「いけない!」


 南雲が駆け寄ろうとした刹那、楓のからだが、再び黒い影に包まれた。

 影は楓と共に聖をも取り込み、再び禍々まがまがしい悪魔の姿へと変化する。


「白峰さん!」


 南雲の呼び声が、室内に木霊こだました。






 朦朧もうろうとする意識の中、聖は幻に囚われていた。

 そこは白いもやに包まれた空間で、目の前にはぼんやりとした、三つの人影が並んでいた。

 大人の影が一つと、子供の影が二つ——一人は少女で、一人は少年だ。

 大人の影が、少女の影を乗馬用の鞭で打った。

 打たれた少女が、


「きゃあ!」


 と悲鳴をあげる。

 懐かしい声で、大人の影が言った。


「また言いつけを破ったな、静流しずる


 静流——それは、聖の妹の名である。

 

「ごめんなさい、お父様」


 幼き日の静流が、声と躰を震わせながら、必死にゆるしを請う。

 しかし父は、机に置かれた本を手に取ると、その表紙を見て、


骸坂むくろざか狂太郎きょうたろう・著、怪奇小説集『首吊りの森』――勉強もせず、こんな低俗なものを読んで――」


 そう言って、再び鞭を振り被った。


「止めてください、父さん!」


 二人の間に、少年が割って入る。


「どきなさい、聖。これは静流の為なんだ」

「でも――」

「……お前も、私に逆らうのか?」


 大人の——父の影が、少年に鞭を振るう。

 その様子を呆然と眺めながら、聖はようやく思い至った。

 これは自分の、幼き頃の記憶だ。

 父はもう、この世に居ないのだから。






 聖の父は、敬虔けいけんなクリスチャンだった。

 しかし、優しかった父は、母が不倫の末に家を出ていってからは、聖と静流に、厳しく当たるようになった。


 そんな父も、戦時中の空襲で亡くなった。

 父は崩れてきた天井に押し潰されて即死し、静流も足に大怪我を負った。

 それ以降、兄妹間で父の話をすることは殆どなかった。


 静流は、今も車椅子で生活している。

 二人とも、生きていくのに必死だった。

 振り返る暇などなかった。

 いや——振り返らないようにしていただけかもしれない。


「お前達には——あのふしだらな——女の血が——流れている――だから私が、——こうやって——躾けてやらなければ——ならんのだ!」


 幻影の振るう鞭は、次第に激しさを増していった。


「やめろ……」


 気がつけば、聖はそう呟いていた。

 止めなければ。

 今の自分なら、父を止めることができる。

 しかし——体は言うことを聞かなかった。

 怖い。

 自分は未だに、父が怖いのだ。


 立ち尽くす聖の目の前で、父は己の子供達を、何度も鞭で罰した。

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も——


「やめろ……やめろおおおおおおおおおおおお!!」


 聖が半狂乱で叫び声をあげた、丁度その時であった——






「——喝ッ!!!!!!!!」


 一瞬、屋敷が震えたと錯覚するような大声が響いた。

 影が細かい塵となって勢いよく霧散し、楓と聖の姿があらわになった。


「——ッ!」


 楓は聖を突き飛ばすと、獣の様な四足歩行で、部屋の隅へと逃げていく。

 聖は床に倒れこむと、苦しげにゴホゴホと咳き込んだ。

 

「和尚、貴方、今何を・・・?」


 尋ねる南雲に、市川は高笑いしながら答えた。


「悪魔め!大声を出したら、吃驚びっくりしてひるみよった!」


 大声で悪魔の力が弱まる——果たして、そんな事があるのだろうか?

 疑問に思う南雲であったが、


「さ——今のうちに、その小僧を!」


 市川に促されるまま、聖の元へと駆け寄る。

 視界の端では、一度は霧散した影達が再び、楓の元へと集結しつつあった。

 考えるのは後だ。今は、一旦退却する他ない。

 南雲達は聖に肩を貸すと、唸り声をあげる楓を残して部屋を後にした。

 





 ——南雲達が去った後。

 楓は、自らの傍らで揺らめく人影に、ぎゅっと抱きついた。

 その顔は、既にあどけない少女のそれへと戻っている。


「ずっと一緒にいてね、……」


 呟く少女の髪を、影が優しく撫でた。






 応接室では、小岩井夫妻が不安げな顔で南雲達を待っていた。

 聖は見るからに憔悴していたが、長椅子で休むと、少しばかり気力を取り戻したようだった。

 一方の市川は床に胡坐をかき、女中に用意させた握り飯をむしゃむしゃと食べている。


「申し訳ありません、僕が取り乱したせいで――」


 悔しそうに唇を噛みしめる聖を、


「いえ、ご無事だったのが何よりですわ」


 と絹江が労った。


「そうそう、命あっての物種だからな」


 市川が握り飯を頬張りながら、呑気に言う。


「しかし、参りましたな。聖騎士団の方でも退治出来ないとなると、一体どうすれば――」


 泰三が、頭を抱え溜息をつく。

 重苦しい空気が応接室に漂う中、そう言えば——と、南雲は絹江に話を振った。


「奥様、先程は話が途中になってしまいましたが——楓さんが悪魔に取り憑かれたその原因、何か心当たりがあるようでしたが?」


 一瞬の沈黙の後——ええ、と頷き、絹江は言った。


「楓さんは、私の実の娘ではないのです」

「おい、絹枝――」

「隠し立てするようなことではないでしょう――あの子は、この人と、前の奥さんとの間の子供なんです」


 はあん、と腕を組み、市川が口を挟んだ。


「その、前の奥さんは?」


 絹江の方を気にしながら、泰蔵が答える。


「数年前に病気で亡くなりました。その後に、絹枝と」

「あの子の部屋の戸に耳をそばだてて中の声を聞いてみたんです。すると中から、あの子が『お母さま』と呟く声が聞こえました――もしかすると、あの子は悪魔を、自分の母親だと思っているのかもしれません」

「貴女を呼んだのではなく、ですか?」


 南雲の問いに、悲しげな表情で絹江が首を振る。


「あの子は、私を母と呼んだことはありません」

「そうですか――」


 押し黙る南雲に代わり、聖が静かに口を開いた。

 

「だとすると、悪魔は楓さんが母親を想う心に付け入り、取り憑いているのかもしれない――此奴こいつは厄介だな」


 何が厄介なんだ、と市川が眉根を寄せる。


「悪魔はおそらく、楓さんの感情を原動力にしているんだ。そうなると、彼女の心をどうにかしないと、悪魔は倒せない」

「私が、彼女の母親になってあげられないから、このようなことに……」


 言葉を切り、絹江が辛そうな表情で目を伏せる。その瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。


「実の母親ではない私では、やはり無理なのでしょうか……」

「絹枝……」


 泰蔵が、そっと絹江の肩を抱く。

 ——気まずい沈黙を破ったのは、南雲だった。


「……そんなことはありませんよ」

 

 えっ、と顔をあげた絹江に、南雲が続ける。


「私は、実の親の顔を知りません――私は孤児みなしごでしてね。幼い頃に師匠のゑいに拾われ、育てられたのです。しかし、私は彼女のことを実の親のように思っています」

「……私も、ゑいさんの様になれるでしょうか?」

「分かりません。しかし少なくとも、血が繋がっていなくても家族にはなれるし、血が繋がっていればいいというものでもない。僕はそう思います」

「南雲さん……」


 涙を拭い、絹江が頭を下げる。


「……」

 

 そんな二人のやり取りを、聖は俯き、黙って聴いていた。


「さて、と——」


 辛気臭い話はお終いとばかりに、市川が立ち上がった。どうやら、握り飯は食べ終わったらしい。


「——その為にも、さっさとあの悪魔の野郎を退治しちまわねえとな。よし、腹も膨れたことだし、第二戦と参りますか!」

「ええ――そうですね」


 頷き、南雲も静かに立ち上がる。

 突破口は見えた。後は、どう攻めるかだ。

 南雲が、聖に声をかけようとした、その時であった。

 二階から、少女の甲高い叫び声が聴こえた。


「楓さん……!?」


 絹江が、両手で口を覆って立ち上がる。

 ——どうやら、悠長に打ち合わせをしている時間は無いようだった。






 楓の部屋は、南雲達が退却した時のまま、開け放たれた状態だった。

 夫妻には下がっている様に言って、南雲達三人は再び室内へと足を踏み入れた。

 南雲の出した人魂が、室内を照らす。


 子供部屋は、腐臭と瘴気に満ちていた。

 七、八体はいるだろうか——翼や角の生えた大勢の影達が、部屋を飛び回っている。

 そんな中、楓は部屋の中心で、一体の人影と向かい合っていた。

 周囲を飛び回る異形の影達を認識できていないのか、楓は人影に向かって、必死に語りかけている。


「お母さま、どうしたの……?どうして、そんな怖い顔してるの……?」

「ハッ——愚かな小娘が!」


 人影は、可笑しそうに楓を嘲笑あざわらった。

 男とも女とも、年寄りとも若者ともとれる、奇妙な声であった。


「おい、どうなってんだ?先刻さっきまでとは様子が違うぞ!?」


 焦った様子の市川に、眼鏡を押し上げ、南雲が答える。

 

「……もう母親のふりをする必要が無くなった、ということでしょう」


 南雲の推理を裏付けるかのように、人影は南雲達の方を指で示し、叫んだ。


「この娘の想いをかてに、我は充分に力を得た!貴様らは生贄だ!」

「そんな!」


 楓の悲痛な叫びが響く。

 同時に——異形の影達が飛び回るのをぴたりとやめ、一斉に南雲達の方を向いた。


「……和尚、先程の一喝、またお願い出来ませんか?」


 市川が喉元に手をやり、申し訳なさそうに南雲に答える。


「それが、先刻ので喉をやっちまったみたいでな……大きい声は、もう……」

「参りましたね……」


 南雲が溜め息をついた次の瞬間——影達が、三人に襲い掛かった。

 南雲達はそれぞれ違う方向に飛び退きながら、影の攻撃をわしていく。


「おい小僧!さっきの銃で反撃出来ないのか!?」


 信仰心を光の弾丸に変え、怪異を滅する聖銃せいじゅう——通称〝エクスシア〟。

 他の聖騎士団員達にも一目置かれる、白峰聖の召喚する強力な聖具せいぐである。

 しかし。


「て、天にまします、我らの父よ——ね、願わくば、御名を崇めさせ——」


 聖書を開き、たどたどしくも必死に銃を召喚しようとする聖であったが——






「聖……お前は、父親に銃を向けるのか?」


 ——気がつくと、聖は白い靄の真っ只中に居た。

 靄の向こうには、鞭を持った男の影がぼんやりと佇んでいる。


「と、父さん……?」


 自分の口から、声変わり前の高い声が漏れる。

 聖はいつの間にか、幼い少年の姿になっていた。

 聖書も手元から消えてしまっている。


「まだしつけが足りないようだ――折檻が必要だなあ」

「う、ううう……!」


 そうだ——自分は甘んじて、罰を受けなければならない。

 全ては父の愛ゆえ。

 僕や静流を、愛するがゆえのこと。

 だからこれは、きっと——きっと、必要なことなのだ——


 震えながら立ち尽くす聖に、影は鞭を振り上げて踊りかかった。

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