5 詠歌の苛立ち
――まただ。
詠歌は
――それでも。
何か居た気がする。
美邦と同居し始めてから、同じ感覚を何度も抱いていた。ないはずのものがある――何もないのに何かがある
喉の渇きを思い出す。
暗闇の中、台所へ向かった。廊下は冷たく、雨音が響き続ける。海鳴りに似た音だ。
コップを出し、水道水で満たす。
洗うべき食器も、食事の量も、洗濯物も増えている。女の子が一人、増えた。それは、「慣れ」の問題のはずだった。しかし、何日か経っても慣れない。
増えたのは、感覚的には一人だけではない。
そんなはずないじゃない――とは思う。
だが――
まだ啓が帰っていない時のことだ。千秋は居間で勉強をしていた。手洗いから出たとき、階段を降りる者がいた。なので、声をかけたのだ。
「美邦ちゃん。洗濯物を畳んであるから持って上がっといて。」
しかし、反応はない。
怪訝に思っていると、背後で襖が開いた。
洗濯物を抱えた美邦と間近で目が合う。
褐色の右眼と鉛色の左眼。右眼は自由に動くが、左眼は常に正面を向いている。右眼が正面を向く時を別にして斜視だ。不揃いな瞳は、間近で目にするとぎょっとしてしまう。
美邦は顔をそむけた。
「どうか――しましたか?」
使用人のような卑屈さに詠歌は苛ついた。
「いや――今、階段を下りて来んかった?」
「いえ、ずっと居間でした。」
そう――と言ったものの、釈然としない。先ほどのあれは何だったのか。
美邦に対する異物感を拭い切れない。
美邦と千秋は似ている――姉妹のように。だが、こんな娘を詠歌は産んでいない。しかも、異様な目元をしている。それが、詠歌の日常を浸透していた。
いや――と、詠歌は思う。
やはり、「あれ」は夏美に似ているのだ。あれと千秋も似ているが、千秋と夏美は似ていない。ならば――やはりあれは他人の子なのだ。
それが――詠歌の家で、まるで家族のように暮らしている。
部屋へと戻り、詠歌は布団へ入った。闇の中、夜雨が続く。海鳴りのようで厭だ。詠歌は海が嫌いだった。家から出ることを戒められ、怯えて過ごした夜のことが頭の中に蘇る。
――あの神社の娘。
詠歌は――夏美を憎んでいたのだ。
その日はあまり寝られなかった。
だが、どれだけ眠くても朝は来る。しかも、専業主婦のすることが待ち構えている。詠歌は朝一で起き、軽く掃除し、朝食を作り始めた。
やがて、階段を下りる音が聞こえてきた。
洗面所へ足を向ける。やはり美邦がいた。それ以外の者がいるはずもない。ここ何日か詠歌を不快にさせている気這いは、やはりこれなのだ。
美邦は、詠歌に気づいて顔を向けた。左眼はそのままに、右眼だけが詠歌を正確に捉える。
苛立ちが声になった。
「美邦ちゃん、昨日、夜遅くに起きてこんかった?」
美邦は首を横に振る。
「いえ?」
――違うわけがないだろう。
「そう? かなり夜
ふっと、美邦は何かに思い当たった顔となる。
「私も昨日、何かの跫音を聞いたように思ったんですが――ひょっとして千秋ちゃんですか?」
――娘のはずがない。
「あの子はそんな遅ぉに起きんに。」
ため込んでいたものが口を出た。
「言っとくけど、ここは自分の家でないだけん遠慮しないよ。何かあって降りる時も静かにするやに。」
美邦は顔をそむける。
「ええ。」
「くれぐれも迷惑はかけんでな。」
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