仲良くしてしまったら、死んだお母さまが悲しむと思って——それで——それで——」
「いいんだ楓。私こそ、お前の寂しさを分かってやれなかった——許してくれ」
泰蔵の言葉に、楓が涙を拭きながら頷く。
「お父様、私ね——死んだお母様に会いたかったの。寂しくて毎日泣いていたわ。そうしたら、お母様を生き返らせる方法が分かったの」
「方法?」
「生き返らせる為のおまじないが書いてある本があって、そこに書いてある通りにおまじないを唱えて、生き返らせたい人を思い浮かべるの。そうしたら目の前に、お母さまの影が現れて――」
と、そこまで聞いて。
「――その本、一体誰が?」
口を挟んだのは、市川だった。
それまでとは異なる、恐ろしいほどに真剣な表情だった。
おや、と怪訝に思う南雲であったが、そんな小さな違和感はすぐにどうでもよくなってしまった。
楓の口から、黒幕の正体が明かされたからだ。
「……爺やよ。爺やが教えてくれたの」
「板倉が!?一体、どうして——」
思いがけぬ返答に、絹枝が言葉を失う。
「でも、爺やには言われていたの。このおまじないは唱えちゃいけないって。でも私、どうしてもお母さまに会いたくて――ごめんなさい、ごめんなさい」
「いいの——いいのよ、楓さん」
再び抱き合う母娘の姿を見ながら、聖は忌々しげに、くそっ、と吐き捨てた。
「――やるなと言えばやりたくなるのが子供というもの。ましてや、死んだ母親に会えるというのであれば尚更。それを分かって方法だけ教え、自ら約束を破らせて罪悪感を植え付ける――最も卑劣なやり口だ」
そう言えば、と泰蔵が慌てて周囲を見渡す。
「板倉は、一体何処に……!?」
「姿が無いと言う事は、どうやら既に逃げ去ったようですね」
南雲が溜息を吐くのに続いて、市川も、
「あの野郎、とんだ狸爺ィだぜ」
と鼻を鳴らした。
通常、あやかしというものは、人々の噂によって生じる。
しかし、その様な過程を踏まず、人為的に怪異を
手順通りに行う儀式や、呪文の詠唱——それらによって、世の理に不具合を起こさせるのだ。
そうした不具合から生じた存在は、場所や時代によって、〝使い魔〟や〝式神〟など、様々な名で呼ばれてきた。
板倉が使用した〝本〟とやらの詳細や入手経路、それを使って何を成そうとしたのかはわからないが——そうした類の怪異を呼び起こす呪物とみて間違いないだろう。
南雲は泰蔵に、
「彼の行方は、私の知り合いの刑事に探させましょう。こうした事件を専門にしている男です」
と提案した。
面倒臭えなあ、と顔を顰める山田の顔が容易に思い浮かぶ。
まあ、いつも面倒ごとを引き受けてやっているのだ。これくらいの事は頼んでも罰は当たらないだろう。
助かります、と泰蔵が頭を下げる。
「鶴泉さん、そして白峰さん、この度は本当に有難うございました。貴方達がいなかったら、今頃娘はどうなっていたことか――」
私は大したことはしていませんよ——そう言って南雲は、ちらりと聖の方を見た。
「こちらの神父様が、
「いや、僕は――」
否定しようとする聖の手を、泰蔵の手が力強く握った。
「有り難うございます——流石、私の見込んだお方だ!」
と——ゴホン、ゴホンと、やけに自己主張の強い咳払いが聞こえた。
「あー……誰か忘れてはおらんかな?んん?」
おお、失敬失敬と、泰蔵が市川に近寄る。
「貴方にもお礼を——」
と、そこまで言って。
市川の手の汚さに
「ん?どうした?」
「ああ、いや——」
ガハハ、と笑いながら、市川が泰蔵を抱きしめる。
「遠慮するな!また何かあれば、拙僧が力になろうぞ!」
「く、臭い……!」
そんな二人の様子に苦笑しつつ、南雲は母娘の方へと視線を戻した。
「ねえ、楓さん」
「なあに?」
「良かったら私に——貴方のお母さまのお話を聞かせて頂戴」
「えっ」
「失った悲しみを消すことは出来ないけれど、その悲しみを分かち合うことは私にも出来ると思うの。私達、まずはそこから始めましょう」
うん——と、嬉しそうに楓が頷く。
「さあ、いらっしゃい。向こうで暖かいミルクでも飲みましょう」
絹枝は楓の手を握ると、南雲に向き直り、
「南雲さん。素敵な〝お話〟を、有り難うございました」
そう言って、深々と頭を下げた。
——小岩井邸の門前にて。
「そう言えば、先程はすみませんでした」
南雲はそう言って、聖と市川に頭を下げた。
「ん?何がだ?」
ぽかんとした表情で、市川が訊き返す。
「御坊様と神父様の前で、死後の魂なんてものはでっち上げだ、等と――怪談師の戯言だと思ってお許しください」
なんだ、そんなことかと、市川は大声で笑った。
「気にするな!大事なのは、あの嬢ちゃんが前を向いて生きて行けるかどうかだ。——なあ、神父様?」
「……まあ、今回は少しばかり助けられたからな。その程度は聞き流してやろう」
「有り難うございます」
「しかし、僕はまだお前のことを信用した訳ではないからな――鶴泉南雲」
「おや?ようやく名前で呼んでいただけましたか」
「フン——無明だと分かり次第、その腕を吹き飛ばしてやる」
「ふふ、そうならないことを、
肩を竦める南雲を、聖がじろりと睨む。
そんな二人の間に、まあまあまあと、市川が割って入った。
「口喧嘩はそこまでだ、ご両人。ここは一つ、悪魔退治の祝賀会とでも洒落込もうじゃないか。さっき台所に忍び込んだ折に、旨そうな洋酒がズラリと棚に並んでいるのを見つけてな。あれだけあるんだ、一本や二本、いや五、六本開けても文句は言われまい――って、あれ?」
市川が気が付いた時には、南雲と聖はとっくに、別々の方向へと歩き出していた。
「お、おい!小僧!どこ行くんだ!?」
「帰る」
「帰るって——南雲、お前は!?」
「興行が近いので」
「いや、ちょっとぐらい——おおい!」
一人立ち尽くす目の前の道路を、バスがブロロロロ……と通り過ぎていく。
「……ったく、素直じゃねえ奴らだ」
市川はひとしきり苦笑した後、
「さて——と」
そう呟き、顔から笑みを消す。
いつまでも
——彼の〝仕事〟は、ここからが本番だった。
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